* * * * * *
「痛い痛い痛い痛い痛い!」
ちょきちょきちょきと裁断鋏の鳴る音。恐怖の表情と鋏の動きのクローズアップ。去勢された有栖にとって鋏はトラウマの一つだった。服は破かれはだけている。暴行の痕跡。それはむかし母親に殴られた傷が
処刑が先、判決は後。女王たる華子の裁判ではそうだった。有罪と決めてかかって、先んじて
「なんて事をしやがるんだ。無実の人間に」
「お前が無実だと?」
「状況証拠しかない。この
東京裁判にニュルンベルク裁判は事後法の遡及処罰のインチキさ。僕らは時代の状況に呼応して、ただ生き残ろうと努力しただけなのに。その戦後の時代の上に僕らの日々の生活は立脚してる。再び
「お前は、――(まだこの状況から生き残れると思っているのか)」
華子は言葉に詰まり、オズワルドが言葉の主導権を奪った。
「あんたがここに居た事を、あたしは知っているのよ!」
「オズワルド。お前はどうしてそれを知っている? 華子の命に背いて蚕場を放棄し街に遊びに来たからか? お前は
オズワルドは黙ってしまった。それは有栖の言い分云々よりも、「もしかしたら、友達になれたかもしれないのに」という感情の方が
全てが混ざってしまって、融け合わない。様々な不純物の混じった脆い金属が砕けて落ちる。人間が機械であるなら、まして一つの意志を持った群体であるならば、その組み合わせと
「君たちだって罪を犯している。僕はみんな知っているんだ。『みんながやらない事』をするのが
そして今まさに君が言葉をそうしているように。有栖にとって他者とは通じ合うものでなく、互いに消費し合うものでしかなかった。それで合っていると思っていた。人は愛し合う事もなくて、理解し合う事もない。ただ肉体の内部で蠢いている精神が、互いに融け合う事はないというのが普通だと思い込んでいた。人間はすべて自立していて、責任があり、上っ面の道化の
僕の今ここで感じている感情こそがホンモノだ。
君と僕は、対立・敵対し合う事でしか
僕らの敵とは、まるで目の前の鏡に映り込む
有栖は(本当に今更ながら)、共感を欠いていた。
「こいつはうちの隊のものだ」
華子が
「こいつの事も、おれは覚えている。甘いものばかり食べていてな。虫歯だらけだった。それにこっちのは、顔面がどんどん崩れていく病気で。骨繊維が異常増殖して顔が膨らんでいた奴もいた」
だけど僕の政治的主張なんて、本当はどうでもいいんだ。
「死体が何も語らないだと?
僕には政治的な意図もない。主張したい事もない。同意・共感されるとも思わない。ただ、世界には暴力が規制される事なく今も現実に存在しているんだって、知ってもらいたいだけ。そうであっても、僕は全ての人間を肯定したいんだ。何も考えてないような人も、考えすぎているような人も。何を知らない人も、よく知っている人も、犯罪者も、聖人も、普通の人も、みんな、ありのままに存在していて良いんだ。僕がわざわざ言うまでもなく。だから僕の事も、同じように存在していて良いのだと、肯定してほしい。だがそれは叶わないんだろうな。この
自己犠牲……。男が共感を欠くとされるのは、それが社会的に赦されていないからだ。あまつさえ女をも卑下して「女々しい」と罵る。僕の本質が歪んだ鏡ならば、それを正常とする世界のほうが既に歪んでいるんじゃないか。ここまで辛抱強く読んでくれたなら分かると思うけど、(政治的)極論は最早
ここに証人を召喚する! 帽子屋、参れ。
法廷では嘘偽りなく真実のみを語ると誓うかね?
ええ、誓いますよ、何に誓うかは分からないけど。
この件について、何か知っておるかね?
いいえ、まったく。 帽子屋が言いました。
まったく? 王様が訊ねました。
ええ、なんにも。
これはヒジョーに重要な証言ぢゃ! 王様が言いました。
陪審たちは一所懸命にノートを書き付けます。非常に……重要……非常……重要……非……重要…………非重要……非重要……。
「お前は、
越境こそが僕たちの抱える課題だろうが!
「僕がやった事は創作だ、芸術だ、人の営みそのものだ!」
「他人からその
僕はそう信仰している。僕たちは互いに互いを道化とし合う関係性なのだ。世界情勢はとんだ
「
あ、名前。初めて呼んでくれたね。
「こいつを追放しろ」
判決が下された。(そんなもの、全部紙の束じゃない!)トランプの兵隊が一斉になって飛びかかる。鋏の鳴る音、痛い痛い痛い痛い! 髪はやめろ! 髪はやめろ! 綺麗な黒髪は無惨にも切り刻まれて服は下着は乱暴され破かれる。有栖の去勢の痕が露わになって、トランプたちはそれを見るに、「こいつは女のフリをしていたのか」と察し、オカマ野郎! いかれた年増のチンポ吸い! 気狂い! ソドミー(Cのトライアド第二転回形)! などと罵声を浴びせる。
有栖は女王の一声によって追いかけてくるトランプたちから必死になって逃げた。どこをどうやって生き延びたのか、分からない。ただ
ああ僕は、華子のような
僕の一番やわらかいところを……。
僕の個人的な領域を
僕は、レイプされたんだ!
(僕、酷い事されたの)
僕は被害者だ!
あいつらが侵攻してこなければ、僕らはみんな、何も知らぬままに幸せなままに、生きていられたのに!
あいつらが居なければ、何もかも上手く行ったはずなのに!
(ああ、お前の顔を見ていたら、誰だってその頭を叩き割ってやりたくなるさ)
フランスが、日本が、アメリカが、北ベトナムが。
レイプした人間が悪いに決まってる。
僕は悪くない!
僕は彼らが、彼らの造り出した環境の結果だ!
誰も僕の事を大切に思わない。
誰も僕の事を省みない。
誰も僕の事を愛さない。
誰も僕の事を理解しない。
(お前は沢山の人間を殺してきただろう、有栖?)
チェシャ猫のアンリが道化の化粧を歪めて言った。
それが何だっていうんだ!
誰もかれも。独裁者も、政治家も、兵隊も、便衣兵も、民間人も、外人も、邦人も、法人も、親も、老人も、子供も、男も、女も。
どうして僕だけが殺人を犯してはならないと?
そんなの不公平じゃないか!
僕だって他人を侵襲したい。
僕だって
僕だって、人を愛してみたい。
(それじゃあ、まるで、あべこべだよ。禁止があるからその侵襲を贅沢できるのであって、元から禁忌や制限が無いのなら、それを犯す旨みもまた、無いものさ)
僕は公平さの話をしているんだ!
誰もが自分を殺して、自分に嘘を吐きながら生きている。
感情なんて存在しないほうがマシだった。
僕たちを、僕たちの感情を殺しているのは、僕たちの気持ちを抑圧しているのは、社会のほうじゃないか!
深く暗い森に音がよく
無い髪がはらりと落ちた。それはボロを纏って静かに震えている。
ふ。ふ。ふふ。肺から空気が漏れた。
震えているのは寒さに凍えているからではない。
やがてその嬌声の笑い声は森じゅうに響き渡った。
冷たい雨が降り出して、日向有栖あるいはアンリ・リュカは腹の底から灰色の空をつんざくように笑ってみた。空は晴れなかった。
ミミズが地中で溺れて死んでいく。
固くなった蛹から
一般名詞のアリスは大きくなったり小さくなったりして、大きすぎて扉を通れなかったり鍵を持っていくのを忘れたりする。
僕は無力だ。
僕は何者でもなかった。
こころが分解していく。
ことばが意味を成さなくなる。
感情なんて元々持っていないものだった。
ひばりでも、
そう、恋心なんて初めから無かったんだ。
キツネの葡萄。防衛機制。辛酸と
だけど言葉によって救済される事なんてない。
内的思考は、
この世には魔法なんて存在しない。
オズの魔法使いは手品の種をバラされる。
仮面が顔に貼り付いて、やがて取れなくなる。
いずれ仮面が本当の顔だったと錯覚して死ぬのだろう。
奴隷を救うための方便。価値の転換。良と悪。善と悪。
虐げられた者は善である。
ゆえに強者への暴力は肯定される。
支配者たる良い人間を強者と、奴隷たる悪い人間を弱者と言い換え、弱者を救済する為の宗教のルール。「おれたちの神を信仰していない強者は悪人であり、おれたちの神を信仰している我ら弱者は善人である。彼らは死後裁きにあうだろう」。強者に対する嫉みや怨みの感情の転換。価値の転換。自分たちを価値あるものとする事。
君たちがそうしてきたように、僕もそうしたつもりだ。
対立軸があって戦争は起き、それは相手に支配されるかもしれないという
エホバの神は暴力的だ。
アジアの神々は、地母神的だ。
その差は地域に拠る降水量と植生の貧富の差でもある。
神は
【彼】たるエホバの男性神は、砂漠の照り付ける太陽がそうであるように、暴力による
それに従っている間は、幸福だ。
神の支配が皆の中に息づいているうちは、幸福だ。
言葉でなく、恐怖によって支配されているのだから。
人智の及ばない非人間存在によって支配される事。彼を追い出す事は出来ても、殺す事は出来ない。
だって彼は、書物の中にしか存在しないのだから。
裁きは男性神のものだ。祟りは女性神のヒスだ。
この神に見捨てられた大地で。(枯葉剤は森を禿山に変えたのだ)
“主われを愛す
われ弱くとも
主は強ければ
畏れはあらじ”
だけど君たちは主の裁きを、死を畏れているじゃないか。
虎の威を借りる狐ども。
そうやって僕は、君と僕とが融け合わないよう、壁を作る。
僕と君とが違う存在であるように。
僕と君とが、永遠に何も共有できないように。
――なァーんだ。簡単な事だったんだ。
友だちが居ないから淋しい、だとか、どうやったら友だちが出来るんだろう、なんて事はなくて。
単に、僕は友だちを作るように造られてなかっただけの事なんだ。
神が僕をそのように創られたのだから。
主は僕を愛していない。
ただそれだけがはっきりと分かった。
ただそれだけがはっきりと分かった…………。
(et maintenant, elle a commencé à chanter)
“姉は血を吐く、
ひとり地獄に落ちゆくトミノ、地獄くらやみ花も無き。
叩けや叩きやれ叩かずとても、
暗い地獄へ
皮の
春が来て
籠にや鶯、車にや羊、可愛いトミノの眼にや涙。
啼けよ、
啼けば
地獄七山七谿めぐる、可愛いトミノのひとり旅。
地獄ござらばもて来てたもれ、針の
赤い留針だてにはささぬ、可愛いトミノのめじるしに。”
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