天使のくちづけ

雷星

天使のくちづけ

 風を切って、自転車は走る。

 鮮烈に燃える夕日を跳ね返して、まばゆいばかりに煌めく川の側を駆け抜けていく。河川敷を走るサイクリングコース。つい数年前に整備されたばかりの道をひた走る。

 風は強く吹き抜けていくが、それで気温が下がる訳もない。自転車を漕ぐ少年の額に汗が輝いていた。もっとも、彼が汗をかいているのは、何も気温のせいだけではない。後ろに乗った少女は、汗ひとつかいていないのだ。自転車を全力で漕いでいるからに他ならない。

 ある夏の日の終わり。

 少年は、二人乗りを禁じた法律など黙殺して、ただ自転車を走らせていた。でなければ、彼女を目的地まで連れていけなかった。少女は自転車に乗れなかったし、歩いていくには遠すぎる場所だった。彼が自転車に乗るしかなかったし、彼女を後ろに載せるしかなかたのだ。

 遠い遠い目的地。彼女も知らない場所へ、いかなくてはならない。

 もっとも、彼に罪の意識などほとんどなかった。毎日のように二人乗りで自転車を走らせてもいた。それを咎められたこともない。故に罪の意識は薄れ、それがありふれた出来事となっていたのだ。

 それもこれも、道行くだれもが、彼の後ろで足をぶらつかせる少女に見惚れてしまうからにほかならなかった。二人乗りを取り締まるべき警官でさえそうだった。彼女の姿を視界に入れた途端、意識が弛緩してしまうのだ。あまりにも現実離れした可憐さ故に。

 普段から行動をともにし、見慣れているはずの少年も、多くの場合、少女の姿に見惚れてしまうのだから仕方のないことなのかもしれない。

 だれもが囁く。

 天使だ、と。

 天使という言葉ほど、彼女の存在を端的に表すものもないだろう。

 彼女の背中には、一対の小さな羽があったのだ。美しくも愛らしい純白の羽。天使の羽。空を飛びまわることなどできなかったが、それでも、その一対の羽は、眩しいばかりの存在感を持っていた。まるで光を放っているかのような錯覚さえ覚えるほどに。

 少女は、このなんの特徴もない街に舞い降りた天使だったのだ。

 少年がそんな彼女に恋をしたのは当然の成り行きだったのかもしれない。

 恋は成就したのか、どうか。

 不器用な彼は、彼女に気持ちを伝えてもいなかったし、彼女もまた、なにもいわなかった。ただ、学校が終われば、いつもふたりで遊んだ。いつからだろう。そんなことさえ忘れるほど、ふたりで遊ぶということがありふれた日常の一風景になっていた。

 二人乗りの自転車で町中を駆け回った。なにもないはずの田舎も二人で巡ると、なにもかもが新鮮な驚きに満ちていた。どんな些細なことでも、天使の視点で見ると、あざやかな光を放っていたのだ。

 喜びに溢れた日々は、いつまでも続くかに見えた。

 少年はそれを信じていたし、少女もそうあればいいと想っていたのかもしれない。だから、別離の時が来るということを中々告げられなかったのだ。告げることで、すべてを終わらせたくなかったから。

 彼女は、明日、この街から出ていく。

 彼がその事実を知ったのは今日のことであり、しかも本人の口からではなかった。彼女の親友であり、彼の幼馴染みでもある少女からの電話のおかげで知ることができたのだ。もしその電話がなかったら、彼は彼女の引っ越しを知らぬまま新学期を迎えたに違いない。

 話を聞いた彼は、衝撃を受けながらも彼女の家に向かった。そして、有無を言わさず彼女を自転車に乗せ、ここまで連れてきたのだ。

「ねえ、どこに行くの?」

 少女の問いかけは、悲鳴にも似ていた。半ば強引に自転車に乗せられ、連れ回されているのだ。悲鳴にもなろう。ここに至るまでに何度も問いかけているのだが、彼の反応は必ずしも良好ではなかった。

 少年は、怒ったように口を結び、自転車を走らせることに全力を注いでいる。彼女からは彼の表情は見えないが、きっとそういう顔をしているに違いないと思った。

 無言がその証拠だ。彼は怒ると無言になったし、そういうときは大抵、唇を噛み締めているかのような表情をした。彼のそういう顔も、少女は別に嫌いではなかった。珍しいのだ。少年が感情を露にすること自体。

 だから、嬉しく思ってしまうのかもしれない。

 少女は、そんなことを考えながらも、自転車から振り落とされないように彼の腰に抱きつかなければならなかった。それほどの速度が出ている。いつものように足をぶらつかせながら、流れる景色を眺めるなんてとてもできなかった。

 少年がやっとの思いで口を開いたのは、ふたりを乗せた自転車が川に架かる橋の下に差し掛かったときだった。橋と夕日が作り出す深い影の中で、消え入るようなほど小さな声を浮かべた。それが彼の精一杯だったのかもしれない。

「君こそ、どこに行くのさ」

「えっ……」

 少女は、返答に窮した。黙り込む。言えるはずがない。言えるような場所ならば、とっくに伝えているのだ。ただの引っ越しならば、彼に隠す必要もない。真っ先に教えただろう。別れを惜しんで、ふたりの時間を最後まで満喫しようとしたはずだ。しかし、それはできなかった。彼にだけは伝えられなかった。だから、隠し通してきたつもりだったのに。

 どうして彼がそのことを知っているのか。

 少女は、はっとした。彼女には、彼と共通の友人がいる。転校初日から世話を焼いてくれた少女で、すぐに気の置けない友人になった。この街を去るということを彼女に話してしまったのはものの弾みであり、みんなには内緒にしておくようにとお願いしていたはずだった。だから、彼が知っているはずがないと想っていた。

 彼女は、多少の混乱を抱えたまま、川面に輝く夕日の眩しさに目を細めた。清流に乱反射する陽光は、まるで彼女の心を映し出した鏡のようだった。光が、散乱している。

「言えないんだ……」

 しばらくして、少年がうめくように言った。愕然と肩を落とし、自転車の速度さえ低下させていく。彼の体は既に汗だくで、体力が尽きかけていたのだとしても不思議ではなかった。しかし、速度の低下は、体力だけが原因でないのは明白だった。彼の気配そのものが変化している。さっきまで怒気を孕んでいたのだが、いまは意気消沈したかのようにおとなしくなっていた。

 速度が落ちたことで、少女は、少年の腰に絡めていた腕の力を緩めた。腰を落ち着かせ、足をぶらつかせる。ようやく、風景が流れゆく様を眺めることができた。もっとも、今日はいつものような気持ちで眺めることもできず、自然、頭の中に入ってこなかった。ただ、美しい川辺の景色が流れていく。夕日に照らされた清流と、それを取り巻く自然環境、人工物。どこにでもあるような、ここにしかない景色。彼女は、記憶に止めておきたいと想った。

 少女は、後方を見やった。サイクリングコースにひとは疎らで、遥か彼方に沈む夕日は、一段と強く輝いていた。赤く、紅く。

 空が燃えているようだった。それはまるで世界の終わりを想起させた。このまま、世界が終わりを迎えてもいいのではないか――そう思わないでもない。いま、世界が最後の時を迎えたなら、彼女は彼との別れを悲しむ必要がなくなる。この胸に刺さったままの小さな棘も消えてなくなる。

 すべてが消えてなくなるのだから。

 泡のように弾けてしまえばいい。

 少女は、頭を振った。馬鹿馬鹿しい。実にくだらないことを考えている。取るに足らないことだ。世界の存亡と比べれば、この淡い想いなど――。

 少女は、ぽつりとつぶやいた。

「言えるわけないよ」

(そっか……)

 彼が、少女の小さな声を聞き逃すことはなかった。

 少年の胸中に去来するのは、大いなる喪失。

 彼女は明日、どこかへ行ってしまう。彼にも話せないようなところに。もう、こうやって、ふたりで自転車に乗って走り回ることはできなくなるのだろう。いや、それだけではない。彼女の声も聞けなくなるのか。場所さえ教えられないということは、連絡を取るつもりもないということに違いなかった。

 少年の瞼が熱を帯び、視界が淡く揺らめいた。問いかける。血を吐くように。

「でも、もう二度と逢えないわけじゃないよね?」

「それは――」

 彼女は、またしても言葉に詰まった。

 少女は行かねばらない。行かなくては、どうしようもない。そのために生を受け、そのために教育されてきた。それが彼女の生まれた理由であり、それだけが彼女の存在意義だった。

 この半年は、彼女の最後の我が儘だった。

 普通の女の子として過ごし、できるなら学校に通いたいという、たったそれだけの願い。本当に小さな望み。

 だが、そのためだけに一体どれくらいの労力を費やされたのか。

 彼女の存在を隠蔽するためだけに、どれほどの金が動いたのか。

 天使の羽を持った少女など、話題にならないほうがおかしいのだ。そう簡単には隠しきれないはずだし、国内のみならず世界中を騒がすようなニュースになるはずなのだが、大きな騒動になっていないところを見る限り、彼女に関する情報がこの街の外に漏れることがなかったということだ。携帯電話からでもネットワークに繋がることができるのだ。一般の個人が情報を発信する時代、情報を隠し通すことは極めて難しい。

 どのようにして情報統制を図ったのか、彼女には想像もできなかった。

 そして、それほどのことをいとも容易く行なってしまえる彼らが恐ろしくもあった。本来なら頼もしいと思うべきであり、感謝すべきなのだろうが。

 少女は、静かに口を開いた。口をついて出たのは、少年の問いとはまったく関係のない言葉。

「ねえ。わたしたち、出逢わなければよかったのかな?」

「なんでそんなこというのさ」

 唐突な、それでいて衝撃的な少女の言葉に、彼は声を荒げるしかなかった。彼女の小さな声を大声で掻き消してしまえば、その言葉もなかったことになるのではないか――少年の淡い期待は、少女が言葉を続けたことで霧散する。

「君と出逢わなければ、こんな辛い想いをしなくて済んだわ。君を知らなければ、こんなことにはならなかった……!」

 それは、少女なりの告白だったのかもしれない。いまの彼女にできる精一杯の表現。これ以上は駄目だ。後に引けなくなるからではない。これ以上踏み込めば、少女は自分で自分を許せなくなる。

 彼を巻き込んでしまうから。

 だから、それ以上は口にしない。音にせず、飲み下す。本当は言いたくて仕方がなかった。伝えたくてたまらなかった。狂おしい感情の奔流が、少女の小さな胸の裡で渦を巻いた。激しく、切なく。

 心の痛みと哀しみが、彼女の肩を震わせた。

「辛いよ……」

 少年は、少女が顔を背中に押し付けてくるのを感じた。彼女の嗚咽と体の震えを実感する。泣いている。声を押し殺して、泣いている。胸が痛い。心が締め付けられるようだった。激しく、儚く。

 彼はなにも言えなかった。ただ茫然と自転車を漕いでいく。彼女がここまで感情的になったことなど、いままでに一度だってなかったのだ。それは、彼女が本心をひた隠しにしてきたからなのだろう。今さらのように気づく。自分は、彼女のことなど何も知らなかったのだ。

 少女はいつも、笑っていた。

 天使のように。

 少年の脳裏を思い出の日々が散乱する。咲き乱れ、螺旋を描く。まるで走馬灯のように、輝かしい日々が過ぎ去っていく。少女が転校してきた日――彼が恋に落ちたあの日から今日に至るまでの毎日が、目に痛いばかりの光彩を放って頭の中を駆け巡った。

 数え切れない想い出がある。忘れられない想い出がある。すべてが大切な記憶だった。なにひとつ欠けさせてはならない。だから。

 少年は、決然と顔を上げた。告げる。

「逃げよう」

 彼は、真剣そのものだった。このまま、彼女を連れ去ろうと思った。体力は限界に近い。それでも彼女が望むなら、どこまでだって行ける――そんな気がした。

 きっとそれは気のせいなどではない。

 彼女が望むなら、きっと、どこへだって行ける。なんだってできる。たかが中学生に何ができるというのかわからなかったが、いまならなんだってできるのだ。確信があった。その確信は、彼女への想いの強さそのものだった。

「え……?」

「一緒に、逃げよう」

 少女は、彼の背中に埋めていた顔を離すと、頭上を仰いだ。夕日の紅は、次第に闇の色に染まりつつあった。今日が終わろうとしている。彼女の我が儘もここまで。普通の少女として振舞っていた時間が終わるのだ。幕が降りる。舞台上の役者は、去らなければならない。

 彼女はただ頭を振った。その上で、告げる。

「無理よ」

 少年の体力や無計画さが問題ではない。もちろん、その点からして無理があるのだが、彼女の感情はそんなこと気にしてもいなかった。

 むしろ嬉しかったのだ。そこまで想ってくれているのだと理解できたのだから、喜びしかなかった。

 でも、だからこそ、はっきりと告げなくてはならない。

「できっこないわ」

 前方を見やる。

 夜の闇が迫るサイクリングコースの先に、光があった。無機的な光。自動車のライト。前方には、ふたりの進路を塞ぐように何台もの軽自動車が停車していた。

 その逆光の中に人影がひとつ。

「なんだよ、あれ……」

 少年が怪訝そうにつぶやくのもわからなくはない。ここは河川敷のサイクリングコースだ。軽自動車とはいえ、乗り入れるのは難しい。駐車場もあるにはあったが、ここからは遠い場所にあったはずだった。もっと広い空間でなければ、駐車場を作ることもままならない。

「ほら、逃げられっこない」

 それは締観などではないはずだった。ただの自嘲だったはずだ。しかし、彼女の声は震え、視界は揺れていた。涙だけが、音もなくこぼれ落ちていく。

 少年は、進路を塞がれた以上、渋々ながらも自転車を止めるしかなかった。数台の車のライトが照らすコースの上、たったひとつの人影がこちらに近づいてくる。

 少年には、長身の男のように見えた。逆光の中、わかるのは背格好くらいのものだ。服装もわからなければ、顔つきは愚か、表情さえ読み取れない。ただ、その目がこちらを見ていることだけは間違いないように思えた。

 不意に少年は、少女が自転車から飛び降りるのを振動で感じた。彼は驚きながらも、それは当然の判断のように思えた。もはや自転車では進めない。そしていまさら引き返すこともできない。なぜかはわからないが、そんな気がした。

 彼も自転車から降りた。自然、少女と横並びになる。ふと見ると、車のライトに照らされた少女の横顔は、目にいたいばかりに輝いていて、本物の天使がそこにいるかのような錯覚を抱かざるを得なかった。彼女の目元が煌めいていることには気づかない。気づきようがなかったのかもしれない。

「先程、本日午後七時○○分を以て、吉崎風花(よしざきふうか)に関するあらゆる情報は抹消された。君は本来の任務に戻りなさい」

 極めて冷徹な男の声は、夕闇の中でよく通っていた。耳朶に突き刺さるような鋭さがありながら、余韻を残さない潔さも持ち合わせた声音。冷水を浴びせられたような気分にさせる。

「はい。わかっています」

 少女は、一歩前に進んだ。その表情を少年が伺い知ることはできない。

 少年は、彼女のことよりも男の発言に捕らわれていた。男が告げた吉崎風花とは少女のことだ。素敵な名前だと、いつも想っていた。ただ、名前で呼ぶのはどこか気恥ずかしくて、口にすることさえほとんどなかったが。

 男がいう彼女に関する情報の抹消とはどういうことなのだろう。額面通りに受けとれば、彼女の記録という記録を消去したということなのだろうが、本当にそんなことができるのだろうか。

 普通はできないし、できたとしても並大抵のことではない。そもそも、どうして彼女の情報を抹消しなければならないのか。

 吉崎風花とは何者で、なんのためにこの街を訪れたのか。そして、なに故、去ってしまうのか。なにか理由があるというのなら、それを知りたかった。

「どういうことだよ!」

 混乱の中で、彼には叫ぶことしかできなかった。叫び声を上げることで、少女の足を止めようと思ったのかもしれない。渦巻く感情は、彼に理性的な判断を許さない。

 男のまなざしがひどく冷ややかなのを認めて、少女は、努めて冷静になろうとした。少年の痛々しい叫び声は、彼女の胸に突き刺さる。だが、歩みを止めることはできない。

 男が、告げた。無機的な声で。

「七瀬裕太(ななせ ゆうた)君。君には関係のない話だ」

 男が言葉にした名前に、少年はただ愕然とした。それは間違いなく彼の名前だった。父と母が苦慮の末に考え出したという、彼を定義する名前。平凡といえば平凡かもしれないが、これ以上ないくらい彼に似合っているともっぱらの評判だった。名が体を表すのか、体が名を表すのか。その両方かもしれない。

「なんでぼくの名前を知って――」

「君は、我々の天使に関わる事象のひとつとして観測されたのだ。調べないわけにはいかないだろう。家族構成から人間関係、生まれた病院に至るまで、ありとあらゆる情報を調べさせてもらったよ」

 事も無げに告げてきた男に対し、七瀬裕太の混乱は深まる一方だった。彼らは一体何者なのか。なぜ、そんなことまで調べる必要があったのか。疑問が疑問を呼び、嵐が、彼の小さな頭の中を席捲した。答えなど出るはずもない。彼らは、その答えに到達するためのわずかな情報さえ口にしていない。

 不意に、吉崎風香が口を開いた。

「青木さん、これ以上はやめましょう。時間の無駄です」

 感情を押し殺したような声は、少年の耳にはひどく冷ややかに聞こえていた。彼女はなんとかして突き放そうとしているのだが、彼にはその機微がわからない。ただ、痛みを感じた。心に棘が刺さったような感覚。

「そうだな。では、行くとしよう」

「はい」

 ほんの少し前まで吉崎風花だった少女は、まるですべてを振り切るように決然と歩き出した。その足取りに迷いは見えない。

 一歩、また一歩と、少女と七瀬裕太との距離が開いていく。

 七瀬裕太には、逆光の中へ消えていく少女の姿を見ていることしかできない。頭は混乱していて、理性の欠片さえも見当たらない。

 逆光の中、小さな天使の翼が、淡い輝きを放っているように見えた。いや、実際発光していたのだろう。羽の一枚一枚が、神秘的でありながらも弱々しく、そして儚げな輝きを帯びていた。

 その光が、少年の前から遠ざかっていく。

 逆光の中へと吸い込まれていくように。

 その先に待つのは、永遠の別離。

 もう二度と、逢うことなんてできなくなる気がした。

 だから、七瀬勇太は叫んだのだ。彼女の名を。

「吉崎風花!」

 少女は、その叫び声を背中で聞いていた。光の中へと進みながら、聞いていた。そしてはっとするのだ。彼が彼女の名前を呼んだのは、これが初めてだったのではないか。

 少女の胸の内に小さな喜びが広がった。名前を呼ばれることがこんなにも嬉しいものだとは思っても見なかった。元より、偽りの名前だ。仮初めの生活を送るために考えた名前に、愛着などないはずだった。

 にも関わらず胸中に広がる動揺を抑えきれず、少女は、足を止めた。車のライトの無機的で鮮烈な光が、彼女の視界を白く染めている。

「ぼくは、君が好きだ!」

 少女は、呼吸を忘れた。耳朶に飛び込み、鼓膜を震わせた言葉の意味を理解した瞬間、彼女の意識は真っ白になった。眼前の光景と同様――。

 少女の世界が純白に塗り潰された。

「こんな気持ちは初めてなんだ」

 それはたぶん、彼女が転校してきたあの日に感じた気持ちなのだ。

 一目見て、彼は彼女に恋をした。

 七瀬裕太にとって、それは、初めての気持ちだった。

「君と一緒に居たいんだよ」

 七瀬裕太の告白は続く。彼はあらんかぎりの大声で思いの丈をぶちまけていた。いましかない。もう二度と逢えないというのなら、すべてを曝け出してしまうしかなかった。胸の内に秘めておくなど、以ての外だった。

 なにも伝えないまま、なにもわかってもらえないまま永遠に逢えなくなるなど、彼には到底認められることではなかった。

「ずっと、ずっと一緒に居たい」

 本当の気持ちを言葉にするのは、難しい。

 けれども彼は、喉が枯れ果てるまで言葉を発し続けるつもりでいた。彼女に伝えたい想いがある。届けたい気持ちがある。そして、この感情を彼女に伝えるのは、言葉で届けるしかなかった。ほかに選択肢などあるはずもない。

 だから、叫ぶ。

「ぼくには君が必要なんだ!」

(ああ……)

 彼女は、どくん、という胸の高鳴りを耳にした。真っ白だった世界が薔薇色に染まっていくのを認めた。視界に映るものも映らないものもすべてがあざやかな色彩によって飾り立てられ、まるで彼女の恋を祝福するかのように歌を歌う。

 こちらを照らす車のライトも、河川敷の見慣れない景色も、西の空に沈みゆく夕日も、残りわずかな夕日を反射して煌めく川面も、空を覆い始めた闇も、なにもかもすべてが美しく、素晴らしいものに見えた。

 世界がこれほどまでに素敵なものだとは想ったこともなかった。

 喜びが溢れた。涙となって、頬を伝った。心の奥底に押し込めていたはずの感情が堰を切ったように流れ出している。まるで洪水だった。感情の洪水。喜び、怒り、悲しみ、様々な感情が怒涛となって押し寄せ、少女の小さな胸の内で暴れ回った。

 混乱が起きる。

 どうしたらいいのかわからなくなる。

 前に進まなければならないのに、足が動かなくなっていた。

 彼女は、ついに背後を振り返った。光に曝された少年の姿はとても眩しくて、まっすぐ見詰めていられる自信はなかったが、それでも、彼女は彼を見た。心音が一層高鳴る。

「七瀬裕太……君」

 この甘美な気持ちを恋というのだろう。素敵な気持ち。甘くて、美しくて、辛くて、切なくて――彼女は、この気持ちを大切にしたいと想った。永遠にしたいと願った。だからこそ、口にしてしまったのかもしれない。

「わたしも君が好き」

 想いを言葉にした瞬間、彼女の中でなにかが弾けた。

 こんな気持ち、生まれて初めてだった。

 少女は、駆け出していた。彼女の足を止めるものはどこにもいない。なにものも、彼女の行動を制止できない。

 彼と一緒に居たいと想った。

「でも!」

 いつまでも、一緒に居たいと想った。

「でもね……!」

 彼女もまた、自分には彼が必要だと想っていた。

 たかが数ヶ月を過ごした関係でしかない。ただの友人。それ以上の間柄ではない。恋人未満なのだ。それは、互いにその先へと踏み込む勇気がなかったというだけではなく、その関係でも十分に満たされていたということが大きい。

 ふたりともまだまだ子供だった。精神的にも肉体的にも幼くて、だから、ただふたりで遊び回るだけで満たされたのかもしれない。その関係になんの疑問も抱かなかった。それだけで良かった。それ以上など望みもしなかった。ずっと一緒にいることができるなら、それだけで満ち足りていたのかもしれない。

 だからこそ、彼女の心は悲鳴を上げていた。

「それは無理なのよ。一緒には居られないの。わたしと君は住む世界が違うから……!」

 七瀬裕太が、彼女の涙に気づいたのは、少女が目の前まで近づいてきたからだった。両目からこぼれ落ち、頬を伝う涙は、逆光の中で不思議なほど美しく見えた。

 けれどそれは見た目だけだ。彼女の内心は荒れ狂っているのだ。それが痛いほど伝わってくるから、彼にはなにもいえないのだ。

 決意を込めた告白は、空転した。

 彼女の慟哭だけが、ふたりだけの世界を震わせていた。

「住む世界が違う?」

「君は知らなくていい。これ以上知れば、引き返せなくなるわ。後戻りできなくなる……」

「構わないよ」

 至極当然のように即答した七瀬裕太のまなざしは、強く、優しい。

「ぼくはそれでも構わない。君と一緒に居られるならそれで――!」

 七瀬裕太の言葉が途切れたのは、少女の唇によって口を塞がれたからだ。柔らかな感触とともに電流のようなものが全身を駆け巡った。あまりの出来事に、彼の頭の中が真っ白になったとしても仕方がなかっただろう。そして、彼は自分の身に起きた異変に気づくことはなかった。

 そのまま気を失ったのだ。

「大好きだよ」

 少女は、意識を失って崩れ落ちる少年の体を抱き止めると、彼の耳元にささやくように告げた。七瀬裕太の体は思ったよりも軽くて、彼女は自分が人とは違うということを認識する羽目になったが、それはもはやどうでもいいことになった。

 彼女は、少年の髪を撫でた。それを最後の想い出として胸に刻む。唇に残った微熱も、永遠に忘れないだろう。この身が朽ち、魂が滅び去ったとしても、きっと。

 小さな羽を精一杯に広げた少女は、静かに天を仰いだ。夜の闇と夕の陽が絶妙に混ざり合った空の色彩は、彼女の決断を祝福するかのようであり、ふたりの別れを惜しむかのようだった。

 天使の羽が強い光を放つ。

 彼女の想いに呼応するかのように。

 光はやがて、この街全体を優しく包み込むだろう。

 吉崎風花が存在した痕跡を掻き消すために。

 記録媒体のみならず、人々の記憶からも消え去るために。

 風が、彼女の頬を撫でた。

 数多の想い出が、風とともに天を舞った。




 





 七瀬裕太が目を覚ましたのは、デジタル時計が午前六時を明示するのとほぼ同時だった。いつものことだ。彼にはアラームなど必要ないのだ。

 早起きだけは、彼にとっての特技といえた。もっとも、この特技が別段役に立ったことはない。今後も役に立ちそうな気配はなかった。彼の感覚においては、だが。

 伸びをする。

 眠気が、わずかに残っていた。

 長い夢を見ていたような気がする。ひたすらに長い夢。悪夢ではない。むしろ幸福な夢だったように記憶している。ただ、夢の最後は悲しくて、切なかったように記憶していた。

 七瀬裕太は、散らかった室内を眺めながら眉根を寄せた。夢の詳細が思い出せないのだ。まるで霧がかかったかのようだった。

 これでは、夢の余韻に浸ることもできない。

 いや、そもそも夢の詳細など覚えているほうが希なのだ。眠りの淵で脳が見せる幻想。目が覚めれば、記憶の奥底へと沈んでいく。一度沈んでしまえば、心の水面に浮上することはまずありえないといってもいいのではないか。よほど印象に残る夢でもない限り、思い出すことなどあるはずもない。

 けれど、彼には納得できなかった。どこか理不尽な気がした。大切なことさえ忘却してしまったような、そんな感覚。

 それは喪失感といってもよかった。

 心に大きな穴が空いているのだ。とても大きな穴。昨日までそんなものが存在していたどうかさえわからないし、その空白が生まれた理由も思い出せない。

 夢が原因などではないはずだ。所詮、夢は夢に過ぎない。心に深い傷を負うほどの夢などあるわけがない。そう、断じる。

 ならば、この喪失感はなんなのだろう。

 なにを失ったというのだろう。

 わけのわからない違和感を抱えたまま、彼はベッドから抜け出した。身体が鉛のように重いのは、昨日酷使しすぎたからに違いない。途方もない運動量だったはずだ。なんの運動をしたのかはさっぱりと思い出せないが、肉体が悲鳴を上げていることだけはわかる。酷い筋肉痛だった。

 彼は顔をしかめながら、嘆息した。昨日、何をしたというのだろう。いや、なぜそんなことも思い出せないのだろう。自分はどうにかなってしまったのではないのか。そんなことを考えてしまう。

 答えなどでない。

 ふと、七瀬裕太は、微熱を感じた。唇が熱く、疼いている。

 指先が唇に触れた瞬間、彼の眼から涙がこぼれた。

「あれ……?」

 理由なんてわからなかった。なにかが脳裏を駆け巡り、全身が震える。心の奥底から哀しみが溢れ、両目が熱くなる。

 涙が、流れ落ちた。

「なんだよ、これ……」

 彼は、自分の身に起こった異変の意味が理解できず、呆然とした。

 ただ、涙だけがこぼれ落ちていく、なにもわからない。なのに、無性に悲しかった。悔しくて、切なくて、心が震えるのだ。

 大切なものを失ったような気がする。

 とても大切で、とても重要なもの。

(ああ、そっか……)

 七瀬裕太は、なにかが終わったのだと悟った。悟らざるを得なかった。もはや取り戻せないのだ。

 きっと。

 風が、窓から入り込んできた。見ると、窓は開けっ放しのままで、レースのカーテンが爽やかに揺れていた。無用心なのはいつものことだった。気にすることではない。

 その風に煽られたのか、一枚の羽根が七瀬裕太の視界に舞った。小さな羽根。天使の――。

「あ」

 彼は咄嗟に手を伸ばしたけれど、渦巻く風にもてあそばれて、少年の手は空を切った。

 羽根は、風に乗り、窓の外へと運ばれていく。

 それはまるで、小さな天使が地上での役目を終え、天へと昇っていく様に見えた。

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天使のくちづけ 雷星 @rayxin

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