* * * * * *

 喫茶店の店主はタブロイド誌のサミュエル・フラー新聞を眼鏡越しに眺めながら(そう別に、読みたいものがあるわけでもないのです)ちらりと席のほうを覗きました。

(じゃあこの子が、この猫の飼い主なんだ)

(そうみたい。ハンナは休憩?)

おれの仕事なんてあってないようなもんだよ。もともとアル一人で回せるんだから。だから、専ら料理の手伝いとか、ウェイターとか、ときどき会計とか。……ま、今の時間帯はお客さんも少ないし……結婚式はどうだった?)

(素敵だった。みんなが一つの幻想ファンタジーを壊さないようにしていて。創り上げて護るのは大変だけれど、壊してしまうのは簡単だから)

(クレアもさ、だいぶ捻くれた物の見方をするよね)

(……そうかしら……?)

 テーブルに供されているのは紅茶とココア、それからコーヒー。濃い目のアッサムにたっぷりのミルクと一匙の砂糖とが混ぜられて、ココアにはメープル・シロップも。ブラック・コーヒーは浅煎りのアメリカンでのポッドを占有しており、手作りのクッキーをつまみながらハンナとクレアとが談笑していて、(見知らぬ白髪はくはつの女の子は遠慮がちに紅茶を飲んだりしながら、)しかし彼が気になるのは、その足元に集まる猫たちのほうなのでした。

(まったく、がここで働き始めてから、餌代がかかって仕方ない)

アルバート・ホセ・パナデーロの生まれはプエルトリコのスペイン系でしたが親類のニューヨリカンの伝手つてで東海岸に移り住んだ際に苗字をベイカーに変えました。インドア派の彼の生っちろい肌色はよく本土の人間だと間違われましたし、向こうではバートとかペピート、あるいはイニシャルを取ってAJだとか呼ばれていましたが、ここでは専ら、

「で、アル、今日はどうすんの?」

『アル』で落ち着いたようでした。向こうが女の子三人なら、こちらも男の子三人、それも成人済のミレニアル世代、学生の頃からの悪童ども、八〇年代のアクション映画とビデオゲームの申し子。

「ああ、今日は協力コープモードで最高難易度クリアするから、お前ら一九〇〇時に集合な」

「画面分割? システムリンク? じゃ本体とソフトも持ってった方が良いか。クロスのリンクケーブル誰が持ってたっけ?」

「僕持ってるけど、コントローラとメモカ忘れないでよ」

「ハンナ、お前も来るか?」

アルは女の子たちと話しているハンナに話しかけました。ハンナはむつかしそうな顔をして、手と首とを横に振りました。

「やめとく。あれ難しいんだもん、リアル系FPSってーの? すぐ死んじゃうし。64のやつならまだイケるけど。おれじゃ居ても意味ないよ」

「いいや、戦争は数だからな。多いほうが勝つ」

「ゲームじゃん。とにかく今日は他当たってちょ」

うーん、じゃあ、モーリス辺り誘っとくか? 今夜もパブの店番じゃないの? 閉めさせろ。そんな無茶な。

「――野郎ズボーイズはゲームの話してんの。戦争のゲーム」

ハンナはそう説明しました。

 三人の男の子たちはそれぞれ、この名前の無い喫茶店の店主アルバート、件のサム・フラー新聞に連載を持つ小説家(かもしれませんね)のヘンリー、それから、警官なのか警備員なのか、普段は何をやってるのか分からないけれどとにかくその名前をギルバートと云いました。

 金髪のアルバートについてはさっき説明しましたね。栗毛の茶髪をしたヘンリーはクレアの少し歳の離れたお兄さんで、誰が読んでるんだか分からない小説を書いては本当に読まれているのか楽しまれているのか不安に苛まれたりしており、ギルバートは、アレン銃砲店の一人息子で、一時いっときは警官をやっていたとか、いやパートタイムの州兵なんだとか、警備員で立っているのを見た事があるとかないとか、普段は(銃砲店の)店番をしてるんじゃない? とか色々言われていましたが、まあでも、皆さんもそんな道行く人たちの職業しごとや悩み事なんてほとんど知らないのが当たり前ですよね。男の子たちは実際、バットマンとかスパイダーマン、パワーレンジャーやニンジャタートルズとかを見て育ってきたのですから、自分の正体、本当の姿を秘密にするのがカッコいいのだと思っていますし、と心の底では思っていたりするのでした。

遊びゲーム?」

アリスが訊きました(あるいは耳慣れない英単語を繰り返しただけだったのかもしれません)。

「そう。ごっこ遊びロールプレイするの」

ハンナは答えました。停滞するピアノ楽曲はに弾かれておりまるで幽霊が椅子に座って演奏しているのでした。

 顔は分かりませんでしたが。

 ゲームと、役割の演技と、現実を生きる想像力イマジナシオン。ニーチェの言うところの『積極的に仮象を生み出し肯定する事』。超人ユーベルメンシュとは『ごっこ遊び』である社会生活を営む皆さん自身の事であり、仮象フィクションは原理的に言って遍在する普遍カトリケーのものであり、想像や創作とは逃避や屈折ではなくむしろ現実を生きる為の唯一の手段でした。

「そういえば、まだ名前イーミャを聞いてなかったわね」

「あ、ハイ。この子はダイナで……」

そうじゃなくてノン、 セ パ サあなたの名前を聞かせてディ ヌ トン ノム?」

「私の?」

アリスはそれまで誰かに名乗った事なんて一度も無かったのでした。

「そう、そう。あー、ほら。えーと、君の名前はクアル エス トゥ ノンブレ? だっけ?」

そりゃスペイン語だ、とアルバートが独り言を言いました。

「アリスです。アリサ・イワノヴナ・ソーンツェワ」

ソーンツェワって? ソーンツェ。ロシア語で太陽の意味よ。( “アメリカ人の男の名前に意味なんざねえのさ” )とギルは『パルプ・フィクション』から引用しました。もちろん両手の指をクイクイと、二重引用符みたいに折り曲げるのでした。

「アリスちゃんかぁ。なんだっけ前に聞いたなロシア語の挨拶、えーとあれだ、こにちわーはじめましてよろしくープリヤートナ パズナコーミッツァ。だっけか?」

あとははいダーいいえニェットでしょ、おはようドーブラエウートラホントにプラウダ? なになにシトーシトー? それと出来ませんニィ パニマーユ知りませんニィ ズナーユ話せませんニィ ガヴァリュー。フリェープ? ブロート、ブリトー。シンケン? オネガイビッテ? 聞いてエクーテ? 聞いてよエクーテ モワねえ神様ボージェ モイ。 混ざってる混ざってる。

「あ、でもこれは知ってるよ。『私はニポンのですヤー ヤポンスキー』」

ヤポンスキ……? とアリスが首をかしげました。クレアが訂正しました。

「それを言うなら『日本のイポーンスキ』よ。それにそれだと非文だから言い換えるなら『日本国民イポーンスキ ナロード』とか、或いは『わかりますズナーユ日本語イポーンスキ イズィク』とか。男性なら『日本人イポーニェツ』だし、女性の場合は『日本人イポーンカ』」

「名詞の性別ってのがまず区別付かないんだよな。英語にも無いし。たしか過去形にも【女言葉】があるんでしょ? ――あ、じゃあアレ教えてよ、自己紹介のやつ」

クレアはハンナにこしょこしょ耳打ちしました。

「みにゃーざゔーとハンナ、ハンナ・ハルノ=ホセア。だよ」

ハンナさんに、クレアさん。そう、そう。それから、アリスちゃん。猫のダイナも忘れずにね。うにゃあうにゃあ。

「あら、もうこんな時間」

ココアを飲み干す頃カナダ人のクレアは右手首の内側を覗き込んで言いました。お兄ちゃん、もう帰らないと。メノナイト式の自宅礼拝なんてしたくないよ。僕だってボタンで留めるスーツを着て大学に通い、酒をかっ喰らいながら健康保険に入りたいんだから。――! またクローディアおばさまにある事ない事吹き込まれたのね。私だって高等教育を受けてるんだから。アーミッシュの戒律オルドゥヌングとは違うのよ。何でもいいけど。約束があるんだから十九時には間に合わせてくれよな。クレアはヘンリーを引っ張りながらアルバートに会計を済ますと多めにドル紙幣を渡して、

「チップにしては少し多いんじゃないか?」

「猫たちの餌代よ」

と短く会話しました。

「大学は良いのか?」

ふとギルが訊ねました。

「今日は休講にしてるから」

「自己決定権の行使だな」

まるで警察官みたいにドーナツを齧りました。

「当然。アメリカ市民だもの」

…………ザイトゥーン部隊がクルド人居住地域に展開……大規模戦闘終結宣言から一年と三ヶ月が経ち……大統領選を目前に……去年から始まった日本主導のDDRは……米軍側の死者は一〇〇〇名を超え…………(テレビの中で双子の塔が崩れ落ち、店主のアルバートはチャンネルを回しました)(それからRF接続のNESファミコンを起動しました)。

 ちりんちりん! と扉が鳴って、ハンナは彼女の背中に手を振りました。クレアも小さく笑って手を振り返しました。

「あいつ、飛び級でもう大学行ってんの。文武両道、才色兼備、ポケモンマスター……は違うか。博士課程まで行くって言ってたし。ってやつ?」

アリスは(なしに)話しかけられて、きょとんとしてしまいました。

「エエト? 英语アングレ理解らなくてワタシそのジュ ヌ パルレ パ リヤン……does not speaks I…」

「ううん、そうじゃなくて、ほら……」

(ハンナはアリスの手を取って言いました。アリスは透き通る空色の瞳に覗かれて思わずどきっとしました)


 こういう感じで話してみて?

 あっ。

 ね、伝わるでしょ?

 はい。分かります。

 分かっちゃうんだよね。

 (ハンナは人差し指を唇に当てました)

 二人だけの秘密だよ。


「お前らそれ何語で会話してんだ」

「女の子だけのヒミツだもんねー」

ハンナは得意げにふふん、と鼻を鳴らし「ソフトクリームを買ってあげよう」と声に出して言うと機械の前に立って、お前、それ給料から引いとくからな。じゃあ次からは見てない時にやろ。手慣れた様子で白と黒、バニラとチョコレートのミックス・ソフトを作り上げました。ギルバートが神妙な顔つきで始めました。

「なあ、さっきから思ってたんだが、その子、ひょっとして……」

ん? ハンナがわりあいまじめに相槌しました。

「――天使なんじゃないのか?」

破顔して、「何それ、ロリコン宣言?」「ばか、そういうんじゃなくて、マジメな話だよ」「なんだっていいけど、」神様が遣わしてくれたのか、それとも星の導きであったのか。

「とにかく、背中に羽根は生えてないみたいだけど」

ハンナは「はい、どーぞ」と言って天上のアイスクリームを供しました。「食べていいんだよ、おれのおごりだから」アリスは会釈しておずおずと口を近付けました。それから舌が触れました。

(どうかこれが天上のアイスクリームになって

 おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに)

 アリスはその時はじめてこの世界で最も優れた食物を口にしたのでした。

 とても大事なことなのでもう一度繰り返しますね。

(マロージュナヤを食べたきやウラルの少女)

 アリスはその時はじめて、世界にはこのような素晴らしい事物が存在しているのだと知ったのでした。

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