12 相似

 大量の精を放出したためか、武則は和子の傍らで安らかな寝息を立てて眠っている。

 それで和子は、知らないことは『ない』ことなのだ、という男の……というよりは一般的な浮気論理を思い出したが、それが救いになろうはずもない。

 継続が力であるのは自分の真人に対する感情変化を知ってしまった和子にとって既に自明だが、また同様に危険なこともわかっている。

 和子と真人が一緒にいる姿を見かける他人は時間とともに増えていく。

 その他人の中に知り合いが混じる可能性は日々増すのだ。

 もう止めよう、本当にこれで最後だ、とその恐怖に慄き和子は誓う。

 が、心に誓ったそのすぐ後ろを流れる自分の揺れる感情がそれを認めていないことに和子は気づいて愕然とする。

 深みに嵌るとはこのことなのか、と今更のように嘆いても、それで事態が変わりはしない。

 いっそバレてしまえば良いのだ、そうすれば今の不安は消えるだろう、と和子は思うが、その先に待つのは針の筵だ。

 最終的にわたし一人が捨てられる結末となるのろう、と和子は冷徹に分析する。

 たとえ真人が本気でわたしを愛していても、真人が最後に選ぶのは両親だ、としか思えない。

 そしてもちろん、それが真人のためなのだ。

 だから真人とわたしの真相暴露は不幸な傷しか生まないのだ。

 わたしが毀れ、真人が毀れ、武則が毀れ、美咲が毀れ……、とそこまでのところは確かだろう。

 さらにその先まで累は及ぶかもしれない。

 案外、実の母親の澄江だけは気にしないかもしれないが、それでもわたしを生んだ親として世間から後ろ指を指されるのは避けられない。

 澄江があと何年生きるのか、おそらく神様以外知らないが、老後の不幸が人生の不幸だということは和子にもわかる。

 だからやはり真人との関係は、まだ誰も気づいていないはずの今止めるしかないのだろう、と和子は胸を引き裂かれるような想いで結論づける。

 が、それが出来るかどうかわからない。

 けれども止める他に道はないのだ、と和子はその身の奥深くに性の疼きを感じながら泣き叫ぶ自分の心に強く言い聞かせる。

 それは赤子のような泣き声だ。

 それですっかり目が覚めてしまう。

 武則を起こさないように気を遣いながら布団を抜けて夫婦の寝室から二階の廊下に出ると、その日もまだ起きているらしい美咲の部屋を横目に階下に降りる。

 電気が点いていたので、茶の間を覗くまでもなく、澄江が起きているのがわかる。

 和子は無言で襖を開け閉めして茶の間に入り、卓袱台についてお茶の用意を始める。

 澄江はファッション雑誌を捲っていたが、特に興味があるわけでもなさそうだ。

「なんだか眠れなくって……」

 と和子は澄江が自分に何も訊こうとしないので、つい気づまりになって自分から声をかける。

 言った内容は本当だが、その裡に隠れる感情までが澄江に聞こえてしまったようで和子は冷たい汗をかく。

 すると、それがきっかけになったように澄江が口を開き、和子の顔を見ずにこう言う。

「遣ろうと思えば案外出来るものなのよ。まあ、簡単じゃないかもしれないけどね」

 澄江のその言葉に和子は瞬時、身体が硬くなる。

 が、言葉の意味がわからない。

 けれども、まるで今の状況にぴったりしているようだ、と和子の脳裡を想いが過ぎる。

 それで身体が固まったのか。

 いったい澄江は自分に何を伝えたいのだろう。

「あのときわたしが出て行ったら、今頃おまえはどうなっていただろうねぇ?」

「お母さん、言ってることがわからないわ」

「でも、どの出会いにも間違いはないんだよ。ただ順番が変えられないだけでね。どれも大切。それにお父さんはきっと知っているな、って思ったから結局、出ては行かなかったんだけどね。でも武則さんはたぶん気づいていないから潮時は今だろうね」

「お母さん……」

「アンタは気づかなかったかもしれないけど、友だちの一人があそこで働いていたのさ。身体が動くから大丈夫だけど、貧乏だから南の海に潜って遊ぼうと思うと大変なのよ、とこぼしていたわよ」

「ああ、そういう……」

 和子が澄江の言葉の意味を理解する。

 が、澄江は相変わらず和子の方を見ようともせずに続けて言う。

「でも男の人の方が未練を残すのかしらね? こんな年寄りになってからストーカーされるとは思いもしなかったけど、さっさとこっちの家に移って来て、きっと良かったのね」

 父の要蔵が死んだとき、澄江は武則に誘われるまま、中野家に移る。

 互いの家の距離が車で二十分ほどと近かったことも理由だろうが、一人でいるのが怖いか、淋しいかでもしたのだろう。

 それで祖父の建てた年代物の一軒家――それは中野家も同じだが――の実家を物置の荷物はそのままに元の形でルームシェアのような様式で賃貸にする。

 澄江に頼まれ和子が時折物置を漁りに行くことがあるが、その際、約三十年前の高校同窓生だった塩谷学らしき人影を見かけたのだ。

 ……と同時に記憶の一点でぼやけた体験も思い出す。

 和子と塩谷学に交友関係はないが、何度かつくづくと全身を眺められたことがあったのだ。

 当時そのことを級友の山根みどりに漏らすと、それって和子に気があるんじゃないの、とからかわれたものだが、まさかそれが?

「お母さん。えっ、ウソ、いやだ……」

 そんな言葉が思わず和子の口をつく。

 が、澄江は、

「バカなこと、考えてるんじゃないわよ」

 と軽く去なしただけだ。

「じゃ、わたしは寝ますから、アンタも適当に寝なさいよ」

 と和子に言い残し、茶の間を去る。

 塩谷学の自殺の原因を和子は知らない。

 調べればわかるのかもしれないが、今の和子にはとてもそんな気力はない。

 それに澄江は塩谷学のことについて一言だって語っていない。

 和子が勝手に結び付けただけだ。

 しかし……。

 仮に澄江と学がその昔付き合っていた――性的関係にあった――という和子の想像が当たっていたにせよ、それは片方の死により――少なくとも物理的には――終了している。

 それはもう過去の出来事として終わっているのだ。

 あるいは発覚しなかったので最初から何も無かったのだと言っても良い。

 けれども和子と真人の関係は現在進行形だ。

 澄江は和子に自分が選んだものと同じ選択を促したのだろうか。

 それとも過去に自分が選ばなかった別の道を娘にやんわりと示したのか。

 自分の胸中に急に虚空が現れたように和子は感じる。

 その虚空の中にはすべての自分が隠れているのかもしれない。

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虚空 り(PN) @ritsune_hayasuki

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