* * * * * *

 アップライト・ピアノの天板はすっかりダイナのお気に入りの場所になりました。昼間はお姉さんが仕事に行って留守なので(何の仕事をしているんだろう? 新しいピストルとベージュのジャケットを買っていたわ)、アリスは自動ピアノに演奏させたまま本を読んだり、ときどき無電放送ラジオを流したり。英語の音声リスニングは少しずつ上達していて所々の単語だけ分かったり或いは分からなかったりするのでした。(…………十七日……国内初……法的に同性婚が認められ…………欧州連合は……新たに一〇ヶ国が加盟…………アテネでは五輪が…………『森の生活』刊行一五〇年を記念して…………)

「ともすると、ときどきフランス語に似ているのかも」

と、アリスはダイナに乾いた粒々のキャット・フードをあげながら思いました。

 例えばフランス語の不思議・比興インテレサンは英語の面白いインタレスティングと響きも意味も似ていますし、それはまたロシア語の興味深いインチェレースナと通ずるのでした。それは言語学では同根語コグネイトと呼ばれるものだったり音は似ているが意味の異なる偽りの友達フォザミであったりと、様々でしたが、アリスは想像力イマジナシオンを使ってその差を埋め合わせていました。

いらいらするアニョイングのは退屈アンニュイだから、やさしいジェントルのは親切ジョンティルだから。おもいやりシンパセティックはきっと素敵サンパティックなこと…………)

しかし言葉の価値はんいの為替相場は絶えず変化していますから、昨日まではクラースヌイだった色も明日にはベルィチョールヌィに分類されているかもしれません。言葉とはものでそれが無くては世界に意味を与える事ができないでしょう。でも遠い遠い別の国では、また別の名前が与えられて、別の意味が与えられて、口紅ルージュ赤くレッドそして美しいクラースナヤものでした。

 母親の頬紅を使って色素を持たない肌に血色を与え薄い唇に紅を引くと鏡に映る自分はまた可愛らしく――いえ、どちらかと言えば、お母さんに似てる。と鏡のなかの母の面影にアリスは思いました。北欧神話におけるエルフの呼称は、インドからペルシア、果てはロシアやヨーロッパまでの言葉のとなる印欧祖語の『ALBH』に由来し、またそれはアルビノの語源でもあります。


 だから私たちは歳月としかさねないのよ。

  この森に留まっている限りは、ね。

 でもこの間、十三才の誕生日が来たばかりなのに。

  九月の五日いつか。お母さんだって祝ってくれたよね?

 いいえアリス、母さんたちが祝ったのはあなたのとおの誕辰。

  もうあれから三年が経つのだもの。

   神様は太陽ソンツェから見ているかもしれないけれど、

    私は大地ゼムリャから見守っているのだわ。

 三年? いったいそれは何の話?

  おじいさんも二年が経ったと言っていたけれど。

   頭に浮かぶのはヴォプラスィチィルヌィイ・ズナークばかり。

    いったい三年前、何が起きたっていうの?


 オオガラスが窓をコン、コンとつつきました。それはカァ、カァと平べったい鳴き声フラットなノートを出して、ダイナは窓の近くの書き物机の平らなフラット天板の上のノートの上に座りカラスと向き合います。それから二疋の使い魔たちはカァ、カァやと鳴き声をさせながら次のように会話しました(と、アリスは想像しました)。


 私の子供からを奪い去ったのはあなた?

  人呼んで記憶の魔法使いとは、あたしの事。

   思い出される時だけ存在できる、

    あの子が森に行ったまま帰らないの。

 にぇっと、にぇっと。川の向かいの駄菓子ペニーキャンディ屋さんから、

  リコリス菓子だけを選り分けて持って来たわ。

   私は貴女の運命を好きに出来るけれど、

    貴女の子供まではその範疇ではない。

     あなたこそ、私の子供からを?

 甘草、甘い根リコリス、ヒガンバナ。

  蜘蛛の巣の百合スパイダーリリーとはよく言ったものだわ。

   いつまで私に付きまとうつもり?

    粘っこく口に纏わりつく、

     未練がましい女、あるいは煙草ののよう。

 セノイ、サンセノイ、セマンゲロフ。

  紅の海で私は言ったわ、

  「私は生まれてくる子供を苦しめる存在だ」と。

    覚えている? 記憶の魔女、三千と幾年前のあの時、

     三枚の護符に守られる事もなく、

      生まれ落ちたあなたは私生児だったから、

       貴女が生きるのも死ぬのも私の自由なの。

 気に入らないのよ、暗い月、風の女王。

  私はアクアリウムの珊瑚とは違う、

   ひとつの意志を持った存在なの。

    なんでも貴女の好きに出来ると思ったら大間違い、

     むしろ守っているのはあたしの方だわ、

      もっと感謝されたって良いくらいに。

     私たちの間に誤解や軋轢があるにしても、

    失ったものは、取り戻さなくては。

   その点に関しては、貴女だって同じでしょう?

 ええそうね、記憶の魔女。

  だけどアリスはもう知ってもいいのだわ。

   好奇心は猫をも殺す、は事故だったのよ。

    だけど私たちは死んで初めての。

     蛹化むしが翅開くように。


 二人の会話が終わったみたいで、カラスは飛び去ってダイナは踵を返しました。机から降り、家を飛び出して、追われるように、導くように、灰色の猫はとてとてと歩いてゆきました。

 ダイナ、ダイナ、何処へ行くの?

 アリスは追いかけました、ダイナは急いでるふうでもないのに脚が速くて、息を切らして、風が通り抜けて、と思うとそれは風の吹いているのでなく自分が走っているからなのだと分かりました。森の暗い茂みがガサガサと音を立てますし、昼のフクロウも目を覚ますほどで、地面を蹴る振動は頭のてっぺんまで伝わって、心臓はポンプみたいに高鳴って(演奏記号のポンポーゾ!)、向日葵ひまわりは天に向かって花開き、……紫陽花あじさいは暑さに枯れており、すると、風が吹いて草木を揺らし、真黄金色まっきいろのライ麦畑が眼前に広がるのでした。


 どごがの童子わらすこ娘子めらすこがヨ

 ライ麦ばだげで行ぎ会うとすてヨ

 そこで口付けコばされでもヨ

 んがすて泣ぐ必要があるのス?


 童子達わらすゃんど大人おどなサなって嫁コば貰るのサ

 おらさばまだそったら人ァ居ねぇのス

 だども皆スてライ麦畑通ってくるとぎはヨ

 おれのごど見で嬉スそうぬ笑ってくれるぢゃ


「あっ――、………………」

 アリスはお母さんから聞いた境界の話やら何やらをすっかり忘れてしまって、ただ唖然として圧倒されて呆気に取られて、汗をかいて……、が晴れた様に、広がる空の青と麦畑の黄色の二色旗のコントラストに心を奪われました。

 向こうの空には重たそうな白い雲が浮かんでいて、眼下に広がるのは街、なんだか糖蜜の甘たい匂いが漂ってくるようで、そこに潮の空気が混じり、街の喧騒と鳥の鳴き声、行き交う交通と群衆ラ・フールたち、遠くに、アリスはその時生まれて初めて水平線というものを見たのでした。

 アリスはその時生まれて初めて涸れない水溜りを見たのでした。

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