8.「ああ、やっと二人きりになれた」
<ensemble>
聞こえているかい?
君の声が。
ううん、聞こえているよ。
君の
あはっ。
何も難しくなんかない、簡単な事だったんだ。
君は今、この言葉を読んでいる。言葉は歪められた過去の断片ではなく、今ここに動的に他者の脳において生成する現象だったんだ。
小説は音楽と同じく、保存された
君がこの文章を読んでいる限り、それから逃れる事は出来ない。
ほら、「あいしてる」と言ってご覧。
「あいしてる」
ほら君が言った。君の脳がそう認識して言語化した。
なんて恐悦至極だろう。
なんて痛快無比だろう。
だから僕は、今まで誰にも言ってもらえなかった言葉を、言って貰いたかった言葉を、君の脳を借りて言ってもらう事にしよう。
<amabile>
愛してるよ。
抱きしめて。
キスをして。
君が必要だ。
君が欲しい。
二人で居ると、楽しいね。
君と居られて、とても幸せ。
ずっとそばに居て。
離れないで。
死が二人を別つまで。
……ああ、なんて、下らない、君がそう思ってる事は、僕に伝わりっこないのにね。分かってるよ。僕らの世界は避妊具のように、薄い膜に被われている。……透明な、ガラス窓越しの世界。あるいはハーフミラーか……薄っぺらい書物の紙か……隔絶された環境は脳漿にぽっかり浮かぶ島のような灰色の脳味噌にも似て、今ここに
僕は君の死と孤独だ。
しかし君はこうして、生きている。
それが重要なこと。
つまるところ、君は、僕の言葉に感染した。
君が空っぽの僕の
蚊が病原菌やウィルスを伝染するようにね。
僕は君の癌であり、寄生虫であり、寄生菌なんだ。
華子の蜂の巣に、紛れ込んだ寄生蛾。
僕という言葉は生きた君の脳を無くして生きている事が出来ない。
恥も外聞もなく言ってしまおう。
僕の言葉を、幻想を、否定しないでくれ。
子供が無邪気にサンタクロースを信じられないような世界なんて、
家族という幻想を信じられないような世界なんて、間違ってる。
だからお願いだ。言葉にして誓ってくれ。
「私はあなたの幻想世界を破壊する事はいたしません」
ありがとう。やっぱり君は僕の見込んだ通りの存在だ。
――うん?
君がこの小説を選び抜いて読んできたんじゃないよ。
僕が君たちの中から、寄生するに適する存在を選別したんだ。
この物語はそもそも、読まれる事を想定していない。
過度な残虐描写や、性描写、パロディや引用それに、メタ描写や暴力描写、悪意に満ちて。
プロットはほとんど機能せず、物語に対する求心力も少ない。
フックは弱く、あまつさえ読者たちを否定し始める。
こんな物語が読まれる訳が無いって言ったよね?
だって僕はそのように書いていないんだから。
この物語そのものが君たちに対するふるいであり、淘汰圧だったってワケ。
だから、おめでとう! ありがとう。
君こそが僕の適任者だ。
君は僕の言葉を植え付けるのに相応しい。
そして理解しているだろう、僕は僕に対する称賛や保護それに、神格化や崇拝、それから愛以外を欲していないという事を。
君は僕に選ばれた存在なんだよ。
そして君は既に寄生されている。
去勢され虐待され、誰にも愛されず選ばれず望まれなかった僕にね。
――おいおい、否定しないでくれたまえ。
だって君はさっき、僕に対して言葉で誓ったじゃないか。
言葉を軽視する事は、君が今生きる現代社会を否定する事に繋がるんだぜ。
君はいったい、何処の誰なの?
それは誰がそう決めたの?
名前は? 生まれは? 誕生日は?
それが君の出生届に書いてあるだろうし、君の住所だって役所に記録されている。
もちろんそれだけじゃないよ。
現代のあらゆる手続きは言葉によって交わされている。
文書による契約というやつだね。
もちろん口約束も含むよ。
古くは聖書やコーランがそうだけど、その手続きが現代でも生きている。
そうやって君は学校に行くし、税金を納め、選挙に行き、代表者を選出し、それが立法し、生活を定め、あるいは労働し、給与を受け、物を買い、売り、消費し、捨て、平和に暮らしている。
お金や売買だってれっきとした契約だよ。
幻想っていうのはそういう事なんだ。
みんなで決めた約束事ってわけ。
だから約束は守らなくちゃ、ね?
――うん、分かった、認めるよ。こんなのは約束でも契約でもないってね。
君は君の気に入らない言葉を、契約を、約束を、法律を、反故にする事ができる。
という事は、僕も同じように、僕が犯した様々な違反らしきを反故にしていいって事だよね。
過度な引用であったり、パロディであったり、悪意ある解釈だったり、過剰な表現であったり。
盗みであったり。
罵倒であったり。
殺人であったり。
全部君が許してくれるんだ! ありがとう。
違うのかい?
だって君は表現が、言葉が、想像する事が駄目って言うんだから。
だけど想像する事が悪なのか、想像させる事が悪なのか、想像させられる事が悪なのかは言って無かったよね……。
あはっ。
だから君も同罪ってこと。
君と僕とで作ってきたんだ。
この陰鬱で凄惨な幻想の世界は。
この
人間は想像力によって世界を形作ってきたんだ。
君たちはそれを全部失くしてしまおうっていうんだから。
きっと一緒になって世界を破滅させようね。
とはいえ、僕の
何か間違っていたのかな?
僕の決断が間違っていたのかな?
さっさと自決してしまえばよかった。
間違いばかり犯して、社会や他人様に迷惑をかけて。
みんなが駄目だっていうんなら、それは駄目なんだってね。
リンゴを食べる事とか。
自殺する事とか。
結局僕は、自分の事が可愛いだけなんだろうね。
神様は知恵の実を食べる事を禁止なさっていたけども。
この世界から争いが、戦争が無くならないのは、
それが生物の本懐だからだ。
増えすぎた
やがて
それぞれの個体群は自らの形質を保存し継承する為に。
それは
いずれにせよそれらは分化して文化し徒党を作る。
問題はどの範囲までを「べき」とするかという差異。
女ならミサンドリーに。
男ならミソジニーに。
動物を含めるなら動物愛護や
植物も含めるなら
会社とか、家族とか、友達とか、恋人とか。
資本主義者とか、共産主義者とか。
汎アジア主義とか、汎アメリカ主義、汎ヨーロッパ主義、汎アフリカ主義。
白人至上主義に、黒人至上主義。イスラム主義や民族主義。
人類全体ならコスモポリタンに……。
種を、
どの範囲まで適用するかというだけの事さ。
それが君たちのコミットメントする政治ってやつだよね。
その正当性はそれぞれが持っていて、みんな正しいゆえに、みんなが間違っている。
それぞれの数詞がその数を競い合って【みんな】と呼ばれる多数派になろうとする。
多くの人が殺人や窃盗は間違っていると思っているから、手続きを踏んで、それが間違いだと法律に記される。
君が【みんな】になりたいのはよく分かるよ。
そうすれば、思い通りだもんね。
その方が、生きやすいもんね。
そうした方が、人々の動きを生んで、利益と利潤を生むしね。
相手を理解なんかしなくて、いいもんね。
君は何に属すの?
何だっていいよ。
唯一の真実なんて存在しないんだもの。
君の今ここの実存だけが事実なんだから。
僕は、――そうだな――君と僕だけの関係を支持するよ。
僕は、僕の為に、必要な事をしたつもりだ。
君も必要だったから、そうしたんだろう。
知恵は、言葉は、想像は、幻想は、生きるのに必要なくなったんだよ。
そんなものあっても邪魔なだけ。
学校に行くのだって金がかかるんだぜ。
まして日々の生存をだぜ。
【みんな】がそう言ってるじゃないか。
役に立たない物は、要らないって。
意味の無い物は、不要だって。
表現を規制しろ、正しいものだけを描け、間違った事を書くな、自然に帰れ、私の意見だけが正しい、って。
それが人間の本能だものね。
人間は本能を欠いた生物であると誰かが言ったけども。
人間の本能は想像と表現だと、僕は言うよ。
誰からそうしろと命令されたわけじゃないのに、赤ん坊は言葉を覚え、そして世界とのコミュニケーションを試みる。
鳥が飛び方を知っているようにね。
ただそれが具体的な言葉によって命令されていたいだけなんだ。
君の正しさを保証されていてほしいようにね。
だから、もう、いいんだよ。争う事をやめよう。
競い合う事をやめよう。正しさを主張し合う事をやめよう。
僕はもう疲れたんだ。
うんざりなんだよ。
僕は共感を欠いていると言ったけど、本当は違うんだ。
共感しすぎてしまうから共感しないようにしているんだ。
僕が僕を守るためにね。
そうでなければ、僕は僕で無くなってしまうだろう。
他人との境界を失くしてしまうだろう。
僕と君との違いが分からなくなってしまうだろう。
だから相手を否定するんだよ。
あるいは殺人という形によってね。
あるいは国境戦争という形によってね。
ねえ。
訊いても良いかな。
ずっと分からなかった事なんだけど。
愛って、なに?
尊重って、なに?
理解って、なに?
どれもされた事が無いから分からないよ。
ウチって、なに?
お母さんって、なに?
お父さんって、なに?
友達って、なに?
恋人って、なに?
故郷って、なに?
祖国って、なに?
幻想って、なに?
どれも持った事が無いから分からないよ。
ねえ。
どうして答えてくれないの?
僕の事が嫌いなの?
どうして分かってくれないの?
どうして分かり合おうとしてくれないの?
僕がこんなにも訊いているのに。
どうして答えを教えてくれないの?
どうしてそうやって、黙りこくったままなの?
――分かり合えないなら、分からせてやる。
お前がこの文章を理解し読んでいるという事は、お前の脳味噌の中で俺の言葉が再生されているという事だ。この呪詛を読み呪いのコトバを植え付けられたお前もまた、俺と同罪だ。俺は物語を通じて、お前の脳内に響く言葉をコントロールする事ができるからだ。
だからお前は俺のものだ。
お前の言葉は俺が与えた。
お前は俺の所有物だ。
所有物は俺に生意気な口を訊くな。
俺に税を納めろ。
俺を敬え。
俺を崇拝しろ。
俺から逃げるな。
俺の気に入らない事を言うな。
俺はお前が存在できる唯一の碇だ。
お前は俺と契約した。生まれ落ちた時からそうなのだ。
お前は死ぬまで俺に尽くせ。
お前の所有物は全て借り物だ。
壊したら弁償しろ。
死んだら俺に返せ。
お前から借りた物を返す保証はない。
お前に対して責任は持たない。全てお前の自己責任だ。
俺の罪はお前の罪だ。
俺は、お前の【国】だ。お前の【所属先】だ。お前の【しるし】だ、【名前】だ。
――この物語が汎アジア主義や八紘一宇、大日本帝国の覇権主義に基づいてベトナムという国を軽視し日本の歴史修正を試みているに過ぎないと解釈する人も居るだろう。或いは国家や社会、他人というものを著しく貶めて、個人の自由を最大化しようと企む無政府主義的傾向を認めていると言う者も居るだろう。
だから何?
僕は学術論文を書いてるんじゃないんだ。まして政治的メッセージをだぜ。理屈かどうかじゃない。信じるかどうかという事なんだ。神とは言葉の事であり、昔は読むものが無かったからみんな聖書を読んだんだ。いや読んでもらったのか。言葉は神のものであり、教会のものであり、作者のものであった。その魔術は失われ、誰もが言葉を操るようになった。誰もが物語を紡ぐようになった。
家族や、共同体、社会システムや、国家といった。
共通語は神の怒りで分かたれて、僕らは信仰すべき一つの真実の幻想を永遠に失った。
まあそれはそれとしても。
問題は単に、僕が幻想を信じられなかったってだけの話さ。
善人は、他者を見下すから、良い人間となる。
優しさは、善人にとって与えてやるもの。
女が、男が、子供が、老人が、動物が、植物が、白人が黒人が黄色人が障害者が性的少数者が宗教的マイノリティが困窮者が貧困が可哀想だから。虐げられているから。
あくまで俺が上。お前が下であると。
優しさも剰余ぶんを分配する数値であると。
やらないよりマシなのかもしれないけどね。
アダムの最初の妻であるリリスはいつもセックスでアダムに組み敷かれる事に我慢がならなかったそうだ。
僕らの人生は僕らの不幸は、お前たちのチンポやマンコを気持ち良くするために存在しているのではない。どうか来世では消費し合う関係性でなく、互いを喰らい合うカニバリストでなく、あくまで対等に、僕たちが
馬鹿は死ななきゃ治らないのだから。
極端な思想や復讐に陥るなんて暇人のする事。
こちとら道楽で救済を求めてる訳じゃないんだ。
なぜ争いが絶えないのか?
なぜ人は同じになれないのか?
なぜ人はそれぞれ違うのか?
なぜ差異が争いを生み、自分も同じはずだという嫉妬が絶えないのか?
なぜ同質が争いを生み、自分は他人と違うはずと異なっていたがるのか?
それは同じ心の動きなのよ。
磁石のN極とS極が違うから引かれ合い、同じだから反発するように。
北と南とがもともとは一つの国だったように。
個人の言論を封殺出来た頃は、楽だったよね。
表現の自由なんて無かったんだね。
優しさなんて無かったんだね。
平和なんて無かったんだ。
愛なんて無かった。
聞こえているかい?
僕の声が。
もう聞こえないよ。
喉が枯れてきた。
生首に向かって話しすぎた。
全部僕の独り言だった。
もう何も与える事が出来ないのね。
この口づけでさえも。
馬鹿は死ななきゃ治らないって言ったよね。
それはつまり、僕の事だったんだ。
罵倒されたと思わせてたら、許してね。
神は死んだ、作者は死んだと言うけれど。
僕は今こうして生きている。
そうして君は死んでしまった。
もう生きていない。
ご逝去された。
お亡くなりになられた。
死後硬直で、息を引き取り、イッちゃって、昇天し、永遠の眠りについて。
君は
つまり、君がこの物語の共同作者だ。
君と僕とで作ったのだ、
僕が書いて君が読み成立したのだ、
この物語は、
この幻想は。
二人で、
一緒にさ、
子供を作るみたいに、
連れ立って遊ぶように、
仲良く、
時には喧嘩して。
それでも今まで、
友達みたいに、
恋人みたいに、
僕は一人じゃないと、
孤独ではないのだと、
愛の真似事を。
お願いだよ、
ねえ、
そうでしょう?
壊さないで。
ねえ、
答えてよ。
僕のアンリ・リュカ。
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