初恋温泉
第3話
お母さんに手を引かれやってきたその人は、すらりとして、柴犬のような瞳をキョロキョロさせていました。背の高い男の人って、それだけで怖いと感じてしまいます。が、そのつぶらな瞳に、この人は優しそう、そう思ったのが彼の最初の印象でした。
ちなみに、手を引いていたお母さんというのは、彼の母親ではありません。同じく彼とはほぼ初対面であるはずの、私の母でした。いくら彼の母親と高校時代から親しいといっても、親子ほどの年の差があるとは言っても、どうしたらあんなふうに、会って間もない相手に気安く触れることができるのでしょう。その大胆さが、少しは遺伝していれば良かったのに。普段は、ちょっと度を越して人懐っこいお母さんを見ていると、ハラハラすることも少なくありません。けれどあの日ばかりは、心底羨ましく思ったのです。多分それは、もう既にこのとき、彼に惹かれ始めていたからだったのでしょう。
知り合う機会を作った、という意味でも、あの人の手を引いてきたのはお母さんでし
「今年はクリスマスまでに帰っておいで」
全ては電話越しのお母さんの、そんな一言から始まったのでした。
「年末、何かあるの?」
「うん。こっちでクリスマスパーティーがあるみたいでね」
「パーティー?」
「そうよ。鷲見さんって、櫻ちゃん覚えてる? 幼稚園の頃に一度会ったことあるはずだったけど」
「うーん・・・・・・思い出せないかも」
「まぁちっちゃいときだったからね。その鷲見さんっていう、友達の、そのまた友達のおうちでね、あるみたいなのよ」
「パーティーが?」
「そう。一緒に行かない? もう子供らも皆大きくなって、最近はほとんど集まらないみたいなんだけど、今年はたまたま都合があってわりかし集まるらしいのよ。あんたと同い年の子も来るし。友達増やすいい機会じゃん?」
これは縁談とかそういう類の話だな、とすぐにわかりました。お友達のお子さんたちが集まると言っているけれど、まだ二ヶ月以上も先だというのに、参加の可否がわかっているのは不自然です。それに、次の一月で二十七になるというのに、一度も浮いた話を聞かせたことのない私を、お母さんがひどく心配しているのはわかっていました。
「うん、わかった。今から休みとってみるね」
このまま私は、どんな男の人とも、深い関係にはなれないかもしれない。自分のなかでは、不安も諦めもとうに通り越していました。だけどお母さんの心配を感じるとき、やはりどうしようもなく泣きたい気持ちになります。その心配は、おそらく月日と共に、お母さんの胸の内で果てしなく育っていくこととなるのです。
だからせめて、その思いだけでした。
——だけど。
「櫻ちゃーん、秀一くん。鷲見さんのとこの息子さんで、あんたと同い年よ」
そう紹介され、私は早くなる鼓動を感じながら、軽く会釈をしました。
「はじめまして」しっかりと目を合わせることはできなくても、あの人の表情が優しいのは視界の隅にわかります。
「お仕事は、東京の旅行会社にお勤めなのよね?」
「あ、はい」
あの人は、ぱっちりとした二重瞼を一度、お母さんのほうに向けました。その隙に、私は静かに視線を上げて様子を伺います。すっと、鼻筋の通った横顔。ほくろのいくつか散らばった白い肌。男の人だけれど、綺麗な人と呼ぶのがしっくり来るような、そんな人。
「うちのは櫻子っていうんだけどね、ほら櫻ちゃん、自己紹介くらい自分でなさい」
「はい」
突然話しを振られて、絞り出すように返事をしました。再び俯いた視線の先では、絡んでいたお母さんの腕から、自由になったばかりの秀一さんの左手が、拳にもパーにもなりきらない中途半端なかたちのまま、宙に浮いています。
「宮城櫻子といいます」
視線を逸らしたまま名乗るのは、なんとか気持ち悪い感覚があり、私は磁石に吸い付けられるように、初めて秀一さんの目を見ました。その瞬間から、急ぐ鼓動の理由が何なのか、私にはわからなくなりました。私の目を見る秀一さんの瞳は、不思議そうな表情ながらも、優しさを含んでいます。だけど、薄いうるおいの膜に包まれた、つるんとした二つの瞳を見ていると、この人の前で言葉を間違えたくない、私は強烈にそう思いました。
「鷲見秀一です。はじめまして」秀一さんはお辞儀をして、今度は自分の声で名乗りました。
「よろしくお願い致します」私も、深々とお辞儀をします。
「母から少し聞きました。東京でほんの本の翻訳をやられているんですよね?」
「え?」
「ん? あれ?」間違ったことを言ったのかな、と焦った秀一さんの片眉が、ほんの少し上がります。
「あ、いえ、翻訳は、その」私がすばやく否定の言葉を探したところで、お母さんが横から勢いよくかき消しました。
「やったじゃないのー、翻訳。二冊も。あんたこういうときにそういうのちゃんと紹介しなくっちゃ」
「うん」
どうしてこんなときさえ、お母さんはまるで子供の頃と変わらない扱いをするのでしょう。私はもう大人で、お母さんの所有物でもないというのに。そんな、むっとした感情が胸にたちこめます。話す順序くらい、自分で決めたかった。
「宮ちゃーん」
「はーい?」友人たちの呼びかけで、お母さんはくるりとこちらに背を向けて行ってしまいました。
突然に二人きり。焦った私は、何かを言おうとしたけれど、言葉が出ず、口を半分だけ開いた、多分とても間抜けな表情で、秀一さんを見上げてしまったことでしょう。けれど秀一さんは、そんな私の変てこ具合など、不審に思わない様子でした。ただ私の次の言葉をのんびりと待つように、静かに私に、微笑みかけていました。
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