クラクラフライデー


 昨日の放課後に流れていた木戸ワールド全開の放送が、まだ耳から離れてくれない。計算しつくされたかのようなババーンのタイミングは、彼女がこの一学期の間ひたすら歌い続けていた賜物だったのだろう。……いや、そんなの上手くなったところで誰も得はしないんだけどさ。

 けど、ああいったカオスな放送をするからこそ、逆に特定のファン層を築くことに成功したわけだ。

 学校の門を抜けると、最早文化祭かと見紛うばかりの人の数があった。その中の一部が、道端に立ち横断幕を必死に振りながら大声を張り上げている。

「つーきーしーまー! ゆーめー! はい! 月島ゆーめ! 月島ゆーめ! 何が何でも月島ゆーめ!」

 校門を超えて直ぐの場所で、学ランに身を包んだ数人が『月島LOVE』と書かれた鉢巻をしながら応援団さながらに声を絞り出している。ちなみに先頭に立つのはウチのクラスで月島シンパの筆頭に立つ青年だった。

 歩きながらツーッと視線を動かす。

「火ノ元灯火さまのためなら命を投げ捨てられる! そんな熱い志を持った方は、是非火ノ元灯火さまファンクラブへの加入を強くお勧めします!」

 月島さんシンパの横では、火ノ元のファンたちが拡声器片手に道行く生徒たちへ呼びかけていた。つか、この時期にファンクラブの宣伝をしなくてもいいのではと思う。

 お祭り騒ぎだなぁ、と他人事のように思いつつ歩を進めると、その奥からは少しばかり静かになっていた。だが、それでも目を引くのは、女生徒の姿があったからだろう。

「水上さんの放送をお聞きになられた方は分かるかと思います。彼女をおいて、放送部を牽引できる存在はいないと。だからこそ、彼女への思いを、投票と言う形で投じてはいただけませんか? 人一人の力は弱くても、皆で団結すれば強くなります。そう、マンボウのように!」

 いやマンボウ弱いだろ。水上さんの放送に感化され過ぎておかしくなっていないか。

 とは言え、見た目も上々の女子たちが呼びかけることで、月島さんや火ノ元たちの応援をしていた連中とタメを張るぐらいには人が集まっている。

 三つ巴かねぇ。暢気に欠伸交じりに歩く。その先にまた一つの集団。

「木戸ちゃんへの投票お願いしまーす。皆で木戸ちゃんを応援しよーう」

 ゆるっ。

 細身で色白なメガネ姿の青年が、ゆるーい感じで声を上げると、後ろで控えている数人の男子生徒たちも「おーう」とこれまたゆるーい掛け声を上げていた。

 まぁ、木戸本人がアンケートにさしてやる気を示していなさそうだし、良いのだろう。だが、他の集団と見比べるとどうも温度差があるように見えて仕方がないが。

 そして歩き続けていると最後の集団が見えた。

「年上でありながら、あの庇護欲を掻きたてられる雰囲気! 何もない所で躓くお茶目さ! 何をしても許してくれそうな慈悲深い笑顔! そして、ぼよんぼよんのおっぱい! この世に金井先輩以上の女性がいるでしょうか? いや」

 いない! 流石金井部長に付き従える連中だ。よく見てるじゃないか。俺が一投票者だったらその演説だけで間違いなく金井部長に投票してるぞ。特にぼよんぼよんのおっぱいが素晴らしいね。正にその表現だけで金井部長の全てを言い表していると言っても過言じゃないね。

 と、潮騒のようにざわめいた周りの声がふと小さくなった。そして、代わりに足音と共に一人の少女の声が聞こえた。

「土田くーん」

「おっぱい!?」

 くるんと反転して来た道を振り返ると、そこには駆け足で近くへやって来ていた金井部長がいた。

「お、おっぱ……?」

「あ、いえ。なんでもないです」

 ダメだ。金井部長イコールおっぱいなどと、彼女に対して失礼にも程がある。考えを改めるため、目を瞑って首を振る。そして、目を開ける。

「お、おぱ……」

「おぱ?」

 くっそおおお。何だよこの圧倒的存在感。魔性の魅力を備えたこの二房の魅惑の果実。金井部長が影でサキュバスと呼称されているのにも納得がいってしまう。まぁ、影で呼んでるのは俺なんだけどね。

 と、しきりに首を捻っていた部長だったが「あ」と思い出したように声を上げると俺の腕を引いて歩き出した。

「そんなことより、急ぐよ。もう放送の時間が間近だからね」

「ちょ、部長、う、腕に」

 ふんすと息巻く彼女の胸が、俺の腕にぼよんぼよんと当たっている。普段なら手放しで、むしろ揉みしだきたい衝動に駆られるぐらいだったのだが、今日は別だ。

 ちらりと横目を送ると、案の定金井部長に付き従える方々が俺へ殺意を眼差しに込めて送ってきていた。

 ひぃぃ。こ、怖い。

 冷や汗をだらだらと流しながら、俺と金井部長は校舎の中へと入っていった。




「突然ですが、皆さん。今日は特別な日です。はい、皆さんも心得ているとは思いますが、あの日です。

 校内に入ってからの異様な雰囲気も、この日だからこそのものだったのでしょう。

 そう、今日は――十三日の金曜日です!

 と、いうわけで、全校生徒の皆さん、おはようございます。七月十三日、金曜日。朝の放送の時間です。

 勿論、最初のはちょっとした冗談です。

 確かに今日は十三日の金曜日ですが、同時に私たち放送部部員からすれば一大イベントのある日でもあります。

 それは、アンケートの投票、そして開示です。

 以前にもお知らせしましたように、皆さんにお渡ししたアンケート用紙を本日収集します。具体的な日時は放課後のホームルームが終わった頃合です。

 それと、なのですが。前に廊下にアンケート結果を張り出すと発表していたと思うのですが、皆さんの盛り上がりようがこちらの予測を大幅に超えたということもあり、教員や生徒会の皆さんを交えての協議の結果、体育館を放課後に貸しきれることとなりました。なので、そちらで開票作業と結果発表を公開で行うこととなります。

 時間は午後三時半から。勿論、強制的なものではないので、お時間の都合が合われる方のみ参加していただければと思います。

 以上で放送部からのお知らせは終了です。次は教員からのお知らせですね。

 えとー。どうやら職員室に置かれたていた学校のマスターキーが紛失しているようです。間違えて取ってしまった、もしくは返し忘れているなどなど、何か情報をお持ちの方がいらっしゃれば、すぐに職員室へその旨を伝えにくるように。とのことです。

 それでは、今日の朝の放送はこれにて終了です。

 担当は金井やしろ。新渡戸英世。福沢式部。そして……いえ、以上でした。また、お昼の放送でお会いしましょう」






「いやー、ビューティフォー。かんっぺき。正に放送部が誇るエース! よっ、金井部長ばんざーい」

「うん、良かったわね」

「確かに。そつはない」

「ばんざーい、ばんざーい」

「……」

「……」

「ばんざーい……はぁ」

 何をやってるんだ俺は。

 火曜日は毛嫌いされ、水曜日は無視され、木曜日は勝手に二人で盛り上がられ。そうして訪れた最終日のサポート二人は、粛々と作業を進める人たちで。

 彼らとは一切話が盛り上がらない。ちょっとは返事をしてくれるのだが、必要最低限のもののみ。逆に返事をしてくれる分、無言の時間が気になってしまい、無理やりにでも場を盛り上げようとしてしまう俺は、正にピエロ状態。

 何ていうのかな。一枚岩で無言のままでも意思の疎通が図れる二人の間に割って入ろうとしているような状態? 空回り具合ここに極まれり。

「ふぅ、終わったわ。どうだった?」

 女々しく半泣きになりかけたところで、金井部長が調整室へと現れた。

「ぐすん。ぶちょー……」

「な、なんで土田君泣いてるの? 二人とも何かしたの?」

 金井部長がサポートの男女二人に水を向ける。すると彼らはまったく同時に首を横へ振った。

「いえ? 普段どおりでしたよ」

「はい。滞りなくつつがなく仕事をしていました」

 ええ、あなた方に思い当たる節はないでしょうね。でもこれだけは覚えておけよ。イジメっていうのはな、イジメっ子よりイジメラレっ子の方が覚えてるんだからな!

 ぐぬぬと憤る俺の横で、金井部長は頬に手を添えながら「そう?」と首を斜めにしていた。

「それでは、僕たちは後片付けをしてから教室に向かいますので、部長と土田君はどうぞ先に行っていただいて結構ですよ」

 おいおい。何だこの事務的対応。これが部活動ってやつなのか? もうちょっと助け合いって言うかさ、冗談とか口にして仲間同士で盛り上がろうぜ。

 などと思っている内に彼らはテキパキと後片付けを開始していた。

「それじゃあ、申し訳ないけれどお言葉に甘えるわ。二人とも、お昼にまたね」

「「はい」」

 縦社会ですね。

 俺も二人に別れを告げ、金井先輩の後を追った。

「……それで。例の件、どうなの?」

 放送室を出てから数歩歩いたところで、金井先輩が問いかけてきた。

「うーん。ここまで来ちゃったら、どうにもできないですかね」

「そうよね。今更引き下がれないわよね。開票してから『やっぱり話し合いで解決しましょう』なーんて事が受け入れられるか分からないからね。私や月島さんが一位を取れれば、あるいはその案も通るのかもしれないけど、火ノ元さんや水上さんも、勿論木戸ちゃんだって人気があるから、もうどうなるかは天に任せるしかないわよねぇ」

「そうですね。すみません、俺が力不足なばっかりに」

 一度立ち止まり、深く頭を下げると、金井部長は慌てたように手を横へ振ってきた。

「そんな。土田君のせいではないわ。貴方が気に病むことはない。元はといえば、こちらから無理難題を吹っかけたわけだしね」

「けど、そのために俺の入部の手回しをしていただいたわけですし、何よりそのために夜凪副部長も退部すると言っている。なのに結果を残せないなんて……今からでも遅くないです、俺が放送部をたい――」

「土田君」

 俺の名を呼ぶ金井部長の声は、どこまでも慈愛に満ちて聞こえ、その顔は慈母なんてめじゃないぐらいに暖かく見えた。

「貴方は頑張った。奮闘してくれた。月島さんから聞いてるわよ。貴方、前までは教室に入り浸りだったのに、最近は稀になったって。しかも」

 言って、スッと金井部長は手をこちらへ伸ばしてきた。触れる先は、俺の目元。

「こんなクマまで作って。ありがとう。貴方の頑張りがあったからこそ、私や月島さんも諦めがつくわ。その報酬としては安いものかもしれないけれど、放送部に入部する権利を貴方に与えたいの。土田君が嫌だったら、拒否するのも構わないけれど」

「金井部長、俺は」

 金井部長は俺の目元から手を離し、触れていた人差し指を立てたままに自らの唇に当てた。

「まだ答えは聞かないでおくわ。まだ、全てが終わったわけでもないし」

「……はい」

 言いたいことは山ほどあった。彼女には、今までたくさん救いの手を差し伸べられてきたのに、ここでもまたその手を向けられて。地獄に垂れた蜘蛛の糸は、お話の中では最後には切れてしまうって言うのに、彼女はどこまでも親身になってくれ、一度は切れても再度、三度と、いつまでも糸を垂らしてくれる。俺なんて、そんな情を向けられる人間に値しないのに。……金井部長を『また』騙そうとしてるのに。

 俺の返事を聞いて、金井部長は満足げに頷いた。

「とりあえず、お昼の放送のときにまた皆で集まるから、その時にもよろしくね」

「分かりました」

 ……少し、また少しと時間が過ぎていく。焦燥に駆られ、あるいは悔やむばかりの時間になってもおかしくはないのに。どうしてだろう。心はゆっくりと冷めていき、頭ははっきりとクリアになっていくのだった。







 廊下の途中で部長とは別れ、一人で教室へと向かった。

 教室の中ではそこかしこで、今日のアンケートで誰に投票するかについてしきりに議論を重ねているクラスメイトたちの姿が目に付いた。

 が、そこにとある人物の姿が見えなくて、俺は早々に教室を後にすると、その人物を探した。

 彼女を見つけたのは、教室を出てから数分後のことだった。

 中庭で、もう一人の少女と一緒に、ベンチに座りながら話しているようだった。

 と、先に一緒にいた少女が俺に気づいて目が合う。それに釣られるようにして、目的の人物も俺を見た。

「……土田君?」

「ああ、おはよう、月島さん」

 二人の元へと歩み寄り、片手を上げて挨拶をする。と、月島さんよりも先に反応してきたのは横にいる少女だった。

「こうして話すのは久しぶりね。土田」

「あぁ。そうだね。元気だった? 十六夜さんは」

 自らの胸をポンと叩き、十六夜さんは薄く目を閉じた。

「ええ。元気も元気。私から元気を取ったら何も残らないわ。って何よそれ。馬鹿にしてんの?」

「いや、自分から言ったんでしょ」

 十六夜涼香。月曜日の放送を副部長と一緒にサポートしている放送部部員である。セミロングの黒髪にアクセントを加えるような、カチューシャの赤が映えて見える。俺の彼女に対するイメージはどこか野性的と言うか動物めいていて、いちいち仕草が俊敏ですばしっこい。

 現に今も、俺の普通の指摘を聞いて彼女はバンバンと月島さんの背を叩きながら腹を抱えて笑っていた。

「確かに! はは、これはナイスツッコミを頂いたわー」

 彼女のことは嫌いではない。が、苦手とまではいかないまでも、どう相手をすればいいのか、出会ってから一年と少しを迎えた今もその距離感が掴みきれていない。

「ちょっと、私を巻き添えにしないでくれる?」

 十六夜さんの攻撃を一身に受けていた月島さんが、心底面倒そうな顔をしている。彼女のこんな顔、初めて見た。それぐらいに、十六夜さんを特別視しているのかもしれない。……多分、良い方に。

「えぇ? なにそのテンション。さっきまで『ぎゃははわはは』って口を大開きしておっさんみたいな笑い声あげてたくせに、土田が来たら急に塩らしくなっちゃって」

「そ、そういうわけじゃ……って、もういいから! 教室戻って宿題写させてもらわなきゃいけないんでしょ? ほら、早く行きなさいよ」

 ほんのり頬を染めながら月島さんは十六夜さんを虫でも払うようにシッシと手を振っていた。……い、良い意味で、特別視。多分。

 ぴょんと立ち上がり、あっけらかんと笑うと、十六夜さんはシュタっと敬礼をした。

「はいはーい。お邪魔虫は消えますよー。それじゃ、土田もこのお転婆お嬢さんのことよろしくしてやってね。何だか、伝えたいことがあるらしいから」

「伝えたいこと?」

「ええ。なんでも、土田にぃ」

「すーずーかー?」

 ふつふつと静かな怒りを表情に滾らせる月島さんが立ち上がって十六夜さんににじり寄る。

「っと、時間だぁ! お疲れちゃん!」

 十六夜さんは素早い身のこなしで月島さんの横を抜けると、中庭の出口へと走り、最後にこちらへ振り返ってきた。そして、片目を閉じながら投げキッスを一発お見舞いして、タッタと駆け足で去っていった。

「……」

 た、台風や。まじもんの台風であった。

 苦笑いを浮かべて十六夜さんの残滓を見ていると、後ろからため息が聞こえた。

「もう、本当、あの子は……」

 後ろを見れば、お疲れ気味の月島さんがいた。

「はは……相変わらず、凄い人だね、十六夜さんは」

 十六夜涼香なんて名前、どこぞのご令嬢ですかって感じだが、実際にはあんな朗らかな人なのだ。ちょっとした詐欺である。

「涼香と一緒にいると、それだけで体力が付くわ……」

「まぁ、良いじゃない。楽しそうな人だし」

「うん、楽しくはあるけどね」

「……」

「……」

 沈黙。十六夜さんというムードメーカーがさっきまでいたから、その静けさは一塩だ。

「と、とりあえず、土田くんも座って? ちょっとお話しましょう?」

「あ、うん。分かった」

 言われるがまま、月島さんの隣に腰掛ける。

 元々月島さんを探していた理由は、彼女が一人でいるならば話し相手ぐらいにはなろうとの考えからだった。

 クラスではアンケートに関する話がしきりに交わされていて、彼女ならその雰囲気を壊さぬように自らが教室を去るだろうと予想していたから。自分がいることにより、周りに影響を及ぼすことを彼女は理解しているだろうから。

 けど、こうしていざ二人きりになれば話の種がないことに気づく。形ばかりの幼馴染。過ごした場所は共有していても、共に過ごした時間は極端に少なかった。

「……見てくれた?」

「え?」

 だが、それでも彼女と俺は、また同じ学びやで出会った。しかも、話し合う機会が訪れた。

 運命なんて信じちゃいないが、それでも偶然だと断ずるには、少しおかしく思えた。

「卒業アルバム」

「あ」

 そうだった。卒業アルバムを見て欲しいと月島さんに言われていたのだった。

 俺の反応を見てすっかり忘れていたことを察したのか、月島さんは僅かに頬を膨らませた。

「もう。あれから四日も経つのに」

「ごめん、ちょっと色々とあって」

 逃げ口上としてはありきたりなものだったが、月島さんは途端に表情を曇らせた。

「そうだったよね、忙しそうだったもんね。こっちこそ、無理難題を押し付けておきながら、わがまままで言って、ごめんなさい」

 ずるい言い訳を口にしてしまったようだった。自分の空気の読めなさを恥じる。

「いや、そんな……月島さんとの約束、このままだと守れないかもしれないし、ただの役立たずだから、俺は。何を言われてもおかしくないと思ってる」

 正直、彼女には一言謝っておきたかった。根回しをして、俺に思いを託してくれたのだ。にも関わらず、それを踏みにじるところまで来てしまった。これでは単に、彼女の部からの信頼を下げるだけになってしまう。

 だが、月島さんは俺を安心させるように笑う。

「そんなことない。土田くんは、もっと自分に自信を持ったほうが良いよ。土田くんが思っている以上に、土田くんによって救われた人はたくさんいるから」

「え? なんのこと?」

「ふふ。ヒミツ。でも、土田くんの卒業文集を見てみれば、分かると思うよ? ……中学二年生の頃、辛いことがあったけど、私は土田くんの文集を見て救われたんだ」

 卒業文集? 救われる? 全然意味が分からない。

 きょとんとしてしまう俺を、月島さんはスッと立ち上がって見下ろしてきた。

「とりあえず、私は教室に戻るけど、土田くんは?」

「あー。もうちょっと、ここにいるかな」

「そう。じゃあ、先に行ってるね」

 軽い足取りで、月島さんはこの場を去っていった。

 中学二年生か。

 風の噂で聞いたことがある。月島さんの家は母子家庭で、たいへん仲の良かった父親がいなくなってしまったのは中学の頃だと。

 あくまで噂話だ。それも、生徒同士が話しているのを聞きかじった程度のもの。

 けど、何にせよ、彼女はその頃に何かがあって、俺の文集を読むことによって救われたらしい。

「……」

 どんな仰々しいことを書いたんだか、俺は。

 だが、仮に月島さんがそれによって救われたのだとしても、免罪符にはならない。彼女との約束を反故にする理由にはなり得ない。

 だからこそ、俺は、やらなきゃいけない。やり通さないといけない。

「ごめん……」

 彼女には一言謝っておきたかった。理由は先ほどの通り、思いを、純粋な願いを託してくれたのに、踏みにじろうとしているから。

 正攻法ではなく、邪道なやり方で解決しようとしているから。





「七月十三日、お昼の放送の時間です、が。本日は放課後のアンケート開票に関する打ち合わせのため、時間を短縮してお送りさせていただきます。

 それと、投票する意思がありまだ記入されていない方への注意事項や、開票場所である体育館への集まり方などの説明に終始させていただきます。

 あと、現段階では全てが確定しているわけではありません。なので、放課後に皆さんのクラスに放送部部員や生徒会の方々が訪れた際に変更点、それに重要な事項については再度申し上げる予定です。ですから、アンケートにそこまで関心のない方や、普段の放送を楽しみにしていただいている方には物足りない放送となるかと思います。

 以上の点を予め踏まえて頂き、改めてお昼の放送を開始します。

 早速ですが、寄せられた皆さんからの質問の中で、特に多いものを抜粋して応えていきたいと思います。

 まず一つ目。投票用紙は鉛筆やシャープペンシルで記入しても良いのか、それともボールペンやサインペンなどの記入しか認めていないのか。です。これについては――」





 あー、聞きたいよぉ、金井部長の声を一分一秒でも長く聞いてたいよぉ。普段の放送も楽しみにしているけれど、何よりも部長の話す声のトーンや、声や、雰囲気や、おっぱいが楽しみで聞いてる俺からすればどんな内容だろうと構わないわけで、ああ、聞きたいよぉ。

「……土田、気持ち悪い。ハスハスしないでほしい」

 横から木戸の冷たい声が聞こえた。

「仕方ないだろう。あの部長がガラス越しとは言え目の前で放送しているんだぞ? 興奮せずにいられまい」

「あっそ」

 一蹴。

「……って、あれ? 木戸って前から俺のこと土田って呼び捨てにしてたっけ? くんとかつけてなかったっけ?」

「覚えてない」

 木戸は素知らぬ様子で俺から顔を背けた。

 と、正面にいた月島さんが口元を上品に隠しながら笑い声を上げた。

「木戸ちゃんは、仲の良い相手には敬称をつけなくなるんだよ。良かったね。土田くんも認められたってこと」

「つ、月島、うるさい」

 珍しく木戸がたじろいでいる。それを見て俺はにんまりとしてしまう。

「ほほう。木戸。そうだったか。まさか俺のことをそうまで思ってくれてたか。いやさ俺も木戸のことは愛らしいと思っていたし、そんな風に思われるのはやぶさかでは――」

「黙れよ。死ね」

 やっば。さっきまで恥ずかしそうに顔を赤らめてたくせに、俺がちょっと調子に乗った瞬間に真顔で口汚く罵ってきた。流石にちょっとショックである。

 と、俺の右隣に立つ水上さん――隣と言っても一メートル以上離れている――が、浅い息を吐いて、足を一度踏み鳴らした。

「そんなどうでも良い話をするためにあつまったわけではないでしょ。早く話を進めて」

 俺の両隣は女の子の日なんですかね。ヒステリック気味である。

 状況を見かねたのか、木戸の左に立つ副部長がメガネを中指で持ち上げながら口を開く。

「そうだね。早急に話を進めていこうか。時間が惜しいからね」

 調整室に集まったのは七人の少年少女。内一人は金曜日の放送担当である新渡戸くんで、残りの六人は月曜から木曜日までのパーソナリティーを務める少女四人に、俺と副部長である。ちなみに、金曜担当の福沢さんは金井部長と一緒にマイク室に詰めている。

 ただでさえ狭い空間なのに、七人も集まれば普通に歩くこともままなりそうにない。

 デスクアンプの前でパイプ椅子に腰掛け、真剣にマイク室を見つめる新渡戸くんを取り囲むようにして、俺たち六人は並んで立っている。

「それで、具体的な行動スケジュールとか役割分担はどうしますか?」

 問いかけたのは月島さんだ。応えるのは副部長。

「部長とその辺りの協議は済んでいる。簡単にだけど資料に纏めてあるから、これを一人一枚ずつ持っていってくれ。それで、ここを出てから放課後に至るまでの間に、それぞれの曜日の他のメンバーにも内容を伝えて欲しい」

 そう言って副部長は隣に立つ木戸へと数枚の紙を渡す。どれも同じ内容だったみたいで、木戸はぺらぺらと紙を捲ってから一枚だけを取って、そのまま俺へと残りの紙を横渡ししてきた。

「これは、俺も貰って良いんですか?」

「もちろん。土田くんも立派な放送部部員の一人だ。そのために紙も一枚多く印刷してあったからね。君の場合担当の曜日が明確には決まっていない上、入部してから日も浅いから部員間での意思疎通を図るのが面倒になる可能性も考慮してのことだ」

 心遣い痛み入ります。本当にここの部員は意思の疎通を図るのが面倒で面倒で。

 俺は表紙の一枚を取り、残りを横に立つ水上へと差し出す。が、彼女は「う」っとあからさまに嫌そうな顔をしながら、汚いものでも触るように紙の端の端を摘まんで引っ張っていった。

 ええ、ええ。この通り、本当に面倒な人たちばかりなんですよ、ここ。紙を仲介にして何らかのウィルスが伝染するとでも勘違いしてるのだろうか。

 一度紙面に目を伏せてからふと気になり、紙の行方をちらりと目で追った。

 水上から火ノ元へと紙が渡される最中で、二人とも目を合わさずに無言でやり取りをしていた。

「大体のことはここに記載されている。何か質問があったら僕に今聞いて欲しい。後で確認を取ることも可能だけれど、その場合はわざわざ僕のクラスまで訪ねるのも面倒だろうし、それに僕も授業中以外はクラスにいるのが少ないと思うから、メールや電話で連絡を取ってくれ」

「はい」

 皆で返事をする。と、丁度放送が終わったみたいで、福沢さんと金井部長が調整室へとやって来た。

「どーう? 話は纏まっている?」

 首を軽く横へ倒しながら部長が尋ねてきた。ああ、可愛い。

 副部長が部長の質問に対し頷く。

「はい。後の懸念材料は、人員不足に関してでしょうか」

「人員不足?」

 気づけば俺は言葉を発していた。副部長が俺へ横目を送る。

「今回、体育館を開票場所として貸し切れることが決定したのは知っていると思うんだけれど、当初は予定していなかったことだからね。人手が不足しているんだ。生徒会の方が何名か設営や準備の手伝いをしてくれるらしいんだけれど、時間の都合上放課後になってからでないと機材や道具の搬入はできない。だから瞬間的に動ける人材を欲しているんだけど、放送部の部員は十五人しかいないし、その内の三人、金曜日の放送を担当している金井部長、新渡戸くん、福沢さんは数に入れられないからね。その分、他の部員が目一杯働くしかないってことなんだ」

 俺が頭数に入っていないのは、単純に忘れてのことではないだろう。新入部員に仕事を頼むのに気が引けてるか、あるいは俺では役者不足だと考えられているか。

 まぁ、どちらにせよ……俺としては好都合。

「あの」

 俺は恐る恐る挙手をする。と、金井部長が声をかけてきた。

「どうかしたの?」

「えーと、差し出がましい提案だとは思うんですけど、放送部の部員が足りないなら、福沢さんと新渡戸くんにも搬入の手伝いとかをしてもらってはどうでしょう?」

 すると、即座に部長が首を横へ振った。

「それはダメ。一人で放送をするのは、規則で禁止されているの。特別な催し物があるとしても、こればっかりは破れないわ」

「つまり、放送者とプラスして一人の計二人、放送室に残れば良いんですよね?」

「ええ、そうよ。……って、新渡戸君か福沢さんのどちらかを外そうとか考えてる? 確かに悪くはない案かもしれないけど、うーん」

 部長が一人で新渡戸くんと福沢さんの顔を見比べる中、俺はそれを否定する。

「いえ。違います」

「え?」

 瞼をぱちくりと瞬かせる部長に微笑みかける。

「俺が残ります」

 俺の宣言に一番に反応したのは――。

「そ、そんなの。何を考えてるの、その、土田くん」

 火ノ元だった。

 それに、木戸からも。

「放送部部員として、その安直な考えは受け入れたくない。誰でもできるような仕事だと考えられたら困る」

 お前に放送部部員としての誇りがあったことに俺は驚いてしまったよ。

 だが、その二人の非難の声に応えたのは俺では無かった。

 部長が困ったように頭に手をやりながら喋りだす。

「いえ。彼は、素人ではないの。放送の何たるかは知ってはいるはずよ」

「け、けど。仮にそうだったとして、例えば中学校とかで放送部部員だったとしても、総目高校とでは機材とかが違うんじゃありませんの?」

 だが、そこまで言ってから火ノ元も違和感に気づいたようだった。木戸と火ノ元を除く、その場にいる残り全員が、俺の提案に否定はおろか、怪訝にすらしていないことを。

「え、ええ?」

 うろたえる火ノ元に続いて、水上が目を閉じながら口を開く。

「彼、土田くんは、昔放送部に所属してたのよ」

「だから、それは中学校とか小学校のことで――」

 火ノ元の発言を遮るように、俺が事情を説明する。簡単に、簡潔に。

「実はさ、俺。……半年前まで、ここ、総目高校放送部に所属してたんだわ」

「……は、はぁ?」

「そういうこと。だから、良いんじゃない? 私は賛成よ。この人の顔を少しでも見る時間が減るなら嬉しいし」

 相変わらず水上さんには嫌われてる。けど、賛成してくれるっていうことは、腕自体は認めてくれてるってことだ。そこは嬉しい。

「それなら、私も良いと思う」

 順応の高さはピカイチ。木戸も賛成してくれた。

「僕も、そうだね。良いと思う。搬入や準備を手伝ってもらうより、放送を任せるほうが効率も良さそうだから。部長はどうですか?」

「……そうね。現状ではそれが一番かしら。お願いできる? 土田くん」

「勿論です」

 すると、すっかり蚊帳の外になってしまった火ノ元がため息をついていた。そこへ、月島さんが声をかける。

「大丈夫、土田くんは昔は優秀な人でね、将来は部長としても有望視されていたの」

「……そんな奴が何で辞めたの?」

「それは……色々と問題があって」

「あっそう……」

 火ノ元はすっかり肩を落として放送室を後にしようとした。が、去り際ぽつりと呟いた。

「まさか、本当にこうなるなんて……」

 頬に手を添え、部長が火ノ元の背を見送りつつ口を開く。

「何か、気に障ることがあったのかな?」

 俺は場の空気を変えるため、パンと手のひらを打った。

「まぁ、良いじゃないですか。これで、万事オーケー。できる限りのことはしたってことで。ね?」

 そう。できる限りのことはした。後は、放課後を迎えるだけだ。














 ホームルームを終えたと同時に、俺は教室から抜け出した。ちゃんとした放送部部員なら、特例としてホームルームが始まる前に教室を出ても良いのだが、俺はまだ入部届けにすら名前を書いていない、偽者の放送部部員。

 殆どのクラスメイトがホームルームが終わっても着席を続ける中、こっそりと自席を立ったのだが、月島さんにだけは見られてしまいクスっと笑われてしまった。だが、ガッツポーズを送ってくれたところを見るに、その笑みは好意的なものだったのだろう。

 廊下に出ると、木戸と副部長たち、前回俺のクラスを担当していた一行とすれ違った。

 副部長は緩く微笑みながら頷き、木戸は無表情ではあったが手をひらひらと振ってくれ、二人はそのまま俺の教室へと入っていった。

 どこのクラスからも廊下に出てくる生徒の姿は疎らで、あちこちのクラスで放送部部員がこの後のイベントの説明を行っている声が漏れ聞こえている。

 放送室のある一階へと向かうため、階段を一歩一歩と降りていく。

 なんだか、懐かしいな。

 最近、放送室に向かうことが多かったが、今日は心持ちが違う。曲がりなりにも、放送に携わることになるんだから。

 ちょっと前まで、部活動に精を出してる奴に嫉妬していたのに、こうして自分が同じ立ち位置に立ったら、溜まらず笑みが零れてしまうなんて、我ながら単純である。

 半年前、これが日常だったんだ。思い返せば楽しさに満ち溢れた日々で、それは当時からも思っていた。

 そんな陽だまりのような日々を、俺は……自分から手放した。

 けど、そんな俺に、こんな機会を与えてもらえたことに感謝しつつ、俺は放送室の扉のドアノブに手をかけて、それを引く。

 初心に帰るではないが、どこか初めてここに訪れた時のことを思い出しながら扉を開いた瞬間。

「わ、わ、わわわわわああ!」

「え、ぶちょ――どぶらしゅ!」

 金井部長が扉の奥から機材を抱えきれないほど持ったまま、前のめり気味に俺へと体当たりをかましてきた。頬に思いっきりマイクスタンドがぶち当たり、為すすべもなく俺は倒れこむ。そして、追い討ち。どうやら、金井部長も倒れこんだらしく、俺の上へと落っこちて来たみたいだった。

 からんころんと機材や小道具が一階の廊下に転がる音が響く。

「いてて……」

 折角人がセンチメンタリズムに浸っていたのに、この人は。

 けど、それがまた金井部長らしい。ある意味、空気の読めるおっちょこちょいって感じで。

 と、なにやらそこで違和感。

 息がしづらい。視界も暗い。

「ご、ごめんね、土田くん。大丈夫?」

 声が俺の頭上から聞こえる。

「え、ええ。大丈夫、ですけど、これどういう」

 どういう状況なのか。そう問おうとしたところで、理解した。

 俺の両のほっぺを挟みこみ、ぷるんぷるんと揺れる魅惑の物体は、まさか、まさか。

「お、おぱ……」

「えぇ? 土田くん? あれ? 土田くん? 土田くーん?」

 至福の一時を終え、金井先輩が体を起こしてからも、俺はその感触、そしてぬくもりを忘れぬようにと意識を手放そうとした、が。

「土田くーん!」

「ぶふ!?」

 思いっきり頬をビンタされた。あぁ、さようなら、俺のヘブン。

 痛む頬を押さえながら、肩肘を立てて体を起こす。

「何してたんです、部長?」

 俺が起き上がったことで安心したのか、金井部長はホッと胸を撫で下ろしてから、思い出したように周辺に散らばった機材や小道具を拾い出した。俺も直ぐに立ち上がりそれを手伝う。

「後で皆が体育館に搬入しやすいように放送室の出入り口付近に運ぶものを纏めておこうとしてたんだけど、躓いちゃって。ごめんね?」

「あ、いえ。だったら良かった。俺がタイミングよく来てなかったら、金井部長は扉とぶつかって大怪我でも負いかねなかったってことですし。気にしないでください」

 俺も良い思いをさせてもらったわけだし、これが本当のウィンウィンな関係である。……とは言えない。

 が、金井部長の表情が翳った。まさか、俺の下心がばれたか。

 だが、内容はてんで違うものだった。

「いつも、ごめんね。土田くんには救われてばかり……ホント、部長失格だなぁ」

「なに言ってんですか。俺こそ部長に助けられてばっかりですよ。俺の中では、金井部長は部長の鏡です。胸を張ってください」

 自分で言いながら、胸を張るの部分に気が向いてしまった。煩悩滅却、煩悩滅却。

 フォローとかでは無く、本音を語ったつもりだったのだが、部長の表情は晴れないままだ。

「けど、あの日だって、半年前だってそう」

「あれは、俺が単に……いえ、やっぱり止めましょう。あのことは、お互い忘れるってことで」

 そう言うと、部長は逡巡を挟んでから頷いてくれた。

「そうね……気持ちを入れ替えて、いきましょうか。そろそろ、放送の時間だしね?」

 散乱した道具を片付け終えると、金井部長は笑顔でそう言った。

 俺も、彼女へ笑いかけながら相槌を打つ。

「はい」








「七月十三日、放課後の放送の時間です。お聞きいただいている曲は、マスネ作曲『タイスの瞑想曲』です。

 とうとう金曜日、各曜日を合わせて一学期最後の放送となりました。

 もうすっかり夏本番で、例年よりも梅雨明けが早かったこともあり、蝉時雨が耳を叩いてきていますね。

 今週の初めに、月曜日の放送を担当している月島さんが、今年の夏に何をしたいのかをお題にして話していましたが、私もそれに倣って、どういった夏を過ごそうと思うか、私事ながら語ってみたいと思います。

 夏といえば、やはり海でしょう。焼ける肌。日光に当たって煌びやかに光る水しぶき。そして熱い日差しの中で泳ぐ海は、正に夏の風物詩で、これが無ければ夏は越せません。

 ……ええ、越せません。越せませんが、今年の夏は、どうやら海には行けなさそうです。したがって、私は今年の夏は越せないってことになるのでしょうかね?

 と言うのも、私は高校三年生で、来年の初冬には受験を控えている身だからです。

 もう既に私のスケジュール帳には連日科目別の勉強予定がぎっしり書き込まれていて、レジャーを楽しめる日なんて殆どなさそうです。

 高校生活最後の夏休みなのに、スケジュール帳を見直してあまりにも悲しくなってしまいそうでした。

 けど、これと言うのも、スケジュールを前倒しにしているからなのです。

 私は、放送部が大好きです。

 だから、二学期に勉強に割く予定だった時間を、前倒しで夏休みに消化しようとしているのです。

 あるいは大人は、部活動なんかにかまけてないで、勉強をしろと言うかもしれません。

 ですが、私はこの部活動は勉強よりも大事なものだと思っています。

 大人になってからでは、勉強をする時間はないと言いますが、それは部活動にだって同じことが言えます。

 私の場合は、部活動に熱意を注ぎ込んでいますが、それは何も部活動のみじゃありません。

 委員会。アルバイト。レジャー。はたまた勉強。何でも良いんです。皆さんが、本当に熱中できるものなら、それは何よりも大事なことだと思います。

 その熱意は、きっと皆さんが大人になってからでも、胸の中で輝き続けてくれると思いますから。

 ……少々、熱っぽく語ってしまいましたが、以上で、放送を終わりたいと思います。

 それでは、二学期もまた、総目高校放送部をよろしくお願いします。

 今日の担当は、金井やしろと、今この場にはいませんが、福沢式部、新渡戸英世の二人と、そして……土田夕日でした」





『さようなら』

「――」

 呆気に取られてしまった。金井部長が最後にチラッとこちらを見てきたので、何かと思いもしたが、彼女が俺の名を読み上げた瞬間、頭の中が真っ白になってしまった。

 それでも、腕に馴染んだものか、金井部長の声が止むと同時に、無意識の内にデスクアンプを操作して音量を下げ、マイクのスイッチをオフにしていた。

「どうだった?」

 爽やかスマイルで金井部長が調整室へ来た。

「何で、俺の名前を」

 本来なら俺は放送部を退部した身だ。それも、飛び切りの事件を起こして。クラスメイトは元より、他の生徒たちからも疎まれているのはそこに起因している。俺が一年生の終わり、終業式に起こしたそれを知っている生徒なら、俺が放送部に戻ってくることを良しとしないはず。

 なのに、俺の名前を読み上げた。あまつさえ、金井部長の声で。彼女は、あの件に深く関わっているのに。

「土田くんは放送部の部員だもの。当然でしょ? それに、さっきも言ったけど、規則によって放送を一人で行うのは許されていない。なのに、もしも土田くんの名前を読まなかったら、それはつまり私が一人で放送をしていたことになってしまうわ。だから、仕方なかったの」

 言い切って、金井部長はウィンクをしてきた。

「……そんな詭弁」

「そうね。なら、本音を言いましょうか。私は、土田くんがここに帰ってきてくれたことが嬉しいの。だから、貴方の名前を勢いあまって読んじゃった。これで、良いかしら?」

 正直、俺が放送部に再度入部することは、様々な反発にあって叶わないものだと踏んでいる。それぐらいのことを俺はやったのだから。

 けど、こうして部長にたった一度でも放送上に名前を読んでもらって、それは俺の心の中でしっかりと刻み付けられた。もう、悔いは無い。俺は深々と頭を下げる

「ありがとうございます……」

「そんな大げさよ。それより、早く体育館へ移動しましょう? どうやら私たちが放送をしている間に、機材とかは搬入してくれていたみたいだし」

 顔を上げて放送室の出入り口付近に目をやると、もう機材や道具は消え去っていた。

「そうですね。……あ、でも、俺は後片付けしてから行きますよ。部長は先に行っていてください」

「え? なら私も手伝うわよ?」

「いえ。部長の手を煩わせるわけにはいきません。アンケートに名前を連ねる五人の内の一人なんですし、皆部長の到着を待ってると思いますよ」

 金井部長は下唇を噛んで、うぐぐと唸ってから、諦めたようにため息を吐いた。そして、晴れやかな笑みを浮かべる。

「分かった。でも、土田くんも早く来てね。貴方も放送部の一部員なんだから」

「そうですね。急いで追いつきますよ。……っと、鍵をお貸し頂いても良いですか? 戸締りをしなくちゃいけないんで」

 すると金井部長は「あぁ」と思い出したように声を上げて、スカートのポケットから鍵を取り出し差し出してきた。

「じゃあ、これね。一応言っておくけど、無くしちゃダメだからね? スペアキーもないし、マスターキーも紛失しているみたいだから、特に気をつけてね」

「はい。了解しました」

 上に向けて出した手の上に、鍵をポンと乗せられる。

「それじゃ、行くね。また後で」

「はい、また後で」

 手を振り合う。部長は踵を返すと放送室を後にしていった。

 入り口の扉が閉まる音が聞こえ、そこで俺は深呼吸をする。

「……さーて、とっととはじめるか」

 後片付けを、ね。








 部長が立ち去ってから十分ほどが経過したところで、俺は携帯電話を取り出した。

 後片付けは、まだ済んでいない。

 ディスプレイを電話帳の画面に変え、目的の人物の番号を表示。そのまま通話ボタンを押すと、ジャックにイヤホンのプラグを差し込んだ。

 プップっと音が両耳にしたイヤホンから聞こえ、俺は携帯をズボンのポケットにしまった。

『……もしもし?』

 怪訝そうな少女の声が聞こえた。

 イヤホンはマイク機能も搭載しているもので、位置を調整しながら応答する。

「もしもし。木戸? 俺俺」

『……切るよ』

「あ、ちょい待ち。ごめん、冗談だって。いま忙しいか?」

『一通り準備は終わった。後は開票を待つだけ』

 再度携帯電話を取り出し時間だけを確認する。三時二十五分。残り数分でアナウンスが始まるということかな。

「もう投票は終わってるんだよな?」

『うん。クラスでもう投票用紙は集めたから。……土田は何してるの?』

「なるほど。これからお願い事をしたいんだけど、頼めるかな?」

『……だから、何してるのって。皆待ってるんだけど』

「それは後で説明する。とりあえず今は頼まれて欲しいんだけど」

『……ものに拠るけど、分かった』

「オーケー、良い子だ。今度焼きそばパンを買ってやる」

『ホントっ?』

「ああ。それも二個だ」

『どんとこい』

 張った胸を得意げにポンと叩いている木戸の姿が想像できて、思わず苦笑してしまった。

「それじゃ、早速その内容なんだけど、これから、体育館の実況をしてほしいんだ」

『実況?』

 と、そこで周りの声が耳に入ってきた。どうやら、木戸の周辺に火ノ元や部長がいるみたいだ。

「ああ。特に伝えて欲しいのは、一番最初に体育館から出て行ったのが誰か、それから二番目に出て行った人間。あと……火ノ元と水上さんの様子だ」

『……ん? 今も体育館は出入りが激しいけど』

「いや、今じゃない。あと少し、もう少ししたら、とあることが起こるから、それから頼む」

『う、ん? 分かった』

「それと……これから何が起きても、実況を止めないでくれ。絶対に」

『分かった』

 よし、これで準備は整った。

 俺は携帯を操作し、通話を切らず、ミュートに設定する。

 そして、腿の上に置いていた一冊の本を開きつつ、マイク室のパイプ椅子から腰を上げる。

 タイミングよく、イヤホンから月島さんの声が体育館にエコー気味に響いているのが聞こえた。これから、始まろうとしているのだろう。だが、そうはさせない。

 俺はスイッチをオンにし、口を開く。――マイクに向けて。

「あーあー。マイクテス、マイクテス」

 俺が声を出したと同時に、体育館のざわめきが耳に入った。

『……皆、驚いてる』

 と言う木戸自身、驚きを隠しきれていないようだったが、それでも実況を続けてくれる。

『水上は不思議そうにスピーカー見てて、火ノ元は……何か、この世の終わりみたいな顔してる』

「ときが経つのは早くて、気づけばもう卒業の時期です」

『水上は相変わらず。火ノ元は、頭抱えてる』

 電話の先から声が聞こえる。部長の声だ。「また、やっちゃったのね」と、溜息混じりに嘆くように言っている。それに火ノ元が聞き返している。「また?」と。すると部長は「ええ」と前置きをして、こう言っていた。「半年前も、土田くん、放送室をジャックしたの」

 本当、部長には気苦労をかけていて申し訳ない。どれだけ謝っても謝りたりないぐらいだ。けど、もう引き下がれない。後で、いくらでも土下座をしよう。

「うかぶ思い出は数え切れず、けれど、そのどれもが光り輝いています」

『水上が、何か口をぽかんと開けてる。火ノ元は、どっか走り出しちゃった』

「かがやいているのは、私だけじゃないはずです」

『今、火ノ元が体育館を出て行った。あと、水上はすっごい怖い顔をしてる』

「だれもが思い出を抱えていて、でも、それは良いことばかりじゃなくて」

『水上も走り出した』

「いいこと、それに嫌なことをない交ぜにして、思い出と一括りにしています」

『水上が体育館を凄い速さで出て行った。周りの教員も、おろおろし始めてる』

「すべてが良いことだったら良いのに、と思うこともあります」

『教員の何人かが体育館を出て行った。水上が出てから、十秒ぐらいあと』

「きっと、そんな人生を送れたら、本当に楽しいものなのだろうと」

『……なんか、結構な人数が体育館を出て行った』

「だけど、そんなに人生は甘くなくて、けどだからこそ、人生は面白いのでしょう」

『放送部の皆が、ため息ついてる』

「よのなかって、そんなものです」

『……』

「……というわけで、金井部長と月島さん、好きだああああああああ!!」

『……は?』

 そこでプツンとマイクのスイッチを切る。そして、携帯のミュートを外す。体育館では、俺の声がスピーカーから何度も何度も反響しているのが電話口から聞こえた。

「いやー、ありがとう。順調に事が運びそうだ」

『まぁ、良いけど。……放送室にいるの? 怒られるよ?』

「大丈夫。鍵は俺が持ってるから」

 ポケットの中に入れた鍵を弄ぶ。

『でも、マスターキー……あ。まさか、あれ』

「ま、そういうことだ」

 放送室の鍵と一緒に、もう一つ、ポケットには鍵が入っていた。もちろん、マスターキーである。昨日の時点で拝借させてもらった。

『感心しない』

「だろうな。俺も第三者だったら呆れ果てる。だけど、当事者になってみるとあれだぜ? 結構面白かったりする」

 果たして、木戸は呆れたように嘆息した。

「ま、そろそろ大詰めだから電話切るわ。ありがとうな、協力してくれて」

『あ、ちょっと待って』

「うん?」

『焼きそばパン。それも二個。約束してるから』

「はは、分かったって。今度あのベンチで渡すよ」

『なら良い。じゃあ、またね』

「ああ」

 そうして電話を切り、マイク室の扉を潜ると、左側、放送室の扉の前に一人の少女が肩で息をしながら立っていた。

「よ。火ノ元。約束どおり来てくれたみたいだな」

 そう。彼女とは、約束をしていた。

「……まさか、本当にこんなことをしでかすなんて」

 一昨日のことだ。水曜日の放送後、水上を尾行し、屋敷の門前で出会った少女は、火ノ元だった。

「何をしてるの」と問うてきた彼女の顔は、正に言葉通り、俺が何をしていたのか、そして何をしようとしているのかが分かっていなかったようで、眉を顰めつつ話しかけてきた。

 やっちまったなぁ、と内心で焦りを感じていたが、けれど、裏を返せば絶好の好機で、俺は彼女にこう返した。

「金曜日の放課後、俺は放送室をジャックする予定だ」

「は、はぁ?」

「まー、何言ってんだって思われても無理は無いだろうけどさ、とりあえず、火ノ元にも関係ある話なんだわ。だから、もし、俺が本当に放送室をジャックしたら、意の一番に放送室に来て欲しい。誰よりも早く、な」

「そ、そんなの」

「もちろん、来なくても良い。強制じゃないからな。でも、火ノ元。俺の勘が外れてなかったら、お前はとある人物と仲直りをしたいと思っているはずだ」

「え――」

「そして、その願いを叶えたいなら、放送室に来て欲しい。俺がそれを、成就させてやる」

 そんな会話をしたのだ。

 だから、俺は彼女との約束を果たさなくちゃいけない。

 瞬間、放送室の扉が荒々しく開いた。俺も火ノ元もそちらを注視する。

「はぁ、はぁ、あんた、自分が何したか、理解してるの?」

 ぜぇぜぇと息を切らしながら俺をねめつけるのは水上だった。

「まぁ、何となくは分かってる」

「何となくって、あんたねぇ……っ」

 そこで、水上は火ノ元の存在に気づいたみたいだった。互いに目を合わし、そして、離す。

「……絶対、約束は守ってやるよ」

「え?」

 俺が小さく呟くと、火ノ元だけが反応をした。

 俺は火ノ元、そして水上の横をすり抜け、放送室の扉に鍵をかける。その直ぐ後に、ドンドンと扉を叩きながら大声で喋る教員の声が聞こえてきた。正に間一髪。

 俺は身を翻し、元の場所へと引き返してから二人の少女を見る。

「とりあえず、こんなところで話すのも何だ。マイク室にでも入ってゆっくり話そうぜ」

「ゆっくりって、直ぐに先生方が入ってくるに決まってるでしょうが」

 普通に考えれば水上の指摘もご尤もだが、その辺は抜かりない。

 ふふんと不敵に笑って顎でそれを示してやる。

「ん?」

 不思議そうな顔をして、水上はその先を見据えた。そこは、職員室と放送室を隔てる扉。

「って、あれ」

「ま、見ての通りだ」

 職員室と放送室を隔てる扉は、例え鍵が無くても職員室からは入ることができる。なので、鍵を俺が隠匿しても意味がない。ということで。

「あ、あんなバリケード作って! 後でどうやって片付けるのよ!」

 ……何か予想と違った指摘である。

 けど確かに、扉の四面の隙間にガムテープを張り巡らせ、扉の前にはこれでもかと物を敷き詰めて置き、強固なバリケードを完成させておいた。これなら職員室から放送室へ入ることはなかなか困難だろうが、後片付けが面倒そうだ。

 ま、そんなの今はどうでもいい。

「それに、放送室に入るための鍵は二つとも俺が所持してる」

 鍵を二つ取り出して、彼女たちの目の高さまで持ち上げる。

「マスターキーまでくすねたのね……一歩間違えば犯罪よ、あんた」

「ふっふっふ。犯罪か。確かにな。けどこの状況で犯罪が起きるということは、つまりだ……密室殺人だな!」

「いや、殺人は起きてないけど。それに犯人も自供してるしあんまり意味も無いわね」

 冷静な火ノ元のツッコミ。せめてもう少し悦に入らせて欲しかった。

「……かなわんなぁ、あんさんら。これやから東京もんは」

「似非関西弁を話したところでどうにもならない。それに、密室って言うけど、私がここの扉を開けたら全部おじゃんよ」

 と言って、水上が放送室の鍵に手をかける。が。それを俺が制止する。

「止めとけ。俺がどうしてこういう場を作り上げたのか、気にはならないか?」

「ならない」

 即答である。

「なら、どうしてここに来た?」

 そこで、水上はこちらを振り返った。

「それは……あんたが変なの読むからでしょ」

「変なのって、これだよな?」

 俺は小脇に抱えていた一冊の本、卒業アルバムを掲げる。

 それを見て、水上は鼻筋を震わせた。

「そうよ、それよ。よりにもよって、私の卒業文集を放送で読み上げたから来たのよ!」

「なら、もしもここでその扉を開けたら、俺はマイク室に立て篭もって、繰り返し繰り返し、今度は水上さんの名前付きで文集を読み上げてやる」

「鬼畜すぎるわ……この根暗っ」

 吐き捨てるように水上は言った。鬼畜で根暗とか、正に俺のことなので罵倒にすら値しない。

 肩を竦め、立てた親指でマイク室をちょんちょんと示す。

「とにかく、入ろうぜ」

 最後に小首を傾けて聞くと、水上は苦々しげに表情を歪ませた後、気持ちを落ち着かせるためにか溜息をついてマイク室の中へと移動した。

 俺は不安げな火ノ元にも目を向け、顎で中に入るように促し、ゆっくりとマイク室に向かう火ノ元の背を追った。

「それで、何であんなの読み上げたわけ」

 マイク室に入るなり、水上が開口一番に核心を突いてきた。

「もうちょっと情緒っていうのを大切にして欲しいんだが」

「うるさい。早くしろ」

 小生意気な女子高校生である。いつの日かひぃひぃ言わせてやるんだから。

 すると水上は目を細めた。殺気が篭もっている。

「ひぃっ」

 恐怖のあまり身を引いてしまう。

「下らないことを考えてそうな顔ね。あんまりふざけてると、私も怒るわよ」

「わ、分かった。分かったから威圧的にマイクスタンドを握らないでください、お願いします」

 仁王立ちしているその様も合わせて、ゲーム世界の三国志で触覚の目立つ人が連想されてしまった。

 ごごごっと漫画的な効果音と共に背後にどす黒い負のオーラを従える水上を、両の手のひらを突き出しながら宥める。

「まぁ、どうして水上さんの卒業文集を読み上げたかは後で説明させてもらうけど、とりあえず順を追って一つ一つ解説させてもらって良いかな?」

「解説? 誰に対してよ。私はそんなの求めていない。簡潔に纏めて」

「分かりやすい形での説明っていうのは、重要じゃないか? 特に、その真相を知らない人にとってはね」

 すると水上さんはたじろいだ様子を見せた。

「だ、だから、誰に対して説明するのって」

「そりゃ、一人しかいないでしょ。今、この場にはさ」

 そう言って、俺は正面に立つ水上から顔を背け、後ろへ振り向く。

「な? そうだろ?」

 俺が声をかけた先には、マイク室の入り口付近で立ち尽くしてずっと俺と水上の会話に口を挟まず黙し続けていた少女、火ノ元がいた。

「え?」

 火ノ元はきょとんとしながら、目を数度瞬いた。俺は緩く微笑む。

「火ノ元は、どうして俺がここに呼んだか分かるか?」

「えっ……それは、その、私に関係することがあるって、そう、言ってたから」

 火ノ元は訥々と、言葉を選ぶように喋る。仲直りさせてやると先日俺が言ったこと、忘れているとは思えない。本人を前にして口にするのが憚られているのであろう。

 俺は体の向きを変えて水上を見る。水上は一瞬びくっと体を震わせた。

「じゃあ水上さんは、どうだ? どうして俺が卒業文集を読んだのか、それにどうしてこの場に水上さんを留めようとしてるのか。それは分かるか」

「わ、分かるわけないじゃない。ただの愉快犯なんでしょ。しかも開票を目前に控えて、こんなことしでかして。ただで済むと思ったら大間違いよ」

 俺の発言に対して食い気味に返答する水上。表情は引きつっている。脅し文句を言っておきながら、自分自身の余裕が無さそうだ。

「後のことは後で考えるさ。とりあえず、そうだな。俺の驚きについて説明してやろう。この中学校のアルバム、実はとある筋から手に入れた物だったんだけど、開いてびっくりのなんの。俺が見知っている、それも最近になって接触する機会の増えた二人の意外な姿がそこにあるじゃないか」

 トントンと、栄一くんから借り受けた卒業アルバムの表紙を小突く。そして、アルバムを開いてパラパラと捲る。

「東雲第五中学校、三年二組の面々が映ったページ」

 一人ひとりが一枚ずつ撮られた写真が貼ってある。皆一様に笑顔だが、その中で二人の少女だけがつまらなさそうな顔をしていた。

 一人はおかっぱ頭にメガネ姿の火ノ元。顎を下げ、口を一文字に結んでいる。元々の小心者な性格が出ているようで、肩をキュッと細めて、上半身しかその写真には写っていないがきっと手元は膝の上に置かれているだろう。

 そして、もう一人が。

「火ノ元に、それに水上さん。二人とも同じ中学校に通ってて、しかも三年生の時にはクラスメイトだったみたいだな?」

 写真の中の水上はポニーテールで、睨みつけるみたいにしてカメラを見据え、そして唇はへの字に曲がっていた。

 二人の映った写真が掲載されているページを開いたまま反転させ、彼女たちに見せつけるように突き出す。

 水上は卒業アルバムを一瞥だけして視線を逸らした。

「だから何だって言うの? そんなこと貴方には関係ない」

「んで、俺はある予想を立てた。二人は実は仲が良かったんじゃないかって」

 水上が俺を鋭い眼光で射竦めようとしてくる。が、俺は笑みでそれをいなす。

「もう一回言うけど、貴方には関係がない。それに、勝手な憶測だわ」

「関係無いって言うが、俺は火ノ元とは小学校が一緒だった。あと、水上とは総目高校に入学して以来、同じ部活動で精を出した仲だ。今現在二人と同じ放送部に所属してることも踏まえれば、それなりに関係はあると思うぞ。少なくとも、そこらへんの奴らよりは縁がある。あと、憶測だけで語ってるんじゃない。証拠はある。だからこそ、縁がありつつ証拠も持っている俺だからこそ、お前らの関係に口を出そうとしてるんだ」

 俺は卒業アルバムを頭の高さまで掲げてニヤッと笑う。水上は未だに目を尖らせたままで、火ノ元はどうしていいのか分からないのか顔を動かさず視線だけを忙しなく散らしていた。

 と、水上さんがフッと息を吐いた。

「そこまで大見得を切るなら、証拠とやらを見せなさいよ。その高々とした鼻っ柱を挫いてあげるわ」

「証拠、か。二人が仲が良かったって言う証拠だよな? それなら簡単な話だ。当時の二人を知っている奴を呼べば良い……と言いたい所だけど、どうやら部員の栄一くん以外に二人と同じ中学に通ってた奴は総目高校にはいないみたいだし、だからと言って彼が語れる話なんてのはたかが知れてそうだ」

「でしょうね。少なくとも私は彼と中学で交流を持ったことが無い。初めて会話したのだって、総目高校の放送部に入部してからだわ。それも一言二言、ね。彼もいわゆるイメチェンってやつをしてたから、総目高校で見たときは誰だかも分からなかったぐらいだわ」

 両手を甲を下に向けたまま顔の高さまで上げ、水上は肩を竦めた。

「それで、話は終わり?」

「まさか。人がダメなら、物的証拠で立証するさ」

「物?」

 水上が眉をぴくりと動かした。俺は肯定の意を示すため頷く。

「火ノ元の家に、水上さんと火ノ元が並んで笑顔でいる写真があった」

 火ノ元と共に相合傘をして、彼女の家まで送ったときのことだ。あの時、俺は台所の窓辺に写真立てがあるのを発見した。そこに映っていたのは、肩を寄せ合いながら笑っている二人の姿だった。彼女達の関係を不審に思ったことの始まりはそこだった。

 だが、水上は「ハン」と鼻を鳴らした。

「下らない。得意げな顔して何を言うかと思えば、言うに事欠いて私と火ノ元が映っている写真があった? だから何だって言うの? そんなの証拠にはならない。偶然一緒に映ってるものがあっただけでしょう? それも、体育祭で偶々撮ったようなものを。それで証拠だなんて」

「体育祭? 確かに火ノ元の家で見たものは体操服を着た二人の写真だったけど、そんな偶々撮ったようなものの場所や行事をよく覚えてるな」

 水上は冷笑を止めた。

「まぁ、それはどうでも良いや。実際、ここにその写真があるわけでもないし、この話はあくまで少なくとも火ノ元は水上を特別視してるって話だ。んで、話は変わるけど、水上さんはいつからポニーテールを止めたんだ?」

「……そんなのどうでもいいでしょう」

「まぁ、それについては良いよ。んじゃあ、この卒業アルバムの写真を撮ってた時にしていたリボン。どこにやった?」

 水上はぎくりと肩を揺らし、俺を一瞥してきた。

「覚えてない。いちいちリボンの行く末なんて気にしないから。大方、捨てたんじゃないかしら」

「違うだろうな。捨てちゃいない」

 そこまで言って、そっぽを向く水上から火ノ元へと視線を移す。

「……総目高校で久しぶりに火ノ元を見たとき、色々と変わってて俺も少しばかり驚いてたんだ。メガネを外していたこともそうだけど、何よりも変わったと思ったのは髪形。そのツインテールだ」

 だから何なの。そう言われるかと思ったが、水上は口を挟んでは来ない。俺が言っていることが何のことか、思い当たる節があるからだろう。

 火ノ元はと言えば、顔だけを水上へと向けたまま、どことなく悲しそうに目を伏せていた。

「随分奇抜な髪型にして、様変わりしたもんだと思ってたんだけど、どうも違和感があったんだ。その理由は、左右異なる色のリボンをしていたこと、それに、長さも違っていたことだ」

 火ノ元の髪を結うそれは、右側は黒のリボンなのに、左のリボンは赤だった。それも、黒の方が数センチも長い。明らかにセットで購入したようなものではなかった。

「けど、この卒業アルバムの写真を見て納得がいった。水上のリボンを火ノ元がしていたんだってな」

「……仮にそうだとして、それもさっき貴方が言ったように、火ノ元が私を特別視しているだけって話でしょう? 私には関係ない」

「本当にそうか? 水上さんは、火ノ元を特別視していないのか? もう、どうでもいい存在だって思ってるのか?」

「え、ええ。そうよ。私は、彼女、火ノ元のことを――」

 そこで水上は火ノ元を見た。火ノ元は、今にも泣き出しそうな表情をしながら水上の次の言葉を待っている様子だった。

「っ」

 言いかけた言葉を飲み込み、水上は苦い顔をした。

「……とまぁ、確かに水上の言い分も一理ある。火ノ元が水上を未だに特別な存在として認識しているだけって話だからな」

 もう言葉を返す余裕も無いのか、項垂れながら水上は黙り込んでいた。

「だから、次は水上の番だ」

「わたし?」

「ああ。実は、だ。ちょっと言い辛いことではあるんだが、先日、水上の携帯を拝借させてもらってな」

「は、拝借? ……さいってい」

 吐き捨てるようにして言われた水上の言葉には、本気の侮蔑が篭もっていた。それだけのことなのだ。どれだけ言われても言い訳のしようもないだろう。

「んで、携帯の中身を拝見でもしようかと思ったんだが、暗証番号がかかっててな。調べられなかったんだ。それで、俺は手慰みに携帯のバッテリーを覆うパッケージを外したんだ。そこにはさ」

 そこまで言って、俺は一歩踏み出し水上に近寄る。

「え」

 水上は呆気に取られたようで、俺が近づいても即座に体が反応していなかった。その隙をついて、彼女のブラウスの胸ポケットから垂れていたキーホルダーを摘まみ、上へと引っ張る。そのキーホルダーの先には、携帯電話があった。

「あ!」

 水上が遅れて手を繰り出してくるが、虚しく空を切る。彼女はすかさず俺の持つ携帯電話へ手を伸ばそうとしてくるが、俺はその電話をポンと投げた。宙をくるくると回り、たどり着いた先は火ノ元だ。

 火ノ元は胸元目掛けて投げられたそれを両手でキャッチすると、困ったように俺を見てきた。

「ど、どうして」

「パッケージを開け。そこを見れば全部解決する」

「私のよ! 返しなさい!」

 火ノ元へと走り出そうとする水上の腕を掴み、引き止める。ぎろりと睨まれたが、反撃をさせる間も与えぬまま、もう片方の手も彼女の背後から掴み、マイクスタンドの前にあるパイプ椅子へと無理やり座らせた。

「女相手に力で屈服させるなんて、ろくでなしっ」

 身じろぎをして俺の束縛を解こうとしているみたいだったが、水上程度の細身の女の子がどうにかできるわけが無い。

「火ノ元、早くそれを開け。お前は望んでるはずだろう、仲直りを。そこを開いたら思い通りだ」

 俺の言葉を聞いて、火ノ元は無表情で携帯電話を眺める。

「こんなの、最低よ、本当……」

 水上も抵抗を諦めたみたいで、ぎりっと奥歯を噛み締めて顔を俯かせた。その水上の様子を火ノ元は見つめる。

「……どうすれば」

「悩む必要なんてない。開ければ全部分かる。水上が、どれだけお前のことを思っているか」

「……」

 もう水上は何も喋らなくなった。俺が手の力を緩めても、もう解こうとはしなかった。

「でも、私は」

 火ノ元の表情に変化があった。能面のような顔つきから、なにか躊躇うような強張ったものへ。

「四の五の言うな。開ければ良い。開けたら全部が終わる」

「……」

「開けたら、終わるの? 全部、何もかも?」

「ああ。終わる。火ノ元が望んだ結果になる。こんな、歪んだ関係とおさらばできる」

「……」

「本当? 本当に?」

「ああ。本当に。約束する」

「……」

 火ノ元はゆっくりと携帯電話を裏返し、カバーを見つめた。

「これで、終わるんだ」

 普段のお嬢様口調も忘れ、懐かしむような声でしみじみと呟き、動き出した。

 俺は目を閉じ、頷く。

「ああ。やっと終わる。俺が色んなところで情報を集めて、それで色んな場所を探し回って。東奔西走の果てにこうしてお前らを」

「これ、返す」

 声が聞こえ、パッと目を開けたら、火ノ元は水上へ携帯電話を差し出していた。

 ……本当、終わらせやがった。

 俺が開けて見せ付けるものでもない。火ノ元が見ないことを選んだのなら、もう俺がどうにかできることではないのだ。俺は水上の腕を放した。

「どうして」

 水上は消え入りそうな声で呟いた。信じがたいとでも言いたげに。

 それに対し火ノ元は、とても自然に笑みを浮かべ横へと首を振った。その様は、偽者のお嬢様ではなく、本物の淑女のように俺の目には映った。

「だって……水夏ちゃんが嫌がっているんだもん。できないよ、そんなこと」

「けど、こいつの言ったとおり、開ければ全部解決してたかもしれないのよ? それとも、やっぱり私と仲直りなんてしたくなかった?」

「違うよ、私は水夏ちゃんと仲直りしたい。けど、こんな形じゃあ嫌だった。もっと、ゆっくりでも良いから、きちんと仲直りがしたかったの。だから、水夏ちゃんが本当に私を許してくれるまで待つよ」

 そうして、火ノ元は椅子の両脇へ下げられた水上の両手を握り、膝の上まで運んでからその手元に携帯電話を持たせた。

「許すって、何を」

「水夏ちゃんは私のことを怒ってるでしょう。くよくよとしてて、女々しくて、泣き虫だった私を疎んでたでしょう? それで、中学三年生の終わりから、私以外の子と遊ぶ機会が増えて、疎遠になっていった。私が他の子よりずっとつまらない子だったから。だから、私、変わろうって思ったの。水夏ちゃんに見合うような女の子になって、それで、また友達になってもらおうって。そのために、髪型を小学校の頃に憧れていた月島さんと似たものにして、話が合うように水夏ちゃんと同じ放送部に入って、喋り方も変えてみて」

 頑張りのベクトルが明らかに違う気がする。だが、それが火ノ元らしいと言えばらしいのか。

「……でも、どれも失敗だったみたいだね。いっつも水夏ちゃんを不機嫌にさせてた。ちょっとでも構って欲しくて、わざと反発するようなことをしたりもしちゃってたのがいけなかったのかな。今回のアンケートも、正直何でも良かったの。あえて、水夏ちゃんと反対の立場に立ってみたかっただけだから」

「何よ、それ」

「ごめん。やっぱり、めんどくさいよね。……けど、寂しくて、辛くて、もうどうすることもできなくて。少しでも、水夏ちゃんと接する機会が欲しかったの」

 涙声を混じらせ、瞼を擦りながら、それでも火ノ元は健気に微笑み続ける。

「でも、もう終わらせる。こんな変わり方は止める。もっと、ちゃんと水夏ちゃんが振り向いてくれるように頑張るから」

 そう言って火ノ元が立ち上がりつつ、頬から顎にかけ一筋、涙を滑らせた瞬間。

「……待ちなさいよ」

 ずっと俯いていた水上がスッと顔を上げて呟いた。

「え」

「自分だけ散々言って、それで満足したように去ろうとするなんて、何よそれ」

「ご、ごめんなさい」

「謝んないでよ。……あー、もう」

 すると水上は立ち上がりながら携帯電話の裏を弄りカバーを外すと、カバーの裏面を火ノ元へ見せ付けるように持った。そのポーズはまるで悪人相手に印籠を出す黄門様のようだが、その表情はとても気恥ずかしそうだった。

 眼前に晒されたそれを見て、火ノ元は食い入るようにして見入った後、水上の顔を見据えた。

「え。これって」

「そ、そうよ。貴方と……灯火と二人で撮ったプリクラよ。女々しくもずっと貼ってるのよ。文句ある?」

 そこで俺の脳裏にとある単語が浮かんだ。ツンデレ。水上は正にツンデレのようだ。

「どうしてなの?」

「それは、私も、ずっと仲直りをしたいって心の底では思ってたから……それに、私だけこんなこと思ってるって悟られたくなかったから、見えないような場所に貼ってたのよ」

「私だけって。私はむしろ中学の頃から水夏ちゃんに嫌われたと思ってて」

「し、仕方ないでしょうっ。あの時は……灯火のお父様が亡くなられて、そっとしておいてあげようって思ってたら、急に様変わりしちゃってて。いつもだったら私の後を追いかけてきてたのに、何だか寂しくなっちゃって、それに、すごく可愛くなっちゃったから、周りに男ばっかりいたし、近寄りがたかったっていうか……あー、違う、全部私がいけない、ごめん」

 頭をぶるぶると振ってから、水上は頭を下げた。が、慌てた素振りで水上の顔を火ノ元は上げさせた。

「顔を上げてよ、私だっていけないんだから。水夏ちゃんが男の人嫌いだっていうのを知ってて、それでもこういう風な状態にして。少しでも華やかになったら、水夏ちゃんが振り向いてくれるって思ってたから」

 水上は面を上げてから少しして、ポツリと語りだした。

「実はね。私が男を嫌いになった理由って、灯火にあるんだ」

「え?」

「いや、言い方が悪いわね。中学の頃の灯火に対する仕打ちを見て、男が嫌いになったの。特に貴方、物静かだったから、男子が何かを悪戯とかしても黙ってたでしょう? そういうのを見てね、男なんて最低だって思ってたの。……まぁ、全員、それなりの報復を私がしたら、その後は灯火にちょっかいかけていなかったみたいだけど」

 最後にクスっと笑う水上。ちょっぴり怖いです。

「そんなことしてくれてたの?」

「まぁ、私自身が気に入らなかったからしてただけだけどね。例え相手が灯火でなくても、同じ行動を取ってたわ」

 何の意図かは知らないが、水上が顔を横へ向けて横目で俺を見てきた。何だか命の危険を感じてしまい、視線を逸らす。

「ともかく、灯火。仲直り、してくれない?」

 言って、水上は手を差し出した。火ノ元はその手と水上の顔を交互に見やる。

「……良いの?」

「ええ、むしろお願いをしたい」

「私、相変わらず泣き虫だよ?」

「良いじゃない。私が泣かない分、貴方が泣くほうが均衡が保てる」

「私と一緒にいると、お友達減るかもしれないよ?」

「そんな薄情な友達はいらないわ」

「私の周りって、変な男の人ばっかりだよ?」

 自覚してたんですね。

「それは、ちょっとご遠慮願いたい……ところだけど、我慢するわ。灯火と仲直りしたいから」

「水夏、ちゃん……」

 そろそろかな。

 涙の沸点を超え、ぽろぽろと頬を伝わせながら差し出された手を握り返す火ノ元を見てから、俺はマイク室を出て行った。

 ……いやはや、詰んだなぁ。

 我ながら無茶なことをしたものだ。

 調整室に入って、まずデスクアンプのとあるスイッチを切った。それは、マイクと繋がったものだった。つまり、今までの彼女達のやり取りは、マイクを通じて、スピーカーを介し、全校生徒にだだ漏れだったということ。もちろん、計算ずくである。はなから、彼女たちの会話を聞かせる気だったからだ。

 火ノ元なら、携帯のカバーを外さないだろうという予想があった。その上で、俺が悪役を買って出ることで、彼女達の関係を修復させ、そして何より、全校生徒にそれを聞かせて、アンケートをうやむやにしてしまおうという目論見があった。

 無論、これだけでアンケートが中止になるかといえば、それは半々どころか、むしろ可能性で言えば低いものであるのは承知している。だが、彼女達の仲直りを聞かされ、それからアンケートの開票が開始となれば、聞き手の心情は変わってくる。特に彼女達が一番票数を集めてはいけないという場面だったのだ。仮にそうなってしまった場合への保険がこれだ。勝ち負けに拘らない状況を作り上げるのが魂胆だった。

 このまま水上や火ノ元が一番になったとしても、それは美談で終わるとの予想がある。そして、外野も口を出しづらい環境になる。勝利したからシュプレヒコールをあげるなんて無粋な真似をする輩は少数だろう。したがって、どちらが勝利しても勝者にも敗者にも分け隔ての無い拍手が惜しみなく送られるだろう。

 そうなれば、後は簡単。二人は仲直りをした。にも関わらず、勝者が早速敗者に無理を強いる状況になるとは考えにくい。互いに相手を思いやり、折衷案などが議論されることにある。つまり、話し合いの場が設けられ、そこでこれからの放送部のスタイルをどうするのかを決める。初めに月島さんに依頼されたものだ。話し合い、分かり合いたいという彼女の希望を、俺ができる限りの最良の策でもって叶えられるように奮闘した。

 ……ただ、この状況において、唯一悪の存在である俺は、断罪されることだろう。

 放送室を占拠したこともそうだし、その行為自体が二回目というのも注意で済むものではなくなったということ。それに、火ノ元へ悪魔の如く甘言を告げたのもそう。

 規則を破り、物を盗み、知人の信頼を裏切り、間違った行為へ他人を誘おうとし。

 一般生徒は元より、教職員、それに放送部の面々からも嫌われるような行動を取った。味方なんて、もう誰一人として残っていないだろう。

 窓辺へと寄り、景色を眺める。

『今だとみんなギスギスしちゃっているけど、昔はそんなことはなかった。一緒に遊びに行ったりもしたし、放送が終わってから違う曜日の人も交えて、宿直の先生に怒られるまで放送室の中で他愛も無い話をしてた』

 ふと、月島さんが以前に言っていた言葉が蘇った。

『笑顔が絶えなくて、すごく心地よくて。きっとそれは皆の人柄が雰囲気に表れてたからだと思うんだ。だから、皆分かり合える。悪い人なんていないんだから、昔は分かり合えていたんだから、絶対に話せば解決する』

 俺は、彼女のその言葉に心が突き動かされた。何故なら、俺も半年前にその感情を、その考えを持っていたから。

 楽しかった。ただただ楽しかった。その言葉に尽きる。彼女ほど社交的じゃなかった俺ですら、そういう感想を抱いていたのだ。よっぽど、ここの居心地が良かったんだろう。

 だからこそ、俺は身を挺してでも、その雰囲気を守りたかったのだ。綺麗事みたいに聞こえるかもしれないが、これは本音だ。

 けど、こうして半年前には見慣れてた放送室からの景色も、この先は二度と見ることは叶わないだろう。それぐらいのことをしたんだから。

 むしろ、もう見ることは叶わないと思っていたのに、チャンスを与えてくれたこと。それに感謝の念を禁じえない。最後に夢を見せてくれた彼女に。

 窓に反射して映った俺の顔は、どこか晴れ晴れしくも見える。そして、唇が動いた。

「ありがとう、月島さん」

「え?」

 ……え?

 なんだ今の声。このセンチメンタリズムに浸っている場面にすごく似つかわしくないのが聞こえた。心なしか雰囲気がガラッと変わってしまった。

 すると、ぽかんとしていた俺の目の前に、ぬっと何らかの触覚のような物体が現れた。窓の向こうで、下から上へとゆっくりと浮上してくる。

 触覚だと思っていたのは髪の毛で、ツーサイドアップの彼女がそこにはいた。

「呼んだ?」

 可憐な声。ぱっちり二重瞼がぱちぱちと瞬いている。

「な、なにしてるの?」

「あ。ちょっと待っててね。直ぐ終わるから」

 再度、月島さんはひょいとしゃがみこんだようで姿を消した。からんころんと金属が擦れ合う音が聞こえる。……嫌な予感がする。

「……」

 月島さんは立ち上がると、手を横へ小さく払いながら「ちょっとどいて」というアピールをしてきた。指示されるまま、俺は後ろへ退く。と、月島さんは手を上げた。その手には、一本のトンカチが握られていて。

「ふん」

 何の迷いもなくそれを窓へと振り下ろした。ガシャンと音を立てて崩れ落ちていく窓の破片が、床へと落ちてパラパラと細かく砕けた。

「あ……あ……え?」

 夢。そうだ。これは夢なのだ。でなきゃおかしいだろ。何故に総目高校ナンバーワンの美少女と称される月島さんがトンカチで窓を割るんだ。いきなり尾崎にはまったなんてのも考えられないだろうし、あり得ない。

 呆然とする俺をよそに、月島さんは窓の割れた部分から室内へと手を伸ばし、窓の鍵を開けた。そのままガラリと窓を全開にして、予め持ってきていたのであろう脚立を踏み台に放送室へと侵入してきた。が。

「と、っとと」

 床へと着地した際に勢いあまって、体勢を崩してしまった。床には窓の破片が落ちている。俺は咄嗟の判断で、彼女の腰へ手をやり身を寄せさせる。

 丁度抱きしめるような格好になってしまった。月島さんの体と俺の体の間に、彼女の手が挟まれている。

「……」

「……」

 互いに無言のまま見つめあい、そして、ほぼ同時に顔を真っ赤に染めると、俺は彼女を支えていた手を慌てて離した。

「ご、ごめん」

「う、ううん。こっちこそ、ありがとう……」

 月島さんは自分の体を抱きながら、上目遣いで俺を見てきた。

 ……めっちゃ可愛いんですが。むしろもう一回抱きしめたくなるんですが。

 月島さんの柔らかな感触に恍惚とすらしてしまっていた俺であったが、後ろを振り向くと彼女は消えていた。

 次いで、声が聞こえた。

「あーあー、全校生徒の皆さん、こんにちは。いかがでしたか? 総目高校放送部製作のラジオドラマは。突然のことで驚かれた方もいらっしゃるでしょう。今回はこうしてサプライズとしてお送りしましたが、好評であれば次回も続けていきたいと思います。その他、ご意見ご要望等がありましたら適当な紙に記入の上、是非放送室前に置かれている投書箱に入れてください。皆さんのお声が、総目高校放送部の糧となります。以上で放送を終えます。ラジオドラマを担当したのは、火ノ元灯火。水上水夏。土田夕日でした。それでは、また」

 気づけば、月島さんはデスクアンプに設置されていた簡易マイクに喋りかけていた。あまりにも自然に、滑らかな口調だったため、普通に聞き入ってしまった。

 プツンとマイクのスイッチが切られても、どういうことなのかが理解が追いつかない。

「……なんで」

「なんで、じゃないでしょ」

 月島さんはプーッと頬を膨らませてきた。まるでリスが口内に食物を溜め込んでいるようである。

「なんでだよ。あのまんまいけば、月島さんの願いどおりになったでしょ? 前のような放送部に戻れたでしょ?」

 憤りではない。怒るなんて、俺の立場からすれば勘違いも甚だしい。だが、やる瀬の無い思いをどこかで抱えていた。

 俺はヨロヨロと歩きながら、破片が散らばった床の上、窓辺に腰を預け天井を仰ぎ見る。

「大体、そんなことをしたところで意味はないよ。放送部を占拠したことに変わりはないし、一人で放送をしたことも変わらない。しかも、学校のマスターキーまでくすねた」

 犯罪擦れ擦れの行為をしたのだ。それが覆ることはない。

 だが、存外に軽い口調で月島さんは「あー」と言った。そして、クスリと笑う。

「まず、これは占拠じゃなくて、演出の一部だった。扉の鍵を閉めたのも、職員室と放送室に通じる扉を封鎖したのもそう。それに、マスターキーは偶々持っていただけ。そこに恣意性は無かった。それと、放送を一人でしたって言うけれど、結果として私や水上さんに火ノ元さんもここにはいた。一人じゃないでしょう?」

「そんなの屁理屈だ。認められない」

「それを判断するのは土田くんではないわ。占拠かどうであったか、それにマスターキーを盗んでいたのかどうかは、教員の皆さんが判断してくださる。それに、放送を一人で担当してはいけないっていうのは、あくまで総目高校放送部の規則。それに反していたかの判断は、金井部長に一任されてる」

「本当は罪を犯していたとしても、それが白日の下に晒されなければ罪にならないとでも?」

「ええ。その通り。むしろ、今回の出来事ぐらいで罪になるんなら、この世の殆どの人は咎人じゃない?」

 窓ガラスを平気で割った人は流石言うことが違う。

 だんまりとしてしまう俺を見かねたのか、月島さんが優しい声色で話しかけてくる。

「これだけは分かってて欲しいの。自分ひとりが不幸になるなら構わないって思ってるなら大間違い。土田くんは私のために今回のことをしでかしたんじゃないとしても、私は貴方が罪を背負ったら後悔する。それこそ、一生ものの後悔を。それは、土田くんも望んでいないでしょう?」

「……」

 言葉を返せなかった。人間の心情において何が正解で、何が間違いかなど、机上で教科書を広げていれば解けるような問題じゃない。

 ただ、もしも俺が月島さんの立場だったらどう思うか。それを想像して、やっぱり口を噤むことしかできなかった。

「自分を、もっと大切にして? お願い」

 かたりと音が聞こえ、顔を天井から正面へと向けると、月島さんが目の前に立っていた。真摯な瞳で俺を僅かに見上げていた。

 俺はゆっくりと、視線を下げながら、項垂れるようにして頷いた。










 ……これで終わり。だったら、ある意味大団円だったんだろう。だが、そうは問屋が卸さないのだ。

 月島さん、火ノ元、水上、そして俺の四人で一先ず体育館へと移動した。もう既に時計も四時を指していて、生徒の数も疎ら……だろうと予想していたのだが、俺は見くびっていたらしい。ここの生徒達が放送部に賭ける思いを。

 学生服に身を包んだ数百人の生徒達が体育館にいたままだったのだ。熱気が凄い。俺はどうでも良かっただろうが、俺達が体育館に入った際の歓声はちょっとした地響きを起こしていたぐらいだ。

 それには月島さんと水上も流石に驚いていた。火ノ元だけは何故か高笑いしていた。俺は当然ほとほとに疲れきっていた。

 体育館の壇上には金井部長と木戸が立っていて、俺達の姿を見つけると金井部長は満面の笑みを浮かべてぶんぶんと手を振ってきていた。ちなみに木戸はこっくりこっくりと船を漕いでいた。

 放送室からやって来た四人で壇上へと向かう。どうやら、もう既に開票作業は終わっていたみたいで、後は結果発表待ちだったようだ。

「私、水夏ちゃんにも負けないからね」

「私だって灯火には負けないわよ?」

 静かに闘志を燃やす二人の少女。せっかく彼女達が勝ってもつつがなく事が運ぶようにしたのに、どうしてだろう、彼女達はより一層戦意を高めていた。

「どうするの、二人が勝ったら話し合いとか無くなるかも知れないよ?」

 横並びで壇上へと歩く月島さんに囁きかける。月島さんは前の二人を見て、噴出すようにして笑った。

「良いと思うよ、私は。これも、らしいって言えばらしいから」

「あ、そう……」

 どうして俺って月島さんから依頼されたんでしょう?

 と、月島さんが俺の顔をマジマジと見てきた。

「な、なに?」

「……うーん。私が土田くんに放送部をどうにかしてほしいって頼んだ理由、教えてあげようか?」

「まさか、顔に出てた?」

「出てたった言うか、何となく分かったかな」

 さすがコミュ能力の高いお人である。尊敬に値する。なりたいとは思わないが。

「是非教えてください」

「正直でよろしい。土田くんに頼んだ理由はね、あの日説明したように、土田くんが条件に一致していたからって言うのもあるんだけど、何より一番は――」

「ほら、月島、早く来なさい。直ぐ発表するらしいから」

 前を進んでいた水上が急かすように声をかけてきた。

「あ、うん。分かった」

 そう言って、月島さんは駆け足で壇上へと向かった。

 はぁ、結局聞けずじまいか。

 と思っていたら、月島さんが足を止めて、振り返ってきた。そして。

「一番の理由は、土田くんに放送部に戻ってきて欲しかったからだよ」

 言うだけ言って、月島さんは壇上へと上がった。

 ………………はっ!? 今十秒ほど思考を停止してしまっていた。危ない。昇天するところだったぞ、今のはマジで。

 あんな可愛い子にそんなこと言われたら、誰だってこうなってしまうだろう。

 と、いつの間にか頬がだらしなく緩んでいてニヤニヤとしてしまっていた。揉み解しながら、それでもムフッと笑ってしまう。……だが、横から月島シンパであろう集団から殺意の眼差しを向けられていることに気づき、俺は表情を凍らせながら壇上へ上がった。

 壇上には既に全曜日の放送部部員が立っていた。それぞれの曜日ごとに、パーソナリティーを先頭に立たせて五列で並んでいる。

 俺はどうすれば良いのだろうか、と思っていたら、副部長に手招きをされた。

「君は一応僕の代わりとして月曜日を担当することが濃厚だろうから、ここで良いよ」

 と言って、列の一番後ろに立つ副部長が半歩横へと移動してくれた。なんてお優しいんでしょう。俺が女だったら惚れてる。

 ふと前へ目をやると、十六夜さんがニヤッと笑いかけてくれ、どうしてだかサムズアップしてきた。多分「これからよろしくな!」的なアピールなのだろう。サムズアップは恥ずかしかったので会釈で返すと「つまんな」と言葉通りに白けた顔をして正面を向いた。この人はあれだ、正にデレツンだ。

「それでは、時間が押してますので早速ですが、投票結果を発表します。どの曜日が一番皆さんから人気を得ているのか。その一位の曜日を読み上げますね」

 部長がマイクを使い喋りだした。サーっと喧騒が引いて静かになる。

 一位、か。俺の本命は勿論月島さんである。次点で火ノ元、そして水上。

 個人的に推したいのは金井部長だが、今時の若い奴らは年下好きだと聞く。その点では分が悪そうだ。なら木戸が人気を得るのかと言うと、応援団のゆるさを見てしまってからは彼女が勝つビジョンが見えなかった。

 三つ巴。誰が勝ってもおかしくはない。これからの放送部を牽引していくと言って過言のない人物が、今決まる。

 気づけば鼓動が胸を大きく、そして早く叩いていた。

 そんな、この場にいる誰しもが感じているであろう緊張感を共有しながら、次の部長の一言を待った。

 金井部長は生徒会の人から渡された手紙を広げ、それを読み上げる。

「今回のアンケートで一位を獲得した曜日は――」


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