11 感染
その夜随分と久しぶりに武則に抱かれながら、和子は今日の自分は軽率だったと反省する。
真人は若い男なのに、あの後和子を抱かずに、今日は帰りましょう、と和子に告げる。
その声にはまだ怒りの残滓が隠れていたが、それ以上に和子に対する気遣いがある。
それで和子もしおらしく真人に首肯き、わかったわ、そうしましょう、返答する。
それだけの言葉の遣り取りで二人の中が急速に進展したのが二人にはわかる。
和子には予想外の出来事だ。
が、たとえ真剣に望んだにせよ、自分と真人が結婚することなどありえない、と和子は思って悲しがる。
真人との逢引の帰り道、和子は常に一人で歩く。
真人の方はいつだって和子にくっついて帰りたるが、和子がきっぱりと拒絶する。
あなたとのことは、自分にはありえないことだから、と拙い説明を繰り返す。
あなたとわたしは家庭教師とその親であって男と女ではないのだから、と釘を刺し、だから親しげに一緒に歩くことなどありえない、と突っぱねる。
和子が口にするどんな主張も真人は自ら退けようとはしない。
もっとも考えてみれば、真人に抱かれているときでさえ自分はたった一人なのだ、と和子は気付く。
ごく稀にほんの短い時間だけ意識が遠退くことはあるが、大半は冷静に真人の未熟な性愛の相手を務めるだけだ。
本物の商売女たちのことは知らないが、まるで娼婦かコールガールのようだと自分の身体の上や下で激しく動く真人を見ながら感じている。
もしかしたら本当に自分は彼の母親ではないのだろうか、と錯覚する。
真人の現在の母親が義理の母親であるらしいことは真人との多くはない会話の中からでも想像がつく。
真人が自分の口から直接和子にそう伝えたことはない。
その母子関係にはどこか蟠りがあるに違いないが、和子は別にそれを知ろうとは思わない。
が、女の直感で、それと自分とのことには何処か関係があるのだろう、と気づいている。
真人が実は義理の母親を愛していて、しかしその想いを伝えるわけには行かないので和子で代償したと答を出せばわかりやすいが、そんなに簡単なことでもないだろう。
真人も和子と同じで本当の自分を探りつつ今という時間をを生きている。
岡目八目という言葉はあるが、本人でさえ上手く把握できないその人自身を母親でもない赤の他人に容易に理解できるとは和子には到底思えない。
それに自分が踏み込んで良い真人の心の領域でもないだろう。
冷静にそう判断し、和子はその件は放っておく。
しかし本当に自分が愛する人の代わりとすればこれで二回目の経験だ、と和子はどうやら本気で真人を愛してしまったようだと諦めつつ認めながら苦く笑う。
そうと知れば、おそらくわたし一人だけをただ真剣に愛してくれる武則のことが急に愛しくもなってくる。
武則だって普通の男なのだから和子に隠れて浮気の一つや二つは経験があるのだろう。
が、和子には思い当たる節が見当たらない。
最初に抱かれたとき、武則の前戯がずいぶんと丁寧だったので、それが和子に彼が以前付き合っていた相手は結構年上の女だろうと想像させたくらいだ。
結婚後は会社の飲み会で社員の女性に酔って擦り寄ってこられたことが数回あったようだが、それもその程度のことだ。
妻を不快にさせる可能性を嫌うのか、武則は自分から昔付き合っていた女の話をしたことがない。
無論和子の方も話さなかったが、昔の話をしたところで、武則の和子に対する態度が豹変するとは思えない。
その意味では武則は和子の母の澄江に似ておおどかだ。
が、現在進行中の常識ではありえないような和子と真人の関係を武則が知ったら、いったいどう感じるだろう?
騙されたとでも思うのだろうか。
それとも裏切られた、と。
あるいは……。
和子は、そのことを考えると怖くなる。
すっと血の気が退く。
武則の性格から考えて急に怒鳴ったり自分に暴力を振るったりすることはないだろうが、逆に冷静に対応されると却って困る。
何故なら和子は武則のことも心から愛しているからだ。
単純なようだが、愛は愛に応えるものだ。
人は愛されれば――程度は種々だとしても――相手を愛すようになるし、逆に憎まれれば――最初はそうではなくても――いずれ憎くなるものだ。
和子は結婚してからの人付き合いがそれほど多くないので他人からあからさまに嫌われた経験は少ないが、ゼロでもない。
そこにどんな誤解が生じたのか不明だが、その昔所属していた文芸サークルで最初は気に入られていたはずの相手に、ある日突然攻撃される。
それが起こったのが時期的に武則の転勤に重なったので事態の終結を待たずに和子はその文芸サークルを抜けたが、事態が未解決のため、今でもそのときのことを思い返すと吐き気がするほど気分が悪くなる。
自分が相手により愛されていたからより嫌われたのだ、と数学の方程式のように考えてみても結局納得は出来ず、心に平静は訪れない。
だから、きっと……。
武則がわたしと真人とのことに気づき、そのとき武則が嘆けば、その嘆きはすぐにわたしを毀すだろうと和子は感じる。
武則の心を毀す以上に……。
和子は、武則のことを失いたくない、と強く思う。
それは本心だ。
が、和子の心は知っている。
それは真人に対しても同じであるということを……。
もちろん、そこには違いはある。
和子は、真人に対しては自分に対する心変わりを望んだが、武則に対しては望まない。
もしもどちらかに紙くずのように捨てられるなら、武則ではなく、真人の方がマシだと感じている。
その正直な自分の感情が、夫婦として長年武則と連れ添った共有時間的なものにあるのか、あるいはそうではないのか、和子には自分の心がわからない。
けれどもそこに何かがあるとすれば、真人との恋愛は現在進行中の感染症で、病が癒えればそれは単に思い出に変るだけだ、という諦念に至る。
その意味で武則との恋愛病はとっくの昔に治っている。
それに代わる――喩えるなら――生活習慣病にもうずっと長い間、和子は感染していたのだ。
その病は単に『生活』という言葉でも置き換え可能だが……。
※ 次回完結ですが、上手く着地できるかな? 種明かしを書き過ぎたので会話だけが良いかもしれません。
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