* * * * * *
夜は黒。ベトコンがやってくるぞ。昼間は善良な農民で、夜間は米軍様に刃向かう敵となる。その
女とは虚構である。男が媚態を示せばそれもまた女である。それは愛と同様に、娼館の中で一種の儀礼として執り行われる行為の再生産である。化粧とは、ゆえに前提である。女という
日向有栖は鏡を見ない。それは母親によって規制されていた。帽子屋との出会いは、また顔の無い自分に出会うようなものであった。彼は帽子を目深に被り、その裂け目の隙間から世界を覗く。彼もまた顔を持たない亡霊である。だから、有栖が彼を他者や友人として認識することは、不可能に近かった。
それは
アメリカも南ベトナムをそう捉えていた。しかしそれは、誤りだった。
竹林に低い草が生い茂っている。虫の声、それは静寂を示す。日向有栖は旧いフランス製の
竹は理想的に空(虚空、あるいは闇)に向かって伸び続けている。まるで勃起する
有栖は、後ろから口を塞がれる。大きな手だ。有栖はその手の持ち主を知っていた。(ゆえに恐怖は無かった)
有栖は小声で叫んだ。<piano> <marcato>
「ジルベール!」
「ギルバートだっての。ちょいと手伝ってくれねぇかな、
「この林を抜けてぇんだ。罠を見つけるのは得意だったろ」
「いいけどさ、タダ働きは御免だよ」
「分かった、分かった。お前もしっかりと
クリストファー・ギルバート・フランツ二等軍曹は
「
ベトナム顔がそう言った。名前は
「信用なんてなくていいのさ、ニューエン。軍曹殿はサービスを金品で
黒人のDMは擲弾手である。愛称のDMとは本名のイニシャルとも、ソウドオフされたM79
指揮系統はあくまでジルベールことギルバート軍曹にあるが、それらは任務や状況に応じて各班から選出された人員や装備の組み合わせが適宜入れ替わり、最適化され、
ギルバートはポケットからハーシーズのチョコレートを取り出すと、「これは前金さ」と言って有栖に渡した。お菓子なんかで、騙されるもんか! 有栖はそう思ったが、空腹だったので受け取っておいた。お砂糖に、スパイス。その他すてきなもので出来ている。
「あれがワイヤー、ここにも罠、……あ、それは落とし穴だから、竹槍に糞が塗ってあるやつ」
「ステキだね。時価数万ドルの俺達が、殺されるのがクソペースト付きの
「安心しなよ。
「誰かが横流ししたやつか? ……腐った
「さあね。でも、たぶん、
「何を悟ったような事を。まだまだ子供だな」
「子供だもん。親が居なかろーが。赤毛のアンに小公女セーラ」
アメリカがあしながおじさん。どうせそろそろ居なくなるけどね。現実が物語と違うのは悲しいわ。と、マリアンヌ・ルノワールは言った。ジャン=ポール・ベルモンドも嫌いじゃないけどアラン・ドロンのほうが分かりやすくハンサムだな。米軍は大勢犠牲者を出しています、ベトコンも一一五人が戦死…………。
「まだか? ピエロ」
「ボクの名前は
水、水、水の音。水に咲く花、彼はスイレンかハスの華か……いずれがアヤメかカキツバタ? それはクロード・モネの【
「この川を越えたら国境だよ? 米軍はラオスやカンボジアには入らないんじゃないの」
「ロン・ノルからお許しが出たのさ。実はグローバル主義者でね?」
「あー、共産主義という思想は国境を越えて赤色テロリストを産出している……から、それに対抗する、的な?」
「クメール・ルージュも力を付けてきてる。
それを育てたのはアメリカだけどね。と誰も言わなかった。前の戦争で日本に落した三倍の数の空爆。北ベトナムに米を売っていたのに、農業が全滅して、食糧難に陥っちゃった。もちろん米軍はロン・ノルを支援したけど、農村部は今でも飢饉。そりゃ原始共産制の共産主義革命だ、ともなるよね。ホー・チ・ミンルートは隣国を経由して、以前は国境を越えられない米軍は手を出せない事になっていたけど、ベトナム戦争はやがてインドシナ全体を巻き込んだ戦争へと展開した。有栖は森の中を指差して言った。
「あれがトーチカ。ここから先は危なそうだから、ボクは行かない」
「助かったよ、姉ちゃんによろしくな」
ギルバートが去ろうとすると、有栖は彼を引き留め「ん」と言って、手を差し出した。
「何か忘れてない? 報酬だよ、ほ・う・しゅ・う。早く頂戴よ」
「とぼけたって無駄か。ほれ」
それは
「こんなに貰っていいの?」
有栖は少し不安になった。その中でも、蝶のナイフはずっと有栖が欲しがっていたものだった。ギルバートが娼館で姉とセックスしに来るたび、彼は有栖にそのナイフを見せびらかしていたものだった。
娼館の女たちはみな花の名前を持っていた。女主人は
「あんまり自分の価値を低く見積もるなよ。
「ありがと。またお店に来てね」
「ああ。
ギルバートは冗談めかしてフランス語で別れを告げた。それはどうしたってアメリカ英語の発音だったけれど。いずれ彼らは闇に溶けた。しばらく経って散発的に銃声がし出したけれど、有栖はギルバートが死ぬとは思わなかったので放っておいた。
有栖は、ギルバートのくれた蝶のナイフをかちゃかちゃ振り回してみた。クリスマスでもないのにね。それは非誕生日のプレゼント。ハンプティ・ダンプティはうやうやしく三六五ひく三六四の式を書いて、筆算してみた。
<solo> <staccato>
「確かに、勘定は合っているようだが……」
「毎日が特別な今日なんだよ。もしかして君は、一日いちにちを無為に過ごしてないかな?」
(何もかも下らない、キチガイの祭典)
「お砂糖にスパイス。それからステキなもの全部。女の子はそれで出来ている」
「私が言葉を使う時には、言葉は我に従い選んだ通りの意味になる」
(少なくとも、私が言っている事は、私が思っている事と同じだわ)
「“こちら
「“ドウゾ自己紹介させてください。
(一九八四年。初手。ポーンをE2からE4へ)
「五〇年代に核戦争は起きなかった。フィッツジェラルドの計算通りアポロは六〇年代のうちに月へ着陸したし、八〇年代に思想統制は完成する。二たす二は五」
(“君は生まれながら狂ったように 光を求め 王の住まう国を夢想して 君は夜の牢獄で自問する ぼくらは何故生きていて、そして何処へ行くの?”)
充分に手のひらで
照明弾が上がる。その光が織り成す
「ここで、何を、している?」
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