虚空
り(PN)
1 秘密
中野和子が塩谷学の訃報を聞かされたのは、平年より一週間ほど梅雨入りが遅れると気象予報士が伝えた五月半ばのことだ。
満開のバラの花と大勢の幼い子供たちに囲まれ、気象予報士が四角いテレビ画面の中から見せた笑顔が印象的だったので記憶に残る。
ああ、そういえば昨日と、対照的な出来事と繋がったのだ。
その年の冬は寒かったが、派手な三寒四温を複数回繰り返した後に来た春はめっぽう温かく、東京に咲いた桜は、その開花時期を春の嵐が襲ったこともあり、一週間持たずに潔くすべて消えている。
最近では新緑の色も青々しいが、誰にも毛嫌いされる黒や茶の毛虫や白いアメリカシロヒトリが現れないのは、区の行政機関が予め手を打ったからなのだろうか、と和子はボンヤリと考える。
塩谷学の訃報を和子に伝えたのは、都立高校入学以来の友人、山根みどりで、都内某所で開かれた同窓会の席上だ。
塩谷も和子やみどりと同じ都立高校に通っていたがクラスは違い、また関係と呼べるような関係もなかったはずだ、と和子は回顧。
少なくとも記憶の一点でぼやける、あの腑に落ちない出来事と、数日前偶然に、塩谷らしき人影を実家近くで見かけた気がした以外は……。
あのとき和子は声をかけるなどして確認しなかったので、その人物が塩谷学であるかどうかはわからない。
が、仮に彼が塩谷本人であったとしたら、数十年の時を経ているにも拘らず、その容貌は昔の姿を髣髴とさせるものだ。
約三十年前の高校生当時、塩谷学は瘠せていて、また背の低い青年だった記憶がある。
仲間とつるむのが嫌いなのか、それとも別の理由があるのか、どのクラブにも属していないようだったが、体育の時間に教室から校庭を見下ろしたとき垣間見たその肉体は高校生なりに締まっていて、和子に淡い羨望を抱かせる。
……というのは当時和子が付き合っていた相手がスポーツマンタイプの男ではなく、さすがに腹は出ていなかったものの、衣服の上からズボンのベルトの上当たりを小突くと赤ん坊の腹のようなポヨンとした感触が返ったからだ。
が、そう感じていたとしても、和子は塩谷のような男に身を投げ出したいとは、さらさら思っていない。
同じことは当時の彼氏にもいえたが、その場合は多少意味が異なってくる。
どちらにしても、あの頃和子はまだ男の身体を我が身に受け入れたことはなく、行為に対する夢はあったが幻想はない……と今に至るも信じている。
「ふうん、そうなんだ」
とみどりに応え、和子が言う。
「早死にしそうには見えなかったけどね、塩谷くん」
すると、
「それがさあ……」
とみどりが声を潜め、
「詳しいことは知らないけどさ。どうも病気とか事故じゃないみたいなんだな」
わずかに深刻な表情を浮かべ、和子と秘密を共有するかのように囁く。
「……ってことは、つまり」
と和子。
「自殺らしいわ」
最後にみどりは口をすぼめて和子の耳に声を落とす。
「えっ、そうなの?」
みどりの言葉が事実として和子の心の裡に実感されるまで、いくらかの時間がかかる。
実態を持たない音声としての言葉が和子の耳の奥に静かに落ちる。
と、不意にその音声と意味とが繋がり、瞬く間に胸中で暗い色を持った何かに変り広がって、和子がみどりに聞き返した声にも自然と驚きの色が付く。
それに反応したのか、
「何? 何? 何? 何……」
と高校生当時から男女の噂話に目のない旧姓初川恵が、ぎゅう詰めの席から、いささか太めの身を乗り出して和子たちに向かって声をかける。
「あらっ」
と、その声に反応して首をまわすと恵の視線が和子を捉える。
その一瞬、和子は恵の噂アンテナの未だ衰えぬ健在性を知り、思わず頬の緊張を緩めてしまう。
が、その表情の変化と恵と関わることは一致しない。
「何でもないわよ」
と右掌を軽く左右に振りながらを和子は応える。
「でもまあ、メグも変らないわね」
そう付け加えて首肯くと、みどりも合わせて首を縦に振る。
「ほんとおーっ、アンタたち怪しいわよ」
と恵。
「古亭主の悪口を言ってただけだから、新婚のメグは、ホラ、ホラ、あっちへ行く」
和子がそう言い切ると、恵はそれ以上詮索する気が起きなかったらしく、高校生当時憧れていた――と噂される――山本雄二の隣の席が空いたのを見定める、すばやくそこに収まっている。
恵の再婚相手は高二のときに同じクラスだった早瀬正治だが、半年前からシンガポールの工業に長期出張中で、同窓会には出席していない。
最低でも月に一度は具体的な近況報告のため会社には顔を出すようだが、事情によっては家に帰らずに現地にとんぼ返りすることもあるのよ、と同窓会定番の近況報告で恵自身が語っている。
再婚一年未満で寡婦扱いとなり、それで男に貪欲になっているとも思えなかったが、恵には昔から計り知れないところがあるので何ともいえない。
ちなみに和子たちのクラス内で後に結婚した男女は早瀬夫婦以外にはいない。
高校時代に付き合っていた何組かは、いずれも大学半ばですべて関係解消されている。
「アラフィフも近いのに、メグも、あれだもんね」
と呆れたようにみどりが呟く。
「ま、あたしも性格、昔からほとんど一緒だけどさ」
「わたしもそうよ」
即座に和子は応えたが、言った途端に胸の一ヶ所にちりちりとした痛みが奔る。
誰にもバレていないとは思うし、ましてやみどり以外のクラスメートたちとは数年に一度会うか会わないか程度の関係だから、余計な気をまわす必要はないはずだ。
が、何処に目があり、何処に耳が付いているかわからない。
事実、大学時代の知り合いに、塾の教え子に浮気現場を目撃され、その後離婚に到ったケースがある。
二十歳以上年下の、まだ大学生でしかない蓮池真人と身体の関係が出来てから、かれこれ一年近く経っている。
理性は和子に、早く別れろ、と分別顔で説教をするが、セックスが上手いわけでもなく、ただやみくもに自分を好いてくれるだけの若い男とどうして別れられないのか、和子自身にもわからない。
まるで幼い子供のように、すべてを独り占めにし、和子の両胸を忙しなく吸う真人の愛撫が和子の女心に切ないものを感じさせるのは事実だが、冷静になって考えれば、真人の心が完全な中年女である自分の許を離れて若い女に向くのも、そう遠いことではないだろう。
そのときになれば自分はきっと、書き損じた葉書か、あるいは便箋くずのように真人に捨てられるのだろうが、わかっていてもそれは辛い。
だから真人が自分を一直線に好いている今のうちに、こちらから別れ話を切り出すのが理想なのだとわかっていても、どこかに未練が残るのか、和子にはそれが出来ない。
もっとも真人に強引に呼び出され、身体を預けた遅い朝や午後の気怠い空気の中では、
「わたしたち、もう終わりにしましょう」
と毎回和子は口にするのだったが……。
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