アリスとハンナ

名無し

あるいは灰色の猫いっぴき

 空がぱちりと瞬きをすると、一滴の雫が零れました。それは秒速六メートルほどの速度で、やがてその寒さに結晶化し、雪となって地上に舞い降りました。

 アリスは、ふとその気配に振り返りました。だけどその雪の結晶は地面の温かさに溶けてしまい、土に浸みて、世界をわずかに濡らしたのみでした。

 苔の匂いがする。

 双子の塔が立っていました。

 初めてのキノコが空へと高く昇り、それから五十六年と三十六日と三十一分が経って、その塔は崩れました。

 夜空にぽっかりと三日月が浮かんでいます。

 それはチェシャ猫でした。

 君の双子の妹について考えた事は?

 私に双子は居ませんが――少し歳の離れたお姉ちゃんは居るけれど。と、アリスは答えました。

 ☦八端十字架が湿った地面に突き立てられている。そこに埋まるのは胞衣パスリェートだ。薄暗い森の奥……遠くには真っ白な花畑。

 人はみな双子として生まれてくる。赤ん坊が生きる事を運命づけられているように、胞衣えなは死ぬ事を運命づけられているのさ。

 は、私の身代わり?

 は、私の代わりに死んでくれたの?

 三日月のチェシャ猫はぎらぎらと照り付けてくる。柔らかな皮膚と葉っぱのうら側の手触り、死体の冷たさ、ざわざわざわと蟲が這ってくるように思える、硬直している。するとアリスは、

(死ぬ、ってなあに?)

とだけ、はっきりと言葉にして思った。


* * * * * *


「とても怖い夢を見ました」

 アリス・イワノヴナ・ソーンツェワは陽の昇り出す頃の早い朝に、お母さんと紅茶の時間を過ごしながら言いました。秋摘みのダージリンにカミツレラマーシュカと、角砂糖を二つ、ミルクもレモンも無しで。しかし傍には手作りの林檎ヤーブラカのジャム、また向日葵パトソールニチニクの種も一緒に供されていました。陶磁器のティーカップには色とりどりの幾何学模様・花模様が染められていて、アリスは実際のところその図柄デザインを一日じゅう眺めているだけでも飽きないのでした。

「紅茶が冷めてしまうわ」

「冷ましてるんです、少し」

アリスの薄い色素は母親によく似ており、ふわりと風に遊ぶ髪は光をよく通すのでした。白い髪の毛がはら、と落ちてアリスはその気配に不安になって振り返ります。

お姉ちゃんイリーシャは?」

お父さんワーニャと狩りに出たわ」

「あの音は苦手」

「人間にはそれぞれ得意ながあるものだわ」

「ゴリウォーグのケークウォーク?」

「ドビュッシーね、」

アリスの唇の薄い皮が陶磁器の縁に触れて、しっとりとその表面を紅茶が濡らしました。それからリビングの壁の傍に佇む自動演奏機能付きのアップライト・ピアノを、ちらりと覗きました。

 びりびりと空気が揺れて、鳥の飛び立つのが分かりました。アリスはおもむろに立ち上がってピアノに近付きました。木製のアップライトはよく調律されており鍵盤に触れると、と変ホ長調の和音を鳴らします。

 アリスの体躯にしては大きな手が頭の中の譜を奏でます。指先は思考よりも感覚によって踊り跳ねる別の生き物みたいで、ピアノのハンマーはその運動エネルギーを弦に伝え、振動させます。

「上達したわね」

と、母親がそっと言いました。それから続けて、

のほうは?」

アリスはぴたりと手を止めて、

「フランス語は母さんが話すから、少し」

楽譜にもときどき書いてあるし。と答えました。

 再び弦の振動が空気を揺らします。紅茶の表面もまた踊っているようです。朝の蝶がひらひらと窓の外に澄んだ空気を泳いでいます。


 どんな夢を見たの?

 月がぎらぎらとしていました。

 他には何が?

 暗くて、湿っていて、冷たくて……円くてぶよぶよしたが。

 じゃあ、が怖かったのね?

 ううん。怖かったのは、漠然と、何がなんだか分からなかった事。

 分からない事が怖い? 知らない事や、まだ見た事の無い物が?

 すこしだけ。……興味は、あるけれど……

 好奇心は猫をも殺す。というコトもあるわ。

 九つの魂を持つ猫であっても?

 アリスはまだ、小さいものね。人生は分からない事だらけだもの。

 ――ねえ、お母さん、


 「『死ぬ』って、なあに?」言いかけて、二度めの銃声。アリスは言葉を飲んでしまいました。感情は言葉から離れておとに変換されます。リビングのピアノは巻紙に演奏を刻み込む機能が付いていて、アリスはよく、自分の演奏をしたり母親のコレクションの他の人の古い演奏を鑑賞したりするのでした。それはまるで、古本屋に佇む知らない誰かの物語を紐解いていくのと、同じように……。

「連弾しましょう。カノンでいいかしら?」

うん、と頷いて、並んで座ると「合わせるわアプレ トワ」母親がそう言って、アリスは指先を鍵盤キーボードに合わせ、優しく静かに叩き始めました。

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