* * * * * *

 歪んだ鏡――それは水面だ。鎌や鍬を駆使してクジラを解体した。尾を断ち、厚い皮を剥ぎ、脂肪層をこそぎ落し、延髄を落とし……。内臓を傷付けると中からアニサキスの成虫がわっと溢れ出る。蠢いている。有栖は色褪せた作業衣代わりの肌着スリーマーを血だらけにして労働を終えると、勝手に持ち出してきた働き蜂どもに鯨肉を与える。食べきれない分は干したり燻製にして保存食ジャーキーにする。血の匂いに蚊や蠅どもが群がる。焚き木がはじけて燃えている。

「川に入った方が良いんじゃないか」

船の上からトゥイードルディーが言う。有栖は服を脱ぎ捨てると、下着に手をかけた。ディーはと気付いてトゥイードルダムの両目を覆った。

「なに?」

「見るなよ」

「なんでさ?」

「いいから」

河に足を踏み入れると歪んだ鏡像が波紋になって幾多にも分裂していく。自己像は……ボヤけていて見えない。血を洗い流し、両手で水を掬って顔に浴びせる。しばらくそのままでいる。目をつむり、呼吸だけを感じる。(あー、しんど!)深く息を吸い込んで、細い腕の自傷痕を眺める。うんざりすると、河から上がって、肌着の背中の血に汚れていないほうで水を拭き取り、下着を穿き、シンプルなスリップに着替えると、血だらけの肌着を火に放り込む。

「?」

ああ。別には燃やす必要は無かった。いつもの癖だ。人間にんげんを解体した後の……。習慣は無意識に出るものだ。

「骨は?」

ダムが言った。

「必要なら、砕いて内臓と一緒に肥料に」

「頭蓋骨は船に飾りたいな」

有栖は炎から燃え木を拾って煙草に火を点けた。ダムが「一本くれよ」と言って、ディーがそれを制止した。

 がさっ、と森の奥で音がする。有栖は華輪舞ガーランドライフルに手を伸ばし、ダムとディーは船に据えられた機関銃に付く。

 豹じゃないか?

 ダムが言った。

 血の匂いを?

 ディーが答えた。

 火は焚いているけど……

 万が一って事もある。

 じゃあ、肉を持った餓鬼どもは……

 今は、考えるなって。

 動いた!

 ライフルが火を吹いて、続けて機関銃がけたたましく鳴り響く。無我夢中になって撃ち続けて、弾帯を撃ち尽くした頃、「やったかな?」船が反動で動いていた。ダムとディーが船から降りて、死体を確認しに行く。有栖はM1ライフルのクリップ・ラッチを押すと七発残った挿弾子を取り出した。鏑矢の一発しか発砲しなかった。船室に目をやると、華子の狐面が置かれてあり、静かに盗んだ。

 鹿だ。(鹿でした)弾を無駄にしたぜ。なあ、こいつも捌いてくれよ。ダムが対人コミュニケーションにおける社会的取り決めに従って愛想よく(彼もまた野生的だったが最低限の動物的な社交性――犬や狼だってまた社会性があり互いに挨拶くらいはするのだ――を持ち合せていた)言った。

「自分でやれば」

有栖は船から降りて、森に消えた。ダムは眉を上げて呟いた。

「なんだ、あの女」

「髪の毛は綺麗だけどねぇ」

「見た目が良くても、中身がじゃな」

有栖には聞こえていたがどうでも良い事だった。自分にコミュニケーション能力を乏しいのは当たり前の話。有栖にとって人間関係とは支配するか支配されるか。そう母親に刷り込まれたからだ。そう造物主がしもべを創られたからだ。主われを愛す、われ弱くとも、主は強ければ、恐れはあらじ…………。


 さてここで時系列的には前後するがオズワルドが帽子屋の玩具箱に有栖を訪ねる前の話をしておこう。少年が一人――子供たちは与えられるまで名前を持たないから仮に『少年A』とでもしておこう。Aはオズワルドの事を気になっていた。そしてAは、他の少年たちが互いの性器を弄り合っている事に加わらなかった――要は、自分は何かしらだという気持ちがあったのだ。自分は彼らとは違う、僕は、僕はを好きだ。だから、男同士でなんて! しかしオズワルドの事を見たり想像すると他の男の子たちがそうしていたように、が大きくなりのもまた、事実であった。……しかしそれに触れる事は厳しく規制されていた。

(悪い子! 悪い子! 僕は悪い子!)

 夜。少年Aは眠れなくて寝ずの番に少年たちのいつもの相互自慰行為を遠目に見ていた。うんざりして、外に出た。雨上がりの空気は澄んでいて星が綺麗だった。湿度を含んでいた。

「あんたは、しないの」

話しかけたのはオズだった。Aはどきりとして硬直してしまった。それから細かに首を横に振った。オズは彼が弟であるかのように不器用に笑って、頭を撫ぜて言った。

「君みたいな、真面目なのがには必要よ。華子の部隊には。…………引金に指をかけないEase up on the trigger finger。夜廻り、しっかりよろしくね」

みなが寝静まってから少年Aは息を殺して彼女オズに近付き、それから息子を、こすった。他の男の子たちの真似をして、激しく摩擦した。真っ赤に脈打つ先端を、オズワルドの寝息がくすぐると、心臓が高鳴って(悪い子!)、それが少年Aの精通だった。オズの服は体液に汚れた。殺した息が、荒かった。目はアレクセイ・クラフチェンコのように見開かれていた。

「――見ぃ、ちゃっ、たっ♡」

最低だ、おれって。と思う間もなく、そう言う三日月があった。日向有栖は見ていたのだ。白い歯は反射してチェシャ猫のように笑っていた。少年Aは、声を出さなかった。出せなかった。オズは疲れからか起きる様子は無かった。しかし今、目覚める事は彼女の信用を失う事になるだろう。選択肢は無かった……。これがオナンの罪なのだ……。(全ての精子は神聖である)

「大丈夫、告げ口なんかしないよ。とにかく、マスかき止め、パンツ上げ! そしたら僕に付いて来るのが良いさ」

有栖はひっそりと呟いた。少年Aは言われた通りにした。森の奥に連れられて。水溜りが、月の光を反射していた。ざわわあざわあと草木が唸っていた。

 有栖は少年Aに向き直り、言った。

吹いてあげるBlow job

下着を脱がされ尺八されると少年Aは粘膜の接触の快楽にしばし身を任せるのだった。真ん丸のお月さまが見ていた。


 “彼女の門は死の門であり

 その入り口を陰府シェオルへと続かせる

 そこから誰も戻っては来ない

 彼女に憑かれた者は穴へと落ちゆく”

 (死海文書4Q184)


 割礼である! 激痛が走った。陰茎が噛み千切られていた。「噛むのが好きなのよ」ちくしょう! ここにもベトナム女が居やがった! しかし有栖は少年Aの自罰的マゾヒズム性を見抜いていた。針を取り出すと、睾丸に刺した。少年Aは泡を吹いて、耐えがたいキリストの受難が脳天を貫いた。血と精液を噴き出して、少年Aは気絶した。

 次に目が覚めると、猿轡と目隠しをされていた。焦げ臭い匂いが漂い、椅子に座らされ、有栖の声がして、

「天国に送ってあげる」

ごりごりごりと頭蓋骨が穿孔トレパネーションされる振動が伝わる。それから何かぴりぴりする液体が、頭蓋の内部に流し込まれる。悶え、そして去構の陰茎が勃起するのを感じる。永遠が経って、露出した脳髄に、被せられて、電気が流される。脳を焼かれた被験体は痙攣し、絶頂すら覚えたが、やがて極彩色の曼陀羅模様が広がっては消え超自然の神秘と融合。それは死の際にジメチルトリプタミンの見せる幻覚であった。


 “DMT LSD みんな愛してる

 今こそ神の時だ 神の真実の時だ

 まったく完全な無限宇宙のモノだ

 DMT LSD みんな愛してる

 ここに居てくれ みんな愛してる”


(ところで、青少年がいたずらに性欲を喚起されるような創作は焚書されて然るべきなのでしょう? この短い寓話は、性欲を悪としているので何の問題ありませんね)

(いずれ子供は生まれなくなった。誰も性に対して語る事をタブーとしたからだ。人間は性交の本能を失い、そして動物ですら無くなった)

(それは間違っている。性とは、すなわち二人の未開拓の地平線として存在しているのであり、表面上は禁止されていなければならないものなのだ。禁止を侵す事が、エロチシズムの根幹なのである。何もかも開け広げにしてしまっては、昂奮する道理もない……)

(オープンな性は、人々をフェティシズム偏向へと導いた。性は、既に当たり前に日常に存在しているのであり、付随する様々な要素によって己を昂ぶらせる必要が出てきた為だ。酒、媚薬、服飾、匂い、状況、関係性…………。『僕と君』のシンプルな図式は既に成立せず、人間は自らの付随物によって媚態する。金、化粧、年齢、下着、肉体、性格、顔、人間性…………。情動オルガンのダイヤルを【性的興奮セクシャル・アローザル】に回しなよ。はて、昔はどうやってオルガンなしに性的関係を持ったのだろうな?)

服はよく燃えた。証拠は食べてしまった。不在性だけが残った。

 不在性だけが残った。

 そしてオズワルドは地下室への扉をノックする。

 有栖は現実いまここに立ち返る。

 森の中は激しい銃撃に晒されている。

 有栖は「死にたくない!」と恐怖し、地面に伏せた。有栖は殺人狂だったかもしれないが戦闘狂death-wishではなかった。死は幸福である、有栖はそう思った。だから僕は不幸だっていいから……生にしがみつく……。生き続ける事は……原理的に不幸なのだ……。(父さん僕はふしあわせでごめんなさい)

「DM! 支援射撃を続けろ! グエン! 接近して手榴弾!」

クリストファー・ギルバート・フランツ二等軍曹の登場だ。分隊に指示を出して彼らはそれに従って行動する。機関銃が空薬莢を吐き出して、榴弾は爆発し、曳光弾が飛び交っている。ジルベールが有栖に近付く。

「その白いワンピースは目立ちすぎる」

ジルベールは上着を脱ぐと有栖に着せてやった。これでお前も晴れて米軍所属、二等軍曹殿だ! ジルベールは笑って、突撃してきたベトコンをコルト短機関銃コマンドーで薙ぎ払った。ああ太く逞しい二の腕。国防カーキ色のTシャツに……。やがて小競り合いは集結し、遠くでグエンとDMが会話するのが聞こえた…………。

(なぜ軍曹はあの子供に執着する?)

(なんだ、お前はが信用できないのか?)

(そうは言ってない。軍曹の事は信頼している。でもあの子は銃を持っていた!)

(なら、の判断を信じるんだな。それが民主主義ってもんさ)

アメリカ合衆国の判断を?)

(おいおい、俺はパンサー党じゃあないぜ。ゆる~い個人主義的無政府主義者ってだけさ。俺とを守ってくれるのは、結局のところだけさ)

DMは暴力たる銃を抱えそう言った。グエンは思う所があり黙ってしまった。子供は守らなくてはならない。しかし誰が敵か味方か、表面上は分からない。を信用できない。自分もまた汎アジア主義者ではないが……。欧州が共同体ECを作ったように……。アフリカ統一機構のように……。同じ黄色の顔をした我々の中に、誰が違う思想を以って動いているか。どこにが潜んでいるのか。他国の利害の為に動いているのか。そのように行動せざるを得ないのは各国左翼の国際的連帯が不十分だからだ。国家という単位があり……。国防軍はその為にする…………それは、米軍抑止力の庇護下において……(そうして、いずれ米軍は撤退するだろう)……傷付いた祖国マザーランドへの愛は……エディプス複合コンプレックスにも似て……。

「ああ、可愛い奴め、お前(達)は絶対にが守ってやるからな」

有栖はジルベールの腕に抱きとめられて頭を撫ぜられると華子の狐面の香を嗅ぎながら、あるいは絶頂オーガズムしてしまった。

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