第一話、その二。

 突然、ナビの画面が乱れた。意味不明の模様がしばらくグニャクニャと動いたあとプツンと切れて真っ暗になった。何度かスイッチを押してみたが画面は黒いままで動かなかった。

「あれ? どうかしたんですか? 車の速度が遅いみたいだけど……」

 後部座席にすわる男女の客のうち男の方が、運転席の西脇に聞いた。

 乗客のお気楽な口調が運転手をいら立たせる。しかし今はそれどころではなかった。

 タクシーのスピードが上がらない。徐々にアクセル・ペダルを踏み込んで行く。しかし効果は無い。とうとうペダルがゆかに届いてしまった。ベタ踏み全開のはずなのに加速しない。それどころか少しずつ速度が落ちているような気がした。

「なかなか終わらないな……トンネル……こんなに長かったかな?」

 男が独り言のようにして言った。

「ええ? 前にも通ったことあるの?」

 女が男にたずねる。

「うん。下見でね。

 僕、自分で言うのもあれだけど、な方だからさ。デートの行き先は、なるべく下見をするようにしているんだ」

「へえー」

「それにしても……トンネルの向こう側が見えないな……車の速度が遅いからかな?

 運転手さん、どうかしたんですか?」

 乗客がしゃべればしゃべるほど、西脇の苛立ちが膨れ上がっていく。

(うるさい! だまれ!)

 叫びたい気持ちをやっとの事で押さえた。

 突然ヘッドライトが消えた。エンジンの音もメーターの灯りも消えた。

 急激に強いエンジン・ブレーキが掛かり、ボディが一回ガクンッと揺れてタクシーが止まった。

 もともとスピードが落ちていたのが幸いした。運転していた西脇も乗客たちも不意を突かれて前に突んのめったが、怪我もせずに何とか耐えることが出来た。

 西脇はタクシー会社から支給されたブレザーの袖で額の汗をぬぐって、ハンドルの上にぐったりと頭を乗せた。

「あーあ……とうとう停まっちゃったよ」

 男が聞こえよがしにつぶやいた。

「大丈夫ですかあ? 運転手さん」

 言葉とは裏腹に、声のトーンには(せっかくのデートが台無しだ、どうしてくれる?)という苛立ちがはっきりと表れていた。

 確か懐中電灯があったはずだ……西脇はシートベルトを外して助手席に身を乗り出し、暗闇のなか手探りでダッシュボードを探った。

(あった)

 スイッチを入れる……かない……

 懐中電灯を振ってみたり、スイッチを何度も切ったり入れたりしてみるが、何をやっても点灯しなかった。

「どうしたんですかあ? 灯り、無いんですか? 俺の携帯のフラッシュライトを点けましょうか?」

 客の男が機転を利かせたつもりで御節介おせっかいを焼くような事を言ってきた。

(全く、使えないタクシー運転手だな……)

 そんな風に言われたような気がした。そう思わせる客の声だった。

「あれ……おかしいな……」

 男がつぶやいた。女がたずねる。

「どうしたの?」

「いや、携帯電話の電源が入らないんだよ」

「ええ?」

 がさごそとハンドバッグをあさる音。

「あ、私の携帯も。電源入んないよ」

 カップルの会話を聞いて、西脇は無意識に自分の携帯電話をポケットから出していた。電源が落ちていた。何回スイッチを押しても駄目だった。

 あかりの無いトンネル。突然止まったエンジン。消えたヘッドライト。点かない懐中電灯。電源の入らない三つの携帯電話。

(一体どういうことだ?)

 何かが起きている。何かが……

「あのお、運転手さん、これからどうするつもりですか。

 何とかしてくれないと、レストランの予約時間に間に合わないんですけど」

「うるさい! 黙っていろ!」

 西脇は思わず暗闇の中で叫んだ。若い客の愚痴ぐちを聞くのも限界だった。

「なんだよ! 逆ギレすんなよ! 整備不良のタクシーに客を乗せてこんな山ん中のトンネルで故障させてんだから、百パーセントそっちのミスだろ! 名前控えてタクシー会社にクレーム付けてやるから覚悟しとけよ」

 若い男の切った啖呵たんかに、怒鳴り返すのも阿呆らしかった。

(クレームでも何でも好きにしろ)

 西脇は心の中でつぶやいた。どういう事情だろうと客への暴言はタクシー会社の内務規定違反だ。本当に会社に電話を入れられたら西脇の社内での立場が悪くなるのは間違いない。

 無性むしょうに煙草が吸いたくなった。タクシー内での喫煙も内規違反だ。内規も会社も、もうどうでも良くなっていた。

(生きてこのトンネルから出られるかどうかって時に、会社なんて知ったことか。生きて帰れたらクレームでも首でも何でもするが良い)

 そう思った直後、西脇は自分の考えにゾッとした。

(生きてこのトンネルから出る? このトンネルから生きて出られない可能性があるとでも言うのか?)

 無意識にポケットの中の煙草を探る……そこで、気づいた。

(そうか。が有るじゃないか)

 急いで別のポケットに手を入れた……あった。

 クロムメッキされた昔ながらの有りふれたオイルライター。

 蓋を開けて石を擦る。オレンジ色の炎がともり、車内にオイルライター特有の匂いが流れた。

 後部座席の男女の顔がミラー越しに浮かび上がった。とりあえず灯りを得られたと知って、二人とも少しホッとしていた。

 西脇はライターを掲げて車の外に出た。

 進行方向を見る。驚いたことに出口が見えた。二百メートルくらい先だろうか。外からの光はボンヤリとしていて弱かった。弱すぎて車のヘッドライトを点けていた時には気づかなかったのだろう。

 振り返って自分たちが来た方向を見た。何も見えない。出口は遥か向こうなのか。

(やはり、おかしい……そんなに長いトンネルのはずがない)

 考えても分からない事は、とりあえず頭の隅に押し込める事にした。ライターの燃料オイルがもったいない。

 車を修理する考えは真っ先に捨てた。これは単純な故障なんかじゃない。素人がボンネットを開けてどうにか出来るとは思えない。オイルの無駄だ。

(携帯電話は三人とも使えない……となれば、人家のある所まで歩いて行って助けを求めるしかない)

 運転席の足元にあるレバーを引いて、トランクを開ける。

 ライターをかざして中に使えるものが有るかどうか調べた。

 何も無かった。とりあえず車載工具からタイヤ交換用のL型レンチを出してベルトに差した。何かあったとき棒状のレンチを振り回せば、武器の代わりに使えるかもしれない。

って、何だよ?)

 心の中で自分自身にを入れながらプラスドライバーをブレザーのポケットに忍ばせた。

 トランクを閉め、助手席側の後部座席に回ってドアを開けた。

「俺は人の居るところまで歩いていきますが、あんた達は、どうします?」

 一応はまだタクシー会社の従業員だ。二人の客に最低限の敬意を示そう……そう思ったはずなのに、言った本人でさえ敬意の欠片かけらも感じられないような口調になってしまった。

 突然、自分の年齢の半分もいかない若造に気をつかうのが阿呆らしくなった。

(どうせ会社は辞めることになるだろうし、もう、どうでも良いや)

「さあ、あんた達はどうするんだ? 早く決めてくれ。ライターのオイルがもったいない」

 オレンジ色の光の中で、恋人たちが顔を見合わせる。

 女が男の袖を引っ張りながら「ねえ……ついて行こうよ」と小さな声で言った。

 男は顔を反対側の暗闇に向けて黙っている。

 西脇に主導権を握られるのはしゃくだが、だからといって真っ暗なトンネルでジッと待っているのも嫌だ……といった所か。

「ちっ」と舌打ちを一回して、男は向こう側のドアを開けて外に出た。暗闇で待つよりもタクシー運転手の後について歩く方を選んだという事か。

 それを確認して女も西脇の居る側から車の外に出た。

 出た瞬間、自分自身の肩を両腕で抱いて「うう、寒い」とうめいた。

 そう言えば、確かに市街地を走っていた時より大分だいぶ気温が低い。

(トンネルの中だからか? それとも標高が高いのか?)

 西脇はライターをかざして、改めて女の服装を確認する。

 胸元の開いたワンピースに、高いピンヒールの靴。フレンチ・レストランに行くには良いが、これから山道を歩くとなると……

(まあ、すべてが思い通りという訳にはいかないさ。与えられた条件で全力を尽くすしかないだろう)

 そう自分に言い聞かせ、西脇はライターのふたを閉じた。パチンッという音とともに炎が消えてトンネル内が再び闇に包まれる。

「ど、どうしたんだよ、何で消しちゃったんだよ!」

「少しでもオイルは節約したい。

 前を……車の進行方向をよく見ろ。っすらと外の明かりが見える。あれは恐らく月光だ。満月とは言わんが、少なくとも半月は過ぎているのではないかな?

 いずれにしろ、案外、出口は近いと言う事だ。

 さあ、行くぞ。ゆっくりとり足で歩くんだ。何かに爪突つまづいて転ばないように、爪先つまさきで探りながら歩け」

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