scene3 ニセイを狙え

 ふらふらと部室にもどってきた黒田武史は、大きくため息をついてイスにどんと腰を下ろした。

 剣道の試合で上原に負けたのが悔しいのではない。自分の身体が思ったように動かなかったのが、何よりも悔しく、そして衝撃だった。武史は、いままで剣を持った自分は無敵であると信じてきた。妖怪だって何体も倒しているし、ブゲイソードを使っての戦闘では、自分が一番であると信じていた。そりゃあ、抜刀では水戸さんには及ばないかもしれないが、それは彼女の一日の長というやつだ。

 それがどうだ。さっきのあの試合のていたらくは。

 ひょいひょい動く上原の竹刀の先に、すっかり自分は翻弄された。あいつの切っ先がどう動いて、どこへ行くのかまったく目で追えなかった。あっと思って受け流そうとしても、全然間に合わない。有名な新陰流の廻剣で応じようとするが、あの場にたったらそんな大きな動きをしている余裕はなかった。

 考えてみたら、自分はいつもブゲイスーツのパワーアシストで、大した抵抗もしない妖怪に斬りつけていただけかもしれない。これが自分と対等に動ける相手、しっかりした意志と技術をもって反撃してくる敵には、おれの剣術なんて、まったく通用しないのではないか? おれはいままで何をやっていたんだろう。

 ふと思い返してみる。

 自分ひとりでの、素振り。

 自分ひとりでの、構えの練習。

 それだけだ。

 動く敵を前に置いての稽古、いや、動く敵を想定しての鍛錬は、なにひとつやっていない。

 武史は立ち上がると、隅に放り出されていたケバだらけの木刀をとりあげた。

 上原がやったように低く構えてみる。両拳はへその前あたり。握りは深く絞り込んで、剣先から動くように、飛び込み面を真似てみた。

「当てっこ競技の練習?」

 ふいに声を掛けられて、武史はびくっと振り返った。だれもいないはずの部室の窓際に、白い道着に黒袴姿のキナ子ママこと水戸杏が、にやにやしながら立っていた。いつものように、黒髪を後ろで一本に結んでいる。

「いえ、敵の技術の研究です」

「木刀じゃあ、ああは振れないでしょ、重くて。やめときなさいよ、剣道の真似なんかするの」窓に寄りかかっていた杏は、するりと黒田の前までやってくる。「あんなの嘘っぱちだから」

「でも、自分は負けました」黒田は口元を引き結ぶ。

「つぎにやるときは、防具無しで、木刀で打ち合いなさい」杏はいたずらっぽい目で黒田を見上げる。杏は意外に背が低い。キナ子と同じかそれ以下だ。

「それって、危険じゃないですか?」黒田が首を傾げると、杏は笑う。

「危険ね。でも、正眼に構えた相手の頭なんて、そもそも打てないでしょ。同じくらいの身長の人間が、同じ長さの刀で向かい合っているのよ。武蔵も書いているけど、こちらの切っ先が相手に届くときは、だいたい相手の切っ先もこちらに届くの。ちょっと考えればわかるじゃない。それを、面金にあたっても打突としては無効だからって、中段正眼に構えた相手の頭を打っていく。自分の顔面に日本刀が刺さってもオッケーなのよ、現代の剣道という競技では。だいたい斬り合いでは、相手の頭とか手首とか脇腹なんて狙わないじゃない」

 と常識だ、みたいに言われても黒田は「はあ」と首を傾げてしまう。では一体斬り合いの場面では、剣士は相手のどこを狙っていくのだろう?

 その疑問に答えるように杏はにやりと笑うと、すっと黒田と入れ違うように一歩動いて、まるですり抜けるように彼の背後に回り込んだ。

「ニセイを狙いなさい」

「え?」黒田が振り返ったときすでに杏の姿は消えていた。



「でもちょっと、おかしいんですよね」回り稽古を始めた剣道部員たちを武道場の隅から見物しながら、キナ子は口を尖らせている。「気剣体一致とかいって、声を上げないと一本にならないんだけど、剣道の元であると言われている一刀流じゃあ、すべての組太刀に置いて、ただの一か所も声を上げないんですからね」

「え? 一刀流って声をあげないの?」士郎は心底驚いた。「やー、とか、とぉー、とか言わないってこと? 全く?」

「ひとつ言っておきますが」猜疑心たっぷりの目で士郎を見上げたキナ子は、見事に士郎の勘違いを言い当てた。「刀一本持ってやる流派全部を一刀流っていうわけじゃないですからね。伊藤一刀斎が興した『一刀流』って名前の流派があるんです。二刀流は、刀二本をつかう流派の総称ですが、一刀流は単一の流派をさしていて、小野派、中西派、伊藤派、梶派、甲源、北辰、無刀流と、現在はいろんな流派に枝分かれして伝わってます」

「左様ですか、勉強になります」士郎は謙虚に頭を下げる。

 そこへ、黒田がもどってきた。案外しっかりした足取りで、士郎たちが待つ武道場の隅へやってくると、典善先生に一礼した。

「すみませんでした、稽古の途中で抜け出してしまって」

「気は晴れたかい?」

「はい。杏さんに少し教えを受けてきました」

「む」ちょっと典善先生は眉をひそめたが、すぐに気を取り直して、「では、新陰流の講釈のつづきでもしようか」と言って、全員を並ばせた。そして、新陰流の大事を三つ教えてくれた。

 ひとつは、前にかかって、あとの脚をのばすこと。

 次のひとつは、わが拳を盾にすること。

 そして最後は、敵の拳にわが肩をくらべること。

「本当はあとふたつあるけど、今日は省略ね」典善先生はにこにこと笑い、「拳とは二星のこと。新陰流では、二星の目付を大事にするね」

「え」黒田が目を丸くする。「二星って、拳のことなんですか」

「そう。ほら、切っ先は早くて見えないから、拳と肘、あとは肩の角度を見るの。動きのゆっくりした肩から、肘、拳と見て行くと、結局切っ先はその延長上にあるわけだから」

「ええーっ」黒田は眉を歪めて渋面を作った。「先生、それもっと早く教えてくださいよ」

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