第9話 全身ジンマシンに大学へ進学しない高校受験(僕 中学3年生)『希薄な赤い糸・男子編』

「おーし、もういいぞ。構図の下絵ができたから、今日は終わりだ」

 先生が、恐ろしげな顔を綻(ほころ)ばせて、デッサンモデルの終了を告(つ)げたのは、西に傾(かたむ)いた陽(ひ)がまだまだ高い午後5時を少し回った頃だった。

 普段は仁王像(におうぞう)の様なギョロ目が怖(こわ)いけれど、偶(たま)に見せる笑顔は、妙(みょう)に可愛(かわい)いと女子達に評判だ。

 夏の明るい夕暮れは、長くて蒸(む)し暑(あつ)い。

 あと2時間余り経(た)たないと。宵闇(よいやみ)が涼(すず)しさを連れて来ない。

「次は、後期が始まってから、時々、彫刻のモデルで、手伝って貰(もら)うからな! なあに、ちょっとだけだ」

 後期に入ると、高校受験の勉強を頑張(がんば)らないといけないけれど、抗(あらが)えない決定事項を伝えるみたいな強制力を感じる。それに時々で良いなら、僕は先生の作品作りに参加していたかった。

 今日のモデル役は終了。

 そそくさと冬の制服を脱(ぬ)いで、Tシャツに着替えて下校する。

 脇(わき)に抱(かか)える、素肌(すはだ)に直接着て表地(おもてじ)まで汗を染(し)み込ませた学ランは、ところどころ、白く塩の線を描いて生地(きじ)に張りが無く、ボタッとして見窄(みすぼ)らしくて汚(きたなら)しい。

 その汚らしさは、生乾(なまかわ)きの汗の饐(す)えたような酸(す)っぱい鼻が歪(ゆが)みそうな臭いで、如何(いか)にも不潔(ふけつ)になっている自分が気持ち悪い。

(う~、くっさあ。女子達は、よくこんなのを着ていた僕の隣へ、何気に、立ってくれたなぁー)

 女子達は、哀(あわ)れっぽい見窄らしい見掛けがダメだけれど、この酢酸(さくさん)みたいな臭いが嫌じゃないのかと思いながら、『これが男の臭いなのかも』と考える。

 もしかして、男らしい臭いなのか?

 家に着くなり、お袋に、『風呂(ふろ)に入る』と告げて、脱衣場の洗濯籠へ学ランを放り入れ、急ぎ湯船に入り込み、蛇口を全開にして勢い良く水を出す。

 家の風呂は、電気温水器の全自動タイプで、お湯張りが速くできるけれど、体が熱くて本当に水風呂に入りたい。そして、蛇口から迸(ほとばし)る水に顔を近付けてガバガバ飲んだ。

 もう、身体が脱水状態で、体力の限界寸前だ。

 湯船の底に水が溜まりだし、徐々に水位が上がって、熱中症寸前の熱い身体を少しずつ、冷やして行く。

 手に水を掬(すく)って、心臓麻痺(まひ)を起こさないように、胸や首に浴びせながら摩(さす)る。

 美術教室の茹る暑さに、真夏の無風の炎天下、通気を抑えた保温性充分の学ラン、周り舞う塵(ちり)や埃(ほこり)といっしょに僕を熱する、西陽(にしび)の直射を浴びながらの下校路。

 既に、頭は熱射病、身体は熱中症だ!

 まだ、意識を保ってる自分に驚いてしまう。

 甲斐甲斐(かいがい)しい女子達がいなければ、疲れ損(ぞん)の、全く、救われない酷(ひど)い1日になるところだった。

 陽がだいぶ傾いたのか、窓の磨(す)りガラスが薄(う)っすらと、紅(かあ)く染(そ)まり出した。

(めっちゃ疲れた……。すっげーだるい……。こんなにだるくなるほど、……疲れたのは、……初めてかも知れない)

 水位が上がった気持ち良い水風呂に浸(つ)かりながら、ポリポリと、さっきから痒(かゆ)いと感じていた右の腕を無意識に掻(か)いた。

 次に左の腕も痒くなって、ポリポリと爪を立てる。

 あまりにも痒いから、学校か脱衣場で蚊に喰われたのかと、両の腕を見て、湯船から飛び出るほど驚いた。

「うおおぉぉぉーっ! なっ、なんだこれーっ!」

 体中どこもかしこも、肌に赤い斑点(はんてん)の浮腫(むく)みというか、発疹(はっしん)が浮き出て変に突っ張った感じがしているし、首筋や頬にも違和感が有って鏡に映して見ると、顔中にも発疹だらけだった。

 初めて現れた、異様で異常な自分の肌に、もうパニックだ!

(くそぉ、変な病気になっちまった! もう、治(なお)らない不治の病(やまい)……、既に、手遅れなのかも……。いや伝染病だったら、どうしよう……。どこで感染したんだ?)

 慌てて風呂場から飛び出して、一縷(いちる)の望みを託(たく)して、お袋に救いを求める。

 驚愕する気持ちの焦(あせ)りとは裏腹に、体全体がチリチリと熱くて、ガリガリと掻き毟(むし)りたいほど、痒くなって来た。それに、頭が熱っぽくてだるい。

「母(かあ)さん、なにこれ! 体中が、赤く斑模様になってる! 痒くて堪(たま)んないよ!」

 叫んで、お袋を呼んだ!

(この異常な体じゃ、何処(どこ)へも行けない! 誰とも会えない! 特に、彼女にだけは見られたくない!)

「あっらーっ! あらあら、どうしたのそれ? ジンマシンだわね。今日は何処(どこ)で何してたの?」

 お袋は目を見開いて、僕の異常な皮膚の状態に驚いたけれど、直ぐにジンマシンという病気だと判断して、冷静に原因と生(な)り得(う)る経緯(いきさつ)を訊いて来た。

(ジンマシン? なんだそれ? カブレみたいなもん?)

 小学校の時に家族で近くの山へ山菜採りに行って、漆(うるし)の葉に触れてカブレてしない、酷く腫(は)れて痒がった事があった。

 その時にカブレて腫れたのは、漆の葉に触れた部分だけだったのに、今は全身が赤い斑点だらけだ!

「直ぐ、皮膚科の医者へ行くわよ。さあ早く、服を着なさい」

 お袋の言葉に、全裸でお袋と向き合っていたのに気付き、慌てて、滴る雫を拭きもせずにTシャツと半ズボン着る。

 服を着て水風呂で冷やされた身体に体温が戻って来ると、全身が居た堪れないくらい痒くなった。

 蕁麻疹(じんましん)は、体内部からの病的反応のアレルギーやストレスによる心因性、そして、物に触れたりする物理的な要因の過敏反応のショックで現れる、急性皮膚病で蚯蚓(みみず)腫(ば)れもそうだと、診(み)てくれた医者先生が教えてくれた。

 毛虫に刺(さ)されて腫れ上がるのや、盆栽の黄櫨(はぜ)の木を植(う)え替える時に飛び散る根(ね)周(まわ)りの土を浴びたり、水母(くらげ)の触手に刺されて蚯蚓腫れになるのは、それらが持つ毒によるカブレで、ジンマシンとは違うそうだ。

 病院で注射と点滴を受け、毎日飲む内服薬を貰ってから家へ帰った。

 少なくても1週間、普通でも2週間、薬が合わないと1ヶ月は、治癒(ちゆ)しないと言われ、兎(と)に角(かく)、刺激味(しげきあじ)のモノは食べないで安静に寝て過ごした。

 夏休み、8月初旬から想定外のジンマシンの熱で、物憂(ものう)げに身体が火照(ほて)って寝込んでしまった。

 クーラーが利(き)いた自室のベッドで、お袋が用意してくれた氷枕に頭を乗せ、氷水で冷やしたタオルを額(ひたい)に当てて寝ようとするけど、直(じき)に頭だけが冷やし過ぎで、キンキンと痛んで寝付けない。

 寝苦しく、熱に魘(うな)されながら、枕許(まくらもと)にいる彼女に、時々、額のタイルを冷たくして欲しいと、そして、赤く浮き出た発疹だらけの痒い体も、拭いて欲しいと、泣きながら御願いしている自分の、悲しい夢を見た。

 そんな、嬉しい悪夢を見てから思う。

(彼女も、僕を好きになってくれて、互いが相手の傍にいて、安らぎたいと願うようになりたい。でも今は、僕が求めれば、求めるほど、迫れば、迫るほど、僕を好きじゃない彼女は、僕の想いを躱(かわ)して僕を避(さ)けるようになるだろう。遠ざけられるのは怖い。二人がリアルで普通に話すようになれば、より彼女を知って、もっと、もっと、好きになれると思う。だけど、僕の身繕(みづくろ)いしながらの語(かた)りが、ハリボテで中身の無いと知られて、徐々に彼女が、離れて行ってしまう不安に苛(さいな)まれてしまうだろう。好きで、大好きで、堪らなく大好きなのに、彼女に、僕を好きになって貰うのが、……怖い。それでも……、僕は彼女が大好きだ!)

 めげる身体が、夢見の悪い、悲観的な結末の夢ばかりを見させてくれた。

 2週間ほどで、腫れと痒みは退(ひ)いて、身体は楽になったけれど。

 赤い斑点は、まだ消えてくれない。

 少しづつ薄くなって行ってはいるが、まだまだ夏休みだというのに、再発の不安と、格好悪さに外出は控(ひか)えた。

 ダチ達にも、見られたくないから、『そっちへ遊びに行く』コールを悉(ことごと)く断っている。

 TVゲームをプレイするのも、レンタルや録画したアニメや映画を観るのも、飽(あ)きたし、好(この)みのコミックも、最新号まで全て読み終えた。

 とうとう、する事が無くなってしまったので、仕方なく、高校の受験勉強をする事にした。

 日がな一日、暇が有れば、参考書と教科書を覗き、メモリーが少なくて、忽(たちま)ち消去する脳に化学記号と英単語を暗記させ、頭痛がするくらい、苦手(にがて)な方程式と古典を理解できるように努力した。

 ジンマシンの斑点は夏休み最終日の朝に、漸(ようや)く、すっきりと綺麗に全身から消えてくれて、翌日の後期始業式へ、安心して出席できた。

 その後、残暑日の放課後に学ランを着て、彫像の部分補正のモデルを何度かしたけれど、肌に免疫ができてしまったようで、1度もジンマシンを発疹していない。

     *

 高校受験……、初めは、彼女と同じ、高校へ進みたいと考えていたけれど、僕の成績が障害になった。

 そこは、学力レベルの高い普通科の県立高等学校で、それなりの大学へ進学する為の、登竜門的な存在だった。それに、彼女と同じ高校へ行く事よりも、大人びた彼女に少しでも、近付きたいと思う。

 目標を見付け、それに向かって、自分で切り開き、道を造って行く彼女が羨ましくて、僕は憧(あこが)れていた。

 彼女への憧れが、僕を1日も早く、自立したいという思いにさせた。

 彼女からのメールも、自立への思いを加速させる。

 コーラス祭の一瞬の感動だけでは、彼女を急変化させて、僕へ急接近させる事はなく、相(あい)も変わらず、スマートフォンでメールを交換するだけだ。

 互いに声を掛ける事をしない状況は、とても、交際していると言えるものではなかったけれど、彼女からのメールには、僕の進路を心配している文字が増えていた。

【あんた、真面目に勉強してんの? 学校じゃ、あんたのふざけてるとこしか、見たことないんですけどぉ。どこ受ける気なのよ?】

 僕は、コセコセして心にゆとりが無く、気分的にも小さな事に拘(こだわ)っていた。それに、オドオドして、落ち着きが無くて、きっと、それら全部が彼女に不誠実や不信感や不真面目感を感じさせて、僕の将来を不安に思わせているのだろう。

 自分の進路を、真剣に考えなければならないと思う。

(彼女は、僕を心配してくれている……?)

     *

 僕は、受験校を決める前に、進路を両親に相談した。

 自分の将来なんて、全く、漠然(ばくぜん)として、具体的に思い描けなかった。

 僕の乏(とぼ)しい知識や経験からの情報では、しっかり、仕事を熟すようになってから、結婚して家族を持ち、そして、幸せな生活を送るくらいにしか、イメージできない。

(なんか、在り来たりで、保守的だな)

 自分の将来の展望なんて、どれも客観的な目的や結果ばかりで、自分の主体性も、ストーリーやプロセスも無く、どうすれば、そう成れるのか、その第一歩(だいいっぽ)の選択が分からない。

 社会や大人を、漠然としか捉(とら)えられない僕は、お袋と親父の、具体的なアドバイスに期待した。

 最初は、お袋に訊いた。

「自分で考えて、判断しなさい。決めるのは自分よ。自分自身の人生でしょ。他人に任(まか)せたり、委(ゆだ)ねたり、しないでちょうだい」

 笑顔のお袋は、明るく張りの有る声で言い放つ。

(ぎょっ! いっ、いきなり、それは、ないんじゃん……)

 予想以上のつれない言葉に僕は怯(ひる)んでしまった。

 日頃のお袋の態度から、ある程度は予想していたけれど、初っ端(しょっぱな)から冷たく突き放された。

 お袋は、僕の描く、自分の未来イメージに希薄さを感じたからだろうか?

 僕は、大人になっていく事への現実的なイメージを、ちっとも想像できない。

「親子も他人よ。あなたの将来は、どうなるのか、良く分からないわ。でも、いつも願っているの。あなたにとって、良い人生であるようにと。良い人生の判断は、人それぞれ違うけれど、私達、家族にとって、そう思える、あなたの人生であって欲しいの。それに、今のあなたは身体も、心も、まだ子供なの。自分で、成長したと思って大人びていても、まだまだ成長するのよ。今は見えていない事も、見えて来るのよ。考え方や感じ方も、変わっていくわ」

 確かに、お袋は、お袋であって僕じゃない。

 お袋が、深く大きな愛情で僕を包みながら、見守ってくれているのを知っている。

 だけど、僕が経験していない将来の振り返りみたいな事を、思春期と青春期を過去にした、お袋から言われても、現在の自分に当て嵌(は)めて考えられない。

(ちょっとぉ~。そんなんじゃなくてさぁー、『大学行けばぁ』とか、『商業? 工業?』とか、『専門学校の選択肢もあるわよ』なんて、言ってくんないの~?)

「親は、子供に躾(しつけ)や教育とアドバイス、それに、お金や物を与え、見守る事しかできないのよ。子供が歩(あゆ)む道標(みちしるべ)でしかないわ。経験や体験、聞いたり、見たり、読んだりした、そんな事しか、伝えるしかないの。でもそれは、参考でしかないでしょう? あなたには、あなたを取り巻く環境や生活は、私達の頃から変化していて、当て嵌まらない事が多いと思うわ」

 要するに親は、道標(どうひょう)に例える案内と基準だという意味だと思う。

 それは、決定権は自分に有るから、自分が決断しろって事だ。

 受験のような人生を左右する大事な事柄(ことがら)の指針は、親や他人に委ねずに、自分で責任を持って決めろって言っている。

 お袋の言葉一つ一つが、僕を追い込んで、畏縮(いしゅく)させていくような気がする。

(ううっ、ビシバシと言ってくるなぁ。高校受験は僕にとって、自分の人生を左右する第一歩なんだぞ。そうだから、もっと真剣に考えろって意味で、言っているんだろうけど、そこが、分からないから訊いてるのに……)

 具体的な方向を示して貰おうと、甘えた軽い気持ちでした進路相談は、お袋の言葉で、漠然と幸せを期待していた明るい将来への展望を、段々と負担の重い、暗くて不安な枷(かせ)に変えて行った。

「例えば、『志(こころざし)』を持ちなさい。それは、夢を持つ事から始まるのよ。それに向けて進みなさい。これから先、今のように迷う事が多いでしょう。あちこちに目移りして、羨んで、後悔したり、反省したりするでしょう。分岐する人生は、そこで、一つしか選べないの。引き返しや並行世界に行く事はできないわ。でも、交(まじ)わせて合わす事はできるわ。それが、できるように人生を貫(つらぬ)く志と夢を持ちなさい。で、高校へは行きなさい。夢を叶(かな)える志が、見付けられるように高校で努力しなさい。高校で見付けられなければ、大学で探しなさい。それでも……、なら……、ううん、探し求め続けるのが、人生かな……? ……人生かも?」

(漸く、具体的っぽい事を言ってくれたけど、分岐する人生……? 多次元宇宙に並行世界か……?)

 野暮(やぼ)ったいと思っていたお袋が、観念的でSF的な言葉を使うのには驚いたけれど、お袋の言った事に実感は無かった。

 僕の15年ばかりの人生では、意欲が有っても、経験や試練や迷いが足(た)りない。

 少な過ぎて、良く分からなかった。

 でも、その通りなのだろう。

(『探し求め続けるのが、人生かな?』って、なんか、適当っぽいぞ)

「それと向上心(こうじょうしん)を持ちなさい。向上心が無いと、あなた自身が成長できないし、任(まか)せるという信頼感を持たれないわよ」

 『向上心』、確かに無意識でも、これが持たないと幼稚(ようち)さから子供さへ、更に思春期から青年へ、少年から大人へという成長は無いだろう。

 向上心は、チルドレンの心をアダルト化する事ではなくて相容(あいい)れるようにする心で、チルドレンで抱いた夢を大人の節度(せつど)を持って実現する為に欠(か)かせない見極(みきわ)める力だ。

「疑問を持たないと向上心は生まれないし、成長の加速も無いわよ。何が疑問となる不都合(ふつごう)なのか、、しっかり障害(しょうがい)を見定(みさだ)めなさい。あなたの力量を上げて器量(きりょう)を広げなさい。あなたの周りの大人を良く観察して学びなさい。力が有っても雑(ざつ)なマナーの大人はクズよ。変化を嫌う積極性の無い大人もボケよ。いかに器量の小さい大人と狭(せま)い了見(りょうけん)の大人が世の中に多いか良く見て、反面教師(はんめんきょうし)にしなさい」

(そう、世間(せけん)の御老体(ごろうたい)や商売人や教育者にも些細(ささい)な不快(ふかい)さで直ぐキレる頑迷(がんめい)な人がいて、その態度を見るだけで、その声を聞くだけで、無関係な僕まで恥ずかしくなってしまうけれど、当の本人にとっては日常の当たり前の事で、反省が無いのだ)

 『志』と『向上心』、それは健康で有れば100年も生きる茫漠(ぼうばく)たる人生を希望に満ちた明るい生涯(しょうがい)にし続ける為の心の有り様(よう)ちだろう。

 これが夢になるのか分からないけれど、僕には遣ってみたいことが有った。

 しかしまだ漠然としていて、遣りたい事に繋がって行くのか分からない。

 僕は、趣味の緻密(ちみつ)なプラスチックモデル作りや、美術の授業での絵画や彫刻造りのインスピレーションやモチベーションを活(い)かせればと思う。

「良く分からないけれど、何かを創(つく)り出したいんだ」

 お袋は、頷いてくれる。

「そう、それなら、お父(とう)さんに相談しなさい。あの人なら、きっと、夢を探す光をくれるかもね」

 いつもは、アダ名に『さん』を付けて親父を呼ぶくせに、親子の真面目な会話になると決まって、お袋は親父を、『お父さん』と言う。

 我が子相手だと、自然に改(あらた)まって口から出てしまうのだろう。

 親父を指す三人称の『あの人』に、ふと、お袋へ尋(たず)ねてみたい事を思い付いて、……訊いてみた。

「ちょっと、話が変わるけど、母さんは、父さんと結婚して、今、幸せだと思っている?」

 お袋と親父が結婚して、何年経つのか?

 どこで、どんなふうに知り合って、どれくらいの期間を付き合い、結婚に至(いた)ったのか?

 詳(くわ)しい事は知らないけれど、少なくとも、僕の歳以上はいっしょにいる。

 結婚前に同棲(どうせい)という同居暮(どうきょぐ)らしの3年間を含めて18年以上も、連れ添っている親父の評価や、今の幸せ度を、お袋から聞いてみたいと思った。

「そうねぇ、お父さんが元気で働いていて、息子も、娘も、私も元気で、家族4人の仲に問題は無く、当面のお金の心配も無い。それって、とても、幸せな事よね! だから今、私は凄く幸せよ!」

 お袋の僕を諭(さと)す顔が、パァッと笑顔になった。

『善(よ)くぞ、訊いてくれた』って感じの、嬉しい笑(え)みが、お袋の顔中から零(こぼ)れている。

 僕は今からも、近未来も、親父が、お袋にできているように、彼女を笑顔にさせ続けて行けるだろうか?

 親父は、小さな工場を一人で運営している。

 小学校の頃は、お袋と何度か行ったけれど、ここ数年、久しく訪れていない。

 たった一人で、自営して頑張っている親父なら、何かを諭してくれるかも知れないと、僕は期待した。

「人生は、一度ぽっきりだ。他人に相談しても、それは、道標にしかならないからな。俺も母さんも同じだ。物理的や精神的に助(たす)けて、諭して、道を示すだけだ。でも、それは、俺や母さんや他人の尺度での判断であって、お前自身のスケールじゃない」

 親父も、『お母さん』と、言った。

 ふだんは、名前に『さん』を付けて呼ぶのに、夫婦で示し合わせて、ケジメをつけているみたいだ。

 全く、良く似た者同士の夫婦だ。

(う~ん! 親父も、そう、来るのですか~)

 出だしから、お袋と同じだと言い切られて、僕は内心がっかりした。

(だから、具体的に諭して、助けてください……)

「おまえの人生の決定権は、お前自身にあって、おまえが決めなくてはならないんだ」

 言い切るだけあって、両親は、そっくり、同じことを言う。

(……ではなくて、何か、ヒントを下さい。ビシッと、こうしろと言ってくれたら、願ったり、叶(かな)ったりです)

 甘えている自分だと、分かっていた。でも、人生の未知の壁に直面して、超える不安に怯える今だからこそ、甘えさせて欲しい。

 親だからこそ、頼(たよ)って決めたい。

 今が……、この時点が、これからの僕の生き方を、左右するのだと、僕の中から声が聞こえている。

(親父も、お袋も、道標なら、方角や距離や到達地が描いて有るんだろう?)

「自分の人生を、他人の所為にしたり、させたりしてはダメだ。他人に、自分の人生を委ねるな!」

 やはり、似た者夫婦なのだろうか?

 親父にも、お袋へ質問した夫婦仲を訊いてみようかと思ったけれど、止めた。

(どうせ、同じような返事を言うだろうし、……いや、親父からコクったのだから、きっと、惚気(のろけ)られて長い話になりそうだ)

 親父は続ける。

「人生はフリーダムだ。人生に枷を嵌めたり、枷になるような人生にするな。人生を楽しめ。楽しめる人生をスタートさせろ! これから、行くところがある。ちょうどいい、お前もいっしょに来い。そこの人達を見て、話して、感じて学(まな)べ」

 親父は、僕を知人の会社や大学の研究室や工業試験場へ連れて行って、見学させたり。話を聞かせたりさせた。

 どこも最新の工作機械や設備が揃い、最先端のモノ造りや研究開発を行っていた。

 会う人や話を聞かせてくれた人は、どの人も、明るい笑顔で接してくれて、夢と自信を持ち、眼が輝(かがや)いて生き生きとしていた。

(楽しめる人生か……)

 その人達と話す親父は真剣に楽しそうで、明るく笑っている。

 笑う親父の顔と瞳は、確信と希望に満ちていた。

 親父が身近過ぎて、僕は気付かなかった。

 不思議な感じがするけれど、親父も、この人達と同じだと理解した。

(僕も、この人達のような大人になりたい)

 僕は、感覚的に、創造的に、実際的にも、自分が納得できる方向を探して進みたい。

 考え悩んだ末(すえ)に、市立(いちりつ)の工業高等学校を受験することに決めた。

 工業系志望なら、国立や私立(わたくしりつ)の工業高等専門学校、それに、県立の工業高等学校などの選択肢も有ったが、津幡(つばた)という遠方な町に在る国立は列車通いになって、所要時間的に億劫(おっくう)なのと、何より、学力レベルが雲の上で無理。

 私立は、彼女が狙(ねら)う高校と逆方向に在り、彼女と偶然に出逢う確率が、うんと低くなってしまう。

 県立は、中学校と同じくらいの距離に在るけれど、たぶん、彼女の通学のバス路線と違って、僕が、ワザと避けたと誤解されると思うからやめた。

 色々と考え悩んだ挙句に、僕は、色恋中心の自己中な、仕様も無い選択理由で市立に決めた。

 進学相談で、担任(たんにん)の先生から言われてしまった。

 『受けるのは、お前の勝手だが、今の成績では危(あぶ)ないぞ。受かっても、キリにギリギリだな。本気で受験するのなら、もっと、一生懸命に勉強するんだ』

 相変(あいか)わらず、成績は芳(かんば)しくなかったけれど、『幸せそうに笑(わら)う顔と、確信と希望に満ちた瞳(ひとみ)を持つ、そんな大人』になると、目標を決めたからには、その、第1歩の高校受験に合格しなければならない!

 それは、彼女との繋(つな)がりを保つ為(ため)の自分に課(か)した必須(ひっす)の条件で、是(ぜ)が非(ひ)でも全力で合格に持って行きたい!

 担任に諭(さと)された日から毎日、僕は真面目に、真剣に、深夜まで受験勉強に励(はげ)んだ。

(彼女と僕の未来の為に、何(なに)が何(なん)でも、必ず合格してやるんだ!)

 確信の無い不透明な二人(ふたり)の未来だけれど、記憶容量が小さくて、出来の悪い頭を、深夜まで働(はたら)かせていた甲斐(かい)があって、僕の成績は少しづつ上がっていった。

 そんな受験勉強の佳境期(かきょうき)の深夜に、模試(もし)プリントの解答で頭を抱(かか)えて悩(なや)み塞(ふさ)ぎ込んでいた僕を、イスから転(ころ)げ落とすほど驚(おどろ)かせてスマートホンに着信した彼女のメールは、またまた意図不明の質問系だった。

 度々(たびたび)、送られて来る落とし所の分からない問い方は、彼女の癖(くせ)なのか、思慮(しりょ)深(ぶか)いのか、それとも、ワザとなのか気になる。

【あんた、高校でも、美術やんの?】

 こんな丑三つ時(うしみつどき)を廻(まわ)る時刻だから、彼女も受験勉強の最中なのだろう。

 彼女の家まで、直線距離で約500メートル足(た)らず、ブラブラと散歩がてらに歩いても、20分で着く。

 ……と、励(はげ)みに彼女の部屋の灯りでも、見に行こうかと思うけど止(や)めた。

(それにしても、これは、深夜の受験勉強中に、訊(き)かなくてはならない事なのか?)

【やらない】

 授業や美術部で僕が 、作ったり、描(えが)いたりした作品を、彼女が良く観ていたのを覚(おぼ)えている。

 作品に興味が有ったのか、作風が気に入っていたのか、それとも、僕に興味が有ったのか、まだそれを、彼女に訊いていない。

【なんで、やんないのよ?】

 何だか怒(おこ)っているような感じだ。

 彼女と同じ高校を受験できなくて、違う高校を受験すると知らせたからだろうか?

(去年の元旦(がんたん)の年賀(ねんが)メールの、『同じ高校へ、いっしょに行けるといいね』は、本気だったのか?)

【スポーツがしたい】

 僕は、何かしらのスポーツをして、身体(からだ)を鍛(きた)えて逞(たく)しくしたかった。

 背が伸び続けて、背丈(せたけ)は高い方に入るくらいになっているけれど、コーラス祭のソロで歌った時も、もっと声を遠くへ飛ばして伸びさせるには、筋骨(きんこつ)隆々(りゅうりゅう)とまではいかなくても、今以上に、しっかりした体格にならなければいけないと思った。

 それは彼女を守る為にもだ!

【美術の才能が有るのに、勿体無(もったいな)いなぁ~。美大を目指せばいいのに】

 僕の美術の才能なんて、高(たか)が知れている。

 高校の美術部で活動して、進学した美術工芸大学で学んでも、飛躍(ひやく)的に伸びるとは思えない。

 問題は、美大を卒業した後だ。

 美の天才的な感覚など持ち合わせていないから、芸術家として興(おこ)して軌道に乗せ大成するまで、どれだけ僕は、親に世話を掛け続けるのだろうか?

【美大は目指さない。美大に進学する目的が、分からないんだ……。僕はただ、イメージを造形したいだけなんだ。造形や作画は、僕の趣味だよ】

 名の知れた芸術家の作品は、芸術家の他界後に価格が高騰(こうとう)したと、美術の雑誌で読んだ覚えが有る。

 世界的に有名な過去の芸術家達で、生前に十分な評価を受けた人はどれくらいいるのだろうか?

 現在も過去も未来も芸術家は、より多くを知り、見て、聞いて、訊き、語(かた)り、感じなければ、インスパイアされる活(い)きた作品を創作できないと思う。

 それは、チャンスに恵(めぐ)まれて財力を持ち、生活に余裕が有るか、また、才能を見出され作品が投資

の対象になると評価されて、創作資金を提供するパトロンが現(あらわ)れないと、存命中に大成できないだろうと、僕は悲観的に考えている。

【趣味でも、美大に行けば、洗練されるんじゃないの?】

 確(たし)かに、美大で技能や技術は洗練され、知識も増え、技法のレパートリーに困(こま)らなくなるだろう。

 それらを学ぶ中で、僕の作品は評価される。

 そして良い評価を得ようと、作風を改善し続けていくと思う。

 実際、創作を続けていると、いつの間にか、作風は変化して以前の作品が拙(つたな)く見えた。

 でも、それは本当に改善や洗練(せんれん)が為(な)されているのだろうか?

 美大に進学してまで、すべき事なのだろうか?

 ただの他人受けが狙(ねら)いだけの、変化なのかも知れないのに、僕は納得できるのだろうか?

 高評価を得る為の作風の変化と金銭(きんせん)と名声を得る為に必要な高評価、その為に芸術の才能は天から授(さず)けられたモノなのだろうか?

 それは僕の創作意欲を窮屈(きゅうくつ)にさせるだけじゃないのだろうか?

 僕には、良く判らない。

【うーん、どうかな~。上手(うま)く伝えれないかも知れないけれど、僕は、美大の科目を活かすような就職をしたくないんだ。まだ、漠然としているけれど、美術関係と違う職に就(つ)きたいと思っている。僕の趣味の延長ごときに、親の金で、4年間も大学へ行って学ぶのは、申し訳なくて、耐えられないよ】

 僕は、取り繕(つくろ)う言い訳ばかりを彼女に伝えている。

 美術の先生ほどの美への感性も、想像力も、持ち合わせていない。

 先生のような、恐(おそ)ろしいまでの気概(きがい)も、切れるような真剣さも、僕には無かった。

 僕は、先生みたいになれない……。

 そう……、美大で学んでも、感性や感覚が増長されて、その後に、成就大成できるとは限らない。

 学ぶのは、手法や技法や基礎美術で、それらを、熟(こな)して取り込み、自分のオリジナルを完成させ、インスパイアを受け、イマジネーションを発露させても、それが、大勢に受け入れられなければ、芸術家として世界を目指せない。

 そこまでの覚悟と自信が、僕に無かった。

【ふう~ん。いろいろ、考えてんだね】

 趣味について僕は、創作と発想や感性に自由でいたいだけだ。

 他人に評価され続けられていると、次第に自分の作品じゃなくなっていくような気がする。

【それに、造形に特化した技巧の勉強なら、独学でもできるしね。頭に浮かんだイメージを、より速く具現化する手段が、技巧や技法なんだ。方法の手持ちは、多い方が良いに決まっている。それは、見て、触(さわ)って、感じてたりして、盗(ぬす)み学び、本当に解らないところだけを、調べたり、教えられたりして、知識や器用さや段取りとして、身に備(そな)わるものだと思っている】

 僕は、自分の趣味を嫌(きら)いになりたくないだけで、趣味はいつまでも、自由で生業(なりわい)にする自信や展望も無かった。

 趣味への想いに、プレッシャーを与えたくはない。


 つづく

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