8 出産

「では次回は中間試験対策と言うことで、これまでの学校の授業の振り返りをしましょう」

 その日の家庭教師を終え、蓮池真人が美咲に告げる。

 それから和子に向かい、

「そうことでよろしいですね」

 と早口で言い、

「では後はいつものように……」

 と続ける。

 それは密会の符丁だったが、和子はいつも冷静な気持ちではいられない。

 かといって実の娘の前で女の顔を覗かせることもできないので、勢い和子は無表情になる。

 が、自分では無表情を装っているつもりでも端から見た自分の顔は判らない。

 それで和子は途方に暮れるが、現時点では無邪気な娘が、

「もうお母さん、たまには笑えばいいのに……」

 と釘を刺すくらいだから無表情の仮面は成功しているのだろう。

 が、それも何時まで持つことか?

 今はまだボーイフレンド程度の関係の男友だちしか持たない美咲だが、やがて恋人が出き、その恋人を初めて裏切る事態になり、和子は己の仮面すべてがたちまち美咲に見破られてしまうのではないか、と恐れている。

 どちらかというと夫に似て陰日向の少ない性格の美咲だが、身体の中には半分和子の血が流れているのだ。

 ……ということは同じ過ちを犯す可能性がゼロではない、ということだ。

 和子の揺れる気持ちの変化をいずれ知る日が来る、ということだ。

 が、と和子は考え直す。

 それでは娘に対しておこがましい、あるいは差し出がましいだけではないか、と。

 確かに美咲を生んだのは自分だ。

 初めて妊娠に気付いたときの親になる自覚のなさに甘辛いような気持ちを味わったことを憶えている。

 武則はたいそう喜んだが、和子自身はそうでもない。

 これから何かが始まるのではなく、これで何かが終わったのだ、と感じる心の方が大きかったから……。

 もちろん子供を産みたくないというのではない。

 そうではなくて、自分の立ち位置がこれからは子供ではなく親になることが、和子には実感できなかったのだ。

 最初にそう感じたせいか、和子は自分の子宮の中で育つモノが、いつまでも自分の子供のような気がしない。

 武則との行為を振り返り、理性の部分で自覚はあるが、感情が納得しないのだ。

 だから惨い悪阻に襲われたとき、胎内の異物を憎んだかというと、そうでもない。

 体験自体は万人共通のものだとして、和子にとって、それが初めての経験だったからだ。

 食べたいものが食べられず、味覚の嗜好が変わって体毛まで濃くなり、自分で驚くうちに何度嘔吐を繰り返したことか?

 その際、実際上はありえないが、自分の口から小さな赤ん坊が流れ出てしまうような気を何度も味わう。

 夢で見たときにはぎょっとする。

 それが和子のミニチュアだったからだ。

 その頃の和子の体型そのままに静かに眼を閉じて下水の奥に流れて行く。

 和子を恨めしい眼で睨むことはせず。それがわたしの運命だから……、とさばさばとしたテレパシーを和子の胸に送りつつ。

 が、それも妊娠初期までのこと。

 軽い食中毒にかかったときには、もしかしたらこれで終わりかとも、と和子は覚悟したものだ。

 お腹が緩くて下痢が止まらない。

 日に何度もトイレに立つ。

 母と夫はしきりに病院行きを勧めたが、移動する時間が和子は怖い。

 トイレで破水すれば、そのまま赤ん坊は流れるが、車の中では流れることはないのだから……。

 それに臭いも残るはずだ。

 そう考えると和子は車に乗れないのだ。

 結果としてその判断が正しかったのかどうか、翌日の朝にはお腹の緩みも治まっている。

 念のため、母に付き添われて総合病院の産婦人科に出向くと、それは危ないところでしたね、と若い医師に言われ、菌検査される。

 結果的にリステリア菌も他の菌も微量過ぎたのか検出されなかったが、尿にはわずかな赤い色があったらしい。

 ということは血尿だったわけだが、まあ、今現在なんともないのでしたら、余計な心配をなさらないとこと方が赤ちゃんのためには一番です、お大事に……、と本人に子供がいるとは到底思えない顔の長い若い医師に見送られて診療室を去る。

 待合には年齢や身体の大きさは種々だが一目で妊婦とわかる多くの女が座っていて、その中に混じって本を読んでいた母が異物のように感じられたことを和子は不思議な感慨とともに思い出す。

 その後も身体の変調には悩まされたが、そのときになってもなお、和子は自分の子宮の中にいる子供が自分に助けを求めた地球外の生物のように思え、不思議と鬱屈とした気持ちになれないのだ。

 そんな話を電話で山根みどりに告げると、

「それって普通、逆じゃないの? アンタ、結局、昔から変ってんのよ」

 と一蹴される。それから、

「でもまあ、身体には気をつけてね」

 と続けたその口で、

「実はさあ……」

 と早期流産の実例をいくつか丁寧に和子に話し始める。

 訊くと、

「ちょうど、その特集をテレビで観たところだから……」

 と屈託がない。

 それで、もう自分には起こらないフィクションだと仮定し、和子は話を聞いたのだ。

 妊娠に関して言えば、出産時の形容出来ない――そして二度と経験したくない――あの痛みを思い出す和子だが、女性の骨盤形状の神秘が自分を出産死から守ったのだと、かつての高校でのレクチャーを鮮明に思い出したりもするのだ。

 が、和子の様々な想いとはまるで関係なく美咲は生まれ、泣き、笑い、やがて動物から人間へと成長する。

 結果から判断して地球外生物ではなかったものの、自分は単に彼女に子宮を貸しただけなのだろう、と和子は今でも思っている。

 美咲はたまたま和子と武則の子供として生まれただけで、彼女が別を望めば、また違った両親の協力を得て、この世へ顔を覗かせたに違いない、と。

 だから事実として自分の血が半分美咲に入っていたところで、自分と同じ誤りを犯すとは限らないのだ、と和子は改めて思うのだ。

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