* * * * * *

 森はなんだかずっと静かでした。自分だけ世界から隔絶されているような、私だけが子供のまま周りが大人になってしまったような。箱型大時計グランドファーザークロックは今でもチクタクとその時を刻んでいるのでした。

師匠せんせいのところに、卵を貰ってきてくれる?」

お姉さんに言われてアリスは、パンと葡萄酒ワインを籠に入れて家を出ました。寄り道しないように……暗い森に溶けてしまわないように。森は深いけれど道は車が通れるくらいにはしっかりとしていて、アリスは道に迷う事はありませんでした。犬たちの楽しそうな声も近付いてきました。アリスはちょっと造りの荒い(お爺さんが自分で建てたのだそうです)木造の家の扉をノックすると、言いました。

すみませんイズヴィニーチェ パジャールスタ?」

するとアリスは、そうだお爺さんはロシア語を話すんだっけ? と思い直して、「ごめんくださいパルドネ モワ」と言い直しました。程なくして、お爺さんが「お入んなさいオントレ ヴー」と答えました。鍵は開いていて、お爺さんは老眼鏡をかけて作業机に向かいスプリングフィールド銃の手入れをしていました。

「これ、いつもの黒パンとブドウ酒です。卵を貰いに来ました」

お爺さんは眼鏡をずらしてアリスの顔を見ました。その仕草と風貌から、アリスはいつもお爺さんの事を聖ニコラウスジェド・マロースなんだと密かに思っていました。(実際雪の降る時期には、お爺さんは犬ぞりを引かせて街に繰り出してゆくものでしたから……)

「お姉さんはどうしたね?」

「お姉ちゃんは、最近はよく街のほうに下りてます」

「そうか、そうか……――あれからもう、二年も経つものなぁ」

何の話ですか? とアリスが思っていると、お爺さんは「机の上の干し肉と、レモンとライムの皮の砂糖漬けも持って行きなさい。それとすまないが、卵を持っていくついでに、鶏にエサをやっといてくれるかな」とお願いされますので、アリスは「はいウィ ムシュ分かりましたジェ ビヤン コンプリ」と答えました。アリスは籠の中身を机に置いて、英字の新聞紙(八月十四日の大停電についての記事でした)にくるまった干し肉と入れ替えますと、室から出て、隣の鶏小屋に入って卵を取り、それからエサをやりながら、

(なんだ、私けっこう、フランス語で話せるんだなぁ)

なんて、得意げになって思うのでした。


* * * * * *


 お茶を一杯頂いて、犬たちとたっぷり遊んだあとに、アリスは「また来ますねオ・ルヴォワール」と言って家を後にしました。なんだか帰り道は楽しくなって、軽くスキップを踏みながら、アリスはその歌詞の意味もよく分からずに歌を唄うのでした。


 赤いサラファンなんて縫わないで

 母さん そんな事しても 無駄なんだから

 二本のお下げを 結い直すよりも

 亜麻色の髪に リボンを結んでいたい

 絹のヴェールなんて まだ早いわ

 男の子たちが 目を輝かせているんだもの

 自由で気ままな暮らしが懐かしい

 退屈な世界に 留まっているなんて!


 あらま お嬢さんや 愛しい娘!

 乏しい考えだね まったく浅はかだよ

 いつまでも小鳥のように 歌ってられないし

 蝶のように ひらひらと花の間を 舞ってもいられない

 頬に咲いた 紅いコクリコの花も いずれは枯れるのに

 遊ぶのにも飽きた頃 ただ淋しさだけが残る

 でも母さんも 昔はお前と同じように

 そんな事を 唄っていたものだわ


 遠くに、教会の鐘の音がしました。もう陽の沈むころ? アリスは急いで帰らなきゃ、と思いましたが、森の木々の奥に気配を感じて、息を飲みました。それは鹿なのか熊なのか、あるいは狼なのか。空ではお月様が笑っています。しかし恐怖テロールよりも好奇心キュリオシテまさって、アリスは、道から外れてその気配の方向に歩を進めてゆきました。

 それは息遣いでした。深い森に反響こだまして、フクロウと鈴虫の鳴き声が不気味に空気を震わせていました。草木を掻き分けて、闇の奥に姿を捉えると、

(迷い子だわ……)

それは黒く長い髪をした女の子で、地面に座り込み、翡翠ヒスイの眼を泣き腫らしていました。傍には、白いコンロンカがひっそりと佇むように咲いていました。

「ねえ、」

女の子はびくっと怯えてアリスを見ました。

「君は誰なの? 白ウサギ……それとも、森の妖精?」

森の精霊レーシィじゃないよ。それより、あなたは? どうしてここに?」

「分かんない……気付いたら、ここに居て……何も思い出せないの」

森で名前を忘れてしまうのは当たり前の話です。アリスは傍に寄ってあげて、一緒になって座ると、

「それじゃあ、どうして泣いていたの?」

「それも、分かんない…………一人ぼっちで、ただ怖くて……」

「それじゃあ、今は私が居るから。泣いている理由なんて、無くなっちゃったね」

女の子は鼻を啜って、袖で涙を拭うと、「そうかも」と頷いて言いました。手首にちらりと紅白の手編みの組み紐ミサンガが覗きました。

「それ、【友情の手首飾りフレンドシップ・ブレスレット】だよね? って事は、それをれた友達がきっと居るんだわ」

「そうなのかな? 何も、思い出せないけど……」

「自分で思い出せなくても、きっと友達は覚えていてくれるよ」

そうなのかな、と女の子は自分に言い聞かせるように言いました。アリスは、さっきお爺さんから貰ったレモンピールの砂糖漬けを籠から取り出して、女の子の柔らかな手のひらに乗せました。それから自分もひとつ食べました。

「これ、おいしいよ。お母さんがよく作ってくれたの。お腹が空いてるかな、と思って」

女の子は恐る恐るそれを口に運ぶと、少しだけ顔をしかめて、ちょっと苦い……けど周りの砂糖が甘い……と感想を述べました。アリスは笑うと、女の子の手を引いて立ち上がりました。

「泣き虫なんだね」

「そうみたい」

白く明るい蝶がひらひらと舞っていました。アリスは女の子を連れて、元居た道のほうに歩きだしました。

「お母さんは、私の事、『泣かなくて手のかからない』って、よく言ってたよ。泣いた記憶なんて、私もほとんど無いの。そりゃあ、ぼーっとして頭をぶつけた時なんか、しばらく涙目になったりはするけれど……それも割としょっちゅう……」

「普段から、そんなにぼーっとしてるの?」

女の子が初めて笑いました。アリスは「うん」と答えて、つられて笑いました。それから今更になって、初めて自分と同じくらいの子と話をしているんだ、という事に気付きました。

「――ねえ、あなたにはきっと友達が居るけれど」

「うん、」

「わたし、ずっと森で暮らしてて。余所よその子に会ったのも、あなたが初めてなの。……だから、もし家に帰っても。またきっと、私の事――」

アリス! とお姉さんの呼ぶ声がしました。

「こんな遅くまで、一体どこに行ってたの!」

お姉さんは心配を通り越して少し怒っているようでした。

「森の中に、迷子が居て……ここまで連れてきたんだけど……」

「迷子?」

うん、と答えて振り返ると、そこに黒髪の女の子は居ないのでした。

「――あれ? ……さっきまで、確かに一緒だったのに……」

お姉さんはアリスが嘘をいているとは思わなかったので、まったくもう、と困ったふうにしました。

「どんな子だったの? 名前は? お家は?」

「聞いても、『分かんない』って。髪の毛は黒くて長くて、睫毛も長くて。眼の色はあおくて、……あと、そう、泣き虫で……」

「きっと、森の精霊レーシィに化かされたのね」

そうなのかなぁ、とアリスが思っていますと、また森の奥からガサッ、と草木を揺らす音が聞こえました。二人はじっとその音の先に集中しました。やがて姿を現したのは、野良にしてはずいぶん毛並みの良い、灰色の猫でした。

「……精霊じゃなくて、正体はコーシュカ?」

猫は二人の気も知らず、にゃあにゃあと鳴いて多分ご飯を要求しました。アリスは思い出したように籠から干し肉を与えてやると、猫はがつがつと食べてやがて満足そうに、座ってその長い尻尾をのんびりぱたぱたさせました。

「ヒトに慣れてるみたい」

誰かの飼い猫なのかな、アリスはビロードみたいにすべすべする猫のダブルコートの毛並みを撫ぜました。

「すごくハンサムな子ね。交配種……ロシアンブルー、かしら」

「私たちと同じ?」

お父さんがロシア生まれで、お母さんがイングランド育ちでしたから。アリスは何の気なしにそう言いました。お姉さんも猫を撫ぜようとしましたが、イヌの匂いを感じたのか、ぷいっと避けられて、ちょっとだけ拗ねたみたいにして、

「アリスの事が好きみたい」

と、言いました。アリスは猫を抱いて立ち上がると、

「飼ってもいい?」

お姉さんは少し考え(それは法律とかお金の事とか)を巡らせたようでしたが、――ちゃんとお世話できる? アリスはうん、と言って頷きました。誰かの子だったら、お別れしないといけないかもよ? アリスはお姉さんを真っ直ぐに見て再び頷きました。

 名前は、どうするの? アリスは空に浮かぶ三日月を眺めて、それから答えました。

「ディアナ……ううん、ダイナが良い。何だか、そんな気がするの」

希望ナジェージダ? お姉さんは一瞬だけ淋しそうな顔をして、努めて笑って、三日月の浮かぶ空に飛行機のエンジン音を聞き、それから、私にも懐いてくれると良いんだけどな、と言いました。

「よろしくね、ダイナ」

ダイナはアリスの腕の中で、にゃあと一声返事をしました。


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