9 若燕
「ああ、ここだわ」
と和子が言う。
ついで、
「まだ、あったのねぇ……」
と感慨を込めて溜息を吐く。
和子の傍らに立つ真人の表情に変化はない。
が、内心ではどう思っているのだろう、と和子は感じて横顔を探る。
真人はそのことに気付いたのか、和子に柔和な笑顔を向け、訊ねる。
「まさか! ここ、かつての和子さんの定宿?」
それには応えず、和子は目で真人に中に入れと促す。
すると習ったように真人は和子の腰に手を当て、自分の意志を通すかのようにエントランスの中に進む。
自分のことを、和子さん、と呼ばせているのは和子だ。
最初は、中野さん、だったが、そのときには性の関係はない。
それが、奥さん、に変り関係が出来たが、その呼び方はやはり厭だ。
……といって、おまえ、や、きみ、などはありえないし、中野さんに戻るのも気が進まない。
それで、せめて名前で呼んでくれなくちゃ、と真人に懇願すると、和子さん、になる。
真人がしばらく考えてからの決断だ。
そのとき和子は、わたしは呼び捨てでも構わないな、と感じたが、年齢差を考えるとそれもヘンだと思い返し、和子さん、が定着する。
もちろん自宅では中野さんのままだ。
たまに武則がいるときには、中野さんの奥さま、に変わる、
武則が、今日は代休だから、と夫婦で真人を迎えることになった夜には緊張したが、そのときがくれば肝が坐り、自分で驚く和子自身。
が、何気ない仕種一つに媚が雑じるのは防ぎようがなく、それを自分で感じて和子はヒヤヒヤのし通しだ。
結果的に夫の武則には気付かれなかったようだが、確信はない。
その後、逢引したラブホテルで真人に訊ねると、こちらは生きた心地がしませんでしたよ、と急にそのときのことを思い出したのか、汗を拭きながら息も絶え絶えに答える。
その真人の汗も和子には好ましい。
真人の汗は匂いの薄い汗だ。
匂いそのものも動物的ではなく、植物性の香りがする。
どちらかと言えば、和子の方が獣の匂いだ。
丹念に芳香剤を試しても隠し切れないくらい鼻に付く。
真人の汗の匂いが薄い生理学的な理由の一つは肉を食べないことだ。
子供の頃は違ったが、中学を過ぎた辺りから嫌いになったと、和子と同じベッドの上で仰向けになって口にする。
「じゃあ、何を食べるの?」
と和子が訊くと、
「普通にお魚ですよ。昔の日本人みたいでしょう」
と答えて笑う。
それから甘える眼を和子に向ける。
すると和子はどうしたらいいのか突然わからなくなる。
より正確にいうと、その状況が怖くなるのだ。
それで思わず眼に涙を滲ませたこともある。
その涙の意味を真人は当然のように誤解する。
自分が無理を言って和子に迷惑をかけて申し訳ない、と思い込むのだ。
が、和子は敢てそれを質さない。
いずれ真人が歳を取れば自然とわかるだろうから、そのときが来るまで想わせておけばいいのだ、と放っておく。
「ふうん、どんなふうに?」
和子が真人に、生きた心地がしなかった理由を訊ねてみる。
「だって、ご主人は和子さんのことが大好きだってすぐにわかったから、それで……」
「でも、あなただってわたしのことが大好きなんでしょう?」
その程度の問いかけで言葉に詰まる真人の幼さが家庭教師として見せる凛として落ち着いた姿とのギャップとなり、和子の胸に迫ってくる。
すると和子の表情の変化に真人はまたしても戸惑うのだ。
「じゃあ、和子さんはどうなんですか?」
とわずかに剥れたように真人が和子に問い返す。
「ご主人とぼくのどっちが好きなんですか?」
もちろん和子はその種の質問には答えない。
壁か机の上に置いた時計を見ながら、
「ああ、もう帰らなくては……」
と呟くだけだ。
そして自分から先にベッドを降りてシャワーを浴びに向かうのだ。
その自分の後姿を見つめる真人の視線がいつも熱い。
もう一度真人に臨みかかられたように感じて困ってしまう。
実際、和子が望めば真人はおそらく何度でも和子に精を放つだろう。
自分の性器が遂に勃たなくなっても、きっと行為を止めないだろう。
そう想像すると、和子は自分の身体に真人が溺れているのが不思議になる。
確かに経験の少ない女やセックスが苦手な女のように無反応なマグロ状態になるわけではないが、そこまで魅力があるのだろうか、と。
和子は真人との関係が時間限定的なものだと知っていたから、真人の私生活的なことには進んで質問をしない。
やがて真人と別れた後で、彼に対する妙な拘りが残ることを怖れたからだ。
だから真人……と言うより、蓮池家のことについて和子は多くを知らない。
それでも姉と妹がいることや、父の職業が予備校教師であることはわかってしまう。
将来は何になりたいの、と質問すれば、このままの家庭教師がいいかもしれませんね、と答が返り、それに、どうして、と問いかければ、さあ、父の影響かもしれません、父はゼミの講師をしているんですが……、と返事が返る。
そういった内容の会話は歳が離れた恋人同士のものというより年齢が近い親子のような感じになることが多かったが、和子は別に気にしない。
逆に真人が若い激情に飲み込まれるように和子に恋人の眼を見せて語るとき、和子は単に黙っているか、話を逸らすことが多い。
内心では真人に甘えてみたい感情が一度も起きなかったとはいえないが、それをすることを和子は自ら禁じている。
そして最後には、こう呟くのだ。
「真人さん、わたしたちもう別れましょう」
結局ずるずると一年近い時間がが真人との間に流れてしまったが、これまで和子は自分から進んで真人を誘ったことはない。
だからその日は――やはり自分から誘ったわけではないが――、ラブホテルの場所探しに真人を着き合わせたという意味で和子には少し特別の日になったのだ。
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