第一話「タクシー運転手、西脇の場合」
S県S市に
子供の無いまま十年前に離婚して、今は独身者用のアパートから勤め先のタクシー会社まで歩いて通う日々を送っていた。
三月中旬のある夕方、西脇はS市でも金持ち多い地区に客を迎えに行った。午後六時十五分過ぎ、指定された
呼び鈴を押してインターフォンに身分を告げ、ふたたびタクシーに乗り込んで客を待つ。
しばらくして若い男が玄関の扉を開けて出て来た。いかにも金持ちのボンボンといった感じの青年だった。
高そうなスーツにネクタイを締めているが、まだ少年らしさの残る顔つきからして、社会人ではないだろう。
(大学生か……)
後部座席に乗った客の顔をルームミラーでチラリと確認して見当をつける。
「○○亭まで行って欲しいんですけど……」
青年が西脇に行き先を告げた。フランスで長い間修行していたこの
「隠れ家」的な雰囲気とやらを売りにしていて、二ヶ月先まで予約で一杯という噂だった。
客の青年が続けて言った。
「あ、その前に、○○に寄って貰えます?」
市内にあるアメリカ・チェーンのコーヒーショップだった。
言われた通り、フレンチ・レストランへ行く前にコーヒーショップ・チェーン店に向かう。
目的地まであと少しという所で、青年はポケットから携帯電話を出して耳に当てた。
「うん……そう……あ、今、十字路を曲がって大通りに出た。もう
待ち合わせの恋人と話しているのだろう。
やがてコーヒーショップが近づいて来て、店の前に立つ若い女の姿が見えた。
停車。
女が乗り込んで来る。
落ち着いた色のワンピース姿。胸元にネックレス。ショートカットにした髪の下からイヤリングが見えた。
ストラップの無い小振りのハンドバッグを持っている。
噂のフランス料理店はどんなものかと期待に目をきらきら光らせているのが、ルームミラー越しにも分かった。
そのフランス料理店のある森へ向けてタクシーが走り出す。
「しかし、今日は暖かいなあ」
青年が、隣に座る若い女に言った。
「ほんと。五月みたいな陽気ね」
恋人が答える。
「今年は全体に暖冬だったけど、それにしても今日は特別暖かかった」
その時、後部座席から「ブーン」という微かな振動音が聞こえた。
西脇がミラーを見ると、女がバッグを開けて中から携帯電話を取り出すところだった。液晶画面の照り返しで手元が光っている。
「どうしたの?」
男が恋人に
西脇の口元にニヤリと皮肉な笑いが浮かぶ。
(まあ、デート中の携帯ほどイライラさせられるものは無いからな。
しかし若者よ……今晩、その可愛いねーちゃんのおっぱいを揉みたかったら、多少のことは我慢するんだな)
女が愛想笑いをしながら軽く首を横に振った。携帯電話をバッグに戻す。
「何でもない。ただの『更新の通知』だった」
「更新?」
「閲覧アプリ」
「ああ……このまえ言っていた『小説投稿サイト』とかってやつの?」
「うん。チェックしている小説の最新話が投稿されたみたい」
「興味あるな。今、どんな小説読んでるの?」
男が、全く興味なさそうな声で恋人に聞く。
「今、読んでるのは
「むくろのもり? 何それ……ホラー?」
「うーん……便宜的にジャンルはホラーになっているみたいだけど……
ホラー要素もあり、ファンタジー要素もあり、SF要素もあり、学園ものでもあり……アクション要素もあるかな」
「へええ……面白そうだな。どんな内容か教えてよ」
男が全く面白くなさそうな声で言った。
「この世界の
タクシーの後部座席で女が語り始めた。
「その森は別の世界に通じていて、向こう側から妖怪たちがやって来たり、人間たちが迷い込んで出られなくなったりするわけ」
「ふうん……」
「……で、その森の真ん中に『私立
深い森の真ん中を切り開いた広大な敷地に校舎やら学生寮やらが沢山建てられているんだけど、それが全部アール・ヌーボー様式でね」
「アール・ヌーボー様式って、あの十九世紀末に流行したやつ?」
「そう。天井も壁も
「うえっ、聞いているだけで胸焼けしそうな学校だな」
「しかもそれが無秩序に増改築を繰り返していて、巨大な一つの迷路みたいになっちゃっているの。
その、
何しろ、この世界と魔界の境目にあるものだから、いつも
「なるほど、わかったぞ。その怪事件を学園の生徒である主人公が解決するんだろ? イギリス出身のハリー君みたいに、魔法かなんかで、さ」
「魔法は、ほとんど出てこないかな……学園の生徒である少年少女が活躍するっていうのはその通りなんだけど、使うのは主に科学力」
「科学の力?」
「それと格闘術」
「か、格闘術?」
やれやれ……最近の若い連中の言う事は分からん……後部座席に座る恋人たちの会話を聞くともなしに聞いていた西脇は、話が自分の理解を超えた所で興味を無くした。
やがてタクシーは市街地を離れて郊外の森の中へ入って行った。
右に左にうねうねと曲がって先の見通せない道を、安全にゆっくりと走らせる。
「楽しみだなあ。私、一度行ってみたかったんだ。あのレストラン」
若い女の声が期待で
(こりゃ、ブラジャーもパンティーも半分脱いじまってる感じだな。良かったな、若者。今夜は楽勝だ)
「本当?」
「本当よ。でも値段は高いし、なかなか予約できないっていう話も聞くし、行けないよなー、って思っていたんだ」
「
「へええ、そうなんだ」
(女は
何となく、西脇はその名前を記憶した。
タクシーがトンネルに入った。ここを抜ければ数分で
……ところが……
何かが変だった。
森の奥の高級レストラン。
ほとんどの客が行き帰りにタクシーを利用する。
まだオープンして半年にもならないが、西脇も何回か客を送り迎えしていた。
当然、このトンネルも何度も通っている。
(何かが、いつもと違う)
ハンドルを握りながら、西脇は違和感の原因を探した。
(そうか……照明……)
これまでは天井の照明でトンネル内全体を確認できた。しかし今夜は違う。真っ暗闇のトンネルの中、ヘッドライトに照らされた部分だけが浮かび上がって見えた。
フロントガラス越しにトンネルの天井を見上げた。光源らしきものが何もない。
(どうしたんだ? 電気回路か何かの故障?)
背中から嫌な汗がジワッと噴き出した。
違和感の原因はもう一つあった。
(出口が見えない)
それほど長いトンネルではない。法定速度で走っても数十秒で通り抜けられるはずだ。しかしどういう訳か
「このトンネルを抜けたら
「いやーん、楽しみー」
後ろで若いカップルが能天気な会話を続けている。ひとり運転手だけが異常に気づいている。
タクシーはヘッドライトを頼りに暗闇を走り続けた。
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