第4話

「本当に、昔話なんかを聞いて、頭に浮かべるみたいな風景だったんですよ」と秀一さんは言いました。

 一度目は、美術館。二度目は映画。そして三度目のこの日は、初めて「どこに行こう」というイベントはないけれど会おう、ということになり、私たちは渋谷の小さな喫茶店で、秀一さんはホットコーヒーを、私はカフェオレを、向かい合って飲んでいました。

 学生時代どこへ旅行に行ったか、という話から発展し、秀一さんは幼い頃家族と訪れた草津温泉が、どれほど素晴らしかったかを語り始めたのでした。片手には、スマートフォン。画面の上に慣れた手つきで指を躍らせたと思うと、秀一さんはふいに顔を上げてこちらに画面をかざしました。写真だろう、と思いましたが、画面に映っているのは、紺と白の色鉛筆のタッチ。紺色に塗りつぶされたバックに、小さな白い明かりたちが灯っています。それは、星空のようにも見えました。だけど、違う。やっぱりそれは星空ではありません。スケッチの下半分には、湧き上がる湯気が描かれていました。

 「これ、そのときの草津の露天風呂の景色です」

 きっとその下には温かい湯船があるのでしょう。けれど、真っ白な湯気にかき消されるかたちで、それはそこには描かれておりません。幼い日の秀一さんが、湯に使って見上げた景色を切り取ったのでしょうか。

 「写真は検索すれば沢山出てくるんですけど、あの子供残ろに見た記憶の感じとは、やっぱりどれも違っていて」

 「秀一さんが自分で描かれたんですか?」

 「はい、随分乙女チックだって、言われるんですけどね・・・・・・」

 「いえいえ! びっくりしました。すごい」

 「いや」

 照れたように俯いて、秀一さんは私に向けていた画面を、自分のほうにくるりと戻します。

 「といってもあれから草津には行ってないから、もう随分と変わっているかもしれませんね」

 「そんなに素晴らしかったのに、それ以来なんですか?」

 「そうですね、あのときあんなに綺麗だったのは、やっぱり初めて連れて行ってもらった旅行だったし、雪が降っていたり、他には誰もいなかったり、なんか色々な要素がたまたま重なってできたものだったんじゃないかって思うんですよ。期待値が高いだけに、もう一度行って記憶の風景が壊れるのが怖いんですかね」

 「それじゃあなかなか行けないじゃないですか」

 「うん、でもいいんです」秀一さんは、また照れくさそうに笑いました。

 「次行く温泉は、もしかしてもっとすごいかもしれないって毎回思っていくのもまた、わくわくするので。まぁそれでもまだ、あのときを超えるところは、見つけていないんですけどね」

 「そんなに綺麗なんですね」

 「はい。・・・・・・櫻子さんは、温泉旅行って行かれますか?」

 「いいえ、一度も」

 「そうですか。ごめんなさい、なんか僕語り過ぎましたね。普通、たかが温泉って思いますよね」

 「そんなことは、ないですよ」私は思いのほか強く、言葉を発していました。

 「そりゃあ、ある人にとってはたかがかもしれませんけど。小さい頃感動した景色を覚えていて、今でも旅してるってすごいことだと思います。しかも、鷲見さんはそれを仕事にしていらっしゃるんだから」

 秀一さんは、都内に本社を構える旅行会社にお勤めされていました。そしてそこで、メディアセールスという部署に所属しながら、ウェブサイトの温泉紹介記事の作成にも携わってるというのです。

 「あぁ、いや。ありがとうございます」

 秀一さんはまた照れたのでしょうか、一瞬だけ目を逸らします。

 「あ、そうだ、初雪温泉って検索すると、僕の温泉のブログが出てくるんですけど」

 「ブログ?」

 「もし暇なときがあったら、読んでみて貰えますか?」

 「えぇ、是非」

 「学生の頃は、やっぱり頻繁に更新できていたのもあって、ブログランキングの旅部門で結構上位になったりもしていたんですよ」

 「え、すごいですね」

 「お風呂のなかってカメラは持ち込めないじゃないですか? だから、さっきの絵みたいに挿絵を入れてみたら、反響があったり、あれは面白かったな」

 「じゃあもうそれがそのまま、お仕事に繋がったという感じなんですかね?」

 「はい、まぁ。今の会社を受けたときも、ブログのことはアピールしたから、大きかったとは思います」

 秀一さんは、カフェオレのマグカップに軽く口をつけると、窓の外に視線を向けました。外は、今にも雪が舞いそうなほど、空気の張り詰めた寒さ。二階の窓際から見える、色とりどりの街並みやファッションは、どれも皆、曇りガラス越しのパステルカラーです。

 「そうだ。特に文章は、櫻子さんに感想貰えたら有難いかもしれない」

 「はい。でも、感想なんて偉そうなことは言えないですよ。翻訳をお仕事でやっていたのは、もう四年も前なんですから」

 学生時代には英文科に在籍し、翻訳学校にも通って、勉強の末に先生の紹介で翻訳の仕事がいただけたのは、まだ二十三の頃のことです。最初の仕事を終え、担当編集者から次の仕事の紹介もあり、コンスタントに憧れの仕事に就いていける、そんな手応えを私は感じていました。それまでは編集アシスタントとしてもフルタイムで働いていましたが、翻訳業にいよいよもっと時間をかけたいと仕事を辞め、パートの仕事に切り替えたところで、仕事が途切れたのでした。担当だった編集の方にもさりげなくプッシュを入れましたが難しく、公募のオーディションを今に至るまでいくつも受け続けていますが、再び実らずというところが現状です。

 「それでも、やられていたのは本当じゃないですか」

 「そうですけど」

 「辞めてしまったということですか?」

 「いえ、そうではありません。今でもまた仕事ができるようにやってはいるんですが」

 秀一さんは不思議そうに、パチパチと瞬きを挟んで、こちらを見つめていました。

 「なんだか、かっこ悪いじゃないですか。あんまり人には言いたくなくて」

 「そんな」秀一さんの声には、明らかに落胆が含まれていました。言わせたのは秀一さんなのに。私は心のなかで少しだけ秀一さんを恨みました。

 けれど秀一さんから続いた言葉は、ネガティブなものではありませんでした。

 「・・・・・・いや、僕もさっきちょっと嘘、ではないけど、言わなかったことがありました」

 「え?」

 「僕の温泉記事の仕事だって、書かなきゃいけない情報を書いてしまうと、自分で好きなように掛ける範囲なんてほんの少しなんです。結局ほとんど定型文をなぞって書くようなものだから、僕でなきゃ務まらない仕事ってわけじゃないんですよ。本当は」

 秀一さんは、一度言葉を止めました。そして、

 「本当は、本が出したいんです」

 「本?」私は思わず、身を乗り出しました。

 「あのブログを本にして世の中に出したい。それぞれの温泉の世界観を、絵で描いた、温泉紹介本。読んだ人が、自分の目で見たくなるような。行ったことのある人は、温泉の情景をありありと思い出せるような」

 「それ、すっごくいいと思います」

 「だけど、一筋縄ではいきません。原稿を作って出版社に送って、トライを続けていますが、まだ日の目を見る気配はなくて」

 「・・・・・・そうですか」

 「でも、僕は出せるまで奮闘を続けますよ?」

 目のくりっとした、お茶目な表情を作って、秀一さんがこちらを覗き込みました。さっき乙女チックだと彼は自分のことを言っていたけれど、確かに秀一さんがこんな顔をすると、ちょっと女の子のようにも見えてしまいます。ふふっ、と私は思わず声を出して笑ってしまい、秀一さんも一緒になって笑いました。

 そして、ひとしきり笑いが収まると、彼はまたこんな風に、口を開いたのでした。

 「あと、さっきはまわりくどく言ってしまいましたけど、僕は櫻子さんが文章の仕事をしているからじゃなくて、櫻子さんの感想が気になるんですよ」

 そして、これがまたまたまわりくどい、彼からの告白と判明したのは、帰り際の冬の夜道のことでした。

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