* * * * * *

 お父さんは生まれてすぐに私を母親から引き離したんだそうだ。だから、私は母親の記憶を持っていないし、近親相姦は当たり前の事だと思っていた。血が濃くなる。飲んだくれの父親の事は大嫌いだったが服従のほかに生き延びる術は無かった。男が上、女が下。糞喰らえと思う。漂白剤ホワイトニングを被ってみても汚れは落ちなかった。白人のようになれれば、文明国に行けば、私のような目に遭う子供の数も少ないはずなんでしょう? 豊かなのだから。恵まれているのだから。私は度々、自分の生まれと記憶にない母親の事を呪った。

(いい子になって 一生懸命働いて 幸せになろう)

 十二か、十三の頃だったと思う。父は私を売り飛ばして、その日の酒を少しばかり買った。中国系のオニユリと一緒になって扉をたたき、それは『朝日楼ライジング・サン』という娼館で取り仕切っていたのはローズと呼ばれる当時三十半ばになる女だった。彼女は私が母親にそっくりだと言った。忌々しかった。ローズは母さんの事をよく知っていたし、親友だったとも、ひょっとしたら遠い親戚だったのかもしれないと言っていた。殺してやりたかった。でも、もう彼女は死んでしまったと。梅毒で? ローズは首を横に振った。散弾銃で、頭を吹き飛ばされて。彼女が狂った原因は確かに梅毒が脳に回ったからかもしれない。だけど、あんたの母親を殺したのは……、

「その話はやめにして」

と、鴉色の長い黒髪をした女が言った。まるで白人のようだった。そればかりでなく、彼女は泥に咲く蓮のように綺麗だった。私はその時、人生で初めて最も気高く美しいものを見た。名前をアヤメといった。私は彼女に気に入られようと必死だった。可愛い子ぶってみたり、彼女の好みそうな化粧をしてみたり、何もかも洗いざらい打ち明けてみたり。生まれはどこ? どうやって育ったの? なぜ娼館に? 男に抱かれるのが、好きなの? それとも嫌いなの? セックスに中毒している? 同性にも恋ってすると思う? だけど彼女は心を開いてはくれなかった。他の誰も彼女については口を閉ざしたままだった。まるで彼女に触れる事自体が一種のタブーであるようだった。

 誰も話そうとしなかった。彼女の妹を除いては。弟と呼んだ方が良いのかもしれない。どちらでも同じ事だ。有栖アリスは私の事をあからさまに嫌悪していたが私としては仲が良かったと思う。私が手段として無垢さを武器にしている事を嫌いだったようだ。けど、私はそうして生き延びてきたのだから、その自然の生まれを変える事は出来なくない? たぶん同族嫌悪ってやつなんだろうと思った。

 有栖は姉に似て幼いながらも整った顔立ちをしていた。きっと年齢を重ねたらお姉さんのようになるのだろうなと私は思った。有栖は、しばしば、自分の事を醜いと不細工だと歪んだ自己認識をしていた。そう植え付けられたのね。私は、思うんだけれども、外見上の美しさが、ただ利用され消費されるだけのものならば、それは呪いと同じなんだと思う。華道って、あるけども、私たちは切り取られて生かされているだけに思うような時が、ときどきある。

(いい子になって……、働いて……、幸せに…………)

 でも真に美しいものは競い合ったりしない。上下や順番を作ったりしない。それはただ整っているだけ。結果として競争であったとしても、ただ一心に磨き続ける事が、生存の為に手段を尽くす事が、美しいのだと私は思う。

 さてタイプライターが銃声のように文字列を打ち出します。


Jedině tak mohly skončit.

(結局は こうなってしまう)


 うう、うう、ううう。と呻きながらデイジーは破片の刺さった傷口を押さえ脚を引き摺るようによろよろと歩いていた。近くに少年兵たちの蚕小屋があるはずだ。あるはずなのに。見つけられない。失血に意識は朦朧としてきてジャングルは鬱蒼とし涙も流れてきた。

「いやだ……死にたくないよう。まだやりたい事がたくさん…………神様、どこに居るの…………? 黙ってないで助けてよ…………はやく私を助けて…………」


Bylo by vůbec možné napravit to, co bylo zničeno?

(壊れてしまったものは 元に戻せる?)


 正しかったのかな? 間違っていたのかな? 意識の中に一輪の花が立ち現われて、デイジーはその花弁はなびらを一枚一枚、呟きながら千切っていった。

「……彼は私を好きil m'aime少しun peuたくさんbeaucoup情熱的にpassionnément狂ったようにà la folie全然好きじゃないpas du tout…………スキ、キライ、スキ、キライ、スキ、キライ、スキ、キライ…………」

 最後の一片ひとひらを千切り終えると、絶望した。神様は私の事が嫌いなんだ。神様に愛されなかったんだ。そう確信した。今までの人生全部がフラッシュバックして。瞳はもう何処も見ていなかった。

「助けて……助けて……助けて…………、たすけて……」

なんて自分は醜いんだろう。一人じゃ生きていく事が出来ないから、他人ばかりを頼っている。どうして人間は一人では生きていけないのだろう。徒党を組まなくてはならないのだろう。政治に参加しなくてはならないのだろう。なんて、不完全で、どうしようもなくて、哀れな生き物……。ひざまずいて、倒れると、天を仰いだ。

「…………お腹が、すいた…………」


I kdyby se jim taková možnost dala, vypadalo by to v nejlepším případě takhle.

(やり直す機会が与えられたとしても きっとこんな具合でしょう)


 そう働いて。一生懸命になって。いい子になって。嫌な客にも笑顔で応対して。処女いたいけをして。だってそうするとみんな優しくしてくれるから。いい子になって。そうなんでしょ父さん。私は、父さん、私は幸せじゃなくてごめんなさい。幸せになれなくてごめんなさい。きっと努力が足りなかったんだよね。もっと頑張らなくちゃいけなかったんだよね。考える事をやめなきゃいけなかったんだよね。疑問を持っちゃいけなかったんだよね。もっと皆のようにしなくちゃいけなかったんだよね。もっと普通に、普通な、普通の、にんげん、みたいにさ…………。

 嘘ばかりついてごめんなさい。八つ当たりで殴ったり蹴ったりしてごめんなさい。盗んだりしてごめんなさい。食べ物を粗末にしてごめんなさい。サラダを踏みつけてごめんなさい。言い訳ばかりしてごめんなさい。愛されなくてごめんなさい。愛せなくてごめんなさい。自我を持ってごめんなさい。奴隷じゃなくてごめんなさい。デイジーは南部式拳銃をこめかみに当てて、残った最期の握力で銃把を握り込み重い重い引金を絞った。

 撃針は虚空を叩いた。装填されていなかった。

「なんでよ…………?」

悔しい。怒りが沸いてきた。楽な逃げ道も許されないっていうの? 苦しんで死ぬのが美しいと? いばらの道は、磔刑は、背負う十字架は、鞭打ちは、何にも代えがたいものだと?


Tento román je věnován těm, kteří se rozhořčují pouze nad pošlapaným salátem.

(踏みつけられたサラダだけを可哀想としか思わない人に捧げる)


 糞喰らえ。みんなみんな糞喰らえ。あたしの人生はあんたらのチンポやマンコを気持ちよくさせる為に存在しているのではない。だけど拳銃を取り落とした。それを拾う人間の影があった。あるいは悪魔616だったかもしれない。それは意志があるみたいに口を聞いた。

「合言葉を教えろ」

遊底を後退させて、離した。遊底は復座バネによって前進して弾倉から弾薬が装填される。銃口は眼前に向けられている。あなたが私を解放してくれるの?

「【境界線ディマケーション】……そう、合言葉は、【境界線ディマケーション】…………」

ああ、お姉さんに似た顔立ちね。坊主頭ショートカットだから輪郭がよりハッキリ分かるわ。デイジーは目を閉じて力を振り絞り上体を起こして唇を重ねた。

「……ふふ……。あんたって、最後の最後まで…………!」

だから安心できたのかもしれない、とデイジーは思った。

「……同じ道化のあんたなら分かるでしょ? 結局私たちは、きっと誰かに、本当の気持ちを伝えたかっただけなんだ、って……」

はやくして。お願い。とデイジーが言った。引金が絞られるのを待った。有栖は拳銃を捨てた。馬乗りになってデイジーの白くて細い首を、絞めた。

「うるせえ、うるさい、黙れ、黙れ…………死ね、殺してやる、死ね、死ね、さっさと死ね…………」

脚はじたばたしてそれからやがて動かなくなった。息だけが荒かった。落ち着くと、有栖は、デイジーの髪の毛を一本いっぽん抜きながら、ぶつぶつと呟いた。

「……スキ、キライ、スキ、キライ、スキ、キライ、……スキ、キライ、スキ、キライ、スキ、キライ……」

この髪をな、この髪を抜いて、を作ろうと思ったのぢゃ。


* * * * * *


 街も閑散としていた。あちこちで煙があがっている。人間の姿は見えなかった。華子は自動二輪オートバイから降りた。避難壕シェルターとしての物語。心がささくれ立って剥がれるように痛む。唐突に同級生が朝のシャワーで心臓麻痺を起こして死んだ事や、トラックに撥ねられて死んだ事を思い出した。彼らは異世界に転生したんだろうか。向こうで幸福にやっているのだろうか。なんて。

 奇形児の皆さん。怯える事はありませんよ。我々は北ベトナム軍です。あなたがたがのは、ひとえに米軍の枯葉剤の影響です。枯葉剤に含まれるTCDDの催奇性は科学によって証明されており。我々はあなたのです。アメリカこそがあなたがたのなのです。武器を捨て降伏しなさい、いえ降伏は敵にするものだ、ゆえに我々は、ベトナム人は。共に戦いましょう。とプロパガンダが鳴っている。奇形児フリークスたちがおずおずと家から出てくる。実際彼らは手厚く保護されるのだった。十年にわたって散布された枯葉剤は、そしてこの戦争は何をもたらしたのか。遺伝子への影響は米国内の大学からもベトナムからも報告が上がっていた。誰も望まない戦争が帰還兵を傷付け、誹りを受け、嬰児殺しと唾を吐かれる。誰が悪かったのか、何が悪かったのか。砲撃と爆撃で壊れた扉から精神病院のが解き放たれ、患者たちが湧き出てくる。しかるのち銃弾に倒れる。これじゃ『エル・トポ』と『まぼろしの市街戦』があべこべだ。南軍と北軍が遠くで銃撃戦を展開していて、南北戦争、積まれる肉体、瓦礫、街は、死んだようになった。

 巨人に踏み付けられた足跡みたいだ。野良犬が吠えている。子供が行き場を失くして彷徨っているし、あちこちで呻き声もする。戦争は、争いは、競争原理は、誰が何のために始めたんだっけ? この一場面だけを切り出してみれば戦争はいけない事だと皆言うだろうけど実態はもっと複雑だ。平等思想と競争原理が対峙して沢山の死者を生むのは何も戦争に限った話ではないし。人類に通底する歴史そのものだ。踏み付けられて咲く花もあればそのまま枯れてしまう花も存在する。淘汰圧。今もでそれと知らず行われている。ただそれだけの話。誰にも読まれなかった小説と、同じように。

 華子は娼館の扉をくぐった。カウンターテーブルには女が一人座っていて、酒をあおり煙草を吹かしている。乾いた涙の跡が化粧Foundationを崩している。

「娼婦たちはどこだ?」

「女を買いたいなら、余所に行きな。もうここには誰も、何も、残っちゃいないよ……」

ローズは煙管を叩くと灰を落とした。華子を一瞥すると、あんたかい、といった風に向き直った。

「みんなバラバラさ。みんなどこかに行ってしまった。あの子らは、もう子供の産めない私にとって、本当に我が子のようなものだったのに……。曲がりなりにも一所懸命に育てて、手をかけてやって、金にも腐心して、大きくしてやったのにね……あたしの生きてきた人生って、何だったの? どうしてあたしたちは、『みんな仲良く』が出来なかったんだろうね? あんた、なんでか、分かる?」

「さあな。以前に会った事が?」

ローズはジタンに灯りを点けた。片手で小指の爪でマッチの頭を擦って。まるで導火線が湿気って不発だったので、もう一度それに点火するみたいだ。

「あんたは自分の生まれを知ってる? いいや誰も自分が生まれた時の事は分からない。赤ん坊っていうのは自分ってものを持っちゃいないんだからね。子供は親や周囲の人間から聞かされて初めて自分の生まれを知るものだ」

「…………」

「今朝は冷えるわね?」

世間話をしに立ち寄った訳ではない。華子は踵を返した。

「あんたの母親を知っているわ」

立ち止まった。それから拳銃を握った。

「だけど臆病なあんたはそれを耳にする覚悟がある?」

ローズは拳銃をしてそう言った。

 ああ。この時をずっと待っていた。あんたはこの娼館をずっと監視していたつもりかもしれない、だけどそちらから見ていたということは、こちらからも同じようにずっと見られていたという事。娼館の中からも誰かから覗かれていたようにね。

 娼館の子たちは言ってしまえば、あたしにとって、みな代替物だった。実の子供を育てる事が出来なかった代償として。人間は結局何かの憑り代として想像によって他者という空白を埋め合わせる。女の子が人形遊びをするように。男の子が戦争ごっこをするように。母親がお前は死んだ旦那の生まれ変わりだよと息子に言って聞かせるように、妻を失くした父親が娘を強姦するように。相手の近しい部分を自分の経験から読み込んで解釈するように。想像する事によって他者の痛みに接近しようと試みる事が可能であるしまた自分の痛みを癒そうと試みる事も可能でもある。それらは全て同一のユニゾンではないゆえに和声ハーモニーを成す。それがたとえ不協和音であっても。脳の肥大化した人間に与えられた機能の一つである。

「あたしの名前は日向ひむかい野薔薇ローズ。スミレとは親友だった……ひょっとすると、年が近かったので双子だったのか、あるいは親戚だったのかもしれない。いずれにしろあたしたちは同じ苗字を共有していた」

そんなのは単なる名前だ。だけど私たちは名付けられる事で自分を世界から区別する。あんたは、自分の名前を、名付けた時の事を覚えている? あたしとスミレは、同じ名前を分かち合う事で、孤独や淋しさを埋め合わせていた。称する名Tên chínhじゃない、あたしたちだけの秘密の繋がりとして……。

 だけどスミレは死んでしまった。殺されてしまった。自業自得といえばそうかもね。スミレが狂ったのは梅毒が脳に回ったかもしれないし、地獄に慣れるのでなく狂ってしまうのは本当に正気を失えなかったからとも、種違いの子を男に取り上げられてしまったからかもしれない。あたしは、同じ体験をしているから、よく分かる。

 半身が引き裂かれるようだった。産んだ我が子が連れ去られてしまうのは。育てた子供に親友が殺されてしまうのは。なぜ近しい血の者を殺してしまうんだろうね。同種を殺し合うように。共食いするように。戦争がそうであるように。経済がそうであるように。あたしには分かる。あたしたちは、さみしいから、あの世への道連れが欲しいだけなのだ。殺人は、から起きるのではない。あたしたちは、だからこそ、殺し合うのだ。

 嫉妬の原理。同族嫌悪の原理。同じ目的に向かう競争相手としての。好きに呼べばいいyou name itは同じ事。他とは違うと言う為に同族を殺す。特別にする為に。あたしたちは同じ物が別れてしまったから元に戻ろうとするし、同じは嫌だから分かれていようとする。どちらも同じ心の動きなのよ。磁石の極が分かれているようにね。あたしは他とは違うと皆が思っているし、皆はあたしとおんなじだと私は思っている。その差異を、認められないから、殺し合う。

 みんな違っていて当然なのよ。という言葉は、みんな同じだから狂っている。というのに等しい。個性主義と全体主義は双子のようなものだ。人は単色のモノクロームではない。まして平面ですらない。我々は色とりどりの肌色と白い骨と赤い肉と内臓とを持っていて三次元の立体である。その視覚情報は左右の視差から立体物と想像されて、人は、他人ひととの距離感を知る。

 あたしたちは永遠に分かり合えないと。それは分かり切っていた事よね。

 子供はあたしの所有物じゃない。独立した存在。自立した存在。それを認めてやらなければ。同時に保護されなければ。生まれる命は守られなければ。矛盾しているしどちらも正しい。自由選択の自己責任に基づいて。子供の意志を尊重しなければ。子供の生命を尊重しなくては。プロライフでありプロチョイスである。左と右、どちらが言ってる? どちらが言っても同じことだった。

 ああ、名付けられる前に棄てられてしまった私の子供。私の碇、楔。私という存在を現実に縛り付ける唯一の繋がり。

「アポロ。日向ひむかいアポロ。それがの、本当の名前だよ」

華子は拳銃をった。ローズは血を流して倒れた。そうなる事が分かっていたようだった。笑みすら浮かべていた。それから、握りしめた手榴弾が床に落ちて、転がって、安全ピンは抜かれていて、


 

 ものすごい勢いで火炎が上がった。酸素を消費した。硝子の破片が飛び散った。それは実際手榴弾だけとは思えないほどの規模だった。チョウ・ユンファもびっくりするくらいの。色々な物があちこちに飛散した。カメラに当たります。

 さてここで帽子屋さんにインタビューしてみましょう。

――娼館の爆破にはあなたが関わっていたという噂もありますが?

「証拠はないでしょう。街にどの程度アカのシンパが居たかも分からないし、それに春野華子はギャングどもの怨みも買っていた。自業自得だと思いますけどね」

――ローズの持っていた手榴弾の威力の爆発ではありませんよね?

「娼館の近くにあった、僕の工場こうばの火薬に引火したのかも。引火したか、爆破されたか、流れ弾が当たったのか。それは分かりませんし今となっては証明しようがないですけどね」

――春野華子は、死んでしまったと思いますか?

「どうなんでしょうね。僕は現場に居ませんでしたから」

――ローズは、スミレは、狂っていたのだと思いますか?

「僕に聞かれても困りますね。血が濃くなる、といったところじゃないですか」

――ローズとスミレは血縁関係だったと?

「そう考えると、辻褄の合う事もあります。辻褄の合わない事もあります。アヤメさんとデイジーが異父姉妹の関係だったり、スミレの発狂の原因であったりね。狂った血を持つ一族の悲劇と片付けてもいいですし。それは、読者の想像に任せると言ったところで……」

――あなたには日向ひむかいの血が入っていないと? 自分は呪われた家系ではないと?

「さあ、そんな事、言われても。他人ひとの家の話だし。家族とか家系って、結局は信仰の問題、幻想の強度の問題でしょ? 血に呪われてると思えば、呪われているわけだし、関係ないと思ってれば関係ない。結婚制度だってそうでしょ。他人が一緒になる契約なんだから。愛や家族って、そんなもんだと思いますけど」

――華子の本名が日向アポロ、すなわちこれから生まれるべきと同じ名前という事について、説明は?

「偶然なんじゃないですか。あるいはローズが狂っていたか。初稿では薄荷草ミントだったらしいですよ。春野という姓も、大陸系の、父方のものだったのかも。君の日向という姓は朝鮮系日本兵のものと説明がありましたよね。ローズとスミレの血縁関係が曖昧な以上、だいいち、この僕の台詞も君の想像の中で喋らせているってだけなんじゃないの? だったら君の妄想の強化に有利な事以外話せるわけ、ないじゃないか」

――ああ。そうだ。全部僕の妄想だった。

 街は巨人に踏みつぶされたみたいで死体が転がっていた。

 瓦礫、新聞、プロパガンダ、火花、黒煙。

 そんなものが風に舞っている。

 僕の想像はいつも死ばかりが満ちている。

 なぜ楽しい想像が出来ないのだろう。

 どうして愛と平和を語る事が出来ないのだろう。

 僕の人生はどこで間違えたのだろう。

 ……これが胎児の夢なんだ……。

 血に呪われている。呪われていると思う。

 心がささくれ立って剥がれるように痛む。

 それは羽化の前兆なのだ。

 蛹化の女は心を固く閉じ込める。

 白く亜麻色の清らかな翅を伸ばす。

 しっとりとして柔らかい。

 心臓が柔らかな剣山に包まれているようだ。

 僕の決断はどこで間違えたのだろう。

 サッカーボールが足元に転がってくる。

 ゴールに蹴り込むなら、今だ。

 全ては僕の自己責任と自由意志に於いて。

 愛する事が出来たんだろうか?

 愛される事が出来たんだろうか?

 それは切り離されたばかりの生首だった。

 有栖はひざまづいて、愛しげに抱きかかえると、

 その唇を重ねて、それから呟いた。

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