第4話

「私の名前?」

「はい」

「……それは、どういうことでしょう」

「そのままの意味ですよ。あなたの名前が僕の名前になる。それだけです」

 青年は微笑んだ。

 ジンはこの青年に声をかけてしまったことを、後悔し始めていた。

(五百万の代わりに名前をよこせ? どういう意味だ。こいつは何を企んでいる)

 もはやジンは、この青年が何も知らない、ずぶの素人だとは思っていなかった。

 彼は明確な意思を持って、このギャンブルに臨んでいる。

 だが、その目的がわからない。

 目的のわからない相手は、何をするかわからない。リスクが高すぎる。手を引くべきだ。

(そんなことはわかっている。ならどうして、オレは今すぐそうしない)

 ジンは手の平ににじみ出た汗を制服でぬぐう。

 心音が、少しずつ鼓動を早めていく。

 ――そこには、確かなスリルがあった。

 この青年は、負けることを恐れていない。何故か。

 勝つ自信があるからだ。

 普通に考えれば、このゲームの選択肢は赤か黒か。ジョーカーというイレギュラーは抜いたのだから、当たる確率は五十二分の二十六で、ちょうど二分の一。どんなずぶの素人だって、運次第で勝てる。

(だが、それだけか。二分の一というのは、勝ちを確信するには弱い数字だ。あるいは何か――イカサマを仕掛けているんじゃないのか。プロオレ相手に)

 そう思った瞬間、沸々とした感情がマグマのように揺れた。

 潰したい。その生意気な、傲慢と不遜に彩られた顔を、屈辱と恐怖と絶望に歪めて、踏みにじってやりたい。

 いつの間にか、ジンの心に悪魔がささやいていた。

 気が変わった。もうこれはお遊びのゲームじゃない。互いのプライドをかけたギャンブルだ。

 やるからには、勝つ。

「わかりました。私が負けましたら、名前を差し上げます」

「よかった。これで、勝負成立ですね」

 青年がカードを裏向きの状態で、扇状に広げる。

「はい、どうぞ。引いてください」

 ジンはゆっくり見定める。イカサマを警戒する上で、まず慎重にならなくてはいけないのはここだ。

 もし自分が青年の立場なら、間違いなくデッキの配列を暗記するか、意図的に選んで欲しいカードを相手に選ばせる。

(どれだ。どれを選べばいい)

 端から端、そして青年の手元まで慎重に見つめる。不揃いな形の扇は、所々いびつに飛び出していて、作為めいたものすら感じる。

(落ち着け……余計な思考に囚われるな。結論はシンプルなんだ。『こいつが当てられないカード』を選べばいい)

 ジンは左寄りの一枚を引き抜くと、ろくに見もしないまま、テーブルの上に置いた。

 トランプから指を離さずに、青年の顔を見つめる。

 彼が目線で問う。それでいいのか、と。

(この野郎、余裕ぶりやがって)

 自信はあった。このカードならまず勝てる。だが、一抹の不安がぬぐえきれない。

(いい、これでいい。離せ、指を離せ。勝利は目前だ)

 怯える自分自身を押さえ込み、ジンは腕に力を入れた。静かに、カードから指を離す。

 挑発的な目線で、ジンは言い放った。

「――さあ、お客様、このカードの色は?」


 青年が正解するのはほぼ百パーセント不可能だという事を、ジンは知っていた。

 何故なら――今、このテーブルに伏せられているのは、赤でも黒でも、ましてやジョーカーでもないからだ。

 通常トランプのデッキはハート、ダイヤ、スペード、クラブ、その一からKまでの計五十二枚と、ジョーカー、エキストラ・ジョーカーと呼ばれるカード、この五十四枚で構成される。

 だが、市販されているトランプの中には、さらにもう一、二枚追加される場合がある。

 それは何も描かれていない真っ白なカード――ブランクカードと呼ばれるものだ。

 ジンは青年にデッキを渡す前に、あらかじめこのブランクカードを抜いておいた。そして今、青年の手からカードを引いたかのように見せて、代わりにこの白紙のカードをテーブルに置いたのだ。

 たとえ、青年がどれだけデッキの並び順を暗記しようが、狙ったカードを選ばせようが関係ない。だって、青年はブランクカードの存在を知りようがないのだから。

(カードをめくった瞬間、激怒されるかもな。まあ、それでもいい。オレは『カードの色を当てろ』と言ったんだ。それが赤か黒か、二択だなんて一言も言っていない)

 ジンは青年を見つめた。

 頤に手を当て、カードを透視しかねない勢いでじっと見つめている。

 こめかみから、汗が伝い落ちていくのが見えた。彼も緊張しているのだろうか。

 ジンの心臓が痛いほど脈打つ。

 下半身から搾り取られるような快楽がせり上がってくる。

 興奮が止められない。

 早くその顔が絶望に歪む瞬間を見たい。

 青年が口を開いた。

「カードの色は――」

(さあ、赤か、黒か? それともジョーカーでも仕込んだか? 言えよ、早く早く早く!)

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