* * * * * *
自転車を停める。いつもの森だ。闇の奥。つる植物は大木に纏わりついて依存している。割と、空気は澄んでいる。空は柔らかに雨。深呼吸して、遠くの喧騒を忘れた。自分の事も。ここは、名無しの森……
初めて銃を拾ったのも、こんな森だった。それは小さな箱に入っていて、拳銃それ自体とイラストの説明書きとが入っていた。銃は、名前を『
有栖は、銃を拾うとイラストの説明書き通りに(有栖は文字が読めないのでとても助かった)ドングリのような銃弾を一発、装填した。それは少し錆びていたがまだ動作に問題はないようだった。
ゆっくりと重い引き金を絞った。撃針が銃弾の尻を叩くと雷管は発火して装薬に燃え移る。爆発音。……高鳴る鼓動。腕に衝撃が残って、放たれた銃弾は木にすら掠らずに隣のヒキガエルを撃ち殺した。銃口から、ゆるく白い煙りが昇った。
それが有栖の精通だった。死んだ猫の墓を思い出した。掘り返すと、それは過去ではなかった。死体とは生命活動を失っただけでありその肉はあくまで時間の進行に則っている。死は、あくまで抒情であって、叙事ではない。死体は分解者の棲み処であり、地球もまた人間の宿主である。それも、その寄生虫は宿主に害を為すものである。(木の葉は雨に枯れており、新たな命は紡がれず)
有栖は思いました。【お母さん】は、一体どこまでが【お母さん】であるのか? (et maintenant, elle a commencé à chanter)
“しゃぼんだま とんだ
やねまでとんだ
やねまでとんで
こわれてきえた ……………………”
<fermata>
<amabile>
“わが主 イエス
わが主 イエス
わが主 イエス
我を愛す”
<scherzando>
“イエス様は僕が良い子ならば愛してくれる
僕が為すべき事をするときに
イエス様は僕が悪い子であっても愛してくれる
それは彼を とても悲しませるのだけど
ああ、イエス様は僕を愛してくれる!
イエス様は僕を愛してくれる!
イエス様は僕を愛してくれる!
聖書には そう書いてあるの”
<Animato>
“イエス様は今でも僕を愛してくれる
僕は弱くて病み煩いだが
その僕を罪から解放するために
十字架の上で血を流して死んでくださった”
“風、風、吹くな シャボン玉飛ばそ”
<fermata>
<ritenuto>
“しゃぼんだま きえた
とばずにきえた
うまれてすぐに
こわれてきえた ……………………”
……森には、ベトコンの罠のサインが残されている。有栖はそれを避けて進んだ。間違えた人間は死んでいい。そして【お母さん】も。水の音に近付いていった。
有栖には不敵な愉しみが一つあった。この森でよく水浴びをする少年を観察することだ。名前を知らない。しかしそれにも増して彼は美しかった。病的なほど白い肌と髪。筋肉質な肢体、赤い虹彩。それはシロウサギ。そして彼は、
初体験は最悪だった。有栖を少女だと思ってレイプした隣の家の青年は、後になって自転車の乗り方を教えてくれた。そのうち彼も、ソ連製の騎兵銃を携えて森に消えていった。有栖が最後に彼を見たのは、その落とし穴に引っ掛かった死体の姿だった。
「僕、酷い事されたの」
傷も癒えないまま有栖は母親に言った。
「ああ、お前の顔を見ていたら、誰だってその頭を叩き割ってやりたくなるさ」
と、ヴァイオラは答えた。
間違えた奴は死んでいい。穴に落ちた死体は雨水に浮いており、腐敗を始めていて、よく水を吸ったように膨らんでいた。水面には溶けた脂肪が石鹸状になっていて、有栖はぐずぐずになった
<risoluto>
雨が降っていた。『解放者』という名前の拳銃を固く握り締めて。それを後ろ手に隠している。暗い家の中ではランプが消えている。雷が遠くで鳴り出して、空気を震わせた。有栖はヒールの踵をコトコトと鳴らして歩いた。きぃ、と木製の扉を押して開ける。静寂。人の気配は無い。雨漏りの音がする。
「お母さん、…………居ないの?」
窓硝子がびりびりと震える。体温は残っていない。有栖は、拳銃が装填されているかを不安に思って、再度薬室を確かめた。
<feroce>(それはシンバルの音)
角材で後頭部を殴られる。音の消失。<perdendosi>
拳銃を取り落とす。照明弾が上がって室内を照らす。有栖はどうにか仰向けになると、母親が馬乗りになってきて、叫んでいる。
(あ、り、す、お、ま、え、も、け、っ、きょ、く、あ、た、し、を、う、ら、ぎ、る、の、か、……)
母親の口はそのように動いていた。何もかもがコマ送りのアニメーションであった。有栖は手探りで落とした拳銃を掴む。母親は有栖を殴る事に夢中になって、気付かない。その頭を狙う。重い引き金を絞る。拳銃がぶるぶる震える。撃針が落ちた。
頭蓋骨が割れて、脳がでろりと零れ落ちた。その脂肪の塊は有栖の顔に落ちてきた<lordo>。ああ神よ。それでも母親は死なずに、手近にあった鎌を手に取ると両手で大きく振り上げ、有栖は、
(Est-ce the End de 僕の人生?)
と、思った。
(私は膿でした。精子という細菌に感染した母親から
母親の頭が爆発した。飛沫は有栖の顔じゅうに降りかかり、思わず目を瞑った。――その時、有栖は色を失くした。
音が戻ってくる。気付くと、姉の彩芽に抱きしめられていた。その手には母親の猟銃。
「砲撃が始まったの。はやく逃げましょう」
呼吸も荒く息絶え絶えにそう呟く彩芽の化粧は雨と涙で崩れていた。有栖はそれを、美しい、と思った。
有栖は、飛び散った母親の眼球が自分の唇に咥えられている事に気が付き、飴玉みたいに、ぶちゅりとそれを噛み砕いて咀嚼して、それから飲み込んだ。
「――おかあさん、死んだの?」
「あたしが殺したの」
彩芽が言った。有栖は半ば茫然としていた。それは生きているのが不思議というより、復讐の機会を永遠に奪われたという事実から来るものだった。
彩芽は有栖にキスして、それから言った。
「穢い事は、お姉ちゃんだけでいいのよ。――これからは、二人で一緒に暮らしましょう?」
有栖は彩芽におぶられると、夜の森を駆けるのを感じた。照明弾の白く光る空を見ながら、赤い血に塗れた自分と姉を
空は黒、光は白、血は赤。もう猫のダイナのお墓参りは出来ないだろうな、などと、どうでもいい事を思った。やがて雨足が強くなってきて、それは天然のシャワーとなって二人の身体を洗い清めた。それは同時に高濃度のTCDDを含み、有栖の身体は虹色に染まっていった。(“Where have all the flowers gone?”)
「ありがと、お姉ちゃん、だいすき」
そう呟いて有栖は眠りに落ちていった。だが砲撃の音で、その言葉は彩芽には聞こえていなかった。
その日はアポロ十一号が、人類史上初めての月面着陸の成功へと向けて、飛び立った日だった。
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