7 破瓜
その日は石田劉から名詞を貰っただけだが、数日後に劉から和子に電話がかかる。
そのタイミングが、和子が石田劉に惹かれたかもしれないと考えた瞬間と一致していたので、和子は自身の胸の奥の秘密を劉に覗かれたような気がし、電話のこちら側で独り赤面する。
話を聞くと特に用事はないようだが、食事に誘われたので、次の休みの日に出かけることに決める。
向こうから電話をかけてきたからには劉が和子に興味を抱いたと思われるが、特にそういった話題は出ない。
最後に祖父の健康状態を聞かれ、とりあえず病気ではありませんが、歳が歳なので身体を動かすのが厄介そうです、と伝えると、ご自愛くださいとお伝えを、と返される。
それから、直接の指導は受けていませんが、大きな影響はあるんですよ、と真剣な声で訴え、それから笑う。
その笑い声が野太くて和子の劉に対する印象が狂う。
祖父の画廊で出会ったあの真っ暗な印象の男と電話の石田劉のイメージが繋がりを失い、宙にブランと垂れ下がる。
やがて日が流れ、出かけた土曜日は夏日。
昼過ぎには真夏日になるだろうという予報だ。
それで薄物を羽織って和子は出かけたのだが、その日も早いうちに下着まですっかり剥がされることになってしまう。
一線を越えてしまえば破瓜はただそれだけのものに過ぎないようにも感じられるが、大胆に振舞ったとはいえ、和子はやはり男のものを受け入れるのがそのときまで怖い。
それで、この奇妙な精神状態を記憶するためわたしは頑張るのだ、と妙な理屈をつけ、なるで戦地に赴くような精神状態でその場に臨む。
場所は和子が――その存在さえ知らなかった――井の頭公園近くのラブホテルだ。
都心の方は出慣れているだろうから、と劉が和子を吉祥寺のフランス料理店に案内する。
ディナーではなくランチだったが、席はしっかり予約してある。
大野先生のお孫さんなら少しはいける口でしょう、と出されたワインに和子が朱く頬を染める。
食後は井の頭公園内を散策する。
弁天池の周りでは人が溢れて人の声しか聞こえなかったが、自然文化園の向かいの吉祥寺通りの近くでは鳥の声が幾種も聞こえて和子を爽やかに感動させる。
その辺りで和子はもうすっかり劉の術中に嵌っている。
木陰にいてもジワリと汗が吹き出る夏の日差しが和子をその気にさせたのかもしれない。
覚悟を決めてラブホテルに入るとすぐ、シャワーを浴びるわね、と一言いって臆面もなく素裸になり、特に照れることもなくシャワールームに向かう。
男の身体の一部を自身の身体の一部に挿入される経験こそなかったものの、和子はその周辺のことには慣れている。
が、劉にはそれが珍しかったようで、清楚に見えたお嬢さんがあまりに大胆なので、失敗したかな、と思ったそうだ。
それなのに前戯もそこそこにベッドの上に横たえられると出てきた言葉が処女のものだったから、劉は二度吃驚したらしい。
その先も、あなたには驚かせられっぱなしだ、と言葉を紡ぐ劉だったが、和子とは三月ほど付き合った後、結婚が決まって関係は終わる。
そのときまでに和子は最初に感じた石田劉の真っ暗さの理由を知り得ない。
それは今でも謎のままだが、気の進まない結婚をすぐに決めたことに関係していたのだろう、と直感が告げる。
「そんなに結婚が厭だったら、わたしと付き合っているって言ってもいいのよ」
と言う和子の言葉に、
「ごめん。あなたを騙すつもりはなかったんだ」
と劉は和子に申し訳なさそうに見当違いの言葉を返すだけだ。
抱かれていれば、劉が自分を愛していないことは、和子にもわかる。
劉の肉体は確かに和子の肉体を求めていたが、それが和子でなければならないものでもないらしい。
センチメンタルな気分に浸れば、劉が求めたのは自分か、あるいは自分だけが持つかけがえのない何かだと思いたいが、冷静になれば、自分の言うことを聞く好みの女だったら誰でも良かったのだろう、とわかってしまう。
劉との出会いで和子にとって幸いだったのは、和子も劉を愛していなかったことだ。
身体の快感こそ求めたものの、この男の妻になり、あるいは子を産んで、一生を同じ想いで添い遂げたいとは、和子は一度も思っていない。
だから和子は誰にも劉との関係を明かさない。
おそらく劉もそうだと感じていると思うが、祖母の悠里だけが、最初の二人の関係を知るだけに、薄々勘付いていたのかもしれない。
わざわざ口に出しはしなかったものの。
いや、もしかしたら?
と和子は二十年ほど前の祖母の言葉を手繰り寄せる。
もしかしたら、あれがそうだったのかもしれない。
「遊びだったらいいけど、本気はダメよ」
と祖母は言っている。
正確には違った言いまわしだったかもしれないが、内容はたぶんそうだ。
石田劉との性愛期間は和子が競馬に興味を持った時期とも重なったので、そちらのことを注意されたのだろうと当時の和子は思ったが、実はそうではなかったのかもしれない。
が、祖母亡き今となっては、それを確認する術もない。
よしんば悠里が生きていたとしても和子の詰問に口を割ったかどうか?
悠里は昔の女にしては異常なくらい捌けた性格だったが、その分、逆に頑ななところもあったからだ。
祖父に見初められて結婚したが、婚家に来ても実家の仕来りはいくつも守る。
それで大野家の御節には祖父の代以来、鮒寿司が膳がる。
和子は子供の頃からそれに慣れ親しんでいたので別に不思議には思わなかったが、中学時代に下町から越境してきた江戸っ子堅気の男子に驚かれた経験がある。
そんな臭うものを正月に喰うのか、といった指摘だ。
創作ではあるが、明智光秀が安土城で徳川家康を接待したエピソードとも重なる和子の家での出来事だ。
祖母は他にも打ち豆汁やおこうこのジャコ煮を食膳に饗したが、自分が嫌いだったのか、焼きサバそうめんが大野家の食卓に膳がることは終ぞない。
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