* * * * * *

 崖がある。川はそこから流れ落ちて小さな滝となっている。少年は水浴みをする。白い肌で、性器を二つ持っている。火星マルス金星ヴィナス。陽の光が霧を輝かせている。

 森の奥から有栖は彼を覗いていた。彼には無数の傷痕がある。有栖は、それを聖痕スティグマータだと思った。ああ、そして彼の透き通った髪から滴る液体……人を殺した後なのか、彼は返り血を洗い流していた。その悪意は川へと流れ出て、水を赤く染める。

「なんて美しいんでしょう」

有栖は嘘っぽく演技のように呟いた。

「ああ、なんて美しいんでしょう」

それは陶酔に近かった。いつまでも眺めていたいと思った。時間が永遠に止まってしまえばいいのにと、懐中時計を壊したりもした。だけど時間というものは変化と運動とが観測され続ける限り動き続ける。時計はあくまでそれらを秒や分という単位に分割して表現しているにすぎず、後から人間が勝手に定義したものなのだ。死体は腐り、やがて溶けて流れだす。死を美しいものとするのは、固まった貴金属や宝石を有難がるのと等しいのであり、生きているものこそ真に美しい。有栖はその事を無意識に否定していた。自宅の蝶の標本がその例だった。

 有栖は醜いものを嫌った。死体が腐る事を肯定できなかった。またやがて蝶へと変態メタモルフォーゼする幼体すらをも嫌った。蝶は、卵から孵化して芋虫となり蛹から完全変態して蝶へと羽化する。だが有栖は蝶は生まれたときから死ぬまで常に美しくあってほしかったのだった。有栖は、蝶の成体と芋虫・蛹とを結びつける事を嫌った。、醜いものが美しく返り咲く事を否定した。それは自らは不完全で醜くけして幸福になる事は出来ないと認識している事の、裏返しだった。

 それは奇形児を見ていてもそう思った。彼ら・彼女らは不完全だ。枯葉剤による先天的な遺伝子の異常。催奇性。とにかく、ベトナムにはそんな子供が数多く居た。彼ら・彼女らは幸福にはなれない。自分も全く同じだと、有栖は後天的要因で去勢された自分を歪めて重ねていた。保護されなくてはならない。彼ら・彼女らは尊重されなくてはならない。有栖は自らのエゴで他人の幸福を勝手に決めつけていた。それは偽善だった。

 実際は、自分が助けられたいと、救済されたいと願っている事の表出だった。だがその思考を意識の上に昇らせることは厳しく規制されていた。他でもない自分自身によって。なぜなら有栖はそのように造られたからだった。いつも頭の中の母親がこう呟いた、

【…………有栖、有栖…………助けて、助けて…………】

そう、有栖にとって、母親こそが救済されなければならない存在だったのだった。いくら彼女が有栖を嫌っていても、有栖が彼女を否定しようとしても、彼女も被害者であり、加害者であり、また有栖自身も加害者であり、被害者でもあった。有栖自身は気付く事は無かったが、有栖は死んだ母親と今でも共依存関係にあった。そしてそれは死ぬまで続くように思われた。

(僕は悪い子です、神様。結局最期まで、母さんを助ける事が出来ませんでした。彼女も救済されるべき人間だったのです。この狂った世界において、彼女もまた疎外され、発狂し、孤独となった一人の哀しい魂に過ぎなかったのです。それなのに僕は、彼女を裏切るような真似をし、そして死へと追いやった。お姉ちゃんには感謝しています、あの時母さんが殺されなくては、僕が殺されていたのだろうから。――ああ、でも、いつも考えてしまいます、僕はあそこで母さんと一緒に死ぬべきだったのだろう、と……)

死は幸福である。有栖はそう思った。枝を踏んで音が鳴る。瞬間、目の前の少年は拳銃を取り出すと即座に発砲した。

 銃声が八発。それは茂みの枝々を折っただけだったが、有栖は、「死にたくない!」と恐怖した。

 だから息を殺した。少年の姿は消えた。このまま何事も起きなければいいと、この期に及んで有栖はそう思った。その幸福は長くは続かなかった。有栖は後ろから組み伏せられ、延髄に銃口を押し付けられた。

お前は誰だNǐ shì shuí? 名前を言えGàosù wǒ nǐ de míngzì

少年が言った。有栖は感情を覆い隠すため笑って答えた。

誰でもないよWǒ shuí yě bùshì君こそ誰なのさNǐ yǐwéi nǐ shì shuí?」

少年は全裸だった。そして中国語を話した。有栖はその事に興奮した。彼も肉から出来ていた、僕の幻覚イマジナシオンではなかった!

死にたいのかRúguǒ nǐ xiǎng sǐ? なら保証してやるWǒ kěyǐ bǎozhèng

少年は拳銃の尺取虫トグルを引いて装弾し、引き金に力を込めた。それが引ききられる前に有栖は答えた。

「ボクは有栖アリス日向有栖Rìxiàng Yǒu qī――アリス・セシル・ヒムカイ」

少年は力を緩めた。それからイラついたように吐き捨てた。

有栖Yǒu qī? フン……すみかる、って事か」

少年は有栖を離した。有栖は立ち上がるが、銃口は向けられたままだった。有栖は物怖じせずに訊ねた。

「さあ、ボクは名乗ったよ。君の名前を教えてくれてもいいだろ?」

「そんなルールはない」

「随分と社交的じゃないんだね? 僕らは笑って好きでもないおっさんのチンポ吸ってでも生きていかなきゃならないってのにさ!」

「――お前、娼館の餓鬼だろ。そこで道化ピエロをやってる…………」

「へぇ、ボクの事、知っていてくれたんだ!」

有栖は目を輝かせた。少年は舌打ちした。有栖は笑顔で鞄に手を入れると、「動くな」と銃口を向けられた。

「そんなに怯えなくてもいいじゃない。僕はただ、煙草を……」

「怯える、だと?」

それは本質を突いていたが故に少年の琴線に触れた。

「失せろ。そうでなければ…………」

華子ハナコ! 何かあったのか?」

華子と呼ばれた少年は銃口を下ろすと、再び舌打ちした。森の奥からシャム双生児の少年が現れた。彼らは『豚』という名前の機関銃を携えていた。片割れの、おかっぱ頭のほうが怪訝そうに言った。

「誰だ、そいつは?」

「――誰でもない。街の餓鬼だ。すぐにここから消え失せる」

「誰でもないってことは、ないだろ。少なくとも人間には呼ばれる名前があるもんだぜ」

もう片方の、ぼさぼさ頭のほうが言った。華子は心底不機嫌そうに答えた。

「黙れ、ダムとディー。俺がお前らのどちらかの頭を吹き飛ばす前に、船に戻るぞ」

「撃つならダムの頭にしなよ、華子。こいつは頭の出来がよくないから」

おかっぱ頭がそう言った。するとぼさぼさ頭が反論した。

「いいや、撃つならディーのほうにしな、華子。こいつは射撃が上手くないんだ」

実際、右手に持った機関銃の主導権はぼさぼさ頭のダムのほうにあるようだった。そしておかっぱ頭のディーは恐らく弾薬手。二人は一つで兵器だった。それらは華子の命令に従うようだった。

 華子が踵を返すと、有栖はその手を掴んで叫んだ。

「待って! 君の名前、ハナコって言うんだね! 苗字はあるの? きっと船に住んでるのね! 年はいくつ? 猫は好き? どうして君は…………」

性器が二つあるの? と尋ねる前に、有栖は腹を蹴飛ばされた。うずくまって、そして銃口を向けられた。

「俺に、殺される前に、…………消えろ」

その瞳は赤いのに氷よりも冷たかった。有栖はしばらく嗚咽していた。その間に、三人は消えた。

 呼吸を取り戻すと、有栖は興奮を抑えきれないように、うきゃああああと叫んだ。そして何よりも、久しぶりに自分へと向けられた殺意に、回春していた。

「ハナコ、ハナコ、ハナコ! ずっと頭の中に反響こだましてる! あの子の名前は華子って言うんだ! 話をしちゃった! 殺されかけた。組み伏せられた、彼の身体に触れたんだ! 肉体がある、言葉が通じる! ――僕のこと、知ってた! 煙草を吸うのかな? 苗字はなんて言うんだろう? 何を食べるのかな、友達はどのくらい居るんだろう? 僕とも仲良くしてくれるかな? ――ああ、考えても、考えきれない! これからもっと知り合える、――これから、もっと、好きになる!」

バラは赤。スミレは青。そして恋は水色。有栖は森の中でひとり、天使の声カストラートで歌い始めた。


<rêvez doucement>

 “甘い、甘い、恋は甘いわ

  僕の世界は甘いの、君の腕の中に居れば

 甘い、甘い、恋は甘いわ

  僕の世界は甘いの、君のそばに居れば


 水色、水色、恋は水色

  恋する心は揺り籠のように

 水色、水色、恋は水色

  君の瞳に映る空色のように


 水のように、流れる水のように

  僕と、僕の心は君の愛を追い続けるの”


<lamentabile>

 “灰色、灰色、恋は灰色

  君が居ないと心が泣くの

 灰色、灰色、空は灰色

  君が居ないと雨が落ちるの


 風よ、風よ、風が喚くの

  君が消えると風が叫ぶの

 風よ、風よ、風が呪うの

  君が消えると心が泣くの


 水のように、流れる水のように

  僕と、僕の心は君の愛を追い続けるの”


<di nuovo>

 “水色、水色、恋は水色

  君が戻れば空は晴れるの

 水色、水色、恋は水色

  君が僕の手を取れば恋は水色”


<furioso>

 “狂気、狂気、恋は気狂きちが

  僕のように君のように 恋は狂ってる”

<lusingando>

 “水色、水色、恋は水色

  僕が君のものなら、恋は水色


 僕が君のものなら 恋は、水色………………”

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