scene2 試合

 型稽古の組み合わせを変え、今度は典善先生とあづち、士郎とキナ子で一本目を練習しているとき、黒田だけ一人離れて鏡の前で、お得意の木刀のカッコいい構えの練習をしていた。そこへ休憩中の剣道部の集団から、上原が胴をつけたままの格好でやってきて、黒田に話しかけた。

「よう、黒田。古流剣術の先生に教えてもらって、すこしは強くなったのかよ」

 揶揄するような言い方だった。上原はたしか、D組。士郎は一緒のクラスになったことはないが、あまりいい印象のない生徒だった。事実いまも、『古流剣術の先生』といった口調に若干バカにした響きがある。典善先生自身もバカにしているし、正式な顧問でもなく教員でもない典善先生に対して失礼な態度をとっても、怒られることはあるまいと高をくくっているのか、あるいは剣道部顧問の山本勘助先生が剣道八段でもあり、校内でほかの先生に対しても強い立場にあるため、古武道研究会など大したことないと、もとより上から目線なのか。

 士郎は稽古の手を止めて、薄ら笑いを浮かべる上原の横顔を睨みつけた。

「もちろん、強くなった」よせばいいのに、黒田は自信たっぷりに答えた。「天下一の柳生新陰流を習っているのだぞ」

 いや、一本目の型を十五分ほど習っただけだろ。

「へえ、凄いじゃねえか」上原の顔に張りついた薄ら笑いは、微動だにしない。「しかしよ、剣道の世界じゃ、古流剣術を習ったからといって、強くなることはないってのは常識だぜ。つまり実戦の役には立たないと言われているんだ」

「なにを言うか。柳生新陰流は、将軍家お留め流だぞ。役に立たないわけがあるか」

 黒田は胸を張り、自信たっぷりに宣言するが、士郎の隣でキナ子が小さく「将軍家じゃなくて、尾張だって」と訂正している。

 前に説明してもらったところによると、柳生家の新陰流は江戸と尾張でそれぞれ継承されたが、尾張の方は遣い方を変えてしまったらしい。一方江戸の方は伝系が絶えてしまい、昭和の時代になってから大坪先生という人が江戸柳生を復活させたらしいのだが、この大坪先生の師匠は尾張柳生の宗家である。つまり将軍家お留め流としての柳生流は、伝系も技も失われてしまって、今はもうないのである。

「へえ、だったらよ、おれと軽く稽古してみようよ。どんな感じのものか、見せてくれよ」上原は、将軍家お留め流程度のこけおどしには引っかからず、体よく黒田を試合に誘う。

 士郎は、「あいつ」と舌打ちしつつ二人の間に割って入ろうとしたが、とても間に合わず、黒田は「よかろう」と許諾してしまう。

「おーし」してやったりと上原は小さく拳を握ると、大声で「おーい、みんな、これから古武道研究会の黒田と試合するぞぉ」と宣言してしまった。

「あの野郎」士郎は呆れたように天を仰ぐ。黒田に呆れているのか、上原に呆れているのかは、自分でもわからない。試合をとめてくれるかも、と淡い期待をこめて典善先生を振り返るが、先生はどこ吹く風で、あづちと稽古を続けていた。

 上原は、段取り良く試合の準備を進める。部長の清水に許可をとり、余っている竹刀と防具を手配して黒田に身支度させ、部員の中から女子を含んだ三人に審判に立ってもらい、試合場の中央に、黒田を引き立ててゆく。

「おい、いいのかよ」剣道部の部長が士郎のそばまできて小声でたずねる。部長の清水とは、中学から一緒だ。こいつは剣道も強いが、話も分かる男。信用できるやつだ。

「仕方ないだろう」士郎は肩をすくめる。「黒田がやるっていうんだから」

「でも、勝てないぞ。黒田のやつ、あの様子じゃ、防具つけるのも初めてだろ?」

「そうとは限らないぜ」士郎は口元を歪める。「ああ見えてあいつ、案外実戦経験とか豊富かもしれないし」

「なかなか、本格的だね」いつの間にか稽古をやめて隣に来た典善先生が嬉しそうな笑顔で、試合場に立つ黒田を眺めている。士郎がちらりと見ると、袋撓を左手に提げて典善先生とあづちが並び、その向こうにキナ子が立っているが、彼女だけはいつのまにか袋撓ではなく木刀を提げている。おいおい、キナ子。おまえ、場合によっては剣道部と事を起こす気かよ。

 防具に身を固め、竹刀を向かい合わせて、黒田と上原が開始線の上でしゃがみこむ。蹲踞そんきょという姿勢だ。ここから立ち上がって試合開始するのは、剣道と相撲も同じ。堂に入った上原の蹲踞に比べて、黒田の蹲踞は見るからにぎこちない。

 女子の審判が「はじめ!」の掛け声をし、同時に二人は立ち上がるが、上原は立ち上がりつつ飛び込んで「面!」と叫ぶと竹刀で黒田の頭をぶっ叩いた。

 さっと女子と男子の二人が赤の旗をあげる。

「赤が上原ね」一応清水が解説してくれる。「赤いマークはなにもつけてないけど」と苦笑した。「で、いまのは上原の一本。男子が旗をあげなかったのは、蹲踞から立ち上がると同時の打突を公正ではないと判断したから」

 頭を竹刀で叩かれ、ぐらりとよろける黒田に対して、上原はさらに「小手!」を打って牽制し、すばやく飛び込んで「面!」、密着した位置からさらにとどめの「胴!」。審判の三人が赤い旗をつぎつぎとあげる。

 おそらく初めて面をつけて視界も良好とはいえない黒田は、なにがなんだからわからず竹刀で頭を守っている。が、上原が下がったタイミングで、お得意のカッコいい正眼にとる。上原は、竹刀の先を合わせるような合わせないような動きで、切っ先を昆虫の触覚みたいにひょいひょいと振ると、さっと片手片足で跳びこんで黒田の小手を打つ。審判の旗が上がった。

「古流の高い中段は、小手をとられやすい」清水が静かに解説する。「実戦に向かないとは、ああいうところだな」

「でも、古流剣術は実戦の中で揉まれて研究されてきたんじゃないのか?」士郎は驚いて清水を振り返る。

「竹刀や防具が進化して、競技として洗練されてきたんだろう。現代の剣道人口は江戸時代のそれを凌ぐだろうし、世界大会まであるくらいだ。試合数と競技人口がちがう。それだけ研究淘汰されているということだと思う」

 また黒田が打たれ、旗が三つ上がる。

「あれって、何本とられると、試合終了なんだ?」士郎は問う。

「いや、一本とられると試合終了だけど、これは時間を決めて本数無制限でやりあってるのかな?」清水も首を傾げる。

 打ち込む上原の動きに合わせて、黒田が信じられないような超反応を見せて竹刀を振った。打ち込んでくる上原の拳を打つ。さすがはブゲイジャー、ブラックジュウベエ。士郎の目にはクリーンヒットに見えたが、旗は一本も上がらない。

「いまのはダメなのか?」士郎は不満げに口をとがらす。

「左小手だ。左は打っても一本にならない。しかも浅い。あれじゃあ小手じゃなく拳だ」

 左は一本にならない? 拳じゃダメ? 士郎は首を傾げる。じゃあ、剣道の世界観では、左手や拳は、日本刀で斬られても怪我しないということなのだろうか?

 さらに黒田は面を打たれるが、返しで胴をぶっ叩く。赤い旗はあがるが、白はあがらない。士郎の疑問を先読みして、清水が解説する。

「左胴も一本にならない。ほら、侍は脇差を差しているだろう? すると左胴は脇差の上だから、切っても有効な打突にならない」

 脇差? 士郎は剣豪チェンジしたときの、強化角帯に差された大刀小刀の位置を思い出す。大刀はヘソから左の骨盤のあたりまで帯に差さっている。が、小刀、すなわち脇差は、その右。すなわち腹の正面、ヘソの下にある。脇差の刀身で斬れないのは、ヘソとその周辺の下腹部であり、左の脇腹はノーガードだ。ま、大刀の鞘に守られてはいるが。

 士郎はちらりと清水の道着の袴を確認する。剣道部員はみな、藍染めの道着に袴をつけているが、帯は締めていない。この武道場で、角帯を締めているのは、キナ子と典善先生のみ。二人とも藍色の袴の下で、なにやら格好いい結び方で帯をきりりと締めているようだが、剣道部員たちは誰ひとり、刀を差すための帯は締めていない。果たして彼らの誰かひとりでも、角帯の締め方を知っている者がいるのだろうか? そしてその角帯に大刀小刀を差した経験が一度でもあるのだろうか? もしその経験があるのなら、分かるはずではないのか? 脇差が左の脇腹なんか守っていないことが。

 士郎はなんだかやりきれなくなって、大きくため息をついた。清水はいいやつだ。が、こいつと自分との見識には、大きな差がある。超えることの叶わぬ、巨大な壁があるかのようだった。

「やめっ!」女子の審判が声をあげて、試合を終了させた。上原と黒田は、開始線にもどって竹刀の切っ先を合わせ、蹲踞し、互いの竹刀を納める。

 余裕で立ち上がった上原と対照的に、沈没船から助け出されたように呼吸の荒い黒田は、その場にへたり込んでしまう。その姿を、面を外した上原は勝ち誇ったように上から見下ろしている。

「黒田よぉ、型稽古はカッコいいけどさ、どう動くか分かっている相手と打ちあっても、強くはならないぜ」

 床に手をついて、フイゴのように息をしている黒田はかすかに上原を見上げる動作をとる。その黒田に、あづちがさっと駆け寄り、面を外してやった。あづちは、へたりこんだ黒田のそばに片膝をついて微笑すると、「がんばったね、黒田くん。かっこよかったよ」と声をかけた。周囲の視線を十分意識しているあたり、あづち姫は女優だ。剣道部の男子も女子も、あづちと黒田に視線を集める。さっきまで勝ち誇っていた上原の視線が、嫉妬に歪む。

 が、黒田はそんなあづちを振り払うように立ち上がると、ふらつく足取りで士郎たちの方へやってくると、典善先生の前で頭を垂れた。

「申し訳ありません。先生に恥をかかせてしまいました。本当におれ、不甲斐ないです」汗びっしょりの顔で、悲痛に眉をしかめている。

「いやいや、なかなかいい試合だったよ」典善先生は、微笑すると黒田の肩をぽんと叩く。「いい勉強になったね」

 が、黒田は、顔を上げずに否々と首を振ると、そのままフラつく足取りで武道場を出て行ってしまう。

 典善先生はその後ろ姿を見守りながら、ぽつりと独白する。

「これでまた、彼が変な勘違いをして、間違った方向へ行ってしまわないと、いいんだが」


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