2 詮索
二次会、三次会で身体にまわった酔い覚ましに最寄駅の一駅前で電車を降り、十二時をまわった頃、家に帰ると茶の間に電気が点いている。
そこから、
「お帰り。遅かったのね」
と廊下に立った和子に声をかけたのは母親の澄江で、茶の間の障子を開けて和子が覗くと老眼鏡をかけて文庫本を読んでいる。
「お母さん、眠れないの?」
和子が外着のまま丸い卓袱台の向かいに座り、澄江に訊くと、
「何となくね……」
と澄江の乾いた声が返ってくる。続けて、
「でもアンタ、帰ってきたんだ。お持ち帰りされるようなチャンスはなかったのかい?」
といらぬ詮索をするものだから、和子は、
「そんなことはテレビドラマの中だけの話ですよ」
と抑揚なく答え、溜息を一つ吐いてみせる。
母親の澄江は和子と蓮池真人との関係に気付いていない。
昔からそういうことには無頓着な性格で、和子が選んだどんな男を家に連れて来ても、不機嫌な顔を見せたことがない。
どちらかといえば母親である自分に気を遣う和子の男友だちか恋人とすぐに打ち解け、相手の土俵で話を聞くような性格だ。
その点は楽だったな、と和子はポットから急須に湯を入れ、湯飲みに注いだ出涸らしの茶で喉を潤しながら考える。
「アンタが昔付き合っていた、ホラ、何て名前だっけ、藤木くんとか、いなかったのかい?」
不意に文庫本から目を上げ、澄江が思い出したように和子に問う。
「ああ、藤本くんね」
と和子も遠い記憶を引き寄せる。
そのとき和子の頭の中に浮かんだ情景には淡い色が付いている。
しばらく待っても、その色は去ろうとも、あるいは深まろうともしない。
ただその場にとどまるだけだ。
それで、
「お母さん良く憶えているわね」
と自分の頭の中から引き出した薄い記憶を遠く懐かしむように和子が言うと、
「性格が優しそうな子だったからね」
と和子と同じように旧い記憶を探り出すように澄江が呟く。
「うん。確かに優しかったな」
と和子。
が、逆に言えば強引なところがなかったからか、雄介との関係に深みはない。
それでも切れ切れに長続きし、交際期間はトータルで二年弱に及ぶ。
受験後、それぞれ違う大学に進み、その大学で和子に興味を持った別の男が現れると、一度三人で会い穏やかに話したきり、雄介があっさりと引き下がる。
それ以来、藤本雄介との付き合いはない。
雄介と会うのは、それこそ数年に一度の同窓会の席上くらいで、その席で交される当たり障りのない会話には懐かしさはあってもスリルがない。
そこには、かつて同じ場所で同じ時間を共有したという、ただそれだけが際立つ関係性が残っている。
当時雄介との間に性的関係があれば、話はまた違ったのかもしれないが、焼け木杭に火が付く気配は、これまでのところまるで感じられないし、おそらくこれからもないだろう。
が、和子にはそれが惜しいとも思えない。
けれども考えてみたことはある。
雄介との不倫には蓮池真人とのそれのように余計な危険は伴わないだろうと……。
工学部出身の技術部長として繊維業界に属する会社で活躍する雄介には社会的地位があったし、守るべき家族もある。
何かのきっかけで雄介がそれらすべてを捨て去る青年のような激しい恋をしないと断言はできないが、その相手が自分であろうはずもない。
真人に、それこそ実の母親のように慕われ、年甲斐もなく若い情熱に押し流されてしまった和子だが、それは真人が自分より遥かに若いがゆえだ。
自分の年齢の半分以下の、それこそ自分の息子であってもおかしくない若人である真人が和子を好いたから、和子も同じだけの若い情熱を真人に返し得たのだろう。
単に性的な満足を望んだだけの不倫や浮気だったら、和子はその場で燃えても、醒めれば計算高く振舞ったはずだ。
昼の公園で抱き竦められようとすれば軽くいなすのが当然で、人目を気にしつつも唇まで奪われてしまうのは、尋常な四十代半ばの女の心理状態としては考えられない。
「適当な時間に寝てくださいよ」
澄江がそれ以上言葉を返さず、読書に戻ったようなので、和子はそれだけ言うと、自分の湯飲みを持って台所に立つ。
給湯器からお湯を出して湯飲みを洗い、ついでシャワーを浴びる着替えを取りに行くため、二階の夫婦の寝室に向かう。
寝室は階段を上がった左側で、右側は娘の部屋に当てられている。
一人娘の美咲は今年、和子が通ったのと同じ都立M高校に入学している。
美咲の入学式で久しぶりに目にした現在の高校校舎には当時の面影は薄いが、それでも変らぬ部分がある。
都立M高校のシンボル的存在のヒマラヤ杉は未だ健在だったし、体育館も当時と変っておらず、有名な合唱部も健在だ。
むしろ高校よりも変っていたのは最寄駅Uのある街の方で、その昔表通りに並んだ商店街が今はなく、居酒屋のチェーン店やお洒落な美容院が並んでいる。
信用金庫さえ社屋を建て替えたのか、現代風のスマートな外面を見せている。
歩いた表通りのどこにも当時の山の手の町に良くあった都会的な田舎臭さは残っていない。
校舎の裏門に向かう――生徒たちのメインストリートだった――みよし通りにはまだいくらか当時の面影が残っていたが、それでも見渡せば潰れて消えた店舗も多く、見通しの悪かった家々の並びは区画整理され、すっきりと整えられている。
……ということは当時の住人が住んだアパートなどは取り壊されてしまったわけで、和子は十代半ばの三年間、自分が過ごした思い出の場所が新しい色の絵筆で強引に塗り変えられたように感じて淋しくなる。
が、M高校が建つその土地が都会の住宅街なのだから、それも仕方がないと思い直す。
同じ沿線の一つ都会側の駅周辺の様変わりはU駅周辺とは比較にならないものだったからだ。
美咲の部屋から明かりが洩れているので、まだ起きているのだろう。
現役高校生にとって深夜零時過ぎはまだ宵の口というわけだ。
音を立てないように注意して夫、武則の眠る寝室の襖を開ける。
昔から早寝早起きな男だったわけではないが、現在では遅くとも十一時前には寝、五時前に起きる習慣が付く。
中年太りが自分でも醜く感じたのか、会社の行き帰りに路線数駅をウォーキングする目的で早起きを始め定着する。
最初は効果覿面だったが、その後ご飯も良く食べるようになったので、体重はいくらか元に戻る。
が、明らかに健康体には変わったようで、その昔は良くお腹を毀していたのに、それがめっきり少なくなる。
歳は和子と同じだが、童顔なので寝顔が可愛い。
武則の寝入った時間を計算し、約九十分の睡眠サイクルから目を覚ます可能性があるなと和子は思うが、和子が箪笥から下着類を取り出しても武則は無防備な寝顔を見せて眠り続けたままだ。
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