8 1/2.ハッカ二分の市

 脳みそ博士ドクター・ノオがそっくり宇宙空間に浮かんでいるみたいだ。

 虚空に投げ出されたトム少佐のように。

 四十六億年の孤独は、太陽系を中心とするスペースオペラを生み、一九六九年に人類は月に到達した。

 だが神は居なかった。

 この辺境の大地には。

 なぜ何もないのではなく、何かがあるのか。

 なぜ宇宙があるのか、世界があるのか。

 なぜ神は世界を創造されたか。

 人間の他に知的生命体は居ないのか。

 私の他に本当に意識を持っている人間は居ないのか。

 私は、無の上に、私の存在を据えた。

 おでこシュティルナー戦いバタイユを混ぜこぜに。

 答えられない擬似問題を六つ考えて下さい。(各六点)

 恋、愛、そこから導かれる家族、という幻想を解体する試みはおおよそ達成されたと見てアポロ十七号は発射準備に入る。

 みな固唾を呑んで見守っている。

 あるいは綱渡りする道化ピエロを見る感覚か。

 彼らは、ピエロが落ちるのを見に行くのさ。

 フェルディナンが青く塗った顔に黄色と赤のダイナマイトを巻いている。青と言ったが水色と言ったほうがこの場合通りは良いだろう。フランス語ではどちらもブルーだ。

 戦争反対や平和主義と、システムとしての軍隊や経済、企業を憎悪する事はイコールではないと思う。

 見世物小屋で働いたほうがマシだったかもしれないな。

 火星にも生命が?

 僕はときどき僕らは各々が各々の交わらない平行世界を生きているだけのように感じる。僕以外の意識の存在は全部嘘であると。

 その答えは42。

 愛の物語だった。

“サーカスが燃えている。観客はあわてふためいて逃げた。円形の見物席はからっぽで、テントは火と煙につつまれている。道化クラウンはひとりで舞台マネージュに立っている。/すべては夢。すべてが夢だと、おれにはわかっている。おれが存在しているという夢を見はじめたときから、ずっとおれにはわかってた。この世界は現実じゃない。”(ミヒャエル・エンデ著『鏡のなかの鏡――迷宮――』、丘澤静也訳、岩波書店、一九八四年)

 ……遠くの空からバルバルバルと空気を切り裂いて米軍のヘリコプターヒューイが飛行しており、国境を分断する川の傍の草原に舞い降りた。それはリヒャルト・ヴァーグナーの『ワルキューレの騎行』を鳴り響かせ…………『ピッグ』という名前の機関銃が火を吹いている。

 グエンはDMによって治療を受けている。流れ弾による、かすり傷だ。銃弾は彼に向け放たれたのではなかった。少なくとも彼の短機関銃ウージーは。

「なんで……俺を殺さなかった?」

「殺すつもりが無かったからさ。俺も、お前も。お互いにな」

包帯を巻き終わると、ぽんと肩を叩いた。慈愛のように感じた。

「おれは隊の中の内通者スパイを炙り出さなくちゃならなかった。だからカマをかけてやったのさ。任務が終わったと言えば、スパイにとって俺は用済みになる。お前が、グエン、意外と短気だったのは想定外だったが」

内通者が? と言って死体袋を見た。たぶんある程度証拠も集めていたのだろう。

「まんまと騙されてたってわけか」

「おれは殺人鬼じゃないさ……こう見えても医者なもんでね」

膿や腫瘍を見つけて除去する、か。

「俺の他に目星が、って事は、おれが撃たないのも想定済み?」

「ああ」

「おれが臆病だから?」

「いいや、」

DMは、ドミニク・メリル曹長は悪びれもせずに言った。

「お前が優しく、真っ直ぐで、そして勇敢だからだ」

 ヘリに捕虜を積む。

 メリル曹長! グエンが叫んだ。

 DMはただ彼に向けて親指だけを突き出した。

 森の中に動く影があった……。

 ドアガンナーは機関銃を向けるが、DMが制止した。見覚えがあったからだ。

 それはオズワルドとオニユリという二人の脱出者だった。

 二人は顔が真っ赤になるまで走ってきたみたいで肩で息をしてヘリを見つけると目を輝かしたようだった。

「あ…………」

 沈黙が流れてオニユリがきょとんとしていたけど胸いっぱいに息を吸い込んで、そして、叫んだ。

「あの! …………! ……!」

DMが白い歯をニヤリとしてそれに応えた。

「いいぜ! 乗りな!」

ヘリは満載になって離脱準備完了となった。グエンは地べたに座り込んで別れの敬礼をした。彼はこの地に残るのだ。この先ここで何が起ころうとも。ベトナムが統一されても、南ベトナムが消滅しても。おれはの為にその仕事を果たそう。

 アディオス、アミーゴ。DMが敬礼を返した。ヘリは発った。どんどん人影が小さくなった。

「…………吐きそう」

オニユリが呟いた。聞こえなかったがオズワルドは「ヘリ酔い?」と気にかけた。オニユリは「…………悪阻つわり」と言って自分の常連のDMをちらと覗いたがゲロ袋を差し出されるのみだった。

「大統領を殺した銃か?」

DMがオズワルドのライフルをして言った。オズワルドは頷いた。

「次もまた、しっかり頼むぜ」

笑えない冗談だった。オズワルドは離れる大地を見下ろして、先程までで起きていた事を思い出していた…………。


* * * * * *


 この世界で生き残るって事は、世間の政治や権力競争と支配者にコミットメントするって事。女は男に家庭に男は椅子を取り合って弱者を排斥するって事。競争は自然主義の名の下に淘汰圧と呼ばれ正しい事とされていて、適者生存、弱肉強食の名前でコミュニケーション強者だけがコネと人脈を作り生きながらえる。恋愛やセックスも繋がりでなく競争の一部となりが勝ち続け埋まらない格差の蜜を消費する。強者に対する弱者への暴力。弱者が持つささやかな幻想の破壊。間違えた者や弱者は死んで良いと。それはみんな分かり切っていた事だよね。

 でも誰もそんな難しい事考えたくないよね。

 分かるよ。

 だから彼らの幻想も破壊してあげないとね。

 最近分かってきた事だけど、僕は復讐の為に生きている。

 目には目を、歯には歯を。

 ルサンチマンは良くない事であって現実でそれなりのが欲しいなら努力しなさい、頑張った者は報われる、と強者がプロパガンダを言ってそのうらには弱者が弱者のまま生きる事を良しとしない。

 強くなれない者は死んでいい。

 僕らはそう脅迫・強迫され続けてきた。

 僕らはジョン・ランボーや無敵のガンマンウオモ・センザ・ノメじゃあないから、弱いので、こうやって連帯して、ちょっとずつでも努力する必要があるってワケ。

 握り込むのは自分の拳で相手の手のひらシェイクハンドじゃあない。

 弱い事が罪で僕らは自我を強くしなくては。

 社会というシステムは僕らを救済してはくれないのだから。

 弱者救済セーフティネットという名前の風俗産業、障碍者支援、それにまつわる利権とヤクザ。

 テロリズム。

 恐怖で支配するということ。

 誤読の与える真実。

 宗教原理主義。

 暴力の発露。

 何が正しくて何が間違っているかは君が決めて良い。

 君の自己責任において。

 僕らは彼らの決断主義と自己責任のルールに基づいて復讐を成すほかない。

 僕らはその程度に崖っぷちだ。

 オズワルドは蚕場の防衛を一任されており場は緊張していた。

 草むらが動いてオズは叫んだ。

「合言葉、【ガルシアの首】!」

「【境界線ディマケーション】!」

現れたのは春野華子だった。船は爆破された。俺はこれから街に向かう。今から敵がやって来る。俺が戻るまで、防衛を任せたぞ。

「船が?」

「ああ」

「これから、私たちはどうなるの?」

「オズ、いいか」

華子は彼女の肩に手を置いた。

「これからの事は、まず生き残って考えよう」

オズは真っ直ぐに瞳を合わせて頷いた。

「わかった。絶対に生き残るから、」

華子は少し笑うと、オズと唇を重ねた。オズはびっくりして顔を真っ赤にしてしまった。彼女の初めてのキスだった。

「必ず戻る」

そう言い残して華子は消えていった。

 敵だ! 敵、敵。子供たちがわっとなって銃を構える。誰が最初に「敵だ」と言ったのか? 誰が最初にそそのかしたのか? それは分からないけど銃撃が始まった。撃つな! とオズは子供たちを制止しても聞かないのでステアー拳銃を空に撃って聞かせた。それから森に向かって叫んだ。

「合言葉を言え! 【ガルシアの首】!」

「【境界線ディマケーション】! だから撃つなっての!」

うんざりした顔で現れたのは日向彩芽アヤメだった。日本製の水平二連散弾銃を持っている。子供がそれを見て早とちりし慌てたんだろう。後から怯えるオニユリも付いてきた。

「華子はどこ?」

「街に行ったはずだけど」

「今は誰が指揮を?」

「いちおう、私が」

「『いちおう』じゃ困るわ」

子供には任せられないとでも言いたげだった。塹壕に入って散弾銃を折って装填を確かめる。

「船は?」

「爆破されたと」

「爆破?」

アヤメは呆れたふうに言った。

「じゃ、脱出はどうするの?」

「華子は、これから考えるって」

オーケイ。とアヤメは言った。そして思っていた。ここが駄目でも、ジルベールがきっとヘリを呼んでくれるわ。あたしたち二人の為に……。あたしたちの未来の為に…………。

 また森が動いた。【ガルシアの首】! 返事として銃弾が飛んできた。撃て、撃て、撃て! オズワルドとアヤメが言った。子供たちは手製の単発小銃や短機関銃、鹵獲品の軽機関銃なんかをぶっ放して、指向性地雷のスイッチを叩いたりした。♢支援部隊が軽機で弾幕を張って♠前衛部隊が行って手榴弾やピース缶爆弾を投げ込む。♣ツメクサは弾帯を運んで♡医療班は負傷者の傷に砂糖をかけて包帯を巻く。

 やった、撃退したぞ! 子供たちが湧いた。アヤメも散弾銃を再装填してゴロワーズに火を点ける。オニユリはまだ怯えていた。これなら何とかなるかも。戦争の素人たちは斥候の後に本隊がやってくるのも知らなかった。今の攻撃で大体の戦力が割れたろう。トランプ一組。ジョーカーはまだ現れていない。

 きゅらきゅらきゅら。

 何か聞こえない?

 芋虫キャタピラの音だ。

 タイガーじゃないか?

 いや、パンターだ。

 V号戦車パンターだ。履帯を鳴らして芋虫のように煙を吐く。フランス軍がインドシナに持ち込んだものだろう。フルール・ド・リスの紋章がペイントされていて、照準がのっそりと合う。

 子供たちが迫撃砲を射っている。

 だけどあんまり効果はないみたいだ。

 後方で家が吹き飛んだ。

 蝶の標本や飛べない蛾たちがそらを舞っている。

 その破片で何人もの子供が傷付いた。

 アヤメもその一人だ。

 目をやられたみたいだ。

「医療班!」

オズワルドが叫んだ。砂糖をかけて包帯を巻いた。

 ううう。という唸り声が反響こだました。

 再びきゅらきゅらきゅらと鳴る音があって、しかしそれは蚕小屋の残骸や蝶の死骸を踏み潰して背後からやってきた。

 彼らは叫ばなかった。

 虫ケラに発声器官は無いからだ。

「【境界線ディマケーション】。合言葉は、【境界線ディマケーション】」

英軍のシャーマン・ファイアフライ戦車の車長は狐のお面越しにそう言った。白い髪をして、左腕に戦車のペイントと同じ(ハートマークとピースマーク、それから二つのAを組み合わせた)蝶の刺青をしている。同軸機銃の曳光弾が照準を合わせて、パンターを射った。

 それで破壊される事は無かったけれどパンターはそれ自体が意志を持っているようにのっそりと後退した。

 車長は戦車から降りると『解放者リベレーター』という名前の散弾銃で迫り来る敵たちに応戦し、傷付いたアヤメを車内に避難させるよう戦車内のクルー三人に命令した。

「来てくれたのね」

それは華子か、ジルベールか。眼の見えない彼女にとって関係無い事だった。愛は色欲。アヤメは今となっては全盲となった。

 車長は南部式拳銃ジャパニーズ・ルガーを抜いて子供たちに向かって、振りかざし叫んだ。

「いいか! 名前の無い哀れなお前達に、この春野華子が個別の名前を与えてやる! 名前を持つ事は幸福である! 名前のある者は、死んだとしてもその居場所を失う事がない! 名前とは自らの場所と墓碑銘となるなのだ! ――さあ、順番に並べ、まずはお前から、いろは、ローマ、はがき、日本、保険、平和、東京、千鳥、りんご、沼津、留守居、尾張をわり…………」

そうやって五十人のトランプに個別の名前が与えられた。華子? 異変に最初に気付いたのはオズだった。

 あんたは誰なの?

 子供たちは名前が与えられた事に狂喜していた。いつでも死ねるといった様子だった。そうして彼らはシステムの一部となった。名前は、言葉は、狂信者のだ。自らの正しさと正当性は言葉によって与えられる。人は言葉の為に生きて言葉の為に死ぬ。言葉を幻想としても、いい。我々は幻想を守るために戦う事が出来る。幻想の為に死ぬ事が出来る。

 あんたはいったい、どこの誰なの!

 オズワルドが詰め寄って狐のお面を剥ぎ取る。

 その下には人間の皮で出来たデス・マスク。

 ひっ、と短く怯えてオズは尻もちをつく。

 その皮から出来たマスクを取ると、道化の化粧が現れる。

 まるで髑髏どくろが肉や皮で覆い隠されないからいつも笑っているみたいだ。

 あんたは、あんたは華子ハナコじゃない!

 あんたはただの狂人きちがいよ!

――何してるの、殺されちゃうよ!

 オズワルドが叫んで、オニユリが制止する。――ここに居たら、死んじゃうよ!

 そうしてオニユリはオズワルドを連れて逃げた。

 必死で逃げた。

 日向有栖は戦車の中に戻ると姉の介抱に努めた……。姉はそれが妹とも分からずに(有栖は声変わりしていたのかもしれない)、ただうわ言を繰り返しているようだった……。

「こうやって、眼が見えなくなって分かるの……愛は、単なる色の欲なんかじゃない、って事が…………」

 名前を与えられた子供たちは火炎瓶を持って刺突爆雷を持ってパンター戦車に突撃していった。言葉を構成する五十音の一文字一文字が破壊されていった。だから有栖はもう、言葉を無かった。

「……きっとジルベールが来てくれる……私と私の子供を守るために……。私と、私のを……」

 カカシ、ライオン、ブリキの三人がシャーマン戦車を動かして、砲を撃ち、再装填した。パンターも撃ってきてそれぞれの砲弾は避弾経始に弾かれた。どうやら【あさひ】と【はがき】の二人だけが生き残ったみたいで、有栖は、

「あは、はあはああ、あはあはは、あは、はあ、あは、はは」

とオニユリみたいに笑った。短音の【あ】と長音の【は】だけで出来たモールス信号みたいだ。

「……もう一度、産み直してあげたい…………あの狂った母親に連れ去られた……父親に犯されて産まれた…………アンリ、私の子供…………身勝手すぎるわよね? でも、それが、私の…………」

「?」

有栖は耳を疑った。お姉ちゃんは、僕のお母さんだったの? お母さんは、僕のお婆ちゃんだったの? ジルベールは死んでしまったんだよ。お姉ちゃんが守りたかった子供って、僕の事? それともアポロを? だけど声が枯れてうまく言葉にできなかった。

「……産まれる……」

呼吸が荒くなってきた。戦車に帽子屋特製の、シアン化化合物と硫酸が弾頭となった通称『ちび弾』を装填する。有栖を含め乗員は皆ガスマスクを付ける。戦車の破壊・貫徹ではなく中の乗員そのものの殺傷を目的とする化学兵器だ。

 おぎやあ。おぎやあ。おぎやあ。

 赤ん坊がいている。有栖は、その首を、押さえつけた。

 ファイヤフライ戦車が砲を撃った。パンターも同時に撃った。中に破片がほうぼうに飛び散って跳弾して中の生き物をすべて殺傷せしめた。

 を?

 相討ちだった。

 有栖だけがガスマスク越しに息をしていた。

 アポロは?

 生まれるはずだったお姉ちゃんの赤ちゃんは?

 腕に抱いていたのは豚のぬいぐるみだった。

 赤ん坊なんて産まれていなかった。

 姉の想像妊娠だった。

 或いはジルベールに子供が出来たと言って自らを守らせるための。

 幻想だった。希望だった。未来だった。

 守れなかった。

 僕は守れなかった。

 ピッグだっけ? イチジクフィグだっけ?

 生き残ったのは僕だけだ。

 一帯はもう静かだった。

 ガスマスクの呼吸音だけが枯れた森に反響こだましていた。

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