道化のアリスは蝶になりたい

名無し

1.ボクたちに次はない

 暗い森。村は明るく燃えている。遠くの空からバルバルバルと空気を切り裂いて米軍のヘリコプターヒューイが飛行しており、国境を分断する川の傍の草原に舞い降りた。それはリヒャルト・ヴァーグナーの『ワルキューレの騎行』を鳴り響かせ…………『ピッグ』という名前の機関銃が火を吹いている。

 道を、歩いている。生きている村人の全員が。それとは反対に、きゅらきゅらきゅらと戦車の無限軌道キャタピラが啼いて、湿っぽい地面を這いつくばる芋虫どもを轢殺していった。ぷちんと体いっぱいの音を響かせ、どろりとした精液みたいな白い内臓と体液とを散乱させながら、彼らは叫ばなかった。虫ケラに発声器官は無いからだ。

 それらは全部遠くの出来事だった。時間せいしん的にも、空間にくたい的にも。は一九七二年、場所ところはベトナム。周りはモノクロームの戦争色せんそういろだ。――だからこそ、街の娼婦たちは派手に着飾り、世界に埋没してたまるものかと努めている。

 ここに少年がひとり。名前を有栖アリスといった。濡れ鴉のように黒く長い艶やかな髪をして、白のワンピースを身に付け、赤いピンヒールを履いていた。その高い踵は幼虫の屍骸を避けるのに都合が良かったし、また有栖自身も、かわいい女の子という生き物は、虫とかいったものを気味悪がるのだと、よく知っていた。だからこそ、有栖は蝶が好きだった。青空を優雅に飛び回り、花と花とを結び付け、受粉させ、新しい命を紡ぐ(或いは惡の華Les Fleurs du malに利用されて)……そしてその鮮やかな色彩を想像イマジナシオンするのが、何よりの楽しみだった。

 愛は色欲。そして有栖は色盲だった。だからそのパピヨンが、地味な夜の世界に生きる蛾パピヨン・ド・ニュイであると分かると、ひとつ残らず指先でバラバラにしてしまうのだった。有栖は醜いものが嫌いだった。だから部屋にも鏡は無かった。正確に言えば、鏡は酔った母親が全部割ってしまったのだった。(Mais la maison n'existe plus...)

 奇形の赤いフナが金魚鉢の中で悠々と泳いでいる。観賞用に特化し品種改良され保護されてきた彼らは、ひとたび自然の川に放り込まれれば、その目立つ身体の色から捕食されてしまうだろう。……しとしとと柔らかい雨の落ちる水たまりを(あるいはそこに映る歪んだ自分の姿を)眺めていると、有栖はその名前を呼ばれる。

「やあ、ピエロ」

「ボクの名前は有栖だ、いかれ帽子屋シャプリエ・フ

有栖はマルボロに火を点けた。(姉からはいつも、煙草なんてやめなさいと怒られてしまうので、有栖は外に隠れて吸うのだ)

ご飯食べたアン・コム・チュア?」

まだチューア

帽子屋は左足の義足でつまらなそうに石を蹴ると、言った。

「道化の仕事は?」

「今日は、そんな気分じゃない……ボクの本来は繊細サンチマンタルなのさ」

という名前の口紅を?」

帽子屋は有栖の唇をいたずらっぽく突いてやった。

「ボクは、赤い色だけは分かるから」

バラは赤。スミレは青。そして母親は娼婦だった。名前を日向ひむかいスミレといい、有栖が生まれると、その陰茎と睾丸とを熱したハサミで切り取ってしまったそうだ。(だから、いま有栖がワンピースのスカートをひらりとめくってみせると、男の子たちは何を見るでもなく赤面して逃げ出すのだった)

 過去とは、思い出したときに作られるものである。それは、どこかに眼前として物理的延長res extensaとして、保存されているものではない。ボクたちroseaux pensantに墓は要らない。生きている人間が墓なのだ。……ああ、日向スミレの話をしないといけないだろうな。彼女はもうここにはいない。有栖はその晩の事をよく覚えていた。空が虹色だったから。有栖は綺麗なものが好きだった。米軍の航空機の編隊、それらが吐き出す虹色枯葉剤エージェント・オレンジ――それは言葉遊びなんかじゃなく、実際、照明弾の光に当てられて、虹色のプリズムを発生したのを、有栖はよく覚えていた。……それが色を見た最後の記憶だったから。

 有栖が色を失くした原因はよく分かっていない。枯葉剤が目に入ったからとも、日常的に母親から受けた折檻のせいだったとも言える。母親は、夜の名前を、ヴァイオラと言った。娼婦に名前が必要かどうかは、兵隊に名前が必要かどうかという問題と類似するだろう。有栖は、よく姉の彩芽アヤメが、メアリ=アンだとかドロシーだとか、知らない名前で呼ばれながら兵隊どもに抱かれているのを、見ていたから、よく分かる。

 名前とは過去の記憶だ。有栖は、母親からはアンリ・リュカHenri Lukasと呼ばれていた。リュカは父親の姓。父親は母親をヴァイオラと呼んだ――だから、和名がスミレ。彼女の父親は朝鮮系日本兵だった。ヒムカイという苗字はそこから取った。沖縄から来た米兵は娼婦の事をママ=サンと呼んだ。東洋人グックはどれも同じに見えるのだろう。有栖は、ときに自分の混血を呪った。それは何もかもが中途半端ハーフで、板挟みの宙ぶらりんダブル・リミテッドであるから。人間の脳は、定められた文法ルールを守るために肥大化した。仮令たとひルールが破綻していようと、本来性を欠いて自己疎外を起こそうとも、人間はその文法から逃れられない。

 よく、夜尿おねしょをして折檻された。母親が陰茎を切り取ってしまった事が直接の原因だろうが、本質的には「不潔だ」という事が問題だった。有栖は、砲弾に怯えることも許されなかった。それは緩やかに自律神経を破壊し、いつも気絶するように眠った。家では、息を殺していなければならなかった。そうであっても何かにつけて、有栖は、ぶたれた。耐えられずによく、森へ逃げた。姉の彩芽が男と色情欲に逃げるのも、また同様の理由だったろう。だが性器を欠いた有栖に自分を慰める事マステュルバシオンは出来なかった。

 代わりに、シロウサギを追った。追い詰めて殺した。生き物はあくまで血と肉で出来ており、自らの複製を作るための(壊れた)本能として、色欲が存在する。色盲の有栖はそう理解していた。上っ面の羽毛を、皮膚を剥げば肉が存在し、酸素を交換する赤い血液がぷつぷつと沸いてくる。内臓は個々に機能しており、それぞれがひとつの個体としての【生き物】を保つために動作している。――それでは、脳を欠いた生き物は? 胃を、腸を、肝臓を欠いた生き物は? 手を足を、目を、鼻を、耳を、(性器を)? だから生き物を捕まえると手術オペラシオン実験エクスペリオンスを施した。どこまでが【ウサギ】で、どこからが【肉塊】であるか。有栖アリスを動かしていたのは、どこまでも純粋な好奇心curiosité non atteintsだった。(Après tout, elle voulait savoir sa raison d'être)

 ある日、有栖が猫を飼いたいと言った。スミレはどこからか野良猫を拾ってきてやり、有栖はそれにダイナと名付けた。ダイナは野良猫だったから、よく有栖に懐いた。どこに行くのも一緒になった頃、スミレは、

「猫は気に入ったかい?」

と、有栖に尋ねた。有栖は、元気いっぱいに「うん!」と答えた。すると母親は、後ろに隠し持っていた猟銃を取り出すと、その散弾で猫を撃ち殺した。役の父親を撃ち殺したのと同じ散弾銃で。母親はケタケタ笑ってこう言った。

「あんたはあたしの奴隷だよ。お前はの無い役立たずだから、こうしてに口で奉仕するしか能がないのさ」

苦い棒。太く温かい。それはぬるぬるとして生臭い液体を生じる。数センチの摩擦運動の為に男は生きている。外在化した内臓器官……有栖は、を、噛み千切る。

(…et il y a un large sourire sur son visage)

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