霜月のハロウィン

つむぎゆう

第1話

 色づきはじめた紅葉の葉が、さらりと秋風に揺れた。

 その枝の向こうに見える空には、高く浮かんだ鰯雲。

 境内の石畳を掃く竹箒の手をとめて、少女はひとつ息をついた。

 少女――歳の頃は十三、四か、もしかしたら、もうすこし幼いのかもしれない。

 楚々とした、という形容のよく似合う細面の顔に、切り揃えた長い黒髪。やや古風なデザインの眼鏡の中で澄んだまなざしは、知的で物静かな――けれども、結んだ桜色の唇はまだどこかあどけない印象を受ける。

 秋空をしばし見あげたあとで、少女はいま一度ため息をついて作業に戻る。

 けれども、掃除は捗っているとはいえなかった。

 箒の柄を持つ手は動いてはいるものの、古い石畳に散らばる落ち葉はなかなかひとところに集まってはくれず。少女自身もなにかに気もそぞろなのか、眼鏡のレンズの奥の瞳は、箒が弄ぶ葉の動きを見るともなしで。

 ――ざっ……と、箒の先が石畳の凹凸に引っかかる音がした。

「――――っ」

 両目をぎゅっと閉じ、眼鏡の少女は唇をちいさなへの字に引き結ぶ。

 表情の動きは少なく、けれどもどこか、もやもやした苛立ちを感じさせる気配で。

 竹箒の柄をぎゅっと握りしめて、三度めの溜息を唇からこぼそうとしたそのとき。

「――いよう、美和子ちゃん」

 名を呼ぶ声に、彼女はびくりと細い肩を震わせた。

 慌てて顔をあげ、めぐらせた視線の先。

 低い石造りの柵の向こう、細い路地から初老の男性が、飄々とした笑みをうかべてこちらを見つめている。

「あ! ――こんにちは、甚一さん」

 ようやく唇に微笑を浮かべて、眼鏡の少女は会釈をした。

「今日も掃除かい、精がでるなあ。そういやここんとこ、ちゃんと着替えてるんだな」

 白髪頭をかきながら、甚一と呼ばれた男はしげしげと目を細める。

「あ、はい、ええと、その――」

 すこしばかり気恥ずかしげに、少女は白衣の細い肩をちぢこませた。

「七五三も近いですし、うちみたいな神社でもひとがみえるかもしれないですから」

 帯に留められた緋袴に、足袋と紅い鼻緒の草履。

 眼鏡の少女――美和子が身にまとっているのはまぎれもなく、ひとそろえの巫女装束だった。

「おう、そうかあ――もうそんな時期なんだなあ。にしても、謙遜はいけねえよ、わが町の鎮守様ともあろうお社の娘さんが、うちみたいな、なんて」

「いえ、ほんとうですよ。うちの神様はほんとにおさぼりさんで困るんですから」

 巫女が口にするにはいささか罰当たりな言葉とともに、美和子は苦笑した。

 うひゃあ、鎮守様も形無しだな――と肩をすくめて、甚一が笑いを返す。

「にしても、十一月ってのはそろそろ大変な月だよなあ。いろいろ忙しいってのに落ち葉も待っちゃくれねえしよう。

 正月までが終わってほっとできるのが、美和子ちゃんも待ち遠しいだろ?」

「そうですね――でも、わたしはこれからの季節って、けっこう好きなのですけれど」

 美和子が微笑を返すと、甚一は、そうか――そいつぁなによりだ、と、白い歯を見せて目を細めた。

「んじゃあ、寒くなってきたから風邪引かないようにほどほどにな。こっから先の時期は、掃いても掃いてもきりないだろ」

「ありがとうございます、甚一さんもお酒はほどほどにですよ」

 提げた袋からはみでた酒瓶を見やりながら、美和子は会釈をする。

 うひゃぁ、と今一度さっきと同じ肩のすくめかたをして、おどけた退散の歩調で甚一は路地を歩み去る。

 酒瓶のとなりに大根の頭がのぞいていたところから考えると、今夜のおつまみはおでんかふろふき大根か、それとも鰤大根あたりだろうか。

 夕暮れの気配を帯びはじめた空を、美和子は見あげた。髪を揺らし、頬に触れる風はたしかに、ここ数日で冷たさを増している。

 先ほど甚一さんへ言った言葉ではないが、もう七五三も近く――十一月の第一週なのだ。

 箒の竹の柄を、両手でぎゅっと握り締める。

 だというのに。

 白衣の中ですこし肩をいからせてから、さっきよりも大きなため息をついた。

 あああ、いけないいけない。

 いまは自分は、掃き掃除をしていたのだ。いらしてくださるかたのために、境内はきれいにしておかなくてはなのである。

 あまりはかばかしくなかったけれど、山に集めた落葉をちりとりですくって袋に詰める。

 山間の盆地にあるこの町は、秋の訪れも早い。色づいた銀杏の葉が舞い落ち始めるまでにも、もう二週間はかからないはずで――掃き掃除の正念場はその、十一月の中旬になってからだ。

 甚一さんに、これからの時期はけっこう好きなどと言ってしまってはみたものの。年の瀬と明けた正月に向けて、神社の暦も加速していく時期ではある。

 十一月。

 和名ではもう、霜月、と呼び称される月。

「…………」

 眼鏡のレンズの奥でいささか湿度を帯びたまなざしの伏せかたをしつつ、美和子は袋を軒の下におろした。

 ほんのりと色づき始めた秋の陽射しが、境内を――本殿の裏手を静かに照らしている。

 銅葺き屋根の青緑色以外は塗装もない、古い木造の社。装飾の凹凸に刻まれる陰が、くっきりと輪郭を帯びてくる時期。

 美和子が巫女を務めるこの明良神社はそれほど大きくはないけれど、由来はそれなりに古い。いまのこの本殿と拝殿が造られたのは近世になってからであるものの、この神社の大本が建立されたのは千年近く前のこと。

 聞くところによればそれ以前も、ここは祭壇があり、祭儀が行われる場所であったそうだ。

 そう――聞くところによれば。

 箒を片づけると、美和子は階段を登り、拝殿の脇にある通用口の戸を開けた。

 中の拭き掃除も、簡単にしておこうか。

 戸口をくぐりかけたところで、そろりとまなざしを巡らせて周囲を確認する。

 本来ならば拝殿や、ましてや奥の御神体を祀った本殿の中はそれなりに畏まって、場合によっては手続きを踏んで立ち入らねばならない場所だ。父親が腰を悪くしているので代わりに諸作業をする美和子が立ち入るのは仕方がないことだし、美和子自身、別の理由でさほど畏まる必要も感じてはいないのだが――いちおう体面上、入るときはあまり大手は振らずにこっそりとなのである。

 午後遅くの陽に照らされた境内にも、石柵の向こうの細い路地にも人の姿はなく。草履を持ったまま美和子はそっと戸をくぐり、扉を閉める。

 けれども彼女は、気づくことはなかった。

 扉が閉ざされるその瞬間――白い衣の背中と長く伸びた髪に、注がれる視線に。

 色づきはじめた葉を揺らす風の音のほかは、穏やかな静けさに包まれた境内。その境内に、わしり……と、落葉を踏みしめる足音が響く。

 本殿の裏手にある大きな銀杏の樹。

 その影から、たたずむ影がひとつ、人ならざる形状の頭をのぞかせた。

 洞を思わせるその眼窩の奥に、爛々と、光を揺らめかせて。


   ◆


 ――ふう。

 乾拭きの雑巾で調度と床のほこりをぬぐって、ひとまずは一段落。

 よく考えたら、中の掃除は着替えてきてからにすればよかったかな……と、美和子は緋袴をつまんで裾を持ちあげる。

 行事の時ではない、普段の「仕事着」として紅白のこの装束を纏うようになったのは中学校にあがってからのことで――一年半が経ったので引っかかってつまづいたりすることはなくなったものの、やっぱりまだこれを纏っているときの自分はどこかぎこちない気がしてならない。

 見習いで――といっても、巫女であった母さんは幼いころに亡くなっているので習う相手はいないのだけれど――家業の手伝いをはじめて、二回目の秋。

 二回目の、十一月のはじめ。

 ――また今年もかあ……

 去年も確か、この時期はやきもきしていて。むしろ、ある程度慣れた今年と違って不安の度合いも強くって。

 眼鏡の位置をただし、美和子は掃除も終わった社の中を見渡した。

 拝殿の向こう――お参りの石段とお賽銭箱のある側は、祭事のとき以外は硝子の入った木の格子戸が閉められている。

 殿内の薄闇の向こう、格子の舛目に切り取られたように浮かびあがる参道と鳥居までの風景も、秋の彩りを深めて。

 十一月に、なってから、もう数日。

 さっき甚一さんにはちょっと嘘をついてしまったけれど、こうしてここ数日毎日きちんと着替えているのは、七五三のお参りのかたがいらっしゃるからというだけの理由ではないのだ。

 こうして、掃除の感覚を短くしているのも。

 なのに。だというのに。

 この夕暮れ幾度めかになる溜息をついて――美和子は懐に忍ばせた二つ折りの紙を、そっと取りだした。

 かすかに暖かみのある象牙色をした、厚手の和紙。

 眼鏡のレンズの奥で、瞳に憂いの光をよぎらせつつ、少女はそっとその紙を、

 開きかけたところで、ぴたりと動きを停めた。

 聞こえたのだ。こつんっ……という微かな音が、殿内の静寂の中に響くのが。

「――――」

 顔をあげ、巡らせたまなざしの先。

 こつん、こんっ、と、またその音は響いた。

 一定の間隔を空けて、板を叩く音。それは間違いなく、自分がさっき入ってきたちいさな通用口の扉からで。

 誰かが外から、戸板の木をノックしている。

「――どちらさまですか?」

 眉を張り詰めた八の字にして、美和子は戸口のほうに呼びかけた。

「ここは明良神社の本殿ですので、御用でしたらのちほど社務所にいらしていただければ、そこでうけたまわりますけれど」

 答えは、ない。言葉による応えは。

 こん、こん、と、また扉が鳴った。

 板張りの床を足袋を擦りつつ、戸口の前まで歩み寄る。

 少女の唇から、長い息がこぼれた。

 名乗らない不審な来訪者がすぐ戸の外にいる緊張に、堪えきれなくなってのことか。

 それにしては、すこし無用心がすぎるのではないか。入ったときにかけた閂に手をかけ、彼女はためらいもなくそれを外してしまったのだ。

 こん、こん、こん、こん、と、四たび扉が鳴った。

「わかりました。開けますよ?」

 溜息混じりの。恐怖や緊張というものとはすこし違う張り詰めかたの声とともに、美和子は戸に手をかけ、横に引く。

 その、刹那だった。

 開いたちいさな戸口を一瞬で潜り抜けて、ひとつの影が美和子の目の前に翻ったのは。

 旋回してはためく、暗い色あいの外套。

 少女は動かない。動かないのか、それとも動けないのか。一歩後ろに跳びずさったまま、目の前の侵入者を見据えるのみだ。

 風体は判らない。

 頭からかぶった極彩色の覆面の、くり抜かれた眼窩を美和子に向けて、それは大きく両腕をさし上げた。


「とりっく・おあ・とりーと!」


 一声が、社の建物の中にこだまする。

 淡い電灯の光の下に、浮かびあがる影。

 紫色のマントと、頭にかぶった、カボチャに目と口の形をくり抜いた例のかぶりもの。

 どこからどうみてもハロウィンの――ジャック・オー・ランタンといわれる妖魔の仮装に身を包んだ人影を、美和子は静かなまなざしで見据えた。

 神社の殿内を背景に、巫女装束の少女と西洋の祝祭の仮装をした人影が対峙する光景というのは、いささか風変わりな光景だ。

 牽制しあうように距離をとったまま、板張りの床のうえにお互いゆっくり円を描くかたちで足摺りして――両者の位置は入れ替わる。

 戸口を背にして、けれども外に逃げようとするでもなく、美和子は後ろ手に戸を閉めた。

 眼鏡のレンズの奥から、闖入者を静かに見据えるまなざし。

「と、とりっく、おあ、とりーと……」

 再び、カボチャのかぶりものの内側から声が響いた。

 先程よりは、弱く、勢いのない声色で。再びさしあげた両腕もどこか、幽霊の「うらめしや」にも似たポーズだ。

 目を閉じて、美和子はひとつ溜息を紡ぐ。

 再び目の前のハロウィン仮装に向けたまなざしは、ひんやりと湿度をはらんだ半眼で。


「……あなた、人間ではありませんね?」


 少し低めの声が、言葉を紡ぐ。

「――へ――?」

 すっとんきょうな声とともに、マントの影が硬直した。けれども美和子は、構うことなく言葉を続ける。

「今は十一月の六日――ハロウィンのお祭りの日からはもう数日が過ぎていますよ。

 人の域を超えたこの気配から察しますに、名のある妖のかたかもしれませんが……異国の風習にかぶれたうえに、適する時期すら誤ってさまよい出るとは笑止千万というものです」

「あ、いや、ちょ、」

 こちらに手のひらを向けた相手にはやはり構わず、美和子は表情を変えぬまま白衣の懐に手を差し入れた。

 抜いた指が挟んでいるのは、一枚のお札である。

「目的は存じませんが、少し運が悪かったですね。

 これでも、人ならざる者への対処にはそれなりに慣れていますし――留守を守るあいだ、この社の領域を侵すものがあれば容赦なく滅していいと、許しとちからを受けています」

 足袋の足を一歩前に踏み出し、美和子は間合いを詰める。

「ま、待った!」

 侵入者は焦りもあらわに、両手をかぶりもののカボチャにかける。けれども、顎が引っ掛かっているのか脱げる気配もなく。

「ダメだってー! ほら、ちょっと、ごめん、冗談、あたし――」

 ひきつった声を耳に、美和子はもう一歩前に踏み出すと――にっこりと柔らかな、けれども凄味のある笑みを浮かべる。


「ええ――知っています」


「――はぇ!?」

 カボチャのかぶりもののの中で、呆けた声が洩れた瞬間。

「知っていますが――そっちはご存知ないようですね。

 ハロウィンはもう六日前ですが、神無月も終わってもう六日目です。

 これからいろいろ忙しい時期ですのに――」

 震える声とともに、懐に跳びこんで。

「まっすぐ帰らないでどこをほっつき歩いてたんですかアキラヒメ様っ!」

「はうぅ!」

 美和子の放った目の覚めるようなアッパーカットは、かぶりものをかぶったままの相手を盛大に社の床にふっとばしていた。


   ◆


「ううう、ひどいじゃんか。ほんのイタズラなのに、いきなり殴ることないんじゃないかなあ!」

 涙目で頬をふくらませて、彼女はこちらを睨んだ。

 どこで調達してきたものやら分からないジャック・オー・ランタンのカボチャのかぶりものは、いまは畳んだ紫色のマントと一緒に脇の床に置かれている。

 ひさしぶりに見る素顔は、当たり前ではあるが見送った時と変わらなかった。

 眉の濃さと澄んだまなざしが印象深い凛とした面立ちは、表情とあいまってどこか少年めいて。ひとふさのみつあみにして背中におろした黒髪は、癖っ毛なので頭の上があちこちに跳ねている。

「いたずらで頭にきたわけではないのです」

 眼鏡の弦を指で正して、美和子も目の前の彼女を見据える。

 背丈は同じくらいなのだけれど、こちらは正座をして、向こうはあぐらをかいているので、すこしだけ見おろす形になる。

 水干姿、というのだろうか。昔の貴族や武士の童子が着ていたみたいな、動きやすそうな和装。浅葱色――淡い青の上衣に、鈍い黄色の左右分かれた袴という、いつもと変わらない出で立ち。後ろで束ねた髪は三つ編みだけれど、ちょっと見るとこう、ボーイッシュな女の子が学園祭の劇で牛若丸の役をあてがわれて衣装を着ているようにも思える。

 ともあれ、どう考えたところで自分と同じ年頃の女の子にしか見えないこの子こそが。

「神無月も終わって七五三の時期も始まるのに、お社の主(あるじ)が留守にしてていいわけないですよね、アキラヒメ様」

 じろり、と眼鏡の奥でまなざしを半眼に細めて、美和子は低い声で呟いた。

 そう。この子こそが、この明良神社の祭神――女神、アキラヒメ様なのである。

 巫女を務める美和子自身、出会ってしばらくは信じられなかったけれど。

「それにしたって、いきなりぽかーん! とかひどいってー!」

「アキラヒメ様がはたいたくらいでびくともしないのは、この一年で知ってますから」

 重ねた言葉に、アキラヒメ様はうぐ、と唇をつぐんだ。

 頬に手をあてて、きりりと眉をしかめてこちらを見据えると、

「――ひ、人の身で神に手をあげるとは! ――」

「黙って」

 言いかけた言葉を、容赦なく叩き伏せる。

 わたしが学校に行っている間に見た漫画かアニメで、そういう台詞でもあったのだろうか。まったく。

 美和子は咳払いをする。

 ああ、いけない。敬語がどこかにいってしまった。巫女の身としてはわきまえなくてはならないのである、いちおうは。

 懐から、先ほど――扉が叩かれる前に開きかけた和紙をいまいちど取り出し、床に広げる。


 会合終った! つかれた! 二、三日で帰る! 帰ったらお風呂お願い!

                  アキラヒメ


 あまり達筆とは言えない豪快な筆文字で書かれた文面の最後に、朱印が捺してある。

 十月の末日、鴉がくわえて運んできた、当のアキラヒメ様からの書簡だ。文面が神様が使うにふさわしいものであるかはともかくとして。

 十月は神無月――全国津々浦々の神社の神様が、西は出雲の地に集う月。それはアキラヒメ様も例外ではなく、この一ヶ月は巫女である美和子が留守を任されていた。

 本当は神祇である父さんが行うべきところなのだけれど、父さんは腰を痛めているうえもともとあまり霊的なものへの対処にはちからが向いていないらしく、代理の代理というかたちだ。

「二、三日、と書いてあるのに、今日はもう六日です」

「い、いや――いろいろ事情があるんだよ、あたしにもさー」

「……事情というのは、その後ろにある包みの中身ですか?」

 美和子がかけた言葉に、アキラヒメ様はあわててそれを隠した。

 けれども、すらりと華奢なその身体では、でっかく膨らんだ風呂敷包みを隠しきれるはずもない。

 ご丁寧に風呂敷は深緑に白の唐草模様で、神様ともあろうものがここまでの道のり、古典的ドロボウさんスタイルで旅をしてきたと思うとちょっと頭が痛くなる。

 アキラヒメ様はとにかく、買いものとか買い食いが好きなのだ。年中行事の間にちょっと暇ができるとお忍びでふらっと出かけてしまうし、十月のこの出雲への旅の行き帰りはかっこうの遊興タイム。去年も同じように、やきもきさせられた記憶がある。

「そっちのハロウィンの衣装は、どこで買ってきたんです?」

 アキラヒメ様があくまでも風呂敷包みを隠す所存っぽいので、とりあえず見えているものから外堀を埋めることにした。

 カボチャの――というか、あらためてみてみるとカボチャを模した樹脂製のかぶりものと、紫色のマント。

「ああ――」

 視線を高い天井のあたりにさまよわせて、アキラヒメ様は咳払いをした。

「下総に近年新しく建てられた国があると聞いて、見分のついでにさ」

 口調は一見まじめを装ってはいるけれど、旧国名で下総というと関東は千葉県の北部だ。

 あそこか。あの国か。というかランドとかついてるけどあそこは国じゃない。

 まったく、わたしも行ったことないというのに。

 こちらの視線が温度を下げていくのを感じたのだろう。アキラヒメ様は懸命にあどけなくすました笑みをこさえること数秒――

「――ごめん!」

 両膝に手をかけて、深々と頭を下げた。

 あぐらをかいたままではあるものの、後ろで編んだ髪が見えるくらいの角度で。

「なんかあっちこっちでこれかぶってお祭りやってるの見て、面白いなあとか、美和子のとこに買って帰ったら喜ぶかなあって――これはほんと、余分な買い物でした! このとーり!」

 神妙な表情で、アキラヒメ様は両手を合わせる。

 神様ともあろうものが、ひとに両手を合わせて拝むというのはどういう了見か。

 それも、拍手も打たずに仏式で。

 とはいえ。

「もういいです」

 ふくらんだ頬の空気を溜息で逃がすと、美和子はちろりとアキラヒメ様を睨む。

「さっきも言いましたけど、ハロウィンは十月の最後の日だから――出雲で会合終わって下界に出てきたら、もうその日一日なんですよ。わたしのこと脅かしたいのだったら、その日のうちに戻ってきてください」

 すこし伸びあがって斜め上から見おろすと、アキラヒメ様はますます恐縮したように水干の肩をちぢこませる。

 その表情はいたずらを叱られるちいさな男の子みたいで――美和子ははからずも、噤んでいた唇が苦笑の形にほころんでしまうのに気づいた。

 基本的に、アキラヒメ様はやんちゃで、そして素直なのだ。

 こうして殊勝に反省の弁を述べるのも裏があってのことではなく実際に反省してのことなので、あまりこれ以上厳しく怒る気もしなくなってしまう。

 ハロウィンの仮装を買ってきたのが、自分を喜ばせようと思ってと言っていたのも、おそらく言い訳の口上とかではなく。

 ――まったく、喜ばせたいんだったら早く戻ってきてくれたほうがよっぽど――

「――え?」

 きょとんとこちらを見あげたアキラヒメ様に気づいて、美和子も眼鏡の中で目を見開いた。

 胸の中でつぶやいていたつもりが、声に出てしまっていたらしい。

「と、とにかくっ。いらっしゃらないあいだ、いろいろたいへんだったんですから!」

 咳払いをしようとしてそのまませき込みそうになってしまい、美和子はげんこつを口元にあてて顔をそらす。

 ほっぺたがきゅうにあつい。

「そっかあ。ほんとごめん、なにか手に負えないこととかあった?」

 濃いめの眉を不安げな八の字にして、アキラヒメ様は訊ねてくる。どうやら話はうまく流してしまえそうだけれど、いちど火照った頬はすぐにはおさまってはくれず。

「いえ、その、そんなにたいしたことはなかったですけど――」

 いま言ったばかりの言葉とまるきり相反することをもごもご呟きつつ、美和子はまなざしを伏せる。

「山の狸さんのけんかを調停したのと――ちょっと、この神社に悪さをしようとした妖のかたがいたので、おひきとりいただいたくらいです」

「うわ、けっこうやっかいごとだなあ。狸ってのは権野山のとこの一門?」

「です」

「まーったく、しょうがないなああそこも、ちょっと留守にするたんびにさ。わかった。あたしが明日あたりきつめに言いにいっとく。

 ――後のほうの、悪さってやつのほうは?」

「流れもののかたみたいでした。お借りしたお札だけでなんとかできたので、大丈夫かなって思って逃がしちゃいましたけれど」

 アキラヒメ様の姿を初めて目にしてからの一年間、地域の鎮守様の仕事というものに立ちあったり、ときには手伝いをこなしたりして、美和子自身も簡単なちからの行使はできるようになっている。

 先ほど戸口がノックされたとき、一瞬はその妖が再びこの神域をおびやかしに来たのかと思って身構えてしまったものだった。

 まあ、考えてみればそれは要らない心配だったかもしれない。

「そっかあ……留守を狙ってだったのかな? 神無月の間は悪さをしないってのが妖のもののなかでも不文律なはずなんだけど、最近は無粋なことをする奴もいたもんだ」

 すこし眉をしかめて、アキラヒメ様は腕組みをする。

 癖のある髪の毛の――つむじと両のこめかみの中間くらいにあるふた端が、ぴこんと跳ねるように立った。おっとと、と苦笑して、アキラヒメ様はその跳ね髪をなでつける。

 いまではこの神社の縁起にも伝わってはいないけれど、この地に祭られるより前、アキラヒメ様は鬼であった時期もあると聞いたことがある。

 ふとした拍子に髪の毛が跳ねるのは角があった位置の名残なのだそうだ。

 どうしてそこから神様なんかになったのか、詳しいことはまだ話してくれないけれど。

「なんだったら、足跡をたどってとっちめとくよ。

 あー、いや、留守にしなくても、そいつが行く先の土地に伝令飛ばして代わりに灸をすえてもらえばいいからさ」

「大丈夫――だと思いますよ、もう」

「へ?」

 きょとんと声をあげたアキラヒメ様に、美和子は微笑みを向けた。

 眼鏡のブリッジに触れて、すこしばかり不敵に。

「すこし厳しめにこらしめておきましたから。よほどのことがなければ、もう一度この土地に来ようとは思わないと思います」

「へ――へえ、なんだか、初犯の相手に実力行使とか、美和子らしくもないなあ」

「申し訳ないことをしたなあと思ってます」

 声はつとめて静かに、美和子は床に広げた書簡に手で触れた。

「すこしだけ、気が立っていたんです。一昨日のことで――どなたかから連絡をいただいていた約束の日を一日過ぎたところでしたから」

「――――」

 唇をUの字の笑みの形に結んだまま、アキラヒメ様は硬直した。

 ほの暗い社の中を満たす、数秒の沈黙。

「……って、ほんと、ごめんってば!」

「もういいですと、さっき申し上げたはずですよ」

 首をかしげて、美和子はにっこりと笑う。

「目がいいですっていってないって! そういうばか丁寧な言葉使うときって、美和子怒ってるときだもんさ!」

「わたしはいつも丁重に敬いの心をもってお仕え申し上げているつもりですが」

「――っ!」

 目に涙を浮かべて、アキラヒメ様は上半身だけきをつけをするようなかっこうになった。

 ひさびさに見る、やっぱり神様らしからぬアキラヒメ様の動揺に、美和子は堪え切れずに吹き出してしまう。

「……ごめんなさい、冗談です。ああ、いえ、敬いの心というのは冗談ではないですけれど」

 すこし、意地悪ないたずらの度が過ぎた気がする。

 とはいえ、約束の日付を三日も過ぎて心配させられたお返しだ。これくらいはしてもばちは当たらないだろう。いや、ばちを当てるのも当のアキラヒメ様なのだけれど。

 白衣の袖口で口元をおさえつつちらりと目にすると、アキラヒメ様はまんまるに目を見開いたあとで、唇を3の字にして頬を膨らませた。

「もう! ひどいや! そういうことすると自分が思ってるより迫力あるんだからね、美和子」

「そう思ったら、怖い目にあわないようにお行儀よくしましょうね」

 ちいさく肩をすくめて、美和子は苦笑した。

 なんというのかこの、アキラヒメ様にお付き合いをしていると、男の子を育てているお母さんの気持ちがほんのちょっとだけわからないでもない気がしてくる美和子である。

 ちょうどやんちゃな子を修学旅行に送り出したような不安とそわそわと。帰りを迎えたときのような、やれやれという気持ちと――ほっとした思いと。

「いまはもう怒ってないですけど、さっきまで不機嫌だったのはほんとなんですから」

 自分の頬がすこしだけ紅潮しているのに気づいて、美和子は正座の腿の上に両のげんこつをそろえたままそっぽを向く。

 内緒にしておこう。

 一昨日、流れものの妖の襲来を受けたとき――最初、近づいてくる気配をアキラヒメ様のものと勘違いしてしまい、上機嫌に迎えてしまったことと。そのがっかりと照れもあって、必要以上にこてんぱんに叩きのめしてしまったことは。

『よくも騙してくれましたね……』とか言われながら全力攻撃を食らっても、おそらくあの妖さんは何のことだか皆目わからなかっただろう。

「みわこー?」

 すぐ耳元で響いた声。まなざしを戻すと、アキラヒメ様はこちらに身を乗り出してすぐ目の前、三十センチ斜め下から美和子の顔を見上げていた。

「どしたのさ? なんかぼんやりしちゃって。くたびれちゃってる?」

「ふえっ、べ、別にそんな。なんでです?」

「やー、さっき掃き掃除しながら何度も溜息ついてるの見ちゃったからさあ。境内の掃除、あたしのいない間にがんばってくれてたんだなあって思って」

「――!?」

 胸の奥で心臓がとくんっ、と大きく脈打ち、その心音に送り出されるようにほっぺたと頭に血がのぼった。

「いいいいつから見てたんですっ? いえ、違いますって、毎日掃くようになったのはこの一週間くらいで!」

「ん?」

 きょとんとした笑顔でアキラヒメ様が首を傾げたのは、こちらの動揺が不可解だったからか、口にした内容が不可解だったからか。

 ええい。

 口元にげんこつをあてて、美和子は思いきり咳ばらいをした。

「……あ、主が帰ってくるときくらい、境内を清めておくのは勤めというものですから」

 声がなんだかうわずって、へんてこにとんがってしまう。

 あ、と唇を開いて、アキラヒメ様が美和子の顔を見た。

 不可解に頬にのぼる熱をひとつ息をついて逃がすと、美和子は言葉を続ける。

「まだ申し上げていなかったですね。おかえりなさい、アキラヒメ様」

 ちょっと呆気にとられたようにこちらの顔を見ること数秒――鼻先を指でこすって、アキラヒメ様はにひひひ、と笑った。

「ただいま! 留守番ありがとさん!」

 目を細めて白い歯を見せた、やんちゃな少年そのものの笑み。

 とくん、と、白衣の中――鳩尾の奥あたりで心音が跳ねた。

「安心して旅ができるのも、美和子が社を守ってくれるからっさね」

「もう! ……おだてたって何も出ませんから」

 唇をへの字にしてみたものの、頬の火照りがなかなか冷めてくれない。

 アキラヒメ様は言うことの裏表がないので、おべっかで人をおだてたりはせず――本心で感謝してくれているのは伝わってくるわけで。

 こういう、絶妙な表情で口にされるのはほんとにずるっこいというか……この一ヶ月の間、彼女が帰ってきたらぶつけてやろうと思っていた愚痴の八割方が霧散してしまう。

「うっはー! なんだかんだいってやっぱりわが家は落ち着くなー!」

 あぐらをかいたまま両腕をあげて、アキラヒメ様は床につけたお尻を軸にぐるんぐるんと回った。

「あ、ちょっと! 床、きれいにしたっていってもそんなにしたら着物が傷んで――ひゃぁっ!?」

 美和子はうらがえった悲鳴をあげる。

 背中を向けてこちらに倒れこんできたアキラヒメ様の頭が、正座をした御子装束の袴の腿にぽすんっ、と乗っかったからだ。

 不意をつかれての、強襲的なひざまくら。

「な、――なっ、」

「へへー」

 大の字に寝ころんで、ぐい、と背をそらして。逆さにこちらを見あげるアキラヒメ様の顔。

 なにするんですか! と美和子が怒りの声をあげる前に、

「そういえば、これ、あけてみてよ。美和子」

 アキラヒメ様のさしあげた手が、目の前に包みをつきだした。

「えっ……?」

 深緑に白い唐草文様が染め抜かれた、昔のマンガに出てくるドロボウさんが担いでいるような風呂敷包み。

 はずみでその包みを両手に受けとってしまい、美和子は仕方なく――アキラヒメ様の水干の胸元に置いて包みの結び目をほどく。

 中に入っていたのは、幾重かに積み重ねられた紙の箱だった。

「――――」

 眼鏡の奥で、美和子のまなざしはきょとんと見開かれる。

 いちばん上の箱。桜色の包み紙の真ん中に朱い筆文字で記された『赤福』の文字。

 美和子ももちろん知っている。伊勢の名物――しっとりと柔らかなお餅をこしあんでくるんだ銘菓、赤福餅のパッケージだ。

 ――あれ?

 ……伊勢?

 ちょっと待って。だって、アキラヒメ様の行ってきた先は出雲で。

「食べたいって言ってたよね。ほかにも、呉の鳳梨萬頭とか、浜松のうなぎパイとか盛り合わせだぜい」

 ちょっと得意げに、アキラヒメ様は片目をつむってみせる。

「い、言って、ましたっけ――えと――あ――」

 確かに、記憶の端っこに引っかかる。

 夏の終わりくらいに麦茶を飲みながらアキラヒメ様と話していた時、ちいさいころに父のお土産で食べた赤福餅のことに触れたような気がした。

 というか。

 考えてみると、アキラヒメ様が出発する前のこの二、三か月、なんとはなしに好きなお菓子の話になることが多かった。

 そういう会話に誘導されることが、多かった、ような。

「ふふん。神のリサーチ力を舐めるなよ」

 鼻高々といった面もちで、アキラヒメ様は唇をゆるめのWみたいな形にして笑う。

 その顔の上に、美和子は箱をこつんと置いた。

「ふぁっ!」

「リサーチも何も、直接聞き出しだったじゃないですか。だったら、行く前に土産何がいいかってまとめてたずねてくれればいいですのに」

 あああ、いや。怒るべき点はそこじゃなくて。箱が五つあるということは、例のランド含めて寄り道先が六つあったということで。

「んぁっ、だ、だって、びっくりさせようって思ったからっ」

 箱の下側で、アキラヒメ様の声がくぐもる。

「だいいち、お土産何がいいかなんて聞いたら美和子ぜったい遠慮するに決まってんじゃんか! そうはいくもんかってもんさね」

 あらら。

 美和子は、おっとりと苦笑した、

 確かに出かける前にそう言われたら、お土産なんていらないと答えてしまったかもしれない。何だかんだいって一年以上の付き合いで、こちらの性格もおおかた把握されているのだ。

 手の中に五つほど詰まれた銘菓の箱に、すこし顔を近づけて。唇に浮かべた苦笑を、美和子は笑みの形にほころばせた。

 顔を覗きこんだ姿勢だけれど、お菓子の箱をはさんで、アキラヒメ様からはこちらの笑みは見えない。

 おさぼりさんで、寄り道癖の風来坊で、わんぱくで。

 けれども、お人好しで巫女思いな、うちのお社の神様。

「ありがとうございます。でも、次からはこんなにたくさんはほんとにけっこうですよ」

 なかなかまっすぐには口にできない想いを、美和子はせめて声にこめる。

 お土産なんてなくても、無事に帰ってきてくれるだけで十分ですから。

 という言葉は、やっぱりどこか気恥ずかしくて、付け足せないけれど。

 箱を横の床に置くと、笑みをちょっとだけセーブして、美和子はアキラヒメ様の顔をのぞきこむ。

「じゃ、お茶にしますか。アキラヒメ様」

「ん?」

「せっかくお茶菓子もたくさんありますし、この一ヶ月のお話もお聞きしたいですしね。お湯を用意していないので、社務所までいらしていただくようになっちゃいますけど」

 元通りにくるんだ風呂敷包みを片手に、美和子はよいしょと立ちあがる。

 神様を社務所に呼びつける巫女というのもどうなのだろうと思わなくはないけれど、今日はいきなりで魔法瓶もお茶セットも用意していなかったので仕方がない。

「あ――それとも、お伊勢様でいろいろ買い食いして、お菓子はもういっぱいです?」

 ちょっと意地悪な笑みとともにかけた言葉に、アキラヒメ様はきまり悪げな表情とともに頬を掻いた。

「あー……神宮さんには行ってないんだわ」

「へ?」

 眼鏡の奥で、美和子はきょとんと目を見開く。

「え? だって、これ、赤福餅――」

「名古屋駅とかでも買えるんだよそれ」

 壮絶に身もふたもないことを言いながら、後を追ってアキラヒメ様が腰をあげる。

「出雲帰りに神宮さんのお膝元をうろついてたりしたら、なにサボってんだって目ぇつけられちゃうって」

 どこまでもあっけらかんとした、笑みと口調。

「……すこし目をつけられたほうがいいような気がしますけど」

 ちょっとこの神様意識の低い神様は、この国の偉い神様たちにこんこんとお説教を受けてくるべきなのではないか。

「ほらほら、お土産生ものも多いから、あんまり時間とられずに戻ってきたかったんだよ。

 美和子の顔も早く見たかったしさ」

「――――」

 後ろからわさわさと、アキラヒメ様が巫女服の肩を揉んでくる。

 もう! と身をよじってその手をほどくと、美和子は通用口をくぐって外に出た。

 いつの間にか陽は傾き、境内は淡い茜の色に染まっている。

 頬を撫でる夕風は涼しく。その涼しさに美和子はあらためて、自分の頬が真っ赤に火照っていることに気付く。

 ああ、もう。もう、ほんとに。

 いつのまにかずれてしまった眼鏡の位置を正しつつ――本殿の外の廊下を歩く足音が、ついついすり足ではなく大きくなってしまう。

「そうだ! そういえばさあ。手紙にも書いたけど、お風呂入りたいなあ」

 こちらの煩悶をよそに、アキラヒメ様がまた、思いついたように声をあげる。

 ええい、帰ってきたなり次から次へと。

「夜にわかしますから、そうしたらお呼びしますよ」

 言いながら参道を歩き始めた美和子の前に、ととととっ、とアキラヒメ様が回り込んだ。

「いま入りたい。お茶の前に」

 妙に真面目な表情で言いながら、正面から両手を美和子の肩に置く。

「いま! いま! なーう!」

 ぽん、ぽん、ぽん、と、言葉にあわせて両肩を叩く手に。

 静かな笑みをしばし向けたあとで、美和子は風呂敷包みをさげていないほうの手をすうっ……とげんこつの形に引いた。

「わわぁっ、ちょっと待った! 冗談だって!」

「わたしも冗談です。

 ひとさまが神社にお参りにいらしてくださることに礼を失しないように、威厳ある言動を心がけましょうね」

「余は速やかなる湯殿の用意を所望するぞ」

「    」

「だ、だから冗談だってば! 怖いってその笑いかたー!」

 それこそ舞台劇の牛若丸めいた軽やかさで、アキラヒメ様は三歩後ろに飛びのいた。

「ううっ、だってさあ、せっかく久しぶりの二人きりの時間なんだから、きれいな身体で臨みたいじゃんかよう」

「誤解をまねくような言いかたしないでください!」

 肩をいからせて、美和子は声を荒げる。

 まったくこの神様の、ひとのほっぺたの熱が冷めるのを邪魔する言動は、わかってのことなのかそれとも天然なのか。

 すたすたと歩きだしながら、美和子は大きく息をついた。

「今回だけですよ。お父さんがお風呂入るのは夜だし、また沸かしなおすのもったいないんですから」

「――へ?」

 背中に聞こえるアキラヒメ様の呆けた声に、美和子は聞こえるくらい大きめに咳払いをする。

 まあ、長旅から帰って最初に、身体を温めて疲れとこりをほぐしたいというのは道理と言えば道理といえなくもない。

 あまり甘やかしてはいけないけれど、今日だけは特別サービスだ。

「社務所の鍵開けますから、お湯の仕度するまで待っててください。あ、このお菓子、その間に冷蔵庫にしまっておいていただけると助か――」

「いやっふー!」

「ひゃぁぁあ!?」

 さしあげかけた唐草模様の風呂敷包みを、美和子はあやうく取り落としそうになる。

 アキラヒメ様が後ろから、とびかかっておぶさるような勢いで背中に抱きついてきたからだ。

「さっすが神様仏様美和子様っ! 愛してるぅ!」

 短いのに上から下まで問題点だらけな台詞とともに、ぎゅー、と肩口から胸に腕が回る。

「ちょ、ちょっと! 放してくださいってば!」

 水干の胸と、白衣の背中が密着して。

 とくん、とくん、と鳴っているのは、アキラヒメ様の胸か、それとも背中まで届く自分の心臓の音か。

 なんだか今日はさっきから、自分はへんてこで。愛してるー、なんて、普段から軽口100%で言われてる言葉にまともに反応する必要はないはずなのであって。

「やー、向こうの世のお風呂、だだっ広くて華やかでいい匂いなんだけど、なんかこう、ぽかーんと明るすぎちゃってさあ」

 こちらの白衣の肩にあごを乗せて、アキラヒメ様は気にした風もなくのほほんとしゃべり続ける。

「知った顔もあるけど、上下関係厳しいお偉いさんが入ってるとのんびり長風呂もできないし――なかなかこう、疲れもとれないんだって。

 手紙にも書いたけど、帰ったらふたりでお風呂入ろうって、仕事中も気づくとそればっか考えてたんだから」

「お仕事のときはちゃんとお仕事したほうがいいですよ――って……え?」

 いまなんかアキラヒメ様、妙ちくりんなことを言わなかっただろうか。

 ふたりで?

「やっぱこー、うちのお風呂で美和子に背中流してもらうのが至福っつーもんさね。向こうの風呂にも湯女さんいるんだけど、どうもやっぱり落ち着かないしさ」

「ふえ、あ、だって、わたしまだお風呂入る時間じゃ、」

「夜にまた入りゃいいじゃん。美和子だってお茶の前に着替えたほうがいいし、ついでに身体流したほうがいいだろ? 掃き掃除して汗もかいてるだろうし」

 後ろから肩口に沈められたアキラヒメ様の顔の、鼻がくんくんと動く気配。

「やっ……! においとかかいじゃだめですって――!」

「背中流してくれたら、あたしがお返しに洗ったげるよ」

 胸元に回された腕がぎゅっと身体を抱きしめて、美和子はへんてこな声が洩れそうになる。

 いや、いやいや待って待って。

 別にこう、いっしょにお風呂に入るのは別にこれまで経験がないわけではなくて。アキラヒメ様の、言動と同じくどこか少年っぽい裸も何回も目にしているのだけれど。

 なんなんだろう。今日のわたしの、このおかしな熱の高まりかたは。

「か、身体くらいひとりで洗えますってば!」

「まあまあそういわずに。神様のご所望だよー?」

 ある意味最上級のパワハラに、美和子は眼鏡の中のまなざしを見開く。

 動きがとまったその隙をついて、肩から回されたアキラヒメ様の人差し指が喉元にさし入れられ、くい、と美和子の顎を持ちあげた。

「みーわこ」

 くすくす、と洩らされた笑みの声は呑気で……呑気なようで、どこかいつもと違う甘さを秘めていて。

 ――アキラヒメ……様……?

 後ろから抱きすくめられたまま、美和子は硬直する。巫女装束の中で、体温が0.5度くらい上昇した気がした。

 なんだろう、アキラヒメ様はどこかへんだ。自分がさっきからへんてこである以上に、これは。

 色づきじめた銀杏と紅葉に囲われた境内。

 白衣に緋袴の巫女装束の美和子と、後ろから抱きついた水干姿のアキラヒメ様の傍らを、夕風に吹かれた幾枚かの落葉がはらはらと舞い落ちていく。

 ――――。

 一瞬の間のあとで、美和子は肩口にうずめられたアキラヒメ様の顔が細かに震えているのに気づいた。

「ふー、く、くっ……」

「……アキラヒメ様?」

 あわわ、なんかさらにおかしくなられた、とおそるおそる顔を向けると、ちょうど顔をあげてこっちを向いたアキラヒメ様と、鼻先が触れそうな至近距離で目があった。

 そこに浮かぶのは、いたずらに成功した男の子みたいな、得意げで嬉しそうな笑み。

「へへーん! ようやくドッキリさせたったぜい。そういう行事なんだろ? なんだっけ、は、はる、はら――」

「ハロウィンのいたずらはこういういたずらじゃありません!」

 美和子は、火を吹くように声を荒げた。両手を振りあげたいところだったけれど、荷物もあってそのうえおぶさりかかられているのでままならない。

「知らない! もうアキラヒメ様なんか知りませんから!」

 恥ずかしさとほっとした思いと、それからなんだかへにょりと力の抜ける感覚で、泣き出しそうになってしまう。

 振りほどいて歩き出そうとしたものの、おんぶおばけと化したアキラヒメ様をずるずる引きずることになるばかりで。

「でも背中流してくれるよね。流してくれるって言わないと離さないんだぜ」

「流します! 流しますからはなしてくださいー!」

 はずみで言ってしまってから、あ、と目を見開くけれど、刻すでに遅し。むふー、と息をついて、アキラヒメ様は猫のようにまなざしを細めた。

 なんでこう他愛もなく押し切られてしまうのだろうと、美和子は情けない面もちで暮れゆく空を仰ぐ。

 やんちゃな男の子みたいなアキラヒメ様に、理論ではこっちがリードしている気がするのに。

 これがこう神と人との差というものなのかとも思ったが、いやいやそうではなく。明らかにもっとこう、問題は尺度のちいさなところにありそうなわけで――

「なんか、こうやって美和子に怒られると、うわー帰ってきたなあって思ってホッとするなあ」

 言葉とともに、アキラヒメ様が長く大きな息をついた。

 美和子は懸命に唇を引き結ぶ。

 これだこれだ。こういうのにほだされてたやすくほいほい隙を見せるからよろしくないのである。

 だまされるものか。

 いや、だましているわけじゃないのは、わかってはいるけれど。

 むしろ何も考えずにこういうことのたまうところこそが、アキラヒメ様のたちの悪いところなのだけれど。

 ――ええい。

 眼鏡の位置を中指で押しあげて、美和子は歩き出す。

 それほど怒られたいのなら、お望み通り、お風呂の中ででもたっぷり叱ってさしあげよう。

 手紙が着いて、手紙の約束の日が過ぎてから三日、こっちがどういう気持ちで待っていたのかを。

 そもそも神無月のこの一ヶ月が、どれほど長かったのかを。

 ゆっくりと。

 ――……あれ?

 きょとんとまたたきををした美和子の目の前を、ひとひらの銀杏の葉が舞い落ちていく。

 なんだろう。なんか今、考えの流れが変だったような。

「みわこー」

 横に並んだアキラヒメ様が、三つ編みの髪を揺らして美和子の顔をのぞき込む。

「どしたんだ? しかめっ面したりニヤニヤしたりして。顔赤いし、お神酒でも飲んだん?」

「へ? ――に、――にやにやしてなんかないですよ失礼ですね!」

 思わずあげた声は、すっとんきょうに上ずってしまい――アキラヒメ様は、凛々しい眉を八の字にしてしげしげとこちらを見やった。

「そうかなあ。あ、ほら、また顔が真っ赤に――」

「うるさいです! アキラヒメ様はすこしだまっててくださいってば!」

 仕える祭神に対して不遜千万な巫女の声が、境内に響き渡る。

 遠くの砂利の上を行き来する鳩たちが、首をすくめてこちらを見た。

 なんだか久しぶりだな、と思われているのかもしれない。美和子自身、この一ヶ月ははりあげるのをお休みしていた声だ。

 今年も暦を数日超過しての、明良神社の神無月の終わり。

 暦を数日超過してのハロウィンと、元通り騒がしい、霜月の始まり。

 もう! と白衣の肩をいからせながら、けれども。

 自分の中のどこか深いところが、ふんわりと柔らかに緩むのを、美和子は感じる。

 アキラヒメ様を見送った頃はまだ緑色だった銀杏と紅葉の葉も、ほんのりと色づき始めて。晩秋から年の瀬と新年にかけて、時間が加速していく時期の始まりだ。

 つい先ほど、甚一さんに言った通り。

 あわただしさを増す、騒がしさが戻ってきたこの時期が――

 ちょっと悔しいけれど、

 自分は――嫌いというわけでは――ない。

 ちらりと横を見ると、アキラヒメ様は怒鳴られたことなんて気にするふうもなく、いつものやんちゃであっけらかんとした笑顔でこちらを見つめていた。

 ――まったく……もう――

 今日幾度めになるかもわからない、肩をすくめての溜息。

 への字に噤んだつもりの唇がはからずも緩んで、へんてこな苦笑のMの字を描くのにも、美和子は気づかぬまま――

 淡い茜の色に染め上げられた境内を、砂利を踏む足音を響かせて、ふたりは歩き出した。

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霜月のハロウィン つむぎゆう @tumugyun

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