コモ湖の回想と想いを込めたラブソング(僕 中学2年年)『希薄な赤い糸・男子編 第5話』

 今日は朝から、美術の先生が制作する彫刻像のデッサンモデルをしている。

 彫刻像は、『校訓の像』のタイトルで、どうも、我々、3年生一同が卒業記念として学校に寄贈するらしい。

 途切れ、途切れに話す、先生の言葉を纏(まと)めると、そういう事になった。

 男女の生徒が寄り添(そ)って旧校舎の三尖塔を見上げるポーズの像で、僕はその男子像のモデルをしていた。

 『和親・協力・自主・責任』、四つの熟語は、我が中学校の校訓だ。

 『校訓の像』は旧校舎を見上げるポーズで、通学する生徒達を迎(むか)え、見送る場所に置かれると先生は言った。

 石引(いしびき)の通りからも、生垣(いけがき)越しに見えるようになるらしい。

 卒業後も表通りから『校訓の像』が見えると、きっと、僕は、この学校に在学した3年間と、今日の日を思い出すだろう。

 彼女も、僕を意識したり、思い出してくれるのだろうか?

 夏休み前半の暑い一日、朝から学ラン……、冬服の学生服を着て、僕は『校訓の像』のモデルになっていた。そして今、美術の先生が四方八方からモデルの僕をデッサンしている。

 美術部の部員達は、先生の助手をして使いっ走りや小道具係などを懸命に熟(こな)している。

(うーん、セーラー服を着て、甲斐甲斐(かいがい)しく働く、メイド達みたいだな)

 キュートな女子達を眺(なが)めながら、アホな妄想(もうそう)をする僕の頭は、もう、暑さで茹(ゆだ)りそうだ。

 写真部も来ていて、モデルになってポーズを取る僕達を写真に撮(と)りまくっている。

 『校訓の像』といっしょに、製作記録も学校へ掲示してから寄贈するそうだ。

 どんな写真が掲示されるのか分からないけれど、こんなヘタレな僕は、けっこう恥ずかしく写ってしまうと思い、せめて、外見だけでもシャンとしなければと力(りき)むが、1分と保(たも)てない。

 仕様(しよう)が無いから体裁(ていさい)なんか諦(あきら)めて自然体でいく事にする。それに、掲示されるのは卒業後だから、3年生の僕達は見れない。

     *

 美術部員でも遣(や)る気が無く、殆(ほとん)ど部活に参加しなくて、作品も稀(まれ)にしか作らない、そんな、チャライ僕を何故(なぜ)か先生は気になるようだった。その御蔭で呼(よ)び出されて此処(ここ)にいる。

「おまえ、モデルやれ。たぶん7月末か、8月の初め頃だ。連絡するから空(あ)けとけよ。予定を入れるな。それと冬の制服、学ランを持ってこい」

 日展会員で著名な美術の先生は、不精(ぶしょう)な部員の僕に強制した。

「はい……」

 強引で頑固(がんこ)な、人とは違った視点を持っていて、自分の感性を信じて意思を曲げない先生に僕は逆(さか)らわない。

 近くに在る美術館で絵画や彫刻の展覧会が催(もよお)されると、美術部員達を連(つ)れて行って作品を説明しながら感覚や技法の指導をする。そういう機会が有ると先生は、わざわざ、部活をサボる僕を後輩の部員に呼んで来させて連れて行ってくれた。

 展覧会へ行くと、いつも僕には説明や指導をせずに、部員達と離して自由に観賞をさせた。そして、美術館の帰りに決まって、先生は僕に訊(き)く。

「今日は何を見た?」

 早口の先生は前を見て歩きながら、僕だけに聞こえる大きさの、通りの良い声で話す。

 『どれを?』ではなくて、『何を?』だ。

「光の表現。光り具合と光らせるポイント。それと、淡(あわ)い影の発色」

 僕も先生にだけ聞こえるように言うけれど、ぼそぼそ声になってしまう。

「どんな絵だ」

 間(かん)髪(ぱつ)を入れず、横で先生の声がした、

「緑の奥行きの有る絵、……絵の感じと題名が合わない、……気がしました」

 横で先生が、頷(うなず)くのが分かった。

「ああ、あれか。緑色の濃淡(のうたん)だけで描(えが)かれていたな」

 先生は僕を見て、

「他には? チェックポイントは?」

(先生、これは僕の感性の見極(みきわ)めをされているのでしょうか?)

「構図も。それは、感覚で見るだけです。今日は、ちょっと…… 緑の絵以外は有りませんでした」

 先生の顔が僕に向けられ、『絵画以外の彫刻などの造形ならば?』と、ギョロリとする眼力(めじから)に、への字に結ばれた口許(くちもと)が訊いている。

「丸みと曲線の繋(つな)がり方。綺麗(きれい)な曲線の繋がりは、うねりですよね。うねりって凄(すご)いです。あとオーラ、光ってます」

 なんて、美術で身を立てる気が無い僕は、適当に答えていた。

(本当は、人前に出るような作品には、必ず光が有ります。それが、部分的なのか、全体なのかの違いだけで、僕は、どちらも魅力的に感じます。先生)

 そんな僕の回答に先生は、少し顎を上げて遠くの空を見ながら、腕を組んで呟(つぶや)いた。

「曲線……、綺麗なうねりは凄いか……、う~ん。オーラが見えるか……」

 真剣に唸(うな)りながら先生は、いつものクリっとした目をギョロっとさせて、僕の横に並んで歩く。

 眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せて、真剣に考えたり、悩(なや)んだりしている先生は、普段の角(かく)ばった恐(おそ)ろしげな顔を更(さら)に角ばらせて、たぶん、先生には、そのつもりが無いのだろうが、まるで、怒(いか)りの熱線ビームを発射寸前のような、天罰(てんばつ)を与えようと睨(にら)む仁王像(におうぞう)の形相(ぎょうそう)になる。

 先生が僕と同じ方向を向いて同じ景色や物を見ていても、先生は、僕とは全(まった)く違う感覚で風景や事物を見ていると思う。

     *

 8月の初日、その先生が僕の前で自(みずか)ら彫像のポーズをとり、僕に真似(まね)をするように促(うなが)す。

 ビシッとポーズをとる先生の表情と動きには、躊躇(とまど)いやテレが少しも無くて真剣その物だ。

 先生の熱く真剣な注文に応(おう)じようと、僕も一生懸命頑張っている。

 並べた机の上に立ち、右手を空の彼方(かなた)を指し示すようにモップの柄(え)を支(ささ)えにして掲(かか)げ、左手を胸の前で握(にぎ)ったポーズを取る僕に先生は早口で細かく指示を出す。

『明るい表情だぞ!』、『顔は、人差し指が指し示す、空の彼方を仰(あお)ぎ見るように!』、『左足は、半歩下げろ!』、『胸を張れ!』、などなど……。

 いっしょに並んで立つ女子の像のモデルをする女子部員に僕の横でポーズをとらせて、先生は像の全体のイメージを掴(つか)んでいく。

 僕は学生服を着たまま、微動もせず黙って立ち続けた。

(これはデフォルメという、それらしく見えるようにする技法なのだろうか?)

 銅像の形としては様(さま)になっていると思うけれど、実際にポーズをとるとバランスが悪くて、なんだか不自然っぽい感じがした。

 ポーズの立体イメージや様々な角度から見た画像を得るだけなら、3Dスキャナーの装置で立体スキャンすれば、直(す)ぐにパソコンの画面内に3Dイメージを表示できる。

 対象の色合いもスキャンしているから、フルカラーで全方位の立体写真だ。

 色も質感も変えれて木目調、岩肌調、金属光沢(こうたく)などに、勿論(もちろん)、完成後と同じブロンズカラーにも出来る。

 縦横斜めなど自由に断面を見れるし、寸法測定も出来る。だけど、それでは、芸術性は無くて、商業的で、工業的だ。

 正(まさ)に芸が無いと思う。

 直ぐに学生服の下の素肌は、梅雨(つゆ)時期に雨(あま)合羽(かっぱ)を着て走り回ったように、ムンムンムレムレグショグショの汗だくになった。

 ヘタレな僕は、ポーズを維持できなくて何度もぐらつく。その度(たび)に先生の怒号が熱気を圧(あっ)する。

「動くな!」

 先生は芸術家の真剣な顔で、僕を睨(にら)む。

 グラ付くのは、気力の無さだけじゃない。

 この美術教室の部屋には、エアコンが設置されてなくて、全開に開(あ)け放たれた窓の外は、ヒラリとも戦(そよ)がない木々の葉を真夏の炎天下に立つ陽(かげ)炎(ろう)が揺(ゆ)らしている。そんな、熱気が灼熱化(しゃくねつか)しそうな風景は、チラ見みしてしまうだけで既に脱水気味な全身から、更に汗を噴き出させて遣る気を蒸発させて行く。

 照り返す無風の外からは、滞留した部屋の熱い空気を換気する風が、全然、吹き込みそうになかった。

 一応は熱気対策の努力がされていて、教室と同じ広さの部屋の四隅(よすみ)には、何処(どこ)から持ち込まれたのか、所属不明の扇風機が置かれて、強風モードでブンブン回りながら首振りをして、部屋全体へ風を送っている。だけど、それは滞留する熱気を掻(か)き回して圧縮するだけで、少しも涼風感を与えてはくれない。

 特に部屋の、ほぼ中央になるモデルの立ち位置は、四つの風が同時に重(かさ)なると、無風となり、熱気の圧縮は倍化されて、上昇する熱気温度に露出する顔や手の肌が、チリチリと焦(こ)げるような臭(にお)いがした。

(あっつぅー)

 吸い込む空気の熱さに、胸が燃えそうだ!

(ああっ! 倒(たお)れ込んで、横になってもいいですか? 先生、早く帰って、水風呂(みずぶろ)に入って寝たいですぅ)

 自分の芸術の世界に入り、様々な位置から高速でデッサンを描き続ける先生は、そんな限界寸前の僕を気遣(きづか)う事は無く、僕もヘタレを気付かれまいと、ポーズをとり続けた。

 午前中に、15分のインターバルが四回、カチ割り氷が沢山(たくさん)入った麦茶のがぶ飲みし放題と、お昼に2時間の休憩が摂(と)られて、先生が注文してくれた出前の、冷(ひ)やし中華とトコロテンが届いて、みんなで食べた…。

 今時の中学生の昼食に、冷やし中華とトコロテンというのが、この先生らしい。

(けど、美味(おい)しかったです。御馳走様(ごちそうさま)でした)

 残り時間は、爆睡の昼寝。

 午後も四回のインターバルが摂られ、それ以外は、午前も午後も振ら付き、怒鳴られながら、ひたすら、机の上でポーズをとって立ち続けた。

 モデルは、女子が四名、男子が二名で、この暑さの中、モデルの女子達は頻繁(ひんぱん)に交代を繰り返して楽しそうにしていた。

 モデルをしている今だけとはいえ、美形でスタイルの良い女子が、入れ替わり立ち替わり、ぴったりと僕に寄り添ってくれるのは、けっこう嬉(うれ)しい。

 途中、麦茶を飲ませてくれたり、冷(つめ)たい御絞(おしぼ)りで、顔や首の汗を拭(ふ)いてくれて、僕はこういう幸せを彼女からも求めたいと思う。それに、間近に迫(せま)る女子達から漂(ただよ)う汗ばむ匂(にお)いは甘くて、ずうっと嗅(か)いでいたいと願う程の好い香りで、身体(からだ)が宙に浮きそうなくらい、僕の気を遠くさせた。

(これが、フェロモンという匂いなのかな? だとしたら……)

 学生服の表まで、汗の染(し)みを作る、僕の青臭くて中途半端な男の汗臭さは、どんな臭いに女子達は感じるのだろうかと思う。

 男子は、先生の求めていたモデルの体格が、僕だったらしくて、全体の七割を僕が勤(つと)めた。

 ガッチリと逞(たくま)しくなく、痩(や)せて脆弱(ぜいじゃく)そうでもなく、大人びず、ガキっぽくもない。

 異性と世の中に関心を持ち始めた、思春期真っ最中の中学3年生の体付きが、僕なのだそうだ。

(それは、つまり、僕の体付きや顔付きが、フェロモンの発散始めで、厭(いや)らしく見えているという事なんですか……、先生?)

 同じような、それなりの理由で女子のモデルも、美術部の女子達から選ばれているらしい。

 そこそこの人数がいる美術部部員の殆どは女子だ。それもあって、僕は滅多に部活に参加していない。

(先生は、いつも、そんなふうに生徒達を見ていたのか……。芸術家らしいと言えば、らしいと思うけど…… うーん、微妙だ)

 もう一人の男子モデルは、暇(ひま)を持て余して美術部の女子達と楽しそうに、お喋(しゃべ)りをしている。

(ううっ、羨(うらや)ましいぞ!)

 僕も、早くモデル交代を済(す)ませ、インターバルはイスに座(すわ)り、冷たい麦茶を飲みながら、モデルや製作助手を勤める女子部員達や、『校訓の像』を制作する記録写真を撮りに来ている写真部の女の子達と、制服に染み込んだテレピン油と現像液の酢酸の香りが嗅げるくらい、ぐぐっと、パーソナルスペースを狭(せば)めて話したい。

 詰(つ)め襟(えり)まで留めた冬服は、土砂降りの中を傘を差さずに歩いて来たみたいに、グッショリと濡(ぬ)れしょぼり、蒸(む)れ過ぎた制服の裏生地が、張り付く素肌は高温高湿で体調不全直前だ。

 太陽が西に傾(かたむ)くの感じさせる頃、沸騰(ふっとう)しそうなくらいに茹った脳が、エンドルフィンを分泌(ぶんぴつ)させて朦朧(もうろう)としていた僕の意識をハイにさせる。

     *

【見えない赤い糸の絆(きずな)って、信じていますか?】

 春先からずっと考えていた想いをメールに認(したた)めて、初夏の雨降りの日に彼女へ送った。

小学6年生の春の日に彼女を意識して、そぼ降る梅雨の日に、更に強く意識させられ、そして、1年前の告白から、彼女との絡(から)みが増えている気がしている。

【そういうのって、有るのかも知んないけど……。見えない糸なのに、赤色って分かるのは、なぜ? なんで、赤くて糸なのよ?】

 一応、肯定しつつ、可視化や赤色の物性にまで、彼女は変なツッコミを入れて来る。

【さぁ? そう一般的には言われているけど、単純に目立つから、赤いのだと思うよ。色も、糸も、見た人の例えれる知識が、そこまでだったんだろう。うーん、ごめんなさい。本当は知らないです】

 適当な知識の無さを暴露する返信を、いい加減な気持ちで送信した途端(とたん)、後悔した。

 『ごめんなさい』をしても、絶対に僕の希望を打ち砕(くだ)く、否定し捲(ま)くりで返信されるに決まっている。

【もしかして、私と見えない赤い糸で、繋がっていると思っているの? 確(たし)かにいろいろ有ったけどさぁ、あんたと私に、絆なんか無いから。赤い糸なんか、見えても、見えなくても、無いからね】

(来た、来た、来たぁー。『ごめんなさい』を入れても、これだぁ! まあ、こっ、こうじゃなくっちゃね。めっちゃ、嫌(いや)がられているけど、なんか、スッゲー嬉しいぞ)

 この予想通りの彼女の反応に、僕は楽しくなってしまう。やはり、彼女は僕を裏切らない。

【あんたが、私と赤い糸で結ばれているって、信じ込んじゃうと、それ、呪(のろ)いになるから、本当に止(や)めてよ。呪われるなんてイヤよ! それに、キモイから】

 返信しかけた僕へ、続け様に彼女からのメールが届く。

(呪いとか、イヤだとか、キモイなんて、けっこう、意識されてるじゃん)

 なんて、メールしようかと迷っていたら、更に彼女から着信が来た。

【あんたと、私の糸は、赤くないわね。……今のところは】

(フォロー? ……なんだろうな? やっぱり、意識してるじゃんか)

 ちょっとだけ、素直(すなお)な気持ちを覗(のぞ)かせたメールに、続きを引き出せそうな気がした。

【ほんのちょっとでも、うっすらと赤くなってない? ピンクっぽくもない?】

 いつか、きっと、赤い糸で、彼女と僕が結ばれていると思わせて遣りたい。

【全然、なってないわよ!】

 テレが入っている。きっと、彼女のことだから、唇を噛み締めてメールを打っていたのだろう。

 まだまだ、絆なんて、親密な感じは全く無いけれど、確かな因果は有りそうだ。しかし今は、これ以上絡むのは、薮(やぶ)を突(つつ)き過ぎて、大蛇が飛び出て来そうなので返信はしない。

 今の遣り取りだけでも、充分に楽しくて、近い将来、彼女と間近で普通に話せそうだと思った。

     *

 熱気に茹る脳が、ぼんやりと楽しい事を考えさせて、嬉しい事ばかりを思い出させる。

(これって、フラッシュバック? 熱中症寸前で、けっこうヤバイんじゃないの!)

 最近の楽しい思いは、コーラス祭だ。

 あの一瞬だけは、予想外の彼女の反応に気分は最高だった。

 気持ち良くハイになって行く脳が、僕に白昼夢を見させ始めた

「おまえ、この間のコーラス祭じゃ、カッコ良かったぞ」

 ぼーっと意識が飛びそうになっていた僕に、先生はスケッチブックにデッサンを描く手を休めずに話し掛けて来た。

「あの時、ソロで歌う、おまえを見て、今日のモデルに決めた」

 脳内麻薬の分泌で、白昼夢のように思い出していたコーラス祭の事を言われて、ハッと意識を戻(もど)された脳が、先生の言う場面を白昼夢に重ねて行く。

 先月の初めに、学年別クラス対抗コーラス戦が行われた。

 学校行事の表記ではコーラス祭と書かれているけれど、賞が贈(おく)られるから、祭りじゃなくてコンクールだ。

 コンクールなら、戦いだ!

 僕は僕自身とクラスの為(ため)に、そして、彼女へ捧(ささ)げる為に、他の全学年のクラスと戦った。

「そう、君、歌が上手(うま)くてさ、堂々として、カッコ良かったよ。あれから、ファンレターでも、来たぁ? ねぇ、来てるでしょう?」

 モデルの女子の一人が、相槌(あいづち)を入れる。

「あんなに歌を唄えて、人前が平気な人だとは、知らなったよ。美術が好きな、目立たないタクっぽい男の子だとばかり思ってた。うん、凄くて、感動しちゃったわ。ふふっ、あの子、彼女でしょう」

 隣の女子も言い、それから、部屋にいたみんなから、御褒(おほ)めの言葉を頂いた。

 毎日のように、家でイヤホンから流れる曲に合わせて口パクをしていたのと、足(あし)繁(しげ)くカラオケ屋に通い、思いっ切り歌って、ステップを踏んでいた成果が出せて良かった。

 僕は、一人、一人に礼を言った。

「動くな!」

 軽く頭を下げる僕に、もう何度目になるか分からない、叱(しか)りの声が飛ぶ。でも、鉛筆を持つ手を忙(いそが)しく動かしながら、スケッチ用紙と僕を交互に見遣(みや)る先生の顔は笑っていた。

     *

 7月のコーラス祭、僕は、漸(ようや)く、小学校6年生の雪辱(せつじょく)を果(は)たす事ができた。

 クラスで合唱する曲に選ばれたのは、雷に打たれた銀杏(いちょう)の大木から、芽吹(めぶ)いた桜を絡ませた恋愛時代劇のエンディングソングだった。

 コーラス用にアレンジされた曲に、ソロは無かったのだけど、更に、インパクトを持たせる事になって、ソロのパートを最初と中程と終盤に入れてしまった。

 合唱の段取りは、直ぐに纏まり、ソロの担当の選出になった。

 今年も、クラス全員が合唱するソロ無しの曲にして、好い加減に口パクでもして誤魔化していようかと考えていたのに……、選出が始まるや、否(いな)や、カラオケへいっしょに行く常連の遊び仲間達が、僕を指名してくれて、抗(あらが)いも虚(むな)しく、僕は終わりのパートを唄う担当に決まってしまった。

 今、コーラス祭で僕は、クラスのみんなとステージに立って歌う。

 間も無く、僕がソロで唄う終わりのパートが巡(めぐ)って来る。

 最初のソロパートが済んだ頃から、ちょっと、両足が震えだした。

 最初のソロ担当は、上手く歌った。

 みんなの合唱も、揃(そろ)っていてミスはしていない。

 コーラス祭は、学校内の体育館や講堂などの施設を使わないで、市民ホールの音響効果に配慮した設計の広いステージを借り切って、本格的に行われている。

 一つ先に歌い終わった彼女のクラスも、全員が客席で視聴しているはずだ。

 全学年を合わせても、クラス数が少ないので、ホールの貸切時間に余裕が有って、ステージの入れ替えは急(いそ)がない。

 次に歌うクラスも、歌い終わった直後のクラスも、全学年、全クラスが客席で視聴する。

 どのクラスも、練習を重ねて頑張っていたのだから、ステージのコーラスは、みんなでしっかり視聴してあげなければならない。

 昨年、同じクラスだった彼女は、クラスのみんなと練習通りに揃えて、最上列で体を左右に振り、リズムを取りながら、しっかりと口を開けて合唱していたと思う。

 男子の中段で歌う僕からは、斜め後方の死角になっている位置の彼女は、全く見えていなかった。

 ステージ中に一瞥(いちべつ)でも、首を傾けたり、振り返ったりして、彼女を見る事はできない。でも、直ぐ傍(そば)にいる彼女を感じて、声も聴き分けれた。

 今回、3年生への進級で、クラス違いになった彼女は、ピアノ伴奏を担当していた。

 曲と歌詞に合わせて強弱や高低を協調させ、軽(かろ)やかに弾(ひ)き、小学六年生の時よりも、格段とテクニックがアップしていた。

 なのに、僕の耳に聴こえてくる彼女のピアノの音色(ねいろ)からは、曲の流れを立体にイメージできず、僕の期待を燻(くすぶ)らせた。

 彼女はコーラスの盛り上がりを、リズムとメロディーで支えるだけの演奏に徹(てっ)していて、せめて、もう少しピアノのパートが長ければ、もっと、もっと、彼女の想いを響(ひび)かせて、僕や客席のみんなを、ときめかせたに違いなかった。

 透明感も、豊かな感受性も無い。

 飛び舞う高揚感を与えてくれた小学6年生の彼女と違い、感動も無い音は、突(つ)き抜(ぬ)けて行かなくて、伴奏を弾いていた彼女の何もかもが、小学6年生の彼女には重ならなかった。

 それはきっと、コーラスの伴奏のみに徹していた所為(せい)だと思う。

 決して、彼女の気持ちが冷(さ)めているからじゃないと思いたい。

 彼女は、コンダクターの指揮に目線を上げた後、時々、そのまま視線を客席に移して何かを探(さが)すように見ていた。

 その流すような目付きに僕は、小学6年生の音楽の授業で歌っていた彼女を思い出した。

 あの時の、歌い終わって後ろを振り向き掛けた、彼女の眼差(まなざ)しと同じだと、僕は気付いた。

(なぜ…… 振り向き掛けたのだろう? 彼女は、何を見ようとしたのだろう? それとも、もしかして…、僕を探していたのだろうか……?)

 薄影の客席に、彼女を探す。けれど、客席は、奥へ行くほど暗くて良く見えず、夏服の白さだけが、視覚に白壁のように広がって見付けられない。

『♪ あなたの熱で……』、コーラスパートを、みんなに合わせて歌いながら、冬の奇跡(きせき)のような出逢(であ)いを僕は思い出していた。

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 3月初め、北イタリアのコモ湖の畔(ほとり)とローマのスペイン広場で、彼女と二度も信じられない遭遇(そうぐう)をした。

 まさか、親父(おやじ)と行ったイタリア旅行で、彼女を見掛けるとは想像もしていなかった。

 行きの飛行機の中では、ツアーのパンフレットを見ながら、もしも、彼女がいっしょならどんなに楽しいだろうと想像していたのだけど、その、心ときめく白昼夢が、本当に、現実になるとは今も信じ切れなくて……、思い返す場面は鮮明で、写真も撮ったのに、記憶の実感が夢を見た後のように淡くて朧(おぼろ)だった。

 コモ湖の湖畔でも、スペイン広場でも、僕が先に気付いて、彼女に見られないようにしていた。だから……、少なくとも、僕の方へ向いたり、見たりする事は無かった。

 故に、彼女は、僕に気付いていないと思う。

 よもや、日本を遠く離れたイタリアの地に、しかも、自分の直ぐ近くに、僕がいたなんて思いもしなかっただろう。

 最初はコモ湖で、彼女と似(に)た背格好の女子を見掛けて、持たされていた親父の望遠レンズ付き一眼レフカメラを、その子へ構(かま)えた。

 『湖畔の少女・冬のコモ湖にて』と、写真の題名を考えながら液晶モニター越しに、斜め後方から見る少女の、水色のカチューシャをした黒髪と白くない肌の頬(ほお)は、明らかに東洋人の女の子だった。

 ちょっと、リッチそうな服装や持ち物などの外見から国籍を見分ける術(すべ)は何も見い出せず、黄色い肌だけでは日本人かどうか分からない。

 カチューシャの色をコーディネートさせたのか、空色と白のベースに青を散らした明るい配色のスプリッター迷彩(めいさい)柄(がら)のボアコートは、遠めにも人目を引いた。

 襟の返しや白いファ付きのフードの内側に見える裏地は、白い羊の毛のようで、モコモコとした表地と相俟(あいま)って、とても暖(あたた)かそうに思えた。

(へぇーっ、いいセンスじゃん)

 僕は、被写体として良い感じの、どこの誰とも知りもしない東洋系の少女を、写真に写す事に決めた。

(これは、彼女につれなくされている反動の所為でも、浮気心(うわきごころ)でも、ナンパ目的のアバンチュール願望でもないぞ! 単に、美的な絵になるから撮るだけで、他意は無いんだ。大体、お近付きになろうにも、日本人でなければ、言葉が通じないじゃんか!)

 これは、互いに人生の中での一瞬の交差にしか過ぎなくて、しかも、密(ひそ)かで一方的な僕の干渉行為で、少女が気付きもしない事だ。

 この先の人生に於(お)いて、世界のどこかで、再(ふたた)び、少女の人生と交差したとしても、二人の共通の接点は無く、今と同じ状況を繰り返すだけだろうし、その時に、僕が少女の話す外国語をマスターしているならば、この出逢いの場面が、二人の交流始めの切り出し言葉になるかも知れないと思う。

(どうする? ダメもとでも、一応、声を掛けてみるか? やっぱ、最初は、『ハロー』からだよな?)

 自分の英語力では、どうにもならないと思うけれど、ソロを撮り終えたら、次はツーショットだとばかりに、旅の恥は掻(か)き捨(す)て的な衝動に駆(か)られて、僕は行動を起こす気になっていた。

(切っ掛けは大切で、チャンスは大事だ! これっきりかも知れないが、何事も、遣ってみないと分からない!)

 肯定してくれる宛(あ)ても無い言い訳と空虚な未来を考えながら、カメラの撮影モードを最大画素にセットして、レンズを200ミリの最大ズームで向ける。それから、ズームで十数倍に拡大された画面が、ブレないようにベンチの上にカメラを置き、ベンチの陰にしゃがんで、液晶モニターを覗く。

 胸から上で拡大された少女の、僅(わず)かに見える頬が、どこか懐(なつ)かしくも愛(いと)おしい気持ちにさせた。しかし、こんな姿勢で女子へカメラを構えるなんて、これじゃまるで、盗撮しているみたいだ。

(いや、事実、これは、隠(かく)れ撮りだから、どう見られても、盗撮だろう……)

 『イタリアでも、盗撮は、ちゃんとした犯罪なんだろうな』と思いながら、先(ま)ずは、パシャと後ろ姿を1枚。

 一眼レフカメラ特有の内部ミラーが跳(は)ね上がる音と、シャッター幕の移動音が心地良い。

 液晶モニターへ記録された、少女の後ろ髪のアップに、再びデジャビュのような懐かしさを感じた。

 益々(ますます)、少女の顔を見たいという思いに駆られ、シャッターモードを連射に切り替えて、少女が横顔を見せるベストシャッターチャンスを待つ。

 早く、横顔だけでも見せてくれないと、親父とツアー参加者達が戻って来てしまう。

 突然、北アフリカから地中海を飛び越えて来たかと思うほど、生暖か(なまあたた)い一陣の大きな風の塊(かたまり)が、僕の後方から地表を強く舐(な)めながら吹き抜けて行き、急速に迫る風の気配を感じたのか、振り返り掛けた少女を、突風が直撃した。

 風圧が少女を湖畔の欄干に押さえ付けて、ボアコートと黒髪を掻き乱す。

 瞬間、液晶モニターが、風に吹き上げられる後ろ髪に、露(あら)わにされた少女の白い項(うなじ)をズームで写し撮り、僕の心臓を跳ね上げた。

 パシャシャシャッと連写モードでシャッターが切れて、風に舞い上がる黒髪と晒(さら)された絶対領域の白い項の時間を、写し撮って行く。

 僕は、無意識にシャッターを切っていた。

 パシャシャシャッ、連写モードで少女を撮り続けているカメラに気付いても、僕の指は、シャッターボタンを押し続けるのを止めようとはしない。

 10枚余りのレンズと数千万画素での記録を確認するモニター越しに、鮮(あざ)やかな白い項を見たのは、一瞬だけだった。

 直ぐに風に捲くれ上がってバタつくフードが、絶対領域を隠してしまう。

 乱れ舞う髪とフードのはためきを抑(おさ)えようと、風上へ体と顔を立たせようとする、少女の髪を押さえる手の影から現(あらわ)れた横顔は、見慣(みな)れた僕好みの輪郭だった!

(おおっ、可愛(かわい)いじゃん! 彼女似で、僕のタイプ ……って、あっ! ああっ! 見慣れた横顔って……、そんな……、はずは……)

『ドックン』、心臓が一際(ひときわ)大きく鳴った。

 去年、新学年になった教室で、彼女を見付けた時と同じくらいに、心臓が強く跳ねた。

 パシャシャシャシャッ、勢い良くフル連写でシャッターが切れて行き、メモリーに蓄積し続ける東洋人の少女の横顔は……、

(ああああっ! 彼女……? ……だ?)

 彼女だと見知った瞬間、僕は驚きの余り、凍(こお)りついたように固まった。

 フル連写で切り撮り続ける少女が、彼女だと認識できたけれど、とても、この場に存在している事が信じられない。

(なっ、なぜ? なぜだあ? どっ、どうして……、ここに……。どうして?)

 理解できない驚(おどろ)きで固まる身体に、カメラを構える腕が揺れて、モニターの画像を乱す。

 僕のシャッターボタンを押し続けた指が、少女の呪縛から解(と)かれ、間断無く連続したメカニカルな作動音が消えた。

(いやいや、人違い? 錯覚? イリュージョン? ……でもでも、動いているし、似ているし……)

 視覚と識別中枢は、彼女だと認識判別できているのに、信じられない気持ちが疑い、画像を否定したがる。

 高まる気持ちを落ち着かせて、カメラを構え直(なお)し、再度シャッターボタンに触れると、画面が鮮明に再調整され、ピピッと鳴る電子音が、彼女の頬にフォーカスロックした事を知らせた。そして、パシャシャシャッと、連写モードが再開された。

 大風が吹き去って穏(おだ)やかになった大気に、彼女は乱れた髪を纏め直し、再び、湖の方へ顔を巡らせながら、僕に背を向けようとした時に、彼女の家族……、たぶん、父親と母親と姉がアウトレットから戻って来た。

 彼女の家族は、僕のカメラの写線を遮(さえぎ)るように彼女の前に並び、そして、高校生ぐらいの姉らしき人が彼女の首に、光(こう)沢(たく)の有る淡い色合いが綺麗なスカーフを巻いた。

 僕は、それが、アウトレットで買ったばかりのコモシルクのスカーフだと分かった。

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『♪ 今も想うよぉ……』、フレーズが僕の想いと重なって、胸が熱くときめいた。

 僕は、いつも……、君から遠く離れたと思っていたイタリアでも、そして今も、君だけを想って探している。

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 首元に綺麗な淡い色合いのスカーフを巻いた被写体の横顔が動いて、再び、カメラのモニター画面全体が暈(ぼ)やけた。

 フォーカスポイントの四角い枠が、グリーンからレッドに変わり、そして、コンマ数秒でフォーカスロックを示すグリーン枠になる。

 一瞬のグリーン枠へ重なるように瞳へ映(うつ)る反対色の淡い残像枠が、彼女と繋がる希薄(きはく)で危(あや)うい運命の赤い糸のように思えた。

(幻(まぼろし)でも、見間違いでもなければ、ここ冬の北イタリアの地に、僕の女神様が、降臨だ!)

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『♪ あなたといたい……』、中盤のソロのフレーズが、心に沁(し)み入る。

 あの時も、僕はそう思っていた。たった一人で湖畔に立ち、ヨーロッパアルプスの何処かに在る架空の公国を舞台にしたアニメに登場していた、伯爵城の蒸気船みたいな白い遊覧船を見ている彼女の傍へ駆け寄って、マジマジと本人確認をして遣りたかった。

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 ツアーに付き物の名産品のアウトレットへ、親父は行っている。

 ここの名産は、コモシルクと呼ばれる絹の染物で、繊細(せんさい)な色合いの模様の緻密(ちみつ)さが有名らしい。

 親父は、染色工場の見学を兼(か)ねたアウトレットで、妹とお袋(ふくろ)に頼まれたスカーフを買うと言っていた。

 コモシルクに興味の無い僕は、行かなかった人達とパーキングに隣接する土産物屋が並ぶ、石畳の広場や通りをぶらつきながら写真を撮って、親父の帰りを待っていた。

(一人…… なのか? ふっ、そんなわけないか)

 最初、なぜ、彼女が一人でいるのか分らなかったけれど、親父が向かったアウトレットへ、彼女の家族達も行っているのだと、直ぐに知った。でも、なぜ、彼女はアウトレットや広場のショップへも行かずに、湖畔に一人だったのだろう? と、不思議(ふしぎ)に思う。

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『♪ 叫(さけ)び続けて……』、彼女の傍へ駆け寄れたなら僕は、そう、叫んで遣りたかった。

『好きだー! 君が、大好きだー!』と、風上に立つ僕は、追い風に乗せて叫ぶ……。

 ……そうして遣りたかった。

 結局、駆け寄る事はできず、叫べなかった想いは、燻ぶるだけに終わった。だけど、叫びたい想いは、今も変わらない。

 イタリアで僕を驚愕(きょうがく)させてくれた彼女は、客席のどこかで僕を見ているはずだ。

『♪ 求め続けて……』、僕は、いつも彼女を探し求めている。

 同じクラスだった時も、教室で、廊下で、校内で、通学路で、隣の席の彼女を僕の瞳は常に探していた。

 それは、違うクラスになった今学年でも、同じだ。そして今、ステージでソロパートを歌いながら、観客席に彼女を探している。

 その、常に探し求めていた彼女が、イタリア旅行で最初に訪(おとず)れた観光地のコモ湖に……、探しても彼女を求められない場所に……、奥に見える高い山並みが雪を頂いたスイスのアルプスというロケーション、ずっと緯度が北寄りなのに金沢(かなざわ)よりも寒さの薄(うす)い、そんな山狭(さんきょう)の湖の畔に彼女はいた。

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 冬の季節の時差は、八時間。

 こっちの今の時刻だと、日本は宵(よい)の口で、今頃、晩御飯を済ませた彼女は自室で勉強中のはずだ。そして、こっちが真夜中になると、彼女は向こうで学校へ行く……、はずだろう?

 僕は目の前の、彼女がいる情景を信じられなかった。

(まさか……、もしかして……、僕の旅行に合わせて彼女も……。うんにゃ、ない、ない。有り得ない! そんな事は、絶対ない!)

 大体、こんな、費用と日数が掛かる事に、家族の中で、僕や妹がそうなのと同じで、彼女にも決定権は無いだろう。

 有るとしたら、『家族で、旅行へ行こうよ』と、提案して、『ここへ行きたい』と、希望案を言うくらいだ。

 友人達には、親父と海外旅行へ行くとしか言っていないし、先生には、全然、別の理由で一週間休むと、親が伝えている。

 だから、僕がイタリアに来ている事は、彼女に知られていないはずだ。

 僕は、彼女に許(ゆる)された唯一(ゆいいつ)のコミュニケーション手段の携帯電話のメールでも、臭わせても、知らせてもいない。

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 液晶モニターを通してなんかじゃなくて、間近で彼女の顔を見れば良かった。

 彼女が、突風に攫(さら)われないように、その両肩をしっかりと両手で掴んで、じっと、彼女の顔を見詰めたかった。

『♪ 幻なんかじゃない……』

 中盤のソロも綺麗に歌い切り、続いた合唱の終わりが伸びて、次は僕のソロだと告(つ)げている。

 小(こ)刻(きざ)みに震える膝(ひざ)から下が、サワサワと冷たく感じて落ち着かない。まるで、高い場所の縁(ふち)に立ったみたいに足裏が、ブクブクと泡(あわ)だってムズムズしている。

 なのに、擽ったいとは思わない。

 次のパートの為に、何十回も練習した。

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 コーラス部の女子が、発声と呼吸を指導してくれて、クラスのみんなと通しを揃え、何度も一人だけでピアノの伴奏に合わせて歌わせて貰(もら)った。

『君ねぇ、ただ、声を出して歌えば、いいってもんじゃないのよ』

 彼女達の指導は、厳(きび)しく、パワハラの虐めのような、ねちねちと細かい注意のしつこさが、卓袱台(ちゃぶだい)返(がえ)しをしたいほど煩(わずら)わしい。

『ちゃんと、リスナーへ歌詞と、その意味に込めた思いが、聴き取れて、伝わるように歌わないと、ダメじゃん! ああん、わかってんの?』

 ブラスバンドのクラスメイトが、楽譜の読み方を教えてくれた。

『おまえ、自分が歌う曲の楽譜に有る記号や音符を、ろくすっぽ、わかっちゃいねぇだろう』

 軽音部の男子と女子が、口を揃えて言ってくれる。

『喚(わめ)いているようにしか、聞こえていないよ! でも、リズムのノリは、良くなって来てるね』

 自信と責任を持って、しっかり、自分の想いを彼女へ伝える為に、僕は、音痴(おんち)で鈍臭(どんくさ)いセンスの自分自身と戦う。

 全生徒下校時間になるまで、屋上の片隅(かたすみ)で空に向かい、一人だけのアカペラをして、その後も、一人カラオケで繰り返し歌い、リズムと歌詞を身体に覚(おぼ)えさせた。

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 このタイミングで、三歩前に出て歌わなければならない。

 足裏の感覚が無くなり、プルプルと小刻みに震える足を、膝ごと引き摺(ず)るように前に出す。

 その時、客席に彼女を見付けた。

 彼女は、真(ま)顔(がお)で食い入るように僕を見ていて、その真剣で美しい瞳に、励(はげ)ましてくれていると思う。

 僕も、彼女を見据(みす)えて、目を逸(そ)らさない。

 瞬間、ピタリと震えが止まり、感覚が戻った足で一歩を踏んだ。

 顔を上げ、息を吸いながら、大きく口を形作る。そして、一瞬、溜(た)めを持たせてからコーラス部で習った複式呼吸の声を出す。

 濁(にご)らない大きな通る声で、深く伸びやかに。

 足は肩幅に開いてリズムを取り、両手を大きく使い、歌に合わせてフリを付ける。

 歌詞が、はっきりと聞き取れるように、発音に合わせて口を大きく開いて形を作り、声を放つ。

 耳はしっかりと、伴奏のリズムと音色を聴く。

 繰り返した歌い込みで、声も、口も、姿勢も、手振りも、身振りも、そして、リズムとタイミングを身体がしっかりと憶(おぼ)えていて、僕は、曲に合わせて上手く唄えていた。

(飛べ、僕の声! この広い会場の隅々(すみずみ)まで、響け! 響いて、彼女の心を打ち振るわせろ!)

 彼女の目は、大きく見開かれ、瞬(まばた)きもしないで僕を見続けている。

 小学校六年生での赤っ恥(あかっぱじ)の屈辱を、彼女の前で繰り返したくなかった。

 彼女は、ちゃんと歌っている僕に驚いているみたいだ。

(あの、梅雨の日の雪辱が、……できているのだろうか?)

 彼女の驚きの顔は、きっと、彼女のピアノを聴いた、あの時の僕と同じだと歌いながら思う。

 僕が歌うこの歌を、君に捧げたい。

 彼女の心に、聞こえて欲(ほ)しい。

『♪ あなたの声で……』、君と、話したい……、君の声で、僕を呼んで……。

 君の声を、聞いていたい。

『♪ あなたと手を……』、君と、手を繋いで歩きたい。

 想いもいっしょに……、ずっと、二人、いっしょに……。

 真っ直ぐ、彼女を見て僕は歌う。

 胸に手を当て、両手に拳(こぶし)を握り締め、僕は彼女への想いを唄う。

 クラスの合唱が、僕の声に重なって。

『♪ あなたとの瞬間(とき)が……』、想いを強く込めて、彼女の魂(たましい)に響くように……、両手を広げて。僕は声を振り絞(しぼ)り、叫ぶように歌う。

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 湖畔での出逢いは、僅か二十分ほどで、カメラのモニター越しに希薄な赤い糸で真っ直ぐに結ばれていたのは、三分にも満たない。

 あれから直ぐに、タイムスケジュールを合わせる為に慌(あわ)ただしくアウトレットから戻って来た親父達は、広場に残っていた僕や同じツアーグループの人達と合流してバスに乗り込み、急ぎ、彼女達のグループより後に来たのに、彼女達よりも先に、次の観光スポットへと向かった。

 彼女をアウトレットから戻って来た人達の中に見失ってしまった僕は、バスにシートに着いてからも車窓から彼女の姿を探す。

 動き出したバスがパーキングから湖畔道路へと折(お)れる頃に、やっと、僕の凝(こ)らした瞳は、ツアーの人達の前を歩く空色の彼女を見付け出した。

 離れて小さくなって行く彼女が、石造りの町並みの向こうへ隠れ切ってしまうまで、車窓のガラスに睫毛(まつげ)が触(ふ)れるくらい眼を近付けて、僕は見続けていた。

 サイコロを振り上げた瞬間に、回転しながら落下して跳ね転(ころ)がった挙句(あげく)に静止したサイコロの、その出る目を知る事ができるという超能力的な、加わる諸々(もろもろ)の要因の集大成説と偶然の必然性要因説を、今は信じられそうだ。

 その日の晩にミラノ郊外のシックなホテルの部屋で、お袋と妹へ、今日のツアースポットの感想メールと写真をインターネットに接続した親父のミニパソコンで送り、それから、親父と明日のツアー予定の確認を済ませて、湯を張った大きなバスタブに、ゆっくり沈(しず)んでいたら、『着信してるぞ』と、親父がタオルといっしょに僕の携帯電話を持って来た。

 丁度、熱めの湯に浸(つか)かり、コモ湖やミラノ市内の観光とショッピングや食事で出歩いて冷えた身体を温めながら、今日一日の出来事を思い返していたところだった。

 思い出しても、体中がゾワゾワするような、信じられない出逢いが、観光に行った北イタリアの山狭の湖畔で有った。

 その時刻なら、金沢の自宅でいつものように過ごしているはずの彼女が、まさか、同じ日に学校を休み、同じ時差時間、同じ異国の地にいるとは、全く思っていなかった。

 既(すで)に、彼女を写した一眼レフカメラの画像データは、先に親父がシャワーを浴びている間に、こっそりとミニパソコンを通して抜き出し、僕のメモリーへ移している。

 気持ち良く湯気を吸い込みながら、チェックした彼女の画像を思い浮かべていた時に、聞き慣(な)れた着信音を奏(かな)でる携帯電話を、親父は持って来てくれた。

 メイン画面には、『僕を見ている瞳』の画像、送信者は、『Ying Hua』、これは、中国語のピンインという、日本語のローマ字に該当する発音表記だ。

 その『インファ』と発音する意味は、『桜の花』だ。

(こんな時間に……、まだ、起きているのか? んっ、これって、国際回線を使う事になるんだよな……)

 イタリア時間の午前零時近くに、彼女から国際送信されて来たメールに、『時差で、眠れないにしても……』と、不思議に思いつつ、ふやけた手から滴(したた)り落ちる湯の雫(しずく)を、親父から受け取ったタオルで拭き取り、神妙に画面を開いてみた。

【おはよう。今、どの辺(へん)?】

(おっ、これは……、日本に居ると思われている、僕宛へのメールだ!)

 幸(さいわ)いなのか、残念なのか、コモ湖では気付かれていなかった。

 この状況に、同じイタリアのミラノの地に居る希少な現実を、彼女へ知らせれば、現時点で、同じミラノに居るのか、又は、高速道路の太陽の道をベネチアまで移動したのか、それとも、ユーロスターの列車に乗ってフェレンツェへ行ってしまっているのかも知れない彼女と、互いの旅行行程を照らし合わせれば、再び、どこかの観光地で、計画的に会えるのではないかと、考えが頭を過(よ)ぎる。だけど、一方通行な想いを自覚している僕からは、そんな、大胆な提案はできない。

 例え、提案できたとしても、素っ気無い彼女は賛同しないに決まっている。

 直ぐに、インターネットで金沢市小立野(こだつの)台地の天候と気温を調べた。

 金沢市は昨夜から降雪が続き、現在の気温はマイナス一度。

 この天気だと、新たに積もった新雪は、軽くてサラサラだけど、路面や路肩に残っていた雪は、バリバリに硬(かた)く凍っている。それに、通学路の大半を占(し)める幹線道路の融雪装置から地下水が流れ出て、マイナスに下がった凍(こご)える朝の時間なら、まだ、雪をシャーベット状に融(と)かしたぐらいだろう。

 昨日から夜通しで融雪装置の水が出されているなら、路面は雨で濡れるようだし、路肩は融雪の水に浸かる半融けの雪で、グチャグチャになっている状態だろう。きっと道路は、カチカチとツルツルとグチャグチャの三パターンが入り混(ま)じる斑(まだら)模様だ。

【上野本町(うえのほんまち)の通り、鶯坂(うぐいすざか)と亀坂(がめざか)の中間ぐらい。雪で滑るし、歩き難(にく)いな】

 これまで、朝の登校時に、彼女から先にメールを送って来た事はなかった。

 ……彼女らしくない。

 一分を待たずに、ツッコミのような返しが来た。

 別に、ボケていたつもりはないのだれど、突っ込まれてしまった。

【そう? 歩き難いかしら?】

 上手く解釈できない『かしら?』に、頭を傾けて、ちょっと訝(いぶか)しむ。

 このニュアンスは、雪の無い場所にいるのを前提としているのじゃないかと、疑ってしまう。

 ひょっとして、コモ湖で僕は、彼女に見られているのかも知れないと思った。

 ならば、意図を訊き出して遣ろう。

【近く? どこにいんの?】

 メールを送ってから、もし、彼女がイタリアに来ている事を知らせて来て、それも、ミラノにいて、しかも、宿泊しているホテル名まで打ち込まれて返されたら、どうしょうかと悩んでしまう。

 先(ま)ずは親父のミニパソコンからルームのネット回線で、このホテルと彼女が居るホテルの所在地を調べ、イタリア語と英語でタクシーの手配と往復の指示会話を書き出し、彼女に会いに行ける行動を取れるのかと、マジに悩んだ。

 泊まっているホテル名まで書かれているなら、それは、会いに来いという意味になるだろう。

 その返信は、エキゾチックな気持ちへ傾かせた東洋人の女の子に抱(いだ)いたのと同じ衝動を、僕に湧かせてくれるのだろうか?

 結局、翌朝になっても、彼女からの返信は着信しなかった。

 イタリア旅行が終わって帰国してからも、彼女からのメールは無く、何かと気不味(きまず)さを感じている僕も、メールを送れなくて、メール交換は終業式の日まで途絶(とだ)えてしまう。

 偶然にも、再び、彼女を見付けたローマのスペイン広場で、通りからショーウインドー越しに店内の彼女を見ていたは、三分ぐらいの短時間だった。

 買おうかと悩んでいたレリーフを諦め、ベネチアングラスのペーパーウエイトだけの支払いを済ませて姉と店から出て来る彼女を、素早く隠れた脇の狭(せま)い小路の角(かど)で遣り過ごしてから僕は店に入り、それから、彼女が諦めたレリーフと再びの出逢いのメモリアルとして、同じレリーフを買い求めた。

 その所要時間は、通りから店内の彼女の様子を見て、小路に隠れ、そして、購入した二つのレリーフの代金が支払い終わるまでに、十分と経(た)っていなかった。

 本当に、一瞬の出逢いで、刹那(せつな)の発見だった。

 僅か数秒でも、数メートルでも、ポイントがズレていたならば、彼女を識別する事もなくて、二度の出逢いは無かっただろう。

 ミラクルが二度も起これば、必然なのに、僕は彼女へ声を掛けようとも思わなくて、二度ともピーピングするだけの遭遇になってしまった。

 一方通行になる因果の空(むな)しさに、悲しみと寂(さび)しさばかりを感じてしまう。

 それでも、ただの遭遇のみの因果で終わって欲しくない。

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 いつもと違う新たな時空で、君と出逢う信じられない偶然に、二度も驚愕させられた。それに、不思議が加われば、奇跡(きせき)だ!

 ファーストミラクルのコモで、髪を舞い上げながら風に顔を立てる君の横顔と、首にコモシルクのスカーフを巻かれて嬉しそうな君の写真は、今も、ポケットに持っている。

(いつの日か、いっしょに僕らの奇蹟の場所へ行って、手を繋いで歩こう。湖畔や広場の階段を、二人でジェラードを食べながら歩くんだ。桟橋(さんばし)のアニメチックな遊覧船にも乗って、風が吹き抜けた湖の奥へも行ってみたいな)

 僕は今、君との奇蹟の出逢いに、感慨と感動を込めて唄う。

 合唱をバックコーラスに、僕は歌い上げて行く。そして、ラストのソロで歌うワンフレーズ。

(澄(す)み切って、晴(は)れ晴(ば)れと、彼女に届け、僕の熱い想い!)

『♪ あなたと……』

 フリに託(かこつ)けて、伸ばした右手の指は、彼女を指し示して曲は静かに終わった。

 曲が終わっても、合唱の余韻(よいん)が沁み入り、会場はシンと静まり返っている。

 客席やステージから咳払(せきばら)いや衣擦(きぬず)れの物音一つしない、まるで、時が止まったかのような不思議な静寂の中、僕は、上げた右手をゆっくりと下(お)ろして、両足を揃えた。

(終わった……。後は、コンダクターの号令に、みんなで礼をしてステージから退場するだけだ)

 拍手が、聞こえた。

 会場が一瞬ざわついて、全校生徒の視線が集(あつ)まる。

 一人、すーっと立ち上がった彼女が、スタンディングオベーションをしてくれていた。

 あの彼女が立ち上がって、大勢の視線を浴びている事も、気付かないほどに、夢中で拍手してくれている。

(嬉しい……。彼女に、感動を届けれたことが…… 嬉しい)

 僕は涙が出そうだった。

 僕を見て一人だけで、一生懸命に拍手をくれる彼女の姿に、僕は感動した。

 会場のざわつきと客席のみんなの姿が消えて、立ち上がって拍手をする彼女と、その、拍手の音だけが、僕の目に映り、僕の耳に聞こえる。

 彼女を指差して歌い終わった僕を見ていた全生徒の目が、パチパチと聞こえて来た拍手の音に顔を巡らせて、立ち上がり、拍手をし続ける彼女に注(そそ)がれていた。

(『ねぇ……』、! 彼女の声が聞こえた……)

 僕に呼び掛ける彼女の声が、頭の中で聞こえた気がした。

 その一瞬に間違いなく、僕と彼女は、ヒーローとヒロインだった。

 ステージを飛び降りて、彼女の下(もと)へ駆け寄りたい。

 彼女に気付かされて、大勢のオーディエンスが、次々と立ち上がって拍手をし始める。そして、僅かな間を置いて、会場は一斉(いっせい)の拍手と歓声で、沸(わ)き返った。

 アンコールの声に口笛も鳴り、大きな拍手と冷やかしも混ざる歓声の中、僕のクラスは、ビシッと全員が揃った一礼をしてステージを降りた。

 こうして、僕の心にときめきを掻き立てて、コーラス祭は終了した。

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 コーラス祭の結果は、声を、みんなと揃えなければならないソロ間のパートも、勢いで、僕は声を飛ばして響かせ続け、コーラスをリードしたので、最が付かない優秀賞になってしまう。

「コーラス祭に参加された、クラスの皆様、ごめんなさい。あんなに練習して来て、本番も、きっちり熟していたのに、最後に……、僕が潰(つぶ)して仕舞いました……」

 終礼前のホームルームに行われた反省会で、僕は一人、前に出て、教壇で向き直ると、深々と頭を下げ、クラスのみんなに謝(あやま)った。

「楽しかったよ。君は暴走しちゃったけど、みんな、一生懸命で揃っていたし、まあ、良かったんじゃない」

 クラスの女子達のリーダー格が、遠回しに僕を責(せ)める。

「はっきり言って、お前の暴走さえなければ、グロリアで、ローレルだったよなぁ。たぶん……」

 近しくしている男子が、プラス責め的に、僕への責めをカバーしてくれた。でも、普通に『栄光の月桂冠』とか、『最優秀賞』と、言って欲しい。

 僕の『暴走』に、『グロリア』の可能性、これで、僕への非難は揃い踏みだ。

(全く、その通りで、申し訳有りませんです)

「やっぱり、あの子が、君の彼女だったんだね。ねぇ、あの子と、どこまで行ってるの?」

 クラス委員の女子までが、囃(はや)し掛けるように、彼女との関係進展を詮索してくるけれど、ここは笑って誤魔化すしかない。

(それ、ホームルームでは、訊かないで欲しいです)

「君のパートから、完全に、二人だけのラブソングになっちゃったよねー。私達のコーラスは、そのバックコーラスだったねー」

 普段も、コーラス祭の時のように、ラブラブだったら良いのだけど、現実は、彼女と手を繋ぐどころか、並んで歩いた事も無い。

 何より、話す事は禁じられているし、挨拶も交(か)わせ無いから、声を聞く事もできないなんて、悲し過ぎるリアルは、恥ずかしくて言いたくない。

「なに、勝手な事してんだよ! って言って遣りたいけど、自分の彼女へは、あれくらいのパフォーマンスをしないと、男じゃないさ。あれは絶対、伝説になるぞ! 賞よりも、レジェンド作りだな!」

 幻想に飢(う)えている男子共は、僕の身勝手な暴走に肯定的だ。

 好きだけれど、彼女に成っていないし、僕も、彼氏に成れていない。

 三年生への進級に伴(ともな)うクラス分けで、別々になった友人達は、御祝いの言葉を掛けに来てくれた。

「無愛想(ぶあいそ)なあいつが、一人立ち上がって、お前に拍手したのには、驚きの感動もんだったな。あいつ、涙まで流していたってさ。あいつのクラスの女子達が言ってたぞ。お前も、あいつも、恥ずかし過ぎだっちゅうの! ほんと、マジすっげーよ。大(たい)した奴だぜ、お前は!」

 まさか、彼女が真っ先にスタンディングオベーションをするなんて、信じられなくて、僕の方こそ、眼が潤(うる)んで泣きそうになるくらい、彼女に感動させられていた。

(彼女は、泣いていたのか……?)

 あの時は、距離と暗さで、彼女の表情が良く分からなくて気付けなかった。

「こらぁ、ラブソングにしてんじゃねーぞ! ―たく、知らない内に彼女と、よろしく遣りやがって、羨ましいぜ」

 僕は、ブンブンと顔を横に振り否定する。

 あの場の勢いで、ラブソングになってしまったのは反省してます。

 最近のメールから、彼女の気持ちに多少の変化が起きているらしいのは、読み取れていた。だけど、態度や表情に親しげさは無くて、僕を無視するような素っ気無さは変わっていなかった。

 表面的に、そう見えても、実際は、少しもラブリーになっていない。

「もう、お前ら二人はできているって、全校に認知されちゃったぞ。良かったじゃん。これで、あいつに告(こく)る奴は、誰もいないさ」

 みんなに僕らの関係を知られたのは、彼女が望んでしたのかも知れないから、別に構わない。でも、きっと、これからも、僕へのつれなさは変わらないと思う。

「そうそう、俺には見えたぞ! あいつ、お前のパフォーマンスに泣きながら、めっちゃ、感動してたよな。これから二人は、急速接近してくんですかぁ?」

 相槌を打って茶化す友達の言う通り、確かに、彼女はしっかりと、僕の歌を受け止めて感動してくれていた。

(本当に、彼女は泣いていたんだ! 僕は、これからも、……彼女に、感動を与え続けていけるのだろうか?)

 僕の暴走が与えたに過ぎない、彼女の感動を不安に感じながら、それでも僕は、彼女と急速接近する新(あら)たな展開を願いたい。


 つづく

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