* * * * * *

「レモネード飲むかい」

「うん、」

帽子屋はそういって有栖にチャイン・ムオイを渡した。それは少し塩っぱく、ビタミンを含み、失われた汗を補填する形で吸収される。汗でしっとりとした肌は多からず性的だ。

「随分と機嫌がいいね、有栖」

「そうかな?」

そうさ、と帽子屋がややぶっきらぼうに呟いた。有栖はレモネードを飲み干すと、汗をかいたグラスを脇に置いて呟いた。(青い空を眺めていた。雲はぽっかりと浮いており、二人の間に流れる相対的な時間の速さは、明らかに異なるものだった)

「昨日、【白ウサギ】と話したんだ」

「例の彼?」

彼は肉体を持っていたIl y a un corps physique。それから、名前も。華子ハナコっていうんだ」

「華子……華子って、春野華子Chūnyě Huázi? ビン=スエン派の残党の?」

「ビン=スエン派? 彼を知っているの?」

「知らないのかい? 河川匪賊ってやつさ。いわゆる、ギャング」

「ふうん…………日本人? それとも華僑?」

「さあ。名前は、どうもそんな感じがするけれど」

「そう…………僕は、彼に恋したと思う」

恋は盲目、有栖は色盲だった。(et il n’y a pas d’organ génitaux.)

「恋だって? 有栖は、大人だなぁ……」

帽子屋はストローからレモネードを口にした。娼館の扉が開いて、低い階段に腰掛けていた彼は振り返る。

「二人とも、ここに居たの」

彩芽アヤメさん」

 日向彩芽は娼婦である。そして有栖の姉。裸の上に黒の下着を身に付け、ブランケットを羽織り、ゴロワーズの煙草を吹かしている。

「雨が降るのよ」

「晴れていますよ」

帽子屋が答えると、やがてぽつぽつと雨が降り出した。

「ほらね、」

みんな私の言うとおりavra K'Davarah。有栖は帽子屋と友人であるという感覚が薄く、仕事の為に一緒になっているという感覚が強かったが、彩芽は帽子屋を【妹】の親友か何かだと誤解したままだった。

 だいたい友達なんて居なかった。僕の気持ちを分かってくれるのは煙草だけ。みんな、僕が持ちえないものを持っている。(僕の幸福の順番は、まだ?)むかし、君は待っているだけなんだね、と僕を揶揄した奴がいた。待たなくていいのは恵まれた、持っている奴だけだ。僕は手段を持たない。銃をくださいDonne-moi un pistolet。戦争が終わるのを待っている、ああ、あれが僕の初恋だったのかもしれない。人間は自立するために足を使っている、同様に、社会に生きる人間は誰かの死体の上に成り立っている。だけど僕は生きてきたつもりだ。それが否定されるなら、何のために社会が存在する? 誰かを足蹴にしてよいのなら、それは獣と何が違うっていうんだ。

 人間は動物と違うため、法や倫理が存在している。他人の妻と寝てはならないだとか、あるいは略奪や殺人は悪であると。でも結局、持っている者が勝って(ルールは踏みにじられ)持たざる者が負けるだけなんだよね。法や倫理は弱者のためにある、それは強者は法に縛られないから。弱者が自分の位置を理解するためにそれらは存在している。僕は犯された女の子供。両親は恋愛しただろうか。人を愛する事が出来たんだろうか。僕は他人を愛する事や愛される事を知らなかった。ただ、それだけ。(Si l'amour n'était pas pour tout le monde, alors pour qui l'amour existe-t-il? Je pense que l'amour est opportun pour le social, il a une valeur d'usage pour relier les gens. Pas pour la personne elle-même. Il n'y a pas d'amour pour moi, depuis le tout premier. Personne ne me comprend. Vous savez quoi, c'est la vie comment il va.)

l'amour? …………有栖は、まだ若いのね」

 帽子屋と彩芽は会話していたようだ。有栖は笑顔をすると姉からゴロワーズを奪って、旨そうにそれを吹かして言った。

「僕も刺青タトゥーが欲しいな、お姉ちゃんみたいなやつ」

「これ?」

姉の腰には蝶の刺青がしてある。La nuit, tous les chattes sont gris. 夜には全ての猫が灰色である。――ああ、そうか。誰でもいいんだ。ただ僕じゃなかった、ってだけ。僕には君しか居ないのにね。(なんて、僕は今新しい恋に生きているけど)顛末を思い出したから書くけど、彼は焼夷弾に焼かれて死んだんだっけ。面白かったよ。僕はそれまで小動物を殺した事はあったけど、燃やして殺した事は無かったから。人は死ぬと焼かれて、骨になるんだって。肉を複製するための生殖もこれじゃあ形無しだよね。何のために生きているのやら、コミュニケーションするのやら。――遊びの為のセックス? 僕らはを、仕事としてやっている。使用済み避妊具Scumbag。娼館にはいつもそれが棄ててある。誰にも読まれなかった小説と同じように。


 “それはほんとに些細な恋心

 ネズミ色の髪した普通の女の子

 でもママは「いけません」って怒鳴るし

 パパは「行ったほうがいい」って言う

 でも来るはずの彼は見当たらないし

 からかわれたんだ、ってなんだか

 陰鬱な妄想に駆られてくる

 だからいちばん良い席に座って

 銀幕へと釘付けになるのさ


 だけどこの映画は悲しいほど退屈

 何度も見たよ、こんな話

 「意図を汲み取れ」なんて言われたら

 その馬鹿の目に唾吐いてやる


 【水兵さん、舞踏場で大ゲンカ!】

 【なんてこった、野蛮人がやって来るぞ】

 ――何もかもくだらない キチガイの祭典

 【あの保安官を見よ! 無実の人を吊るし上げ】

 ――この俳優さん、こんな映画が人生の頂点だったのかな


 火星にも人生はあるのかなis there Life on Mars


 疲弊するアメリカの崖っぷちで

 ミッキー・マウスは膨れ上がって牛になる

 労働者階級プロレタリアートは名誉のスト

 ジョン・レノンがまた売れ出したからね

 イビザ島からノーフォーク地方まで

 数百万のネズミどもの群れ

 統べよ! ブリタニア 際限なく国境を越えて

 僕のママも犬も 道化でさえも


 だけどこの映画は悲しいほど退屈

 何度も描いたよ、こんな話

 でも君に分かってもらいたいから

 同じ過ちを繰り返すのさ


 【水兵さん、舞踏場で大ゲンカ!】

 【なんてこった、野蛮人がやって来るぞ】

 ――今度こそ最高の映画になるぞ

 【あの保安官を見よ! 無実の人を吊るし上げ】

 ――今に分かるさ、この話はきっと売れる


 【火星にも生命がis there Life on Mars?】”


「――有栖がもう少し大きくなったら、ね」

と、煙草を取り上げながら姉は言った。僕らに明日は無いのに、どうして大きくなったらなどと言えるのだろう。と、有栖は思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る