scene8 新陰流

「幽霊ってことですね」さっきから黙っていた黒田が口を開いた。

 典善先生とキナ子が重々しくうなずく。

「さっき気づいたんですが、キナ子のお母さんの杏さん」黒田は壁際の鏡を指さしていった。「鏡に映っていませんでした。もしかしたら姿は見えていたけれど、実在はしないのかもしれないですね」

「だと、いいんだけど」小さく舌打ちしてキナ子は右手首を見せた。さっき杏に居合刀で斬りつけられてついた傷がある。「死んでからも、ちょくちょく出てきてはちょっかい出して、いろいろと引っ掻き回すんですよ」

「まじかよ」士郎はちいさくつぶやく。「つっても、まあ、妖怪がいるんだから、幽霊がいてもおかしくないか。おかしくない、よな」

「うーん、まあ、そうだけど」あづちも腕組みして考え込む。

「あのさ、あづち姫のお母さんの伏見さんはちゃんと生きてるんだよね?」士郎がよけいなことを確認して、「あたりまえでしょ!」とあづちにぶん殴られた。

「しかし、杏の姿は、キナ子にしか見えないはずなのですが」典善先生が腕組みする。

「きっとみんなに武術を教えたくて、うずうずしてるんでしょうよ」キナ子があきれた顔で周囲を見回す。どこかその辺に母が姿を消して立っているのを疑うように。

「まあ、いいでしょう」すっと力を抜いたような声をだして典善先生が腕を開いた。「古武道研究会の稽古をはじめましょう。着替えてきますよ」



 来たときは釣りに行く途中のおじいちゃんに見えた典善先生だが、色の褪せた剣道着に着替えると見違えるように印象が変わる。なにかこう、ただ者ではない雰囲気が濃厚に漂っている。ちなみに呼び名はいつの間にか「テンゼン」先生となっていた。

 まずは、基本の構えと素振り。そう指導され、各人が木刀をとって武道場の隅で丸く輪になった。道場の中央は剣道部が占めて、大声を張り上げながらどったんばったんやっているが、古武道研究会は典善先生の静かな解説に耳をすませる。

「わたしが修行したのは、剣は新陰流、居合は田宮流です。まずはみなさんには、木刀の素振りから入ってもらって、ある程度基本ができたところで、型稽古までというのを目標にまずは半年、稽古をつづけてみようかと思っています」

 剣は新陰流と聞いて黒田が「おおう」と小さく呻いたのはいうまでもない。ブラックジュウベエとはもちろん柳生十兵衛からとった名前であるし、自身も市販されている柳生新陰流のDVDで型の研究を続けているため、ここできちんとした新陰流を習えるのは願ってもないことなのだ。

「あれ、キナ子の居合って林なんとか流じゃなかったっけ?」士郎が隣に立つキナ子を見る。

「林崎流」キナ子は憮然として訂正する。「あれは母に習ったの」

「ああ、杏さんは、典善先生とは流派がちがうんだ」

「あれで、案外行動的でして」典善先生が困ったような顔をする。「田宮流はおしゃれだから、もっと武骨なのがいいと、勝手に他の道場に入門しまして」

「それであたしに無理やり教えたのよ」キナ子も困った顔をする。この孫の困った顔は、祖父そっくりである。「いやだったなぁ。あんな長い刀、無理やり抜かさせられて。趺踞(ふきょ)とかもう拷問以外のなにものでもないし……」

 趺踞とは、林崎流独特の腰の下ろし方である。しゃがんだ状態で片膝だけつける不安定な姿勢を指すとあとで教えられた。

「お母さんがみんなにも見えるように出てきたのはきっと、死体を持ち去るという妖怪火車のせいだと思う」キナ子はぽつりと言う。「お母さんの死体も見つかってないから、それで……」

 みなが押し黙った頃合いを計って、典善先生が口を開く。

「では、そろそろ稽古を始めましょうか。まずは基本の素振りから入りますが、そのまえに大事なことから教えます。それは木刀の握り方です」

 新陰流の木刀の握り方は、強く握りこまず、ゆるく余裕をもって掴む。合(ごう)谷(こく)という、親指と人差し指のあいだを中央に合わせる。余裕をもって握れば、合谷が柄から離れ、そこに空間が生まれる。その空間を新陰流では「竜の口」という。これが重要であると。

 キナ子は当然のようにそう握っていたし、初心者の士郎とあづちは言われるままに形を真似して握った。ただし、黒田だけは、「そうじゃないよ」と典善先生にしつこく握りを直されていた。どうも独学で木刀の素振りをやってきた黒田には変な癖がついてしまっているらしく、木刀の柄をぎゅっと握ってしまうらしい。そうではなく、ゆるく握って親指と人差し指の間に空間を作れと何度も典善先生に言われているのに、たったそれだけのことができない。これから素振りをやろうっていうのに、黒田が、たかが木刀を握るくらいのことも満足にできず、士郎とあづちが少し鼻白んだ顔をしていると、黒田は顔を紅潮させて余計に力が入り、さらに木刀の握りがおかしくなっていった。

 典善先生はちょっと困った顔をしていたが、このままでは先に進まないと思ったのか、黒田のことは諦めて、素振りの教授に移った。



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