第一話、その三。

 真っ暗闇の中、西脇は前方に見える微かな明かりに向かって歩いた。何かに爪突つまづかないようり足で一歩一歩進む。

 時々、自分の後ろを歩いている若い恋人たちに声をかける。

「おい、ちゃんと歩いているか?」

 そのたびに麗子とかいう女が答える。

「はい。大丈夫です」

 男の方は反抗心からか、いちいち返事をするのが面倒くさいだけなのか、西脇の呼びかけに一度も答えなかった。

「寒い」

 女が誰に言うでもなくつぶやいた。

 たしかに進めば進むほど、出口が近づけば近づくほど、気温が下がっていく。

(いったい何なんだ?)

 長すぎるトンネル、灯りの無い構内、突然停止した車のエンジンと電気系統、かない懐中電灯、三つ同時に動かなくなった携帯電話。

 ……そして、この寒さ。

(気に入らねぇ)

 西脇は心のなかでつぶやく。

 一連の現象に納得のいく説明が付かない……現象そのものより、それを上手く説明できない自分に苛立いらだちを覚える。

 徐々に出口が近づいてくる。

「おい、あれを見ろよ」

 後ろを歩いている男が言った。

「あれ、雪じゃねぇか?」

 ありえない……

 S市では汗ばむほどの良い天気が続いている。

 多少は上り坂だったかもしれないが、冬場の雪が残るほどの標高でもないはずだ。

 しかし、青白い月光に照らされて出口の向こうに見えるのは……確かに……

(雪景色? なぜだ?)

 タクシーが停車した場所から出口までおよそ二百メートル。

 暗闇の中、転ばないようにゆっくりゆっくり歩いても、外に出るまでに大して時間はからなかった。

 トンネルを出た三人を待っていたのは……だった。

 出口付近こそ、ちょっとした広場のようになっているが、広場の周囲には木々が隙間なく生えて、左右正面全ての方向をふさいでいる。

 行き止まりだった。

 トンネルの向こうに当然あるはずの

 ……いや……薄暗い半月の下でじっと目をらすと、向かって右に一つ、左側にも一つ、人間一人がやっと通れる程度の獣道けものみちが木と木のあいだに見えた。

「なんで、道路が無いんだよ」

 男の客が情けない声を出した。

 西脇は振り返って客たちを見た。

 二人とも西脇をじっと見つめている。この状況で西脇がどんな判断を下すのか、それを知りたがっている。

 女の体が震えていた。顔色も悪い。少しでもだんを取ろうと恋人にピッタリ体をつけている。雪の積もった森の獣道を何時間も歩ける状態とは、とても思えない。

(客をタクシーの中に置いて、自分一人で救援を呼びに行くか?)

 それが自分にとっても客たちにとっても最善であるように思えてきた。

 車のエンジンが掛からなければ暖房は使えない。暖房が使えなければ鉄のボディはすぐに外気と同じ温度まで下がってしまうだろう。しかし、それでもハイヒールで雪道を歩くよりはなように思える。恋人どうし二人で車内で抱き合っていれば一晩くらいなら持ちこたえるかも知れない。

「お前たちはタクシーまで戻れ。キーは車に付けっ放しになっている。俺が戻るまで車の中で待つんだ」

「あんたは、どうするつもりだよ」

「獣道の入口のようなものが、右と左に一か所ずつ見える。

 どちらかを歩いて行けば人の居る場所に出られるかもしれない。

 救援を呼んで来る」

「けっ、信じられないね。獣道を歩いて民家に辿たどり着くなんて、そんなに都合良く事が運ぶわけないだろ。あんた、登山の経験とか有るのかよ?」

 痛い所を突かれた。

 客はさらに畳みかける。

「そもそも、ここが何処どこだか分かってるのか? 慣れない道を走って、気づかずに脇道わきみちへ入ったんじゃないのか? タクシー運転手のくせに道に迷って、とんでもなく標高の高い場所に出て、そのうえ車は整備不良で故障。

 これ、重大な責任問題だぜ。こっちは下手すると凍え死んでもおかしくない状況だからな。免許取り消しは覚悟して置けよ」

 西脇は危うく客に殴りかかりそうになる自分を必死に抑えた。

「いいから俺の言う通りタクシーに戻って二人でじっとしていろ」

 ひと言ひと言、噛んだ歯の間から押し出すようにして言った。

「いやだね」

 若い男が皮肉な笑いを浮かべながら言った。

「あんたを信じてトンネルの中で凍死するのを待つなんて、まっぴらだ。

 ……だが、まあ、ここで二手に分かれるっていうのは良い考えだ。

 あんたは、あんたで、森の中でも何処どこでも好きな場所で野垂のたれ死ねば良い。

 こっちはこっちで、別の方法を取らせてもらう」

「別の方法?」

「単純な話だ。来た道を戻ればいいのさ。トンネルの反対側に出て、そのまま道路をS市まで歩いて行く。

 獣道なんかじゃなくて、タクシーが走って来た舗装された道路をたどって、な」

 なるほど、それが一番の近道じゃないかと、一瞬、西脇も思う。この男の言うとおり、道に迷って脇道を走り、知らないトンネルに入ったあげく行き止まりにぶつかったのだとしたら、それが最善の方法だ。

 ……しかし……

(道に迷ったんじゃない)

 それだけは絶対に自信があった。そもそも森のレストランまでは一本道だ。

 何度も客を乗せて往復しているから分かる。

 タクシーが通れるような舗装された分かれ道など一つも無い。

 第一、このトンネルも、向こう側の入口には見覚えがあった。異変に気付いたのは……いや、トンネルに入ってから、だ。

 この直感をどうやって、こいつらに分からせたら良いのか。

 若い男の客が西脇に向かって右手を出した。手のひらを上に向けている。

「ライター貸せよ」

 男が言った。油ぎった目が月光を反射してぎらぎらと光っている。

「客の希望をできるだけかなえるのがサービス業の基本だろ? だったらライターを貸してくれよ」

 一歩、西脇の方へ踏み出した。同時に西脇は一歩後ろに下がった。合成革靴が雪を踏む。

「だめだ」

 西脇が言った。ろくな装備も知識も無しに、何処どことも知れない森の中を歩こうというのだ。ライターは数少ない「頼りになる道具」だった。渡すわけにはいかない。

「良いから、貸せって言うんだよ!」

 客の語調が強くなった。さらに一歩前へ出る。

 西脇も一歩雪の中へ後退した。後退しながらベルトにはさんでおいたタイヤ・レンチを抜いて右手に持った。

 さすがに男の客が、たじろいだ。

「な、なんだよ! そんなもの持ち出して……道に迷って客をこんな山ん中に連れ出して、あげくに暴力かよ。最低だな」

「ライターを渡すわけにはいかねぇ。俺にとっちゃ、だからな。

 強いて奪い取ろうって言うなら、こっちも暴力だろうが何だろうが使わせてもらう」

 男の目の前でレンチをブンッ、ブンッ、と二回振って見せる。

「こっちは今年で四十五だ。大学生相手じゃ分が悪い。多少のハンデはもらわんとな」

 そう言いつつ、西脇は、このひょろひょろした金持ちの坊ちゃん相手に喧嘩ケンカをして負けるとは思っていなかった。レンチなど必要とも思えなかったが、今は少しでも体力を温存したい。この鉄の棒を見せびらかすことで相手の戦意が失われるのなら、それに越したことは無い。

 運転手と男の客は、三メートル半ほど離れて雪の上に立ち、互いに相手をにらむ。

 先に諦めたのは若者の方だった。

「ふん……車には発煙筒があるだろう。それで我慢してやるよ。賠償金の前払だ」

「勝手にしろ」

 若い男は西脇の言葉を聞く前にクルリと後を向いてトンネルへ向かった。数メートル歩いた所で麗子とかいう女の方へ振り返った。

 女は、しばらく迷うように西脇と若い男を交互に見ていたが、結局、男を追いかけてトンネルの方へ歩いて行った。

 暗闇の中へ入っていく若い男女を西脇は黙って見送った。

 二人の姿が見えなくなった。

「さて……これから、どうするか……」

 とにかく何とかしてS市へ戻らなくてはいけない。

 大人を見下して反抗する若い坊ちゃんと、ハイヒールのねぇちゃん。二つのお荷物から開放されたとはいえ、この不思議な雪の森を歩いて人家まで辿たどり着く自信など全く無い。

「ガキ相手の喧嘩なら負ける気はしねぇが……雪山のサバイバル術なんて知る訳ねぇだろ」

 西脇はボソリとつぶやいた。誰に向かって愚痴ぐちを言っているのか。

 弱い光で森を照らしている半月を見上げた。

「夜中にフラフラ歩き回るのは危険……か。それこそ遭難して凍え死ぬのが、だな」

 とりあえず、トンネルの出口付近、雪が吹き込まない程度に奥まった場所で焚き火をしよう。今夜はここで暖を取りながら休む。明日のことは明日の朝考える……素人なりにそう思いつくが、ライターの消費量を最小限にしつつ濡れた枯れ木で火をおこせるか、どうか、自信が無い。

 突然、誰かの視線を感じた。

 若者たちの消えたトンネルの奥ではない。

 森の中から、だ。

 誰か居るのか? 森の中に?

 心臓がドキリと大きく跳ねた。

 トンネルから見て左右二つある獣道への出入り口……その向かって右の方に視線をやる。

 男が立っていた。大きな男だった。身長百九十センチはありそうだった。

 黒いフード付きマントに隠れて顔は良く見えない。

 青白い月光に照らされて雪の上に立つ黒い姿は、死神を連想させた。

 男は、ゆっくりと西脇の方へ歩き出した。

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