* * * * * *
それはあたしの金よ! と、くぐもった叫び声が階上から聞こえる。殴打音が続く。人間大の重さが倒れる振動。あるいは啜り泣いている。ローズは噛み煙草の黒い唾を床に吐いた。噛んでいる。
男性は他動詞で女性はコピュラ動詞です。男は「
愛とは
【僕らを排斥したのはお前たち社会のほうだ】という名前の一続きの銃声が響いてくる。ローズは煙草に火を点けた。その導火線はぷるぷると震えている。あの音にも慣れたし、飽きた。だが神経はいずれ消耗してくる。デイジーがふらふらと階上から降りてくる。
「もう、疲れたわ」
カウンターのテーブルにごとりと拳銃を投げ出す。ローズは見向きもしなかった。見たくなかったのかもしれない。
「なぜあたしたちが身体を売って稼いだ金を、あがりとして納めなきゃあならないの? あいつらは何もしてないのに」
「それがこの社会の成り立ちよ。金、
南ベトナム政権はあと数年で崩壊する。共産主義と資本主義の戦争。それは皆さんも、よくご存じでしょう。
「そんなのただの奴隷だわ」
「人を殺したの?」
「行って見てくれば」
「逃げるんでしょう?」
アノミーとは、崩壊する社会に生きる人間が信仰や思想、規範や指針を失って、五里霧中の暗中模索となる状態を言う。
「逃げられないのよ。どこまで行っても死神は追いかけてくる。だからあたしは此処に留まる事に決めた」
今度はそれに
(生きる)つもりなんて、もう無くなってしまったわ。
死ぬのを待つだけ? まるで緩やかな自殺ね。
だからあたしは煙草を吸っている。
用法・用量の無い自殺用内服薬。
もう既に、死ぬ勇気も無くなってしまったわ。
死ぬ事は勇気じゃない。ただ愚かなだけよ。
共産主義革命論。フィデルとゲバラ。二〇世紀で最も完璧な人間。
理想に縋っている間は人間でいられる。アヤメのようにね。
でもあたしはアヤメとは違う。あの向こう見ずの夢想家とは。
ちょっと待って。あたしたち、今どっちが話してる?
「どちらでも同じことだわ」
と、どちらかが言った。どちらが言っても同じ事だった。鏡が向こうの世界を映し出している。
「あんたは死ぬまで、ここで暮らすの。外の世界なんか、行けっこない。老いて牢獄の処女。蜜は吸われて、残るのは枯れて
ピシャリとその
「あんたなんか、だいきらい」
デイジーは拳銃を引っ掴むと
“ハンプティ・ダンプティ 塀の上
ハンプティ・ダンプティ 転げ落ち
王様の家来を集めても
誰も元には戻せない”
割れてその中身を晒しているのは内部で腐り変色した生卵だ。やがてローズは散弾銃を手に階段をしずかに昇ると半開きになった扉からゆっくりと室に入った。
そこに死体は無かった。ただし血痕だけが残っていた。
「…………?」
その血痕は引きずられた痕があり、行く先は姿見の前で途切れている。ローズは近付いて、鏡の世界に触れてみた……。
「…―――…。…―――…」
息づく音がする。指先から鼓動を感じる。自分のものではない。この鏡は、生きている。
鏡が割れた。散弾銃で撃ったからだ。破片は砕けて鏡の後ろの闇の奥に落ちて行った。その深さは計り知れなかった。
「マジックミラーだ」
誰かがここから覗いていたのだわ。今まで。ずっと。死体もここから運び出された? そして誰が、何のために? 確証は無い。あたしは
首筋に冷やりと。金属の感触。
「ウサギの穴に落ちてみる?」
彩芽の声? いいや子供の声質だ。だがそれにしては大人びている。鏡を割らなければ顔が分かったろうに。後悔と緊張は呼吸を荒くし汗がポタリとひとつ、深淵に落ちていった。
「まず銃を置いて。オーケイそれから、ゆっくりと立ち上がって。ナイフを下げるが、いいかな? 今は銃で狙っているから。あんたの首筋を、脳幹を。風通しがよくなるぜ。振り向くな、振り向くな。後ろには夢が無い」
ナイフの反射に一瞬だけ相手が映った。何かの被り物か、お面を付けていて、顔は見えなかった。ただ影だけが残った。ローズは細かく震えて声を絞り出した。
「何をすれば、いいの」
「ただゆっくりと、こちらを見ないように。後ろを向け」
ローズはナメクジが這うようにゆっくりと動いた。
「いいかな? あんたは何も見なかった。鏡の中に
いち。に。さん。意を決してローズは振り返った。
「あんたは、いったい、どこから――」
すると何事も無かったように鏡は閉じられていた。おそらくマジックミラーが夜に透けないよう、あらかじめ蝶番で取り付け準備しておいたものだろう。電動ドリルの音。この通用口を完全に封鎖するつもりだ。
協力者が居たのかもしれない。あるいは二人がかりで。子供なら尚更だろう。死体は何のために? デイジーを、あたしを庇った? この裏はどこに繋がっている? いつから覗かれていた? 今も覗かれている? ローズは鏡に触れその奥を覗き込むようにして、まるで昔の恋人を思い出すかのようにして、呟いた。
「あんたは、いったい、何処の誰なの……」
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