* * * * * *

 夜は黒。ベトコンがやってくるぞ。昼間は善良な農民で、夜間はに刃向かう敵となる。その二重性信用できなさを米兵は嫌った。ソンミ村がそうだった。黒いシャツの軍団。我々はあくまで幻想に享楽する資本主義者キャピタリストども。愛は想像上の産物であり、心臓を取り出したところでそれが愛やハートマークそのものを示す訳ではない。

 女とは虚構である。男が媚態を示せばそれもまた女である。それは愛と同様に、娼館の中で一種の儀礼として執り行われる行為の再生産である。化粧とは、ゆえに前提である。女という社会的取り決め・約束事ジェンダーは虚構の上にしか存在しないのだから。

 日向有栖は鏡を見ない。それは母親によって規制されていた。帽子屋との出会いは、また顔の無い自分に出会うようなものであった。彼は帽子を目深に被り、その裂け目のから世界を覗く。彼もまた顔を持たない亡霊である。だから、有栖が彼を他者や友人として認識することは、不可能に近かった。

 それは拡張エンハンスメントされた自己の延長である。人間は爪先から頭のてっぺん、そしてデジタルの先に至るまで、それを自己として認識している。有栖にとっての帽子屋は、脳が命令すれば当然のように動作する手先でしかなかった。

 アメリカも南ベトナムをそう捉えていた。しかしそれは、誤りだった。彼らベトコンは我々が寝静まる頃に黒へと染まり、あるじの首元を絞めようとする信用できない末端部分だったのだ。トカゲの尻尾切り。戦争のベトナム化は進んでいる。指先を切り落として本体は生き残るために。世界がコミュニズムに染まらないために。


 竹林に低い草が生い茂っている。虫の声、それは静寂を示す。日向有栖は旧いフランス製の回転式拳銃シャメロー・デルヴィンを潜ませて、無目的に歩いていた。――いいや。本当は知ってたのさ、こうしていたらまた彼に、華子に会えるんじゃないかって淡い幻想を抱いていた事を。そんな事は起こり得るはずもないのさ、だって、打算なんだから。それは無計画。なにかステキな奇跡が起こるんじゃないか、っていう、幼い少女にありがちな無根拠の夢想。夢物語。恋愛は幻想であるがゆえに周到に立案し、計画し、そして遂行されなくては成就しない。恋に恋する時期の初恋が破れてしまうのは、そのためだ。

 竹は理想的に空(虚空、あるいは闇)に向かって伸び続けている。まるで勃起する男根ファルスが矛先を失くしたみたいだ。我々は代償行為としてのセックスにおいて、避妊具の中に、射精する。精液ADNは情報である。遺伝子は精子と卵とが情報交換コミュニケーションすることで、新たな表現形を為す。子は結果である。それに留まらず、陰茎の脈動、膣あるいは肛門や腸の収縮、視覚的な興奮、発せられる声、それを塞ぐ唇や舌、放屁、排泄、体液の味――それら出来事の最中に起きる事象における、五感の全てを以て我々は交流コミュニケーションと見做す。ゆえに同性愛も事後というを為すのである。異性愛における受精とは、生物的な副産物に過ぎない。(そうでなくては、どうして快楽としての性交が成立しえようか?)

 有栖は、後ろから口を塞がれる。大きな手だ。有栖はその手の持ち主を知っていた。(ゆえに恐怖は無かった)

 有栖は小声で叫んだ。<piano> <marcato>

「ジルベール!」

「ギルバートだっての。ちょいと手伝ってくれねぇかな、有栖アリス

不正規戦部隊ブラックオプス。ジルベールと呼ばれた男は顔に迷彩を施しており、暗闇によく溶けた。彼はむかし有栖を犯した青年によく似ていたが、それよりもややハンサムで野性的sauvageだった。刻印のないコルト・コマンドー短機関銃サブマシンガンを提げており、背中にはイサカ・フェザーライト散弾銃。試験運用中の汎用目的軽量個人装備携行ALICEパックを背負い、メイド・イン・ジャパンのタイガーストライプ柄の迷彩服には偽章として第八二空挺師団オール・アメリカンのワッペンを付ける。短く刈った頭には緑褐色のバンダナを巻いていた。

「この林を抜けてぇんだ。罠を見つけるのは得意だったろ」

「いいけどさ、タダ働きは御免だよ」

「分かった、分かった。お前もしっかりと資本主義者Capitalisteだな」

クリストファー・ギルバート・フランツ二等軍曹は小隊プラトーンを率いる隊長である。小隊と言ってもやや大所帯で、それが単独で作戦行動を遂行できるような規模を持っている。

軍曹trung sĩ、こいつは信用できますか?」

ベトナム顔がそう言った。名前は鄧文元ダン・ヴァン・グェン。皆は彼を英語でニューエンと呼んだ。無線機ラジオを背負い、貸与品の旧いカービン銃を縋るように握り締めている。カオダイ教徒の元民兵で、フェニックス作戦に参加した。米軍GIのM16突撃銃やトンプソン短機関銃、レミントン散弾銃、M3グリスガンやM2カービンなどで武装した彼の班には、民間不正規戦グループCIDGや元被制圧民族闘争統一戦線フルロ山岳少数民族モンタニャールたちも居たが、グェンらキン族との均衡バランスはアメリカ人兵士の存在によって保たれているようだった。

「信用なんてなくていいのさ、ニューエン。軍曹殿はサービスを金品でご購入アウトソーシングなされるんだ」

黒人のDMは擲弾手である。愛称のDMとは本名のイニシャルとも、ソウドオフされたM79擲弾発射器グレネードランチャーをスマート爆弾ならぬ愚鈍爆弾Dumb Munitionと呼んでいるとも、単に『ドクター・メディック』の略だとも言われる。彼も医者だった。専門の軍医ではないが、基本的な治療は出来る。サイドアームとして抑声器サウンド・サプレッサー付きのウジ短機関銃を提げており、その全体に止血帯が巻かれている。彼の班は主にストーナー63やM60軽機関銃、G3A3ZFやXM21半自動狙撃銃、HK33突撃銃に加え、六〇ミリ口径のM224迫撃砲、M203、使い捨てのM72軽対戦車兵器LAWに副兵装はイングラムMAC10やスウェディッシュKなど、主に支援に関わる装備で武装している。

 指揮系統はあくまでジルベールことギルバート軍曹にあるが、それらは任務や状況に応じて各班から選出された人員や装備の組み合わせが適宜入れ替わり、最適化され、行動ラクシヨンする。

 ギルバートはポケットからハーシーズのチョコレートを取り出すと、「これは前金さ」と言って有栖に渡した。お菓子なんかで、騙されるもんか! 有栖はそう思ったが、空腹だったので受け取っておいた。お砂糖に、スパイス。その他すてきなもので出来ている。

「あれがワイヤー、ここにも罠、……あ、それは落とし穴だから、竹槍に糞が塗ってあるやつ」

「ステキだね。時価数万ドルの俺達が、殺されるのがクソペースト付きのバンブーってワケか」

「安心しなよ。指向性散弾クレイモア地雷だって、あるんだから」

「誰かが横流ししたやつか? ……腐った共和国軍ARVNの奴らじゃあるまいな」

「さあね。でも、たぶん、コピー品まがいもの。資本主義者だろーが共産主義者だろーが上層部が腐るのは世の常さね」

「何を悟ったような事を。まだまだ子供だな」

「子供だもん。親が居なかろーが。赤毛のアンに小公女セーラ」

アメリカがあしながおじさん。どうせそろそろ居なくなるけどね。現実が物語と違うのは悲しいわ。と、マリアンヌ・ルノワールは言った。ジャン=ポール・ベルモンドも嫌いじゃないけどアラン・ドロンのほうが分かりやすくハンサムだな。米軍は大勢犠牲者を出しています、ベトコンも一一五人が戦死…………。

「まだか? ピエロ」

「ボクの名前は有栖アリスだ。水の音が近付いてきた」

水、水、水の音。水に咲く花、彼はスイレンかハスの華か……いずれがアヤメかカキツバタ? それはクロード・モネの【睡蓮Les Nymphéas】。色情狂ニンフォマニアの娼婦の姉。あやめも知らぬ恋もするかな。

「この川を越えたら国境だよ? 米軍はラオスやカンボジアには入らないんじゃないの」

「ロン・ノルからお許しが出たのさ。実はグローバル主義者でね?」

「あー、共産主義という思想は国境を越えて赤色テロリストを産出している……から、それに対抗する、的な?」

「クメール・ルージュも力を付けてきてる。サロット・サルポル・ポトのやつも……ベトコンの巣になっていやがる」

それを育てたのはアメリカだけどね。と誰も言わなかった。前の戦争で日本に落した三倍の数の空爆。北ベトナムに米を売っていたのに、農業が全滅して、食糧難に陥っちゃった。もちろん米軍はロン・ノルを支援したけど、農村部は今でも飢饉。そりゃ原始共産制の共産主義革命だ、ともなるよね。ホー・チ・ミンルートは隣国を経由して、以前は国境を越えられない米軍は手を出せない事になっていたけど、ベトナム戦争はやがてインドシナ全体を巻き込んだ戦争へと展開した。有栖は森の中を指差して言った。

「あれがトーチカ。ここから先は危なそうだから、ボクは行かない」

「助かったよ、姉ちゃんによろしくな」

ギルバートが去ろうとすると、有栖は彼を引き留め「ん」と言って、手を差し出した。

「何か忘れてない? 報酬だよ、ほ・う・しゅ・う。早く頂戴よ」

「とぼけたって無駄か。ほれ」

それは蝶のナイフバリソンだった。バタフライ・ナイフともいう。それと通貨代わりの銃弾。箱入りの四五口径。いくらかのドル紙幣、マルボロ二箱。(二年前に携帯糧食レーションのアクセサリ・パックから煙草が廃止されてから、ベトコンによって米軍には麻薬が蔓延していたが、ギルバートは煙草と酒以外はやらなかった。ハッシシ暗殺者アサシンが吸うものだ。僕らはイスラム教徒ではないし、まして平和主義気取りのヒッピーでもない)

「こんなに貰っていいの?」

有栖は少し不安になった。その中でも、蝶のナイフはずっと有栖が欲しがっていたものだった。ギルバートが娼館で姉とセックスしに来るたび、彼は有栖にそのナイフを見せびらかしていたものだった。

 娼館の女たちはみな花の名前を持っていた。女主人はバラローズ。中国系のオニユリタイガーリリー、一番若いのがヒナギクデイジー。それから、スミレヴァイオラアヤメアイリス。母親のスミレはいちばんの古株だった。姉の彩芽は、母親のものであったフルール・ド・リスの紋章の付いたユーゲント・ナイフをいつも携えていた。日本製の水平二連散弾銃を壁に立てかけて……。

「あんまり自分の価値を低く見積もるなよ。卑屈サーヴァルは身体に毒だぜ」

「ありがと。またお店に来てね」

「ああ。またなオ・ルヴォワール

ギルバートは冗談めかしてフランス語で別れを告げた。それはどうしたってアメリカ英語の発音だったけれど。いずれ彼らは闇に溶けた。しばらく経って散発的に銃声がし出したけれど、有栖はギルバートが死ぬとは思わなかったので放っておいた。

 有栖は、ギルバートのくれた蝶のナイフをかちゃかちゃ振り回してみた。クリスマスでもないのにね。それは非誕生日のプレゼント。ハンプティ・ダンプティはうやうやしく三六五ひく三六四の式を書いて、筆算してみた。

<solo> <staccato>

「確かに、勘定は合っているようだが……」

「毎日が特別な今日なんだよ。もしかして君は、一日いちにちを無為に過ごしてないかな?」

(何もかも下らない、キチガイの祭典)

「お砂糖にスパイス。それからステキなもの全部。女の子はそれで出来ている」

「私が言葉を使う時には、言葉は我に従い選んだ通りの意味になる」

(少なくとも、私が言っている事は、私が思っている事と同じだわ)

「“こちら管制塔グラウンドコントロール。聞こえますか、トム少佐?”」

「“ドウゾ自己紹介させてください。わたくしは資産家の趣深い男です。もう幾年も幾年をもかけて、人々の魂や信仰を奪って参りました”」

(一九八四年。初手。ポーンをE2からE4へ)

「五〇年代に核戦争は起きなかった。フィッツジェラルドの計算通りアポロは六〇年代のうちに月へ着陸したし、八〇年代に思想統制は完成する。二たす二は五」

(“君は生まれながら狂ったように 光を求め 王の住まう国を夢想して 君は夜の牢獄で自問する ぼくらは何故生きていて、そして何処へ行くの?”)

 充分に手のひらでバリソンを舞わせると、有栖はナイフを回転させグリップに折り畳んで鞄がわりの弾帯バンダリアにしまった。それからフランス製の回転式拳銃シャメロー・デルヴィンを取り出すと、官給品の四五口径を六つ装填した。銃身が陰茎なら、弾倉は陰嚢だ。精液たる銃弾が装填されて、その男性ファルスたる機能は完全に思える。シャメロー・デルヴィンは黒色火薬時代の拳銃であり、現代の無煙火薬では爆発力が強すぎる。有栖は、弾薬を銃弾と薬莢とに分解すると、中の火薬――それはトルエン成分を含む――を少しだけ手の甲に置いて、吸ってみた…………

 照明弾が上がる。その光が織り成すノワールブランク対照コントラスト。落ちる影の隙間を縫って、やがて川の向こうからが現われ出でた。

「ここで、何を、している?」

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