5 仮面

 真人はつるんとした若者だ。

 夫の武則も昔はつるんとしたところがあったが、歳とともにそれが薄れる。

 中小企業の営業職として長年培ってきた自信と責任が武則に人間らしい存在感を与え、それがつるんを消しているのだ。

 望むと望まずに係わらず、またそれを言えば世に働く誰しも皆そうだろうが、職業は人の性格を変える。

 本質までを変えることはなかろうが、実はそれすら時間をかけてずらしていく。

 その結果、営業職という職業は営業畑に相応しい性格の人間を育み、同様に研究職は研究畑の人間に必要な大胆さと繊細さを兼ね備えた性格をその場に沈んだ誰かに付与するのだ。

 それは社会的ペルソナ(自己の外的側面=仮面)。

 が、仮面とは言っても肉に食い込んだものだ。

 人によっては、もうすでに剥がすことの出来ない肉面とさえなっている。

 己の肉の内側にしっかりぺったりと定着し、もはや実の素顔を垣間見ることさえ出来いのだ。

 そう考えれば大層怖いが、和子は、そうなる人間は好きでそれを被ったのだ、と思っている。

 だから怖いとも感じない。

 一途で真面目で、おそらく自分の仕事に関して迷うことは滅多にない。

 それが顔に自信を持つということだ。

 職業人のプロフェッショナルとしての仮面なのだ。

 ある夜、鏡を見ながら振り返り、随分遠くまで来たものだと己の軌跡を眺め遣るとき、仮面の奥からキラリと内面の自分が微笑むところを目撃するかもしれないのだ。

 が、それに比べてれば、蓮池真人の仮面はすぐに外せてしまえるくらい薄い。

 もっとも薄い仮面の下から立ち現れるその素顔は仮面とほとんど同じであり、それこそ実の母親か血の繋がった兄弟姉妹でなくては見分けがつかないものだろう。

 家庭教師のアルバイトをしているだけあり、真人の通う大学のレベルは高い。

 和子が卒業したのは今では統廃合で消えてしまった国立大学の一つだが、ランクだけを比べれば真人の大学より下位だ。

 真人は美咲の高校受験に合わせて国語と英語を担当したが、和子が遠目に判断した範囲でも、段落の意味の取り方の説明が判り易かったし、英語の発音が流暢だ。

 真人は理系ではないが、普通の高校受験程度の数学ならば教えられるとも家庭教師派遣会社から説明を受けている。

 美形と言うにはいささか鼻が高過ぎたが、目眉にぽってり感がなくキリッと締まっているので、顔全体のバランスが大きく崩れていない。

 また物腰も柔らかで、和子たちの育った時代に時折あったような暴走性も感じられない。

 見た目、絵に書いたような優等生だ。

 それで和子は安心したが、同時に物足らなさも感じたのだ。

 娘に手を出す心配をまったく感じなかったと同時に自身の心のときめきも失われる。

 最初に真人と会ったのは都内某所にある家庭教師派遣センターの応接室。

 センターのシステムによっては、いきなり自宅に家庭教師が訪れる場合も多いが、中野家が娘に家庭教師を付けるのが初めてだったから、和子がわざわざ出向いたのだ。

 その昔、和子にも短いながら家庭教師の経験があったので、現在の状況を自分の目で確認したい気持ちもあってのことだ。

 候補はすでに絞ってあり、その場はただの顔合わせだが、まだ写真でしか顔を知らないその若い男の実際の印象が少しでも悪いものなら、和子は美咲のために、すぐに人を代えようと考えている。

 そこに年配の女性事務員とともに現れたのが、全体的につるんとした印象の若者、蓮池真人。

 事務的確認事項を中心に十分ほど、和子と真人と女性事務員が言葉を交わす。

 約一年前のことだ。

 あのとき話した内容は不思議と良く憶えている。

 が、真人の印象が抜け落ちている。

 思い出そうと努力しても『つるん』という形容そのままに記憶の掌から滑り落ちてしまうのだ。

 代わりに思い浮かぶのは必死に甘えながら自分を抱く真人の姿。

 最初に出会ったあの日から真人の――それとも自分の?――思いつめた願望を知っていたとは和子には思えない。

 が、冷静になって振り返ると、あのとき自分は食い入るように真人を見つめていたのかもしれない。

 空恐ろしいそんな考えが不意に頭に浮かび、和子が顔を紅くする。

 特に好みの顔ではない。

 肩から上の印象はのっぺらぼうだ。

 特に好みの肢体ではない。

 ただしマッチョ系だったら、和子は最初から真人に好意は抱かなかっただろう。

 ただの家庭教師として信頼しただけだ。

 二十代に成り立て若い男の筋肉を一七五センチメートルの薄い肢体にピタリと無駄なく纏わせた真人全体の印象に自分は晴れ晴れとした感覚を覚えたはずだが、と和子は惑う。

 どうしてそれを憶えてはいないのだろう。

 今の真人の印象から引き算して想像することは容易いのに、どうしてそれができないのだ。

 それで和子は真人を見遣る自分の獣の眼を想像してしまう。

 あの女事務員は内心その眼を軽蔑していたのではなかろうか、と。

 和子の心の内側に萌した女の匂いを敏感に嗅ぎ取り、ああそうなのか、この女も同じなのか、とあの女事務員は和子を見限ったのではなかったか?

 あのときあの場で女事務員の心の変化に気付いたから、自分はあの日の画が思い出せないのではないか、と和子は自分の心情を探る。

 それは一つの可能性だが、一度心に浮かんでしまえば、あまりにも軽薄で薄っぺらだ。

 自分が実際にそうであれば、軽薄で薄っぺらでも構わないが、そう言い切るには何かが欠けているように和子には感じられる。

 いや、自分が軽薄で薄っぺらなのは事実だろうが、真人のために、自分からそれを認めてはいけないのではないか、と和子の心は惑うのだ。

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