* * * * * *

 世界はそれぞれのイメージから出来ている。

 それは当たり前の話。

 私はこの宇宙でいちばん最初はじめに疎外された存在。

 楽園から追放され幾光年もの孤独の旅路の果てにこの地上に降り立ったとき、……いいえ、その時初めてこの惑星が、生命いのちが生まれたのね。熱せられた海の中で原始の生物が発生し、やがて地上にその生態圏を伸ばし、陽の光の下に、恐竜が絶滅し哺乳類が、猿人が、そして土塊つちくれから人間が生まれるのを私はずっと見てきたのだわ。

 人間たちは火を操り、物を器用に投げ、汗をかき、石器から弓矢から、そして言葉を発明し、そらの動きから周期を読み解き、暦と時間を生み出して、終わる事のない争いが繰り返され、神々を、そして神を発見し……、――

――けれど私は、やっぱり世界がいつか崩れてしまう事を、心の奥底で否定できなかったのね。

 そしてその最期の運命とときは訪れてしまった。

 でもアリス、あなたには、その屈託がない。

 愁いも嘆きも悲しみもなくただ一向ひたすらにこの世界を生きてゆけ。

「お母さんの言い付けを守らなくてごめんなさい」

「私は『外に出てはいけない』とは一言も言わなかったわ。ただ『魔法が解けてしまうだけ』と。それは、あなたが決める事なの」

外の世界は、どうだった? アリスの枕元に座るリリスが訊きました。窓の十字の枠からいちめんの星空に三日月のチェシャ猫が覗いていました。

「外は、楽しくて、素敵な人たちが居て……おいしい物も、たくさんあって……」

「そう。それは、あなたがそう想像したからよ」

あなたがそう望んだからよ。と母親は続けました。

「お友達も、できたみたいね。ハンナちゃんに、それからクレアちゃん? 実はね、ハンナちゃんのお母さんは、私の友達でもあるのよ。名前は、ペニナ。主は救く・薔薇と百合・海の珊瑚ペニナ・マリア=ショシャナ・ホセアっていうの」

 お母さんにも友達が?

 ええ。けれど、ちょっとだけ喧嘩しちゃったの。

 私はもともと、あの子が嫌いで、羨ましかったの。いえ、どこか嫌いだったひとに似ていたのね。イヴっていう名前の原初のおんなに。

 嫌い合っていても友達で居られるの?

 もちろん。好きと嫌いが両方あるから友達で居られるのよ。

 それじゃあ、きっといつか仲直りできるよ。

 ありがと。アリスはやさしいのね。

 ――ねえ、お母さん、

 うん?

 『死ぬ』って、なあに?

「そうね、それは……ちょっと難しいけれど、」

リリスは少しだけ考えて、それから娘の質問に答えました。

「肉体や精神から霊魂アニマが離れてしまう事よ。お母さんも、これまで何回も死んで何回も蘇ってきたわ。街でも、たくさんの人を見かけたでしょう? でも彼ら彼女らの中にも、もう死んでしまっているような人たちが、何人も居るの」

「動いているのに?」

「見かけだけはね。人々は神を殺し、信仰を失い、霊魂もまた行き場を失くしてしまったのだわ。神の光から永遠の距離を離れてしまった我々は、誰しもが帰る場所を探しているのよ」

「森で、迷い子の女の子に逢いました。あの子もきっと帰る場所を探してる?」

もちろんよ。母親は答えました。

「また会えるといいんだけどな」

「そうね、それは、分からないわ。だけど記憶と魂は大地を通じてみんな繋がっている。地層という外部記憶装置メメント・モリが、――どのくらい先の事か分からないけど、きっと私たちをまた結び付けてくれるわ」

リリスが立ち去ろうとすると、アリスがその袖を引きました。

「お母さん、まだ一緒に居て。せめて私が眠りにつくまでの間は」

私はどこにも行かないわ、と母親は優しくアリスの髪と頬を撫ぜました。

「そうしたらリビングで、ピアノを弾いてあげる。何の曲が良い?」

「……『月の光クレア・デ・ルナ』……」

ドビュッシーね。母親が微笑んで言いました。

「少しだけ扉を開けていて。そこからお母さんが見えるように」

アリスはそう嘆願して、リリスは頷きました。やがて優しく静かにピアノの音が聞こえ出して、アリスは、その音を頼りにしながらすぅすぅと寝息をたてました。

 ひとりでに弾かれるピアノは窓から差し込む月の光と同じようにどこまでも優しく、灰色の猫もまた、アリスの傍にいつまでも寄り添っているのでした。

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