scene6 耳打ち
帯刀した母と娘が、無言で対峙する。
黒田は、ごくりと唾を飲みこみ、一歩さがって見学する。ひとつ、ふたつ息を吸ったあたりで、黒田はびくっと電気が走ったみたいに身体を震わせた。
キナ子が柄に右手をかけ、その状態で右手首をぴたりと抑えられていた。抑えているのは、杏が抜き放った居合刀のぎざぎざの刀身だ。一瞬の出来事で、刀の動きがまったく見えなかった。これが、赤穂がこのまえしつこく言っていた超高速の居合の抜刀というやつか。なにをどうすればあの重い刀をこうまで高速で振り回すことができるのだろう。黒田は苦しくなって、自分が呼吸を忘れていたことに気づく。
「なによ、全然じゃない。抜刀は先々の先。早く気づきなさい」杏はにんまりと笑うと、娘の手首に強く押し付けていた刀身を外した。ギザギザの刃がキナ子の皮膚に食い込んで、あとにはうっすらと血がにじんでいる。キナ子は唇を噛んで手を柄から離すと、右手首の傷から血が出ているのを確認してちいさくため息をついている。
「あの」遠慮がちに前に出た黒田は、おずおずと杏にたずねた。「いったいどうしたらそんなに速く刀を振り回せるんですか?」
黒田の方を振り返った杏は、にっこりと笑った。
「最初から間違ってるわね」
「え?」
自分が間違っている? 黒田は首を傾げる。一体どこで、何を間違っているというのだろう?
「どうやって、速く振るか? じゃないのよ」杏はちっちっちっと人差し指を振る。「どうやって、振らないか、なの。できれば、全く振らない。それが理想」
「は?」言っている意味がまったく分からない。
「できるか、できないか、じゃないわよ」さらに杏は続ける。「わかるか、わからないか、なの。できるようになるためには、まず、自分ができない、ということに気づくことが第一歩よ。早く気づきなさい」
「はあ……」半信半疑で黒田は置いてある木刀を手に取り、壁にある鏡の前に歩いていく。自分の姿を映しながら、素振りをゆっくりと始めた。なんにしろ黒田には素振りしかない。武術の稽古といったって、いままで素振り鍛錬しかしてこなかった黒田だ。いまさら別の稽古法を思いつくわけでもない。十回二十回と振るうちに、身体が温まってゆく。じんわりと汗もかいてきた。ジャージに着替えてから来るべきだったかもしれない。ふと、そんなことを思いつつ、鏡に映った背後の様子に気づいて、黒田は首を傾げた。素振りをする手を止め、後ろを振り返る。首を傾げ、もう一度鏡を見、さらにがばっと背後を振り返る彼の眼は、驚愕に見開かれていた。
最後に部室を出たのは、赤穂士郎だった。
木刀の小太刀と十手、居合刀の脇差という、短い道具類を手提げ袋に入れて肘からぶら下げ、部室のカギをかけていると、後ろから声を掛けられた。
「あの、古武道研究会の方ですよね」
「はい、そうですが」
勢いよく振り返った士郎は、相手の顔を見て軽くのけぞった。
「うわっ、あ、あづち姫のお母さん!」
「どうも、さきほどは失礼しました」丁寧に一礼するあづちママに、士郎もあわてて挨拶を返す。
「いえ、こちらこそ。失礼しました、急にで、びっくりしちゃいまして」
「こちらこそ、きちんとした挨拶もできずに、ごめんさないね」
あづちママこと桃山伏見は、背はそんなに高くもないが、さすがにあづち姫の母上、ものすごい威圧感がある。士郎は首をすくめながら、ちょっと及び腰で「いえ、とんでもない」とかなんとか答えておく。
「あの、実は。娘のことで、すこし気になることがありまして」あづちママは声をひそめた。「ここではなんですので、すこし離れた場所で、よろしいでしょうか」
そういって士郎を階段の方へいざなう。無言で階段を降りるあづちママは、一言も発さず、一階まで降り、そこで上の階を気にしながら、さらに周囲を見回し誰もいないことを確認している。そのうえで、「失礼」といって口を士郎の耳元へ寄せてきた。
「へ?」と一瞬身を引いたが、あづちママの真剣な目に促されて、おっかなびっくり耳を差し出す。甘い香水の香りがただよい、あづちママは手でおおった口元を士郎の耳にあて、さらに小さい声で話だした。
「娘の話というのは、じつは、嘘なの」口調はさっきまでの他人行儀はどこへやら、すっかり母親世代が子供世代に語りかける口調になっている。「いい。これから言うことは、ぜったいにだれにも話さないで、あなただけで処理して頂戴ね。じつは、あの部室にいたネコのことなんだけれども……」
ネコのこと? 士郎は片眉をあげつつも、桃山伏見の話に聞き入った。
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