* * * * * *

 それはの金よ! と、くぐもった叫び声が階上から聞こえる。殴打音が続く。人間大の重さが倒れる振動。あるいは啜り泣いている。ローズは噛み煙草の黒い唾を床に吐いた。噛んでいる。箱型大時計グランドファーザークロックは刻を打っている。こめの蒸留酒を呑んで、酔っ払う。

 男性は他動詞で女性はコピュラ動詞です。男は「するfaire」のであり女は「なるdevenir」のです。もはや男女という区分が時代錯誤だ。手が震えているのは凍えるからではない。しなびた乳房が垂れている。

 愛とは自我エゴが弱い事。他者との境界が曖昧である事。を、として区別しない事。そもそも、という名詞は三人称である。多くの人間は面と向かった他者を目前に殺す事は出来ない。戦争における殺人はでありといったぼやけた括りのである。想像上の個人主義者や自己確立者が、形式的に人を愛する事は可能である。それらは例えば慈善事業という形で為される。人間には慈しみの心があるから、それは自分と相手とが似通ったものだと感情移入する、いわば錯覚である。孤独という病は、強い自我と自己を社会が要求するゆえのひずみである。独善的エゴイズムな愛が存在しえないように。存在してはいけないように。

【僕らを排斥したのはお前たち社会のほうだ】という名前の一続きの銃声が響いてくる。ローズは煙草に火を点けた。その導火線はぷるぷると震えている。あの音にも慣れたし、飽きた。だが神経はいずれ消耗してくる。デイジーがふらふらと階上から降りてくる。

「もう、疲れたわ」

カウンターのテーブルにと拳銃を投げ出す。ローズは見向きもしなかった。見たくなかったのかもしれない。

「なぜが身体を売って稼いだ金を、として納めなきゃあならないの? は何もしてないのに」

「それがこの社会の成り立ちよ。金、暴力ちから、銃、女、持っている者が偉く、弱者はそれに従うしかない」

南ベトナム政権はあと数年で崩壊する。共産主義と資本主義の戦争。それは皆さんも、ご存じでしょう。

「そんなのただの奴隷だわ」

「人を殺したの?」

「行って見てくれば」

「逃げるんでしょう?」

アノミーとは、崩壊する社会に生きる人間が信仰や思想、規範や指針を失って、五里霧中の暗中模索となる状態を言う。

のよ。どこまで行っても死神は追いかけてくる。だからあたしは此処に留まる事に決めた」

 今度はすがって生きる心算つもり

 (生きる)なんて、もう無くなってしまったわ。

 死ぬのを待つだけ? まるで緩やかな自殺ね。

 だからあたしは煙草を吸っている。

 用法・用量の無い自殺用内服薬。

 もう既に、死ぬ勇気も無くなってしまったわ。

 死ぬ事は勇気じゃない。ただ愚かなだけよ。

 共産主義革命論。フィデルとゲバラ。二〇世紀で最も完璧な人間。

 理想に縋っている間はでいられる。アヤメのようにね。

 でもあたしはアヤメとは違う。あの向こう見ずの夢想家とは。

 ちょっと待って。あたしたち、今が話してる?

「どちらでも同じことだわ」

と、どちらかが言った。どちらが言っても同じ事だった。鏡が向こうの世界を映し出している。

「あんたは死ぬまで、ここで暮らすの。外の世界なんか、行けっこない。老いて牢獄の処女。蜜は吸われて、残るのは枯れてしぼんだ乳房だけ。惨めよね? 惨めでしょう。ほら、。『あたしは惨めな女です』って。! !」

ピシャリとそのほほが打たれた。

「あんたなんか、だいきらい」

デイジーは拳銃を引っ掴むと狼狽うろたえたように娼館を立ち去った。もしかしたら泣いていたのかもしれない。ローズは再び黒い唾を床に吐いた。ガシャンと音がして瓶が割れた。


 “ハンプティ・ダンプティ 塀の上

 ハンプティ・ダンプティ 転げ落ち

 王様の家来を集めても

 誰も元には戻せない”


 割れてその中身を晒しているのは内部で腐り変色した生卵だ。やがてローズは散弾銃を手に階段をしずかに昇ると半開きになった扉からゆっくりと室に入った。

 そこに死体は無かった。ただし血痕だけが残っていた。

「…………?」

その血痕は引きずられた痕があり、行く先は姿見の前で途切れている。ローズは近付いて、鏡の世界に触れてみた……。

「…―――…。…―――…」

息づく音がする。指先から鼓動を感じる。自分のものではない。この鏡は、

 鏡が割れた。散弾銃で撃ったからだ。破片は砕けて鏡の後ろの闇の奥に落ちて行った。その深さは計り知れなかった。

「マジックミラーだ」

誰かがから覗いていたのだわ。。死体もここから運び出された? そして誰が、何のために? 確証は無い。あたしは身体・死体ボディを見ていない。だけどまさに今、ここで呼吸のあった温度と湿度を感じるわ。ハーフミラーの裏は地下に繋がっており、血はそこで途切れている。ローズはしゃごんで穴の底を覗いてみた。臭気が立ち込める……。わんわん鳴る蠅と蛆虫の蠢く気配がする。

 首筋に冷やりと。金属の感触。

「ウサギの穴に落ちてみる?」

彩芽の声? いいや子供の声質だ。だがそれにしては大人びている。鏡を割らなければ顔が分かったろうに。後悔と緊張は呼吸を荒くし汗がポタリとひとつ、深淵に落ちていった。

「まず銃を置いて。オーケイそれから、ゆっくりと立ち上がって。ナイフを下げるが、いいかな? 今は銃で狙っているから。あんたの首筋を、脳幹を。風通しがよくなるぜ。振り向くな、振り向くな。後ろには夢が無い」

ナイフの反射に一瞬だけ相手が映った。何かの被り物か、お面を付けていて、顔は見えなかった。ただ影だけが残った。ローズは細かく震えて声を絞り出した。

「何をすれば、いいの」

「ただゆっくりと、こちらを見ないように。後ろを向け」

ローズはナメクジが這うようにゆっくりと動いた。ヒールの音がコツ、コツと静かに響く。自分の呼吸の音だけが脳に響いている。

「いいかな? 。鏡の中に別の世界アルテルモンドなんて、無かった。希望も、あるいは理想郷ユートピアも。それがよく分かったら、三つ数えて後は自由すきにしろ」

いち。に。さん。意を決してローズは振り返った。

「あんたは、いったい、どこから――」

すると何事も無かったように鏡は閉じられていた。おそらくマジックミラーが夜に透けないよう、あらかじめ蝶番で取り付け準備しておいたものだろう。電動ドリルの音。このを完全に封鎖するつもりだ。

 協力者が居たのかもしれない。あるいは二人がかりで。子供なら尚更だろう。死体は何のために? デイジーを、を庇った? この裏はどこに繋がっている? いつから覗かれていた? ? ローズは鏡に触れその奥を覗き込むようにして、まるで昔の恋人を思い出すかのようにして、呟いた。

は、いったい、何処の誰なの……」

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