* * * * * *
まだ無垢さの残る赤茶けた髪を束ねた少女は、薄く硝煙の昇る旧いソ連の手動連発銃を肩から外しました。薬莢を拾って、仕留めた獲物を視線に捉えます。それは鹿でした。父親は不器用に彼女の頭を撫ぜて、それから二人になって鹿を手早く解体し、猟犬に肉を分けてやりました。
仕掛けた罠にもいくつか掛かっていました。小川にはマス、鳥はナゲキバト、それからシロウサギ。狩った獲物を携えて森にひっそりと佇む山小屋に向かうと、父親は仙人みたいな老人(彼は少女に狙撃の技術を教えた師匠でもありました)と話し込んでいて、少女は、しばらく犬と一緒に待ちぼうけを食らいました。
お父さんはきっと、男の子が欲しかったのかな。と、イリス・イワノヴナ・ソーンツェワは思いました。つまらなそうに石を蹴ります。老人の飼っている鶏の卵と狩った獲物の肉や毛皮とを交換して、借りた猟犬も彼の仲間の下に帰ります。父親も戻ってきました。
「
「ん――まあ、ぼちぼちだよ。森の様子と、天気の具合。今度街に行って家禽の飼料を買い足さないとだ」
「街に行くの?」
「お前の方が、おれより英語は得意だからなぁ」
イリスは少しだけ唇をきゅっとしてその顔をはにかませました。
『名無しの森』の道すがら見かけるキノコや薬草も採集して、父親は「そういや、
(いま父さんの隣に居るのは、私なのに)
とだけ、思いました。
* * * * * *
買い物もある程度済んで、紙袋を抱えて二人は、街路樹の植わった車までの小路を並んで歩いていました。ふと看板に目をやると、イリスが訊ねました。
「この映画館?」
父親は顔に疑問符を浮かべただけでした。
「母さんとの初めてのデートって」
イワンは面食らって咳払いしましたが、それから頷きました。公開中の映画はそれぞれ、真珠湾攻撃をアメリカ側から描いたもの、ボブカットで黒髪のちょっと不思議なフランス女性の恋のお話、宇宙人がフケ取りシャンプーで倒されちゃうSFコメディ、東部戦線の狙撃兵が主人公の戦争映画、両親を豚に変えられた女の子が湯屋で働く日本のアニメ、不治の病に冒された息子の代わりとして愛されるように望むロボットのお話、などなど……。
「何の映画を観たの?」
「それは……確か、西部劇……だった、かな」
「父さんらしい」
「いや、あれは、母さんが観たがったんだよ。ポール・ニューマンが主演の……
「じゃあ、誘ったのは母さん?」
イワンはバツの悪そうにしながら、しぶしぶと言った感じで頷きました。こんな事を訊くような歳になったか、と思ったのか分かりませんが。母さんは、何て? 娘の質問にイワンは答えました。
「『なんだか、懐かしい』って」
ふぅん……と思っている間に、駐車していたトラックに着きました。荷台に飼料、香辛料、牛乳、それに肥料や種、家で採れない野菜や果物、穀物などを積んでいると、学校が終わった頃なのか、小さな子供たちがはしゃぎながら傍を通り過ぎてゆきました。
(知らない子ばかり……)
父親は、ちょっと行ってくる、と言い残して向かいの酒屋に消えてゆきました。荷台にはその為のスペースもちゃんと開けてあるのでした。イリスは助手席に座って、荷物の番をする事にしました。さっきの子供たちが随分遠くに見えました。
(学校、かぁ……)
コンコン、と車の窓がノックされました。同じ年頃の、青年でした。イリスはハンドルを回して窓を開けました。
「何か?」
「や。俺の事、覚えてる?」
イリスは首を横に振って、
「いえ、どこかで、会いましたっけ?」
すると青年はちょっとだけ残念そうにしながら、
「うちでむかし、銃のたまを買ってったじゃんか」
「あっ――えーと、アレン銃砲店の子?」
えー、うわー、懐かしい。昔はあんなちっちゃかったのに。
「あんたも同じくらいちっちゃかったよ。でも確かに、ほら餓鬼の頃ってさ、女子の方が背伸びるの早いもんな。このオンボロの車を見て、ひょっとしてって思ったんだ。とんと見かけなかったから、引っ越したのか、それとも他の街の子かと思ってた」
「街には、たまに下りて来てたけどなあ」
「じゃあ、タイミングが合わなかっただけか。学校でも見かけなかったし……」
「あ、うち、ホームスクールみたいなもんだから……学校には通わなかったの。――ほら、あの丘のライ麦畑を抜けた、森の奥に住んでて……」
「『森の生活』? ヘンリー・ソローみたいな?」
それって、誰? と質問する前に、父親が渋い顔をして両手いっぱいの酒瓶を提げて戻ってきていました。あ、父さん。とイリスが言って、青年はふいに黙ってしまって会釈をしました。イワンも堅い顔のままそれに返して、荷台に酒瓶を積み始めました。
「あれ、なんか俺、怒らせた?」
「ううん、英語が苦手なの。気にしないで」
イリスは自分が、にやついている事に気付きました。父親が運転席に戻って、イリスは慌てて、
「わたし、イリス。イリス・ソーンツェワ」
「おれはギルバート。苗字がアレン。ギルで良いよ」
またね、と互いに言って車は発進しました。イリスは何だか、まだどきどきしていました。今度は父親が訊きました。
「どこの男の子だ?」
「銃砲店の子だよ。たぶん、父さんも会った事あると思うな」
ああ……、と父親が思い出したようにぼんやり答えました。
「また会えるかな」
街に来れば、会えるさ。と優しく答えた父親の表情は、どことなく淋しげに思えました。――ねえ、父さん、
「ヘンリー・ソローって誰?」
「さっぱり分からん……」
* * * * * *
まだ陽射しの弱い朝に、森の姉妹は花畑で薬草を集めていました。本格的な夏に備えて、ミント、カミツレ、除虫菊。白い透き通った肌と髪をしたアリスは麦わら帽を被って、
「お姉ちゃん、街に行ったの?」
アリスが少し退屈になって話しかけました。空は水色で青く澄んで明るい雲もまた天高いのでした。
「アリスも行きたかった?」
アリスはお姉さんから見えないのに首を横に振りました。
「ううん。だって、あの麦畑を超えないといけないんでしょ?」
そうだけど、とお姉さんが答えました。まるで世界から取り残されてしまった孤島のように、花畑の周りは暗い森に覆われぽっかりと浮かんでいるのでした。……静寂の世界に遠くのラジオから、「僕の場所に、僕の場所に……」という歌が聞こえてきます……。
「お母さんが、あの麦畑は、
境界? はらはらと花びらが舞いました。
うん。だから、本当は超えちゃいけないの。
魔法? 白の大群が風に踊りました。
うん。黒い角は悪魔の角で、食べたらいけないし、触るのもあまり良くないんだって。もし
麦角菌の事? それなら除去方法もあるし、普段は黒パンに、夏にはクワスやアクロシュカを作って食べるじゃない。
そうだけど……。アリスは納得できない様子でした。(もっとも、バッカクキンという言葉も今になって初めて聞いたのですが)
「そうしたら、蕎麦の実を買ったから。今日はカーシャにしましょうか。サーロの作り置きもまだ、あるし……」
うん、とアリスは言いました。それから、お姉ちゃんの作る料理って、ちょっと大味だもんなぁ、なんて、こっそりと思ったりするのでした。
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