第6話

(いやいや、待てよ。なんだこれ、どういうことだよ)

 喉が渇く。

 冷たい汗が、シャツににじんだ。

(わからない、わからない。何がいったい、どうして、こんな――)

「いい顔ですね」

「っ!」

 いつの間にか、目の前に青年がしゃがみ込んでいた。青年は、人差し指でジンの頤を引き上げると、うっとりと見つめてくる。

「恐怖と屈辱と絶望に染まった、その顔が見たかったんです。この八年間、ずっと」

「八年、間……?」

「随分かかりました。でも、いいです。これからその苦労も報われるんですから」

 青年はなごり惜しむかのように目を細めると、すっと立ち上がった。

 勝手知った様子で、クローゼットからクリーニング済みの控えの制服を取り出すと、上に羽織る。

「そろそろ休憩時間も終わりですか。じゃ、これからカジノに戻って、あなたの代わりに働く手続きをしてきますから、良い子にしててくださいね」

「ま、待てよ。何だよ、これ。どういうことだよ」

 ジンはすがるように青年を引き留める。

 この混乱の中、一人置いて行かれるのが怖かったのだ。それが死神の服の裾を引く行為だとわかっていても。

 右手を強く引けば、手錠の鎖が金属的な悲鳴を上げた。

 青年は赤くなったジンの手首を見る。

「……逃げる努力くらいしても構いませんけど、痛くありません?」

「だから何だっつってんだよっ! わけわかんねえよ、お前、何なんだよっ!?」

「あーあ、混乱しちゃって。ま、大した話じゃないんですけどね。復讐とか、金の恨みとか、イカサマギャンブルで一家丸々つぶしちゃったーとか。そういうのですよ。覚えてます? 昔、父をあのゲームではめたこと」

 ――呼吸が、止まった。

 青年はやっぱり、と苦笑して、飼い犬をあやすようにジンの頭を撫でた。

「行ってきます」

「あ……」

 情けなく、声がかすれた。

 ジンは浅い呼吸を繰り返す。自分の心音以外何も聞こえない。視界が真っ赤に染まる。

 青年の父のことなど、まるで記憶になかった。

 ブランクカードを使ったトリックは、イカサマしたことがあまりにも露骨なので、使用した相手はほとんどいないはずだ。

 けれど、ろくに顔も思い出せない。あれだけ敗者の絶望の顔を楽しんでいたというのに。

 その無責任な悪意の代償が、これなのか。

(死ぬのか、オレは。全てを奪われて。これが、オレが今までしてきたことの報いなのか)

 彼を引き留めることすらできず、ただじっと青年が部屋を出て行くのを見つめた。

 扉が開く。

 外には日常があった。

 通勤で、外出で、帰宅で、見慣れたはずの景色はあまりにも平凡で、涙すら浮かばない。

(もう、外には、出られないのか……オレは、終わり、なのか)

 青年がこれから何をする気なのか、わからない。

 けれど、間違いなく、それはジンにとって、幸福なことではあり得なかった。

(知らなかった……)

 本当に絶望すると、何も、何もなくなる――。

 平穏も、日常も、興奮も、悪意も、怒りも、恐怖も、何もかも……。


 だが、ジンの視界を遮るように、外から一人のみすぼらしい男が現れた。

「え?」

 靴を履き替えていた青年が、素っ頓狂な声を上げる。

 ジンは男に見覚えがあった。

 先ほどポーカーで金を巻き上げた男だ。

 男は何故か慌てた様子で、意味のわからないことを口走る。

「お前――その服!? オ、オレはてっきりあのディーラーだと思って」

 ひゅー、と青年の口から、言葉にならない吐息が洩れる。

 ドア口に立つ男は、青年の顔を見るなり怯え始めた。

「そ、そんな所に突っ立ってるお前が悪いんだ。オレは悪くない! オレのせいじゃない!」

 男が青年を突き飛ばす。

 大きな音を立てて、青年は仰向けに倒れた。その腹部には、ナイフが真っ直ぐ突き刺さり、周囲が赤黒い血でにじんでいく。

(嘘、だろ)

 ゆっくりと、彼がこちらを見る。

「ねえ、名無しのあなた」

「……っ!」

「どうやら、死に神が、鳴神ジンを迎えに来たみたいです……」

「お、まえ……」

「名前、間違えられちゃったみたい……」

 名前も悪意も、死の運命すら奪った青年は、ただ静かに微笑んだ。

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悪意を奪われた男 福北太郎 @hitodeislove

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