* * * * * *
アップライト・ピアノの天板はすっかりダイナのお気に入りの場所になりました。昼間はお姉さんが仕事に行って留守なので(何の仕事をしているんだろう? 新しいピストルとベージュのジャケットを買っていたわ)、アリスは自動ピアノに演奏させたまま本を読んだり、ときどき
「ともすると、ときどきフランス語に似ているのかも」
と、アリスはダイナに乾いた粒々のキャット・フードをあげながら思いました。
例えばフランス語の
(
しかし言葉の
母親の頬紅を使って色素を持たない肌に血色を与え薄い唇に紅を引くと鏡に映る自分はまた可愛らしく――いえ、どちらかと言えば、お母さんに似てる。と鏡のなかの母の面影にアリスは思いました。北欧神話におけるエルフの呼称は、インドからペルシア、果てはロシアやヨーロッパまでの言葉のもととなる印欧祖語の『
だから私たちは
この森に留まっている限りは、ね。
でもこの間、十三才の誕生日が来たばかりなのに。
九月の
いいえアリス、母さんたちが祝ったのはあなたの
もうあれから三年が経つのだもの。
神様は
私は
三年? いったいそれは何の話?
お
頭に浮かぶのは
いったい三年前、何が起きたっていうの?
オオガラスが窓をコン、コンとつつきました。それはカァ、カァと
私の子供から思い出を奪い去ったのはあなた?
人呼んで記憶の魔法使いとは、あたしの事。
思い出される時だけ存在できる、
あの子が森に行ったまま帰らないの。
にぇっと、にぇっと。川の向かいの
リコリス菓子だけを選り分けて持って来たわ。
私は貴女の運命を好きに出来るけれど、
貴女の子供まではその範疇ではない。
あなたこそ、私の子供から思い出を?
甘草、
いつまで私に付きまとうつもり?
粘っこく口に纏わりつく、
未練がましい女、あるいは煙草のけむりのよう。
セノイ、サンセノイ、セマンゲロフ。
紅の海で私は言ったわ、
「私は生まれてくる子供を苦しめる存在だ」と。
覚えている? 記憶の魔女、三千と幾年前のあの時、
三枚の護符に守られる事もなく、
生まれ落ちたあなたは私生児だったから、
貴女が生きるのも死ぬのも私の自由なの。
気に入らないのよ、暗い月、風の女王。
私はアクアリウムの珊瑚とは違う、
ひとつの意志を持った存在なの。
なんでも貴女の好きに出来ると思ったら大間違い、
むしろ守っているのはあたしの方だわ、
もっと感謝されたって良いくらいに。
私たちの間に誤解や軋轢があるにしても、
失ったものは、取り戻さなくては。
その点に関しては、貴女だって同じでしょう?
ええそうね、記憶の魔女。
だけどアリスはもう知ってもいいのだわ。
好奇心は猫をも殺す、あれは事故だったのよ。
だけど私たちは死んで初めて生まれ変わるの。
二人の会話が終わったみたいで、カラスは飛び去ってダイナは踵を返しました。机から降り、家を飛び出して、追われるように、導くように、灰色の猫はとてとてと歩いてゆきました。
ダイナ、ダイナ、何処へ行くの?
アリスは追いかけました、ダイナは急いでるふうでもないのに脚が速くて、息を切らして、風が通り抜けて、と思うとそれは風の吹いているのでなく自分が走っているからなのだと分かりました。森の暗い茂みがガサガサと音を立てますし、昼のフクロウも目を覚ますほどで、地面を蹴る振動は頭のてっぺんまで伝わって、心臓はポンプみたいに高鳴って(演奏記号のポンポーゾ!)、
どごがの
ライ麦
そこで口付けコばされでもヨ
んが
だども皆スてライ麦畑通ってくる
おれの
「あっ――、………………」
アリスはお母さんから聞いた境界の話やら何やらをすっかり忘れてしまって、ただ唖然として圧倒されて呆気に取られて、汗をかいて……、もやが晴れた様に、広がる空の青と麦畑の黄色の二色旗のコントラストに心を奪われました。
向こうの空には重たそうな白い雲が浮かんでいて、眼下に広がるのは街、なんだか糖蜜の甘たい匂いが漂ってくるようで、そこに潮の空気が混じり、街の喧騒と鳥の鳴き声、行き交う交通と
アリスはその時生まれて初めて涸れない水溜りを見たのでした。
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