第7話 真夏の熱風サウナで校訓の像のモデルをする(僕 中学3年生)『希薄な赤い糸・男子編』

 今日は朝から、美術の先生が制作する彫刻像(ちょうこくぞう)のデッサンモデルをしている。

 彫刻像は『校訓(こうくん)の像』のタイトルで、どうも、我々3年生一同が卒業記念として学校に寄贈(きぞう)するらしい。

 途切れ途切れに話す先生の言葉を纏(まと)めると、そういう事になった。

 男女の生徒が寄(よ)り添(そ)って旧校舎の三尖塔(さんせんとう)を見上げるポーズの像で、その男子生徒像のモデルを僕はしている。

 『和親(わしん)・協力(きょうりょく)・自主(じしゅ)・責任(せきにん)』、この四(よっ)つの熟語(じゅくご)は、我が中学校の校訓だ。

 『校訓の像』は旧校舎を見上げるポーズで、通学する生徒達を迎(むか)えて見送る場所に置かれると先生は言っていた。

 石引(いしびき)の通りからも生垣(いけがき)越しに見えるようになるらしい。

 卒業後も表通りから『校訓の像』が見えると、きっと、僕は、この学校に在学した3年間と、今日の日を思い出すだろう。

 彼女も、僕を意識したり、思い出してくれるのだろうか?

 夏休み前半の暑い一日、朝から学ラン……、冬服の学生服を着て、僕は『校訓の像』のモデルになっていた。そして今、美術の先生が四方八方(しほうはっぽう)からモデルの僕をデッサンしている。

 美術部の部員達は、先生の助手をして使いっ走りや小道具係などを懸命に熟(こな)している。

(うーん、セーラー服を着て、甲斐甲斐(かいがい)しく働く、メイド達みたいだな)

 キュートな女子達を眺(なが)めながら、アホな妄想(もうそう)をする僕の頭は、もう、暑さで茹(ゆだ)りそうだ。

 写真部も来ていて、モデルになってポーズを取る僕達を写真に撮(と)りまくっている。

 『校訓の像』といっしょに、製作記録も学校へ掲示してから寄贈するそうだ。

 どんな写真が掲示されるのか分からないけれど、こんなヘタレな僕は、けっこう恥ずかしく写ってしまうと思い、せめて外見だけでもシャンとしなければと力(りき)むが、1分と保(たも)てない。

 仕様(しよう)が無いから体裁(ていさい)なんか諦(あきら)めて自然体でいく事にする。

 それに掲示されるのは卒業後だから、3年生の僕達は見れない。

     *

 美術部員でも遣(や)る気が無くて殆(ほとん)ど部活に参加していないし、作品も稀(まれ)にしか作らない、そんなチャライ僕を何故(なぜ)か先生は気になるようだった。

 その御蔭で呼(よ)び出されて此処(ここ)にいる。

「おまえ、モデルやれ。たぶん7月末か、8月の初め頃(ごろ)だ。連絡するから空(あ)けとけよ。予定を入れるな。それと冬の制服、学ランを持ってこい」

 日展会員で展覧会(てんらんかい)の審査委員のも名を連(つら)ねる著名(ちょめい)な美術の先生は、不精(ぶしょう)な部員の僕に強制した。

「はい……」

 強引で頑固(がんこ)な、人とは違った視点を持っていて、自分の感性を信じて意思を曲げない先生に僕は逆(さか)らわない。

 確かに先生は頑固だったが、頑迷(がんめい)ではなかった。

 近くに在る美術館で絵画や彫刻の展覧会が催(もよお)されると、美術部員達を連(つ)れて行って作品を説明しながら感覚や技法の指導をする。

 そういう機会が有ると先生は、わざわざ、部活をサボる僕を後輩の部員に呼んで来させて連れて行ってくれた。

 展覧会へ行くと、いつも僕には説明や指導をせずに、部員達と離して自由に観賞をさせた。そして、美術館の帰りに決まって、先生は僕に訊(き)く。

「今日は何を見た?」

 早口の先生は前を見て歩きながら、僕だけに聞こえる大きさの、通りの良い声で話す。

 『どれを?』ではなくて、『何を?』だ。

「光の表現。光り具合と光らせるポイント。それと、淡(あわ)い影の発色」

 僕も先生にだけ聞こえるように言うけれど、ぼそぼそ声になってしまう。

「どんな絵だ」

 間(かん)髪(ぱつ)を入れず、横で先生の声がした、

「緑の奥行きの有る絵、……絵の感じと題名が合わない、……気がしました」

 横で先生が、頷(うなず)くのが分かった。

「ああ、あれか。緑色の濃淡(のうたん)だけで描(えが)かれていたな」

 先生は僕を見て、

「他には? チェックポイントは?」

(先生、これは僕の感性の見極(みきわ)めをされているのでしょうか?)

「構図も。それは、感覚で見るだけです。今日は、ちょっと…… 緑の絵以外は有りませんでした」

 先生の顔が僕に向けられ、『絵画以外の彫刻などの造形ならば?』と、ギョロリとする眼力(めじから)に、への字に結ばれた口許(くちもと)が訊いている。

「丸みと曲線の繋(つな)がり方。綺麗(きれい)な曲線の繋がりは、うねりですよね。うねりって凄(すご)いです。あとオーラ、光ってます」

 なんて感じに、美術で身を立てる気が無い僕は、適当に答えていた。

(本当は、人前に出るような作品には、必ず光が有ります。それが、部分的なのか、全体なのかの違いだけで、僕は、どちらも魅力的に感じます。先生)

 そんな僕の回答に先生は、少し顎を上げて遠くの空を見ながら、腕を組んで呟(つぶや)いた。

「曲線……、綺麗なうねりは凄いか……、う~ん。オーラが見えるか……」

 真剣に唸(うな)りながら先生は、いつものクリっとした目をギョロっとさせて、僕の横に並んで歩く。

 眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せて、真剣に考えたり、悩(なや)んだりしている先生は普段の角(かく)ばった恐(おそ)ろしげな顔を更(さら)に角ばらせて、たぶん先生には、そのつもりが無いのだろうが、まるで怒(いか)りの熱線ビームを発射寸前のような、天罰(てんばつ)を与えようと睨(にら)む仁王像(におうぞう)の形相(ぎょうそう)になる。

 先生が僕と同じ方向を向いて同じ景色や物を見ていても、先生は、僕とは全(まった)く違う感覚で風景や事物を見ていると思う。

     *

 8月の初日、その先生が僕の前で自(みずか)ら彫像のポーズをとり、僕に真似(まね)をするように促(うなが)す。

 ビシッとポーズをとる先生の表情と動きには、躊躇(とまど)いやテレが少しも無くて真剣その物だ。

 先生の熱く真剣な注文に応(おう)じようと、僕も一生懸命頑張っている。

 並べた机の上に立ち、右手を空の彼方(かなた)を指し示すようにモップの柄(え)を支(ささ)えにして掲(かか)げ、左手を胸の前で握(にぎ)ったポーズを取る僕に先生は早口で細かく指示を出す。

『明るい表情だぞ!』、『顔は、人差し指が指し示す、空の彼方を仰(あお)ぎ見るように!』、『左足は、半歩下げろ!』、『胸を張れ!』、などなど……。

 いっしょに並んで立つ女子の像のモデルをする女子部員に僕の横でポーズをとらせて、先生は像の全体のイメージを掴(つか)んでいく。

 僕は学生服を着たまま、微動もせず黙って立ち続けた。

(これはデフォルメという、それらしく見えるようにする技法なのだろうか?)

 銅像の形としては様(さま)になっていると思うけれど、実際にポーズをとるとバランスが悪くて、なんだか不自然っぽい感じがした。

 ポーズの立体イメージや様々な角度から見た画像を得るだけなら、3Dスキャナーの装置で立体スキャンすれば、直(す)ぐにパソコンの画面内に3Dイメージを表示できる。

 対象の色合いもスキャンしているから、フルカラーで全方位の立体写真だ。

 色も質感も変えれて木目調、岩肌調、金属光沢(こうたく)などに、勿論(もちろん)、完成後と同じブロンズカラーにも出来る。

 縦横斜めなど自由に断面を見れるし、寸法測定も出来る。だけど、それでは、芸術性は無くて、商業的で、工業的だ。

 正(まさ)に芸が無いと思う。

 直ぐに学生服の下の素肌は、梅雨(つゆ)時期に雨(あま)合羽(かっぱ)を着て走り回ったように、ムンムンムレムレグショグショの汗だくになった。

 ヘタレな僕は、ポーズを維持できなくて何度もぐらつく。その度(たび)に先生の怒号が熱気を圧(あっ)する。

「動くな!」

 先生は芸術家の真剣な顔で、僕を睨(にら)む。

 グラ付くのは、気力の無さだけじゃない。

 この美術教室の部屋には、エアコンが設置されてなくて、全開に開(あ)け放たれた窓の外は、ヒラリとも戦(そよ)がない木々の葉を真夏の炎天下に立つ陽(かげ)炎(ろう)が揺(ゆ)らしている。そんな、熱気が灼熱化(しゃくねつか)しそうな風景は、チラ見みしてしまうだけで既に脱水気味な全身から、更に汗を噴き出させて遣る気を蒸発させて行く。

 照り返す無風の外からは、滞留した部屋の熱い空気を換気する風が、全然、吹き込みそうになかった。

 一応は熱気対策の努力がされていて、教室と同じ広さの部屋の四隅(よすみ)には、何処(どこ)から持ち込まれたのか、所属不明の扇風機が置かれて、強風モードでブンブン回りながら首振りをして、部屋全体へ風を送っている。だけど、それは滞留する熱気を掻(か)き回して圧縮するだけで、少しも涼風感を与えてはくれない。

 部屋全体が熱風サウナ化して、ボーッとする頭の中は既にハイになっている。

 特に部屋の、ほぼ中央になるモデルの立ち位置は、四つの風が同時に重(かさ)なると無風となり、熱気の圧縮は倍化されて、上昇する熱気温度に露出する顔や手の肌が、チリチリと焦(こ)げるような臭(にお)いがした。

(あっつぅー)

 吸い込む空気の熱さに、胸が燃えそうだ!

(ああっ! 倒(たお)れ込んで、横になってもいいですか? 先生、早く帰って、水風呂(みずぶろ)に入って寝たいですぅ)

 自分の芸術の世界に入り、様々な位置から高速でデッサンを描き続ける先生は、そんな限界寸前の僕を気遣(きづか)う事は無く、僕もヘタレを気付かれまいと、ポーズをとり続けた。

 午前中に、15分のインターバルが4回、カチ割り氷が沢山(たくさん)入った麦茶のがぶ飲みし放題と、お昼に2時間の休憩が摂(と)られて、先生が注文してくれた出前の、冷(ひ)やし中華とトコロテンが届いて、みんなで食べた…。

 今時の中学生の昼食に、冷やし中華とトコロテンというのが、この先生らしい。

(けど、美味(おい)しかったです。御馳走様(ごちそうさま)でした)

 残り時間は、爆睡の昼寝。

 午後も4回のインターバルが摂られ、それ以外は、午前も午後も振ら付き、怒鳴られながら、ひたすら、机の上でポーズをとって立ち続けた。

 モデルは、女子が4名、男子が2名で、この暑さの中、モデルの女子達は頻繁(ひんぱん)に交代を繰り返して楽しそうにしていた。

 モデルをしている今だけとはいえ、美形でスタイルの良い女子が、入れ替わり立ち替わり、ぴったりと僕に寄り添ってくれるのは、けっこう嬉(うれ)しい。

 途中、麦茶を飲ませてくれたり、冷(つめ)たい御絞(おしぼ)りで、顔や首の汗を拭(ふ)いてくれて、僕はこういう幸せを彼女からも求めたいと思う。それに、間近に迫(せま)る女子達から漂(ただよ)う汗ばむ匂(にお)いは甘くて、ずうっと嗅(か)いでいたいと願う程の好い香りで、身体(からだ)が宙に浮きそうなくらい、僕の気を遠くさせた。

(これが、フェロモンという匂いなのかな? だとしたら……)

 学生服の表まで、汗の染(し)みを作る、僕の青臭くて中途半端な男の汗臭さは、どんな臭いに女子達は感じるのだろうかと思う。

 男子は、先生の求めていたモデルの体格が、僕だったらしくて、全体の七割を僕が勤(つと)めた。

 ガッチリと逞(たくま)しくなく、痩(や)せて脆弱(ぜいじゃく)そうでもなく、大人びず、ガキっぽくもない。

 異性と世の中に関心を持ち始めた、思春期真っ最中の中学3年生の体付きが、僕なのだそうだ。

(それは、つまり、僕の体付きや顔付きが、フェロモンの発散始めで、厭(いや)らしく見えているという事なんですか……、先生?)

 同じような、それなりの理由で女子のモデルも、美術部の女子達から選ばれているらしい。

 そこそこの人数がいる美術部部員の殆どは女子だ。それもあって、僕は滅多に部活に参加していない。

(先生は、いつも、そんなふうに生徒達を見ていたのか……。芸術家らしいと言えば、らしいと思うけど…… うーん、微妙だ)

 もう一人の男子モデルは、暇(ひま)を持て余して美術部の女子達と楽しそうに、お喋(しゃべ)りをしている。

(ううっ、羨(うらや)ましいぞ!)

 僕も早くモデル交代を済(す)ませ、インターバルはイスに座(すわ)り、冷たい麦茶を飲みながらモデルや製作助手を勤める女子部員達や、『校訓の像』を制作する記録写真を撮りに来ている写真部の女の子達と、制服に染み込んだテレピン油と現像液の酢酸の香りが嗅げるくらい、ぐぐっと、パーソナルスペースを狭(せば)めて話したい。

 詰(つ)め襟(えり)まで留めた冬服は、土砂降りの中を傘を差さずに歩いて来たみたいに、グッショリと濡(ぬ)れしょぼり、蒸(む)れ過ぎた制服の裏生地が、張り付く素肌は高温高湿で体調不全直前だ。

 太陽が西に傾(かたむ)くの感じさせる頃、沸騰(ふっとう)しそうなくらいに茹った脳が、エンドルフィンを分泌(ぶんぴつ)させて朦朧(もうろう)としていた僕の意識をハイにさせる。

     *

【見えない赤い糸の絆(きずな)って、信じていますか?】

 春先からずっと考えていた想いをメールに認(したた)めて、初夏の雨降りの日に彼女へ送った。

小学6年生の春の日に彼女を意識して、そぼ降る梅雨の日に、更に強く意識させられ、そして、1年前の告白から、彼女との絡(から)みが増えている気がしている。

【そういうのって、有るのかも知んないけど……。見えない糸なのに、赤色って分かるのは、なぜ? なんで、赤くて糸なのよ?】

 一応、肯定しつつ、可視化や赤色の物性にまで、彼女は変なツッコミを入れて来る。

【さぁ? そう一般的には言われているけど、単純に目立つから、赤いのだと思うよ。色も、糸も、見た人の例えれる知識が、そこまでだったんだろう。うーん、ごめんなさい。本当は知らないです】

 適当な知識の無さを暴露する返信を、いい加減な気持ちで送信した途端(とたん)、後悔した。

 『ごめんなさい』をしても、絶対に僕の希望を打ち砕(くだ)く、否定し捲(ま)くりで返信されるに決まっている。

【もしかして、私と見えない赤い糸で、繋がっていると思っているの? 確(たし)かにいろいろ有ったけどさぁ、あんたと私に、絆なんか無いから。赤い糸なんか、見えても、見えなくても、無いからね】

(来た、来た、来たぁー。『ごめんなさい』を入れても、これだぁ! まあ、こっ、こうじゃなくっちゃね。めっちゃ、嫌(いや)がられているけど、なんか、スッゲー嬉しいぞ)

 この予想通りの彼女の反応に、僕は楽しくなってしまう。やはり、彼女は僕を裏切らない。

【あんたが、私と赤い糸で結ばれているって、信じ込んじゃうと、それ、呪(のろ)いになるから、本当に止(や)めてよ。呪われるなんてイヤよ! それに、キモイから】

 返信しかけた僕へ、続け様に彼女からのメールが届く。

(呪いとか、イヤだとか、キモイなんて、けっこう、意識されてるじゃん)

 なんて、メールしようかと迷っていたら、更に彼女から着信が来た。

【あんたと、私の糸は、赤くないわね。……今のところは】

(フォロー? ……なんだろうな? やっぱり、意識してるじゃんか)

 ちょっとだけ、素直(すなお)な気持ちを覗(のぞ)かせたメールに、続きを引き出せそうな気がした。

【ほんのちょっとでも、うっすらと赤くなってない? ピンクっぽくもない?】

 いつか、きっと、赤い糸で、彼女と僕が結ばれていると思わせて遣りたい。

【全然、なってないわよ!】

 テレが入っている。きっと、彼女のことだから、唇を噛み締めてメールを打っていたのだろう。

 まだまだ、絆なんて、親密な感じは全く無いけれど、確かな因果は有りそうだ。しかし今は、これ以上絡むのは、薮(やぶ)を突(つつ)き過ぎて、大蛇が飛び出て来そうなので返信はしない。

 今の遣り取りだけでも、充分に楽しくて、近い将来、彼女と間近で普通に話せそうだと思った。

     *

 熱気に茹る脳が、ぼんやりと楽しい事を考えさせて、嬉しい事ばかりを思い出させる。

(これって、フラッシュバック? 熱中症寸前で、けっこうヤバイんじゃないの!)

 最近の楽しい思いは、コーラス祭だ。

 あの一瞬だけは、予想外の彼女の反応に気分は最高だった。

 気持ち良くハイになっていた脳が、僕に白昼夢を見させ始めた

「おまえ、この間のコーラス祭じゃ、カッコ良かったぞ」

 ボーッと意識が飛びそうになっていた僕に、先生はスケッチブックにデッサンを描く手を休めずに話し掛けて来た。

「あの時、ソロで歌う、おまえを見て、今日のモデルに決めた」

 脳内麻薬の分泌で、白昼夢のように思い出していたコーラス祭の事を言われて、ハッと意識を戻(もど)された脳が、先生の言う場面を白昼夢に重ねて行く。

 先月の初めに、学年別クラス対抗コーラス戦が行われた。

 学校行事の表記ではコーラス祭と書かれているけれど、賞が贈(おく)られるから、祭りじゃなくてコンクールだ。

 コンクールなら、戦いだ!

 僕は僕自身とクラスの為(ため)に、そして、彼女へ捧(ささ)げる為に、他の全学年のクラスと戦った。

「そう、君、歌が上手(うま)くてさ、堂々として、カッコ良かったよ。あれから、ファンレターでも、来たぁ? ねぇ、来てるでしょう?」

 モデルの女子の一人が、相槌(あいづち)を入れる。

「あんなに歌を唄えて、人前が平気な人だとは、知らなったよ。美術が好きな、目立たないオタクっぽい男の子だとばかり思ってた。うん、凄くて、感動しちゃったわ。ふふっ、あの子、彼女でしょう」

 隣の女子も言い、それから、部屋にいたみんなから、御褒(おほ)めの言葉を頂いた。

 毎日のように、家でイヤホンから流れる曲に合わせて口パクをしていたのと、足(あし)繁(しげ)くカラオケ屋に通い、思いっ切り歌って、ステップを踏んでいた成果が出せて良かった。

 僕は、一人、一人に礼を言った。

「動くな!」

 軽く頭を下げる僕に、もう何度目になるか分からない、叱(しか)りの声が飛ぶ。でも、鉛筆を持つ手を忙(いそが)しく動かしながら、スケッチ用紙と僕を交互に見遣(みや)る先生の顔は笑っていた。

     *

 7月のコーラス祭、僕は漸(ようや)く、小学校6年生の雪辱(せつじょく)を果(は)たす事ができた。

 クラスで合唱する曲に選ばれたのは、雷に打たれた銀杏(いちょう)の大木から芽吹(めぶ)いた桜が絡んだストーリーの恋愛時代劇映画でエンディングに流れるソングだった。

 コーラス用にアレンジされた曲にソロは無かったのだけど、更にインパクトを持たせる事になって、ソロのパートを最初と中程と終盤に入れてしまった。

 合唱の段取りは、直ぐに纏まり、ソロの担当の選出になった。

 今年も、クラス全員が合唱するソロ無しの曲にして、好い加減に口パクでもして誤魔化していようかと考えていたのに……、選出が始まるや、否(いな)や、カラオケへいっしょに行く常連の遊び仲間達が、僕を指名してくれて、抗(あらが)いも虚(むな)しく、僕は終わりのパートを唄う担当に決まってしまった。

 今、コーラス祭で僕は、クラスのみんなとステージに立って歌う。

 間も無く、僕がソロで唄う終わりのパートが巡(めぐ)って来る。

 最初のソロパートが済んだ頃から、ちょっと、両足が震えだした。

 最初のソロ担当は、上手く歌った。

 みんなの合唱も、揃(そろ)っていてミスはしていない。

 コーラス祭は、学校内の体育館や講堂などの施設を使わないで、市民ホールの音響効果に配慮した設計の広いステージを借り切って、本格的に行われている。

 一つ先に歌い終わった彼女のクラスも、全員が客席で視聴しているはずだ。

 全学年を合わせても、クラス数が少ないので、ホールの貸切時間に余裕が有って、ステージの入れ替えは急(いそ)がない。

 次に歌うクラスも、歌い終わった直後のクラスも、全学年、全クラスが客席で視聴する。

 どのクラスも、練習を重ねて頑張っていたのだから、ステージのコーラスは、みんなでしっかり視聴してあげなければならない。

 昨年、同じクラスだった彼女は、クラスのみんなと練習通りに揃えて、最上列で体を左右に振り、リズムを取りながら、しっかりと口を開けて合唱していたと思う。

 男子の中段で歌う僕からは、斜め後方の死角になっている位置の彼女は、全く見えていなかった。

 ステージ中に一瞥(いちべつ)でも、首を傾けたり、振り返ったりして、彼女を見る事はできないけれど、直ぐ傍(そば)にいる彼女を感じて、声も聴き分けれていた。

 今回、3年生への進級でクラス違いになった彼女は、ピアノ伴奏を担当していた。

 曲と歌詞に合わせて強弱や高低を協調させ、軽(かろ)やかに弾(ひ)き、小学六年生の時よりも、格段とテクニックがアップしていた。

 なのに、僕の耳に聴こえてくる彼女のピアノの音色(ねいろ)からは、曲の流れを立体にイメージできず、僕の期待を燻(くすぶ)らせた。

 彼女はコーラスの盛り上がりを、リズムとメロディーで支えるだけの演奏に徹(てっ)していて、せめてもう少しピアノのパートが長ければ、もっと、もっと、彼女の想いを響(ひび)かせて、僕や客席のみんなを、ときめかせたに違いなかった。

 透明感も、豊かな感受性も、音色には無かった。

 飛び舞う高揚感を与えてくれた小学6年生の彼女と違い、感動も無い音は、突(つ)き抜(ぬ)けて行かなくて、伴奏を弾いていた彼女の何もかもが、小学6年生の彼女には重ならなかった。

 それはきっと、コーラスの伴奏のみに徹していた所為(せい)だと思う。

 決して、彼女の気持ちが冷(さ)めているからじゃないと思いたい。

 彼女は、コンダクターの指揮に目線を上げた後、時々、そのまま視線を客席に移して何かを探(さが)すように見ていた。

 その流すような目付きに僕は、小学6年生の音楽の授業で歌っていた彼女を思い出した。

 あの時の、歌い終わって後ろを振り向き掛けた、彼女の眼差(まなざ)しと同じだと、僕は気付いた。

(なぜ…… 振り向き掛けたのだろう? 彼女は、何を見ようとしたのだろう? それとも、もしかして…、僕を探していたのだろうか……?)

 薄影の客席に彼女を探すけれど、客席は奥へ行くほど暗くて良く見えず、夏服の白さだけが視覚に白壁のように広がって見付けられない。

『♪ あなたの熱で……』、コーラスパートを、みんなに合わせて歌いながら、冬の奇跡(きせき)のような出逢(であ)いを僕は思い出していた。

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 3月初め、北イタリアのコモ湖の畔(ほとり)とローマのスペイン広場で、彼女と2度も信じられない遭遇(そうぐう)をした。

 まさか、親父(おやじ)と行ったイタリア旅行で、彼女を見掛けるとは想像もしていなかった。

 行きの飛行機の中では、ツアーのパンフレットを見ながら、もしも、彼女がいっしょならどんなに楽しいだろうと想像していたのだけど、その心ときめく白昼夢が、本当に現実になるとは、今も信じられない……。

 思い返す遭遇の場面は鮮明で、写真もたくさん撮っていたのに、記憶の実感が夢を見た後のように淡くて朧(おぼろ)だった。

 コモ湖の湖畔でも、スペイン広場でも、僕が先に見付けて、彼女に気付かれないようにしていたから……、少なくとも、僕の方へ向いたり、見たりする事は無かった。

 故に、彼女は、僕に気付いていなかったと思っている。

 よもや、日本を遠く離れたイタリアの地に、しかも自分の直ぐ近くに、僕がいたなんて思いもしなかっただろう。

 最初はコモ湖で、彼女と似(に)た背格好の女子を見掛けて、持たされていた親父の望遠レンズ付き一眼レフカメラを、その子へ構(かま)えた。

 『湖畔の少女・冬のコモ湖にて』と、写真の題名を考えながら液晶モニター越しに、斜め後方から見る少女の、水色のカチューシャをした黒髪と白くない肌の頬(ほお)は、明らかに東洋人の女の子だった。

 ちょっと、リッチそうな服装や持ち物などの外見から国籍を見分ける術(すべ)は何も見い出せず、黄色い肌だけでは日本人かどうか分からない。

 カチューシャの色をコーディネートさせたのか、空色と白のベースに青を散らした明るい配色のスプリッター迷彩(めいさい)柄(がら)のボアコートは、優しい陽に照らされて離れていても人目を引いた。

 襟の返しや白いファ付きのフードの内側に見える裏地は、白い羊の毛のようで、モコモコとした表地と相俟(あいま)って、とても暖(あたた)かそうに思えた。

(へぇーっ、いいセンスじゃん)

 僕は、被写体として良い感じの、どこの誰とも知りもしない東洋系の少女を、写真に写す事に決めた。

(これは、彼女につれなくされている反動の所為でも、浮気心(うわきごころ)でも、ナンパ目的のアバンチュール願望でもないぞ! 単に、美的な絵になるから撮るだけで、他意は無いんだ。大体、お近付きになろうにも、日本人でなければ、言葉が通じないじゃんか!)

 これは、互いに人生の中での一瞬の交差にしか過ぎなくて、しかも密(ひそ)かで一方的な僕の干渉行為で、少女が気付きもしない事だ。

 この先の人生に於(お)いて世界のどこかで、再(ふたた)び少女の人生と交差したとしても、二人の共通の接点は無く、今と同じ状況を繰り返すだけだろうし、その時に、僕が少女の話す外国語をマスターしているならば、この出逢いの場面が、二人の交流始めの切り出し言葉になるかも知れないと思う。

(どうする? ダメもとでも、一応、声を掛けてみるか? やっぱ、最初は、『ハロー』からだよな?)

 自分の英語力では、どうにもならないと思うけれど、ソロを撮り終えたら、次はツーショットだとばかりに、旅の恥は掻(か)き捨(す)て的な衝動に駆(か)られて、僕は行動を起こす気になっていた。

(切っ掛けは大切で、チャンスは大事だ! これっきりかも知れないが、何事も、遣ってみないと分からない!)

 肯定してくれる宛(あ)ても無い言い訳と空虚な未来を考えながら、カメラの撮影モードを最大画素にセットして、レンズを200ミリの最大ズームで向ける。それから、ズームで10数倍に拡大された画面が、ブレないようにベンチの上にカメラを置き、ベンチの陰にしゃがんで、液晶モニターを覗く。

 胸から上で拡大された少女の、僅(わず)かに見える頬が、どこか懐(なつ)かしくも愛(いと)おしい気持ちにさせた。

 しかし、こんな姿勢で女子へカメラを構えるなんて、これじゃまるで盗撮しているみたいだ。

(いや、事実、これは隠(かく)れ撮りだから、どう見られても盗撮だろう……)

 『イタリアでも、盗撮は、ちゃんとした犯罪なんだろうな』と思いながら、先(ま)ずは、パシャと後ろ姿を1枚。

 一眼レフカメラ特有の内部ミラーが跳(は)ね上がる音と、シャッター幕の移動音が心地良い。

 最初に明るい笑顔で『ニーハオ』、『アニョンハセヨ』、『ハロー』、『ドーブライ ヂェン』、『シンチャオ』と模型作りのネット動画で覚えた挨拶を駆使すれば、どれかに反応して少女は笑顔を見せてくれるかもと考えた。

 例え言葉が通じなくとも、スマートフォンのチャット機能でメールを送り合えば、文字は翻訳(ほんやく)されるから意思の疎通に問題無いだろう。

 帰国後も、チャットの文字や画像や音楽でグローバルな交流を続けて、親近感を持たれるようになれば良いという、下心(したごころ)も浮かんで来る。

 液晶モニターへ記録された、少女の後ろ髪のアップに、再びデジャビュのような懐かしさを感じた。

 益々(ますます)、少女の顔を見たいという思いに駆られ、シャッターモードを連射に切り替えて、少女が横顔を見せるベストシャッターチャンスを待つ。

 光学のズームレンズだからデジタルズームの様な画素(がそ)の拡大が無くて、彼女の黒髪の一本までが鮮明に識別(しきべつ)できる。

(早く、横顔だけでも見せてくれないと、親父とツアー参加者達が戻って来てしまう)

 突然、北アフリカから地中海を飛び越えて来たかと思うほど、生暖か(なまあたた)い一陣の大きな風の塊(かたまり)が、僕の後方から地表を強く舐(な)めながら吹き抜けて行き、急速に迫る風の気配を感じたのか、振り返り掛けた少女を、突風が直撃した。

 風圧が少女を湖畔の欄干に押さえ付けて、ボアコートと黒髪を掻き乱す。

 瞬間、液晶モニターが、風に吹き上げられる後ろ髪に露(あら)わにされた少女の白い項(うなじ)をズームで写し撮り、僕の心臓を跳ね上げた。

 パシャシャシャッと連写モードでシャッターが切れて、風に舞い上がる黒髪と晒(さら)された絶対領域の白い項の時間を、写し撮って行く。

 僕は、無意識にシャッターを切っていた。

 パシャシャシャッ、連写モードで少女を撮り続けているカメラに気付いても、僕の指は、シャッターボタンを押し続けるのを止めようとはしない。

 10枚余りのレンズと数千万画素での記録を確認するモニター越しに、鮮(あざ)やかな白い項を見たのは、一瞬だけだった。

 直ぐに風に捲くれ上がってバタつくフードが、絶対領域を隠してしまう。

 乱れ舞う髪とフードのはためきを抑(おさ)えようと、風上へ体と顔を立たせようとする、少女の髪を押さえる手の影から現(あらわ)れた横顔は、見慣(みな)れた僕好みの輪郭だった!

(おおっ、可愛(かわい)いじゃん! 彼女似で、僕のタイプ ……って、あっ! ああっ! 見慣れた横顔って……、そんな……、はずは……)

『ドックン』、心臓が一際(ひときわ)大きく鳴った。

 去年、新学年になった教室で、彼女を見付けた時と同じくらいに、心臓が強く跳ねた。

 パシャシャシャシャッ、勢い良くフル連写でシャッターが切れて行き、メモリーに蓄積し続ける東洋人の少女の横顔は……、

(ああああっ! 彼女……? ……だ?)

 彼女だと見知った瞬間、僕は驚きの余り、凍(こお)りついたように固まった。

 フル連写で切り撮り続ける少女が、彼女だと認識できたけれど、とても、この場に存在している事が信じられない。

(なっ、なぜ? なぜだあ? どっ、どうして……、ここに……。どうして?)

 理解できない驚(おどろ)きで固まる身体に、カメラを構える腕が揺れて、モニターの画像を乱す。

 僕のシャッターボタンを押し続けた指が、少女の呪縛から解(と)かれ、間断無く連続したメカニカルな作動音が消えた。

(いやいや、人違い? 錯覚? イリュージョン? ……でもでも、動いているし、似ているし……)

 視覚と識別中枢は、彼女だと認識判別できているのに、信じられない気持ちが疑い、画像を否定したがる。

 高まる気持ちを落ち着かせて、カメラを構え直(なお)し、再度シャッターボタンに触れると、画面が鮮明に再調整され、ピピッと鳴る電子音が、彼女の頬にフォーカスロックした事を知らせた。そして、パシャシャシャッと、連写モードが再開された。

 空気の塊(かたまり)が吹き去って穏(おだ)やかになった大気に、彼女は乱れた髪を纏め直し、再び、湖の方へ顔を巡らせながら、僕に背を向けようとした時に、彼女の家族……、たぶん、父親と母親と姉がアウトレットから戻って来た。

 彼女の家族は、僕のカメラの写線を遮(さえぎ)るように彼女の前に並び、そして、高校生ぐらいの姉らしき人が彼女の首に、光(こう)沢(たく)の有る淡い色合いが綺麗なスカーフを巻いた。

 僕は、それが、アウトレットで買ったばかりのコモシルクのスカーフだと分かった。

(ふぅー! 危なかった! もしも、声を掛けようと間近に行っても、彼女だと気付かなかったら、僕は移り気で操(みさお)を立てられない、不貞(ふてい)を働く軽率(けいそつ)な嘘吐(うそつ)きで、完全に信用を失ってコモ湖で機雷(きらい)に触(ふ)れて轟沈(ごうちん)していた事だろう。声を掛けていれば、掛けた瞬間に彼女は振り向いて驚き、そして呆れ顔(あきれがお)に変わり、僕は完璧(かんぺき)に彼女の信用を無くしていた事だろう)

 本当に軽はずみな事をしなくて良かったと反省は頻(しき)りで、察(さっ)しと洞察(どうさつ)の甘さを沁(し)み沁(じ)みと感じていた。

(『運命の赤い糸の神様』は、辛(かろ)うじて僕と彼女を繋ぎ止めてくれた!)

 冬の北イタリアの水色の空を仰ぎ見て、神様に感謝して祈った。

(どうかこの先、僕の彼女への想いがブレなければ、必ず添い遂(と)げられますように)


 つづく

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