10 求愛

「気になるの?」

 と和子はわざと聞いてみる。

「そりゃあ、気になりますよ」

 と真人が答える。

「じゃあ、当てて御覧なさいな」

 と和子が問う。

「では、さっきのは違うんですね」

 と真人が言う。

「さあて、どうでしょうね?」

 と和子がとぼけると、

「意地悪な人ですね」

 と真人が和子に近づき唇を奪う。

 和子はしばらくされるがままにしていたが、不意に気が変って自分から真人に舌を絡める。

 その刹那真人はわずかに驚いたようだが、自分に出来る精一杯のお返しをする。

 が、一年経っても真人のキスは未熟なままだ。

 だから和子が正直に、

「あなたはキスが下手ね、真人さん」

 と言うと、

「今日の和子さんはヘンですよ」

 と真人が応じ、ついで、

「どうかされたんですか?」

 と訊ねるので、

「あなたのことが好きになっちゃたのよ」

 と和子は真人に冗談を返す。

 すると真人が目を丸く大きく見開いてまじまじと自分を見るものだから、和子は、そうか、その手があったのか、と同じ方向で会話を続ける。

「結婚しちゃいましょうか、わたしたち……」

 と軽い口調で言ってみる。

「まあ不倫がバレないにしても、武則との離婚には時間とお金が掛かるでしょうけどね」

 と続け、

「あなたにそれが払えるかしら、それに……」

 と焦らし、

「義理だけど、あなたは美咲のお父さんになるのよ。あなたに、その覚悟はあるの?」

 と架空の真人と自分の家庭を頭の中に思い浮かべ、

「でも美咲は武則に付いて行くかもしれないわね。お母さん不潔とか叫びながら……」

 と口にすると急に心臓の鼓動が早くなる。

 その修羅の場面が鮮明に和子の脳裡を過ぎったからだ。

 が、もう少し続けてみよう、と和子は判断する。

 もし上手くゆけば、これが真人と別れるきっかけになるかもしれない、と思えたからだ。

「それからあなたはわたしのことをあなたのお嫁さんとしてあなたのご両親に紹介しなくてはならないのよ。真人さん、あなたにはそれが出来ますか? そしてそのときには、あなたのご両親がわたしのことをきっと口汚く罵るに違いないわね。あなたはそれを冷静に聞いていられるかしら? それにあなたがわたしをご両親の許に連れて行ったら、今では流行じゃないけど、もしかしたら真人さんは蓮池家から勘当されてしまうかもしれないわね。それほどのことが、あなたには耐えられるかしら、真人さん? ねえ、冷静になって考えてみてよ」

 そこまでいうと和子は真人から一歩離れて身を翻し、小さく溜息を一つ吐く。

 真人から答が返ってくるのが怖いのだ。

 自分で口に出して始めて知ったが、わたしは真人を好きになりかけているのかもしれない、と和子は震える。

 が、若い男に本当に耐えられないのは、きっとそのことだろう、と和子は気を静めながら判断する。

 母親ほど歳の離れた中年女が、まだ社会人でもない若い男に、結婚してくれ、と迫ったのだ。

 仮に同じ歳か、あるいは年齢が下の相手でも、若い男は結婚を嫌う。

 恋人のお腹に子供でも出来て世間的に体裁が悪くならない限り、家庭に縛られることがイヤなのだ。

 無論例外はいるだろうが、少なくとも和子の時代の若い男の多くはそうだ。

 おそらく今の時代でも、本質的なところで、それは大きくは変らないだろう。

 それに真人が今の和子の歳になったとき、和子は還暦を迎えるのだ。

 当然閉経しているだろうし――茶飲み友だちにはまだ随分早いとしても――性の相手の女としての魅力が今よりかなり低下しているのは間違いない。

 真人は、そこまで考えたことがあるのだろうか?

「どう、真人さん。あなたには、わたしに答えられて」

 と優しさを込めた声で和子は問う。

 答を迫る

 それは真人へとというよりは自分を慰めるための声音だ。

 が、次の瞬間振り返った和子が見たのは憤怒の形相の真人だ。

 和子はてっきり真人が困るか怯むかするだろうと思っていたので、勝手の違いに、わずかに息を飲み込んでしまう。

 そして間違ったかな、とふと思う。

「本当にいいんですね、和子さん」

 と詰問口調で真人が言う。

「本当にあなたはぼくと結婚してくれるんですね」

 そう口にしながら真人はどんどん怒っていく。

 それは、和子にはまったくその気がないことを知っているが、けれどもその言葉の一部が和子の心の真実だろうと信じたいがゆえに生じた怒りのようだ。

 真人はそれに続け、そんな気もないのに……、と諦めの言葉を和子に投げつけはしない。

 そんな真人の怒りの態度が和子を戸惑わせると同時に綺麗に和子を充たすのだ。

 自分が真人に精一杯愛されている、と和子に実感させた瞬間だ。

 けれども同時に和子は、現時点で真人は恋愛という病気に罹患しているのでそう思い込んでいるだけだなのだ、と意味づけ、己の気持ちを突き放す。

 あと少し時が過ぎれば、わたしは間違いなく真人に捨てられるのだ、と世の常識を信じるのだ。

 それで和子はそのままべッドに向かって服を脱ぎ、惜しげもなく真人に裸身を曝すのだ。

 それは和子の毀れた心を表している。

 真人さん、あなたの欲しいものは、ここにある、ただの女の身体なのよ、と自分の身体を売り物のように見せつける。

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