scene9 赤ん坊が乗っています


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 とにかくバスを止めなきゃ。

 園児たちの泣き声を無視して、士郎は運転席についた。

 ゆらゆらゆれるステアリング・ホイールをつかんで、すこし動かしてみる。バスの前輪が反応して車体が左右に揺れた。一応コントロールはできそうだ。なんとなくバスの運転手になったみたいで、気分がいい。そういやおれも幼稚園くらいのときはバスの運転手に憧れていたっけ。

 行く手にアザーカー、……いや一般の車。他に赤信号などの障害物が存在しないことを確認する。まだ二百メートルくらいは大丈夫だ。士郎は落ち着いて足元を確認し、ブレーキペダルを力強く踏み込んだ。

「ん?」

 数センチ沈み込んだブレーキペダルは、そこからびくりとも動かなくなった。もう少し力を入れて踏み込むが、がっちり固定されたように動かない。ちょっとだけブレーキが効いて、スピードが落ちたような気もするが、これじゃあ停止までとても持っていけない。

 今度は結構思いっきり踏んでみた。

 ブゲイスーツにアシストされたパワーで踏みつけられて、ペダルの金具がぎりぎりと悲鳴をあげる。慌てて士郎はペダルから足を離した。このまま踏みつけたら、ペダルを踏み折ってしまう。

 試しにもう一方のアクセルペダルを踏んでみる。

 ぶぉん、というエンジン音を立てて、バスが加速した。スピードメーターのデジタル数字がぐーんと上昇する。

「おわっ」

 慌ててアクセルから足を離し、反射的にブレーキを踏むが、動かない。

「やべっ、加速しちまったじゃねえか」

 このまま減速しないかと思ったら、スピードメーターの表示はゆっくりと下がってゆき、だいたい時速三十キロ前後で安定する。

 ほっとしたのも、つかの間。前方の信号が赤に変わった。

 距離にして約百五十メートル。走ればかなりの距離だが、時速三十キロで走行するバスにとっては、あっという間の距離だ。

「なにっ」

 慌ててブレーキペダルを踏むが、やはり動かない。赤信号は交差点だ。このまま突っ込むと、いま車がびゅんびゅん走っているあの道路に飛び込むことになる。さらに、赤信号の手前には停車中の青い軽自動車が一台。このままでは追突してしまう。軽自動車のリアには、『赤ん坊が乗っています』を意味する黄色いマークが。こっちは園児、むこうは赤ん坊か。士郎は歯を食いしばって、左右を見回した。

 ガードレールに囲われた歩道にエスケープはできない。あの青い軽自動車をかわすには対向車線しかない。が、その先は交差点。現在かなりの車の流れがある。今のタイミングでは向こうの信号が赤になってこちらの信号が青になるのには間に合わない。このまま対向車線に飛び込んで、あの交差点に突っ込めば、側面からの衝突は免れない。

 どうする? 士郎はステアリングを握る指に力をこめた。後ろでは園児たちが大声で泣いている。このまま前方の軽自動車にぶつけて無理やりこのバスを止めるか? しかしこのバスには大勢の園児が乗車しているし、あの軽には赤ん坊が乗っている、かもしれない。そして、こちらのブレーキは効かない。出来るのは加速だけ。

「くそっ」

 毒づいて士郎は交差点で直交する道路の左右を見渡した。

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