イライラウェンズデー

 まさか、そんな事実が隠されてたなんて。昨夜は終始驚きの連続だった。何が驚きって、アルバムを手に持ち、開いた瞬間にそれは起きた。

 携帯がバイブしたのである。アルバムを一旦閉じ、携帯の画面を見れば、木戸からのメールだった。

 俺が彼女に返信して二分ほどだ。一言二言の内容だと高を括っていた。なのに、メール画面を開いてみれば、一回目に木戸から送られてきたものと同等どころか、少し多いぐらいの文章量だった。戦慄が走った。俺の打ち込むスピードの数倍も早いということだ。タイピングスピードは推測で一秒に三回。え、今時の女子高生はこれぐらい当たり前なんですか?

 そのまま返信をせずに放置しても良かったのだろうが、総目高校で皆から憧れの的となっている木戸からのメールなのだ。しかも俺との初メール。着信して直ぐに返信したとしても彼女からすれば遅いだろう。故に、俺はアルバムを開くことなくすぐさま返信作業に取り掛かったのだが、メール打ち込み終え送信した後、額から落ちる汗を拭って一息ついてから再度アルバムに手をかけた時、また携帯がバイブした。

 いや、そんな馬鹿な。

 などと思い、メールを見てみれば、案の定木戸からのメールで、その上前回の文章量を凌駕する内容。

 ……あとはもうエンドレス。もう内容なんて覚えてない。ただひたすら文字を打ち込み続けた記憶しかない。もう暫くメールなんて見たくない。結局、最後には木戸から「もう寝るね。ばいばい、また明日」とメールが来て、安心感から全身の力が抜けて眠りに落ちた。

 つまり、アルバムは見れなかったと言うこと。別にもう改めて見るようなものはアルバムには無かっただろうが、それでも少し胸につっかえを感じるのは事実。今日学校から帰ったら、今度こそアルバムをきちんと見よう。

 ……覚えてたら、だけど。なんてったって、今日もやることは山積み。しかも一大イベントは朝一に起きるわけで。

「はぁぁ……」

 家を出たときから溜息は絶えず、学校に辿り吐いてからは息を吸った記憶すらなかった。新人類ここに爆誕。

 嫌なことが目前に控えると、時間の経過が早々に過ぎていくのは世の中の常だ。だからこそ、気づけばもう『放送室』と銘打たれたプレートが張られた扉の前で立ち尽くしていた。

 水曜日の放送部。先日、俺の仮入部が決定したときに居合わせていなかった面々だ。月島さんが言うには、何かを『こじらせた』らしいが、風邪だろうか。健康を考えてネギでも買ってくれば良かったかな。「首に巻いてね」とか言ってね。笑顔でぶっといネギ持参してね。って何だよそれ。ちょっとした変質者だな、おい。

「はぁぁぁ……」

 何が億劫って、一から事情を説明しなきゃいけないこともそうだが、一番の不安要素は水曜日の放送部には女子しかいないことなのだ。

 水上水夏をパーソナリティに据え、スタッフ二人もまた女子。女三人寄れば姦しいわけで。そこに男子が加われば蚊帳の外状態になるのは必然。それが俺の足取りを重くしている一番の要因だ。

 時刻は午前八時前。木戸からの情報通りなら、もう中に部員もいることだろう。ドアノブを握り、捻ってみれば、やはり鍵はもうかかっていなかった。

 このまま、うだうだとしてばかりもいられない。月島さんからの依頼は、火ノ元と水上の両名を説得して欲しいというものだったからだ。今回の件のキーパーソンが水上ならば、この先も接する機会は嫌と言うほど増えるかもしれない。アンケート止めようぜ、と言って二つ返事で「いいよ」とでも言われない限りな。

「そんなことないですよねぇ」

 テンションだだ下がりの中、部室の扉を開く。

「おはようございまーす」

 一応声をかけながら中に入るが、返事はない。それに、話し声も聞こえない。席をたまたま外してるのだろうか。

 リノリウムの床を歩く俺の足音だけが響く。が。マイク室の扉の前を超え、調整室へ入る手前で微かな物音が耳に届いた。何か、紙が擦れる音だ。誰かいるのだろう。一人か、あるいは複数か。

 改めて気持ちを引き締めつつ、調整室へと足を踏み入れた。

「……」

 窓から差す明かりにより宙に浮く埃がきらきらと輝く中、制服に身を包んだ少女が一人、調整室のパイプ椅子に折り目正しく腰掛け本を読んでいた。

 前髪が垂れていて目元は伺えないが、僅かに見える口元は綻んでいる。肩に少し触れる程度の後ろ髪は、細い首筋に沿う形で流れていた。

「あのぉ」

 高めの声色で話しかける。……反応なし。ページを捲る手は止まってないので、寝てはいないだろう。真剣に本を読み耽っているから、周りの雑音を遮断しているということか。

 そこまで熱中できる本とは何なのか。些細な興味心が沸き起こる。俺はつま先を立てると、その本を上から眺めた。どうやら漫画のようだ。二人の登場人物が何か喋っているらしい。目を凝らし、その会話を黙読する。

『あぁ、太郎。だめだよ、こんなところで』

『何言ってんだよ次郎。こういうのが興奮するんだろ? ほら、お前の竿は正直だぜ』

『あ、あぁ、ダメだ、本当にダメ、あ、き、汚いだろそれは、そんなモノをくわ――』

 怖気を感じ、そこで一歩退いた。なんだ、何を読んでるんだこの子は。つか太郎と次郎とか、兄弟かよ。色んな意味で問題あるだろ。

 俺の知らない、というか知りたくない世界がそこには広がっていた。半裸の男二人が、夕暮れの教室の中上気した顔で語り合ってるとかヤバイだろ。どれだけ異常事態なのか、ちょっと試しに俺と赤井君で想像してみる。

『デュフ、土田くん、だめだよ、こんなところでwwwwwww』

『いつもよりアルファベットが多いな赤井。やっぱこういう攻めが大好きなんだな? ほらほら、お前のゾウさんもぱおんぱおんしてるぜ』

『デュフフフwwwwwダメwwwww本当にwwwwwwふぁ、ふぁあああああああああwwwwwww』

 おい、なんで俺がノリノリなんだよ。しかも赤井の反応、字面だけ見たら意味不明だろ。何でこいつこんな笑ってんだよ。

 そんなストーリーを目の前の少女は笑みを浮かべながら読んでるのだ。にわかには信じがたい状況である。

 自分で想像しておきながら、気分が悪くなってきた。ふらっと立ちくらみまでしてきてよろめく。と、足に機材が触れ物音がした。瞬間。

「っ!」

 世にも恐ろしい読み物を熱中して黙読していた少女ががばっと顔を上げた。勝気な印象を受けるやや釣り目がちな瞳には俺が映っている。

 彼女の顔には見覚えがあり、その名もまた記憶にあった。

 水上水夏。水曜日の放送でパーソナリティーを務める少女。つまり。

「き――」

 俺がどうにかして、説得をせねばならない依頼対象の人物だった。

「きゃあああああああああ!」








「皆さん、おはようございます。七月十一日水曜日。朝の放送の時間です。

 七月十一日は、国民からの人気が高かった財務大臣のニッケルをマリーアントワネットが罷免した日で、そのことが発端となりフランスの各地で農民主体の暴動が起き、フランス革命にまで発展することとなりました。後に、フランス革命戦争が正式に開始された日も、ニッケルが罷免されてから丁度一年後の七月十一日なので、フランス国民からすれば特別な日であることは間違いないでしょう。

 マリーアントワネットと言えば『パンが無いなら、ケーキを食べれば良い』と言った旨の台詞を連想する方も少なくないでしょうが、これは色々と間違いがあるようです。

 まず、ケーキを食べれば良いの部分ですが、ここはもともと『ブリオッシュを食べれば良い』だったそうです。この言葉が日本に伝わるまでの間に、分かりやすい名詞としてケーキに変更されたのでしょう。

 ではこのブリオッシュ。皆さんは思い浮かべられますか? ブリオッシュは乳製品をふんだんに使い、特にバターの香りが強いパンの一種です。サクサクとした触感や、噛み締めるたびに口の中いっぱいに広がる風味など、上品な味わいが特徴です。

 しかしながら、マリーアントワネットが存命だった頃、このブリオッシュと言うのは現在の形とは少し違ったようで、そこまでの贅沢品ではなかったそうです。とは言え、普通のパンよりは値が少々張るのは事実です。もちろん、ケーキなどの菓子の方が値は張りますが、それでも国民感情からすれば世間知らずのお姫様と愚弄されてもおかしくないでしょう。

 しかし、当時のフランス法には、パンの供給が難しい場合にはブリオッシュの値を下げて販売するように、という法律がありました。

 つまり『パンが無いなら、ケーキを食べれば良い』。これは、パンの供給が難しくなった時に『ブリオッシュの値を下げるように』と、法律に倣い命令を下した際の台詞だったと考えることができるのです。

 そして、そもそもこの言葉自体、マリーアントワネットが言ったかどうかすら疑わしく、情報操作がなされていたのではないかというのは有名な話です。

 高慢で世間知らずな女性だったのか。はたまた周りに翻弄され続けた悲劇のヒロインだったのか。

 まだ確定的な証拠は出てきていませんが、近い将来何らかの新事実などが発見されるかもしれませんね。昨今の科学の発展は目覚しいものがあり、不可能だと考えられていたものも可能になってきていますから。

 ただ、それに付随して、科学の進歩に際して、様々な弊害があるのも事実です。

 全てをひっくるめて科学の発展がいい事なのか悪いことなのかは別にして、仮にこのまま科学が著しく進歩した場合、守らなくてはいけないものがあると私は思っています。

 慣わし、しきたり、風習。言い方を変えれば、文化ですね。

 文化をどのようにして守っていくのか。世界がこれからに向けて一番に考えなくてはいけない分野はそこではないでしょうか。文化と科学は二律背反と言って差し支えのないものですから。

 利便性ばかりを追い求め、文化を蔑ろにすることが正しいことでしょうか?

 楽ができれば良い、汗を流さなければ良い、ただ楽しければ良い。……最も馬鹿馬鹿しい考え方ですね。

 皆さんがいかにこれからのことを考えていらっしゃるのか。アンケートなどでいつの日にか尋ねてみたいものです。

 と、今日の朝の放送はこれにて終了です。

 教員からの伝言はありません。熱中症には気をつけましょう。

 それでは、担当は青井、雪白、水上の三人でした。またお昼の放送でよろしくお願いします」











「いやー、水夏っち良かったよー。今日も完璧だったね!」

「小海と魚姫のおかげだよ。私一人なら全然」

「いえ、私達ができることなんて限られているから、やっぱり水夏の頑張りがあってこそよ」

「もう、そんなおだてないでよ。何も出ないよ?」

「えー。ちょっと期待してたのにー」

「何よそれ! 小梅ー?」

 きゃーきゃーきゃっきゃうふふ。目の前で三人の少女が和気藹々と談笑している。対して俺は。

「……」

 置物ですわ。直立不動で調整室とマイク室を隔てる壁の上部に取りつけられた時計の針を見つめ続ける。放送室に入って、かれこれ二十分は黙り込んだままである。

 だってだって、だってさーあ? 皆で俺を無視するんだよ?

 青井さんが放送室にやってきた時もそう……。

『水夏っち、おっはよー』

『うん、おはよう小海』

『あ、えーと、青井さんだっけ? 先日から放送部に入部した土田夕日です。よろしく』

『え、ああ……んでさぁ、水夏っち、昨日貸したCD聞いてくれた?』

『……』

 ……。

 雪白さんが放送室にやってきた時もそう……。

『水夏、小海、おはよう』

『おはよう、魚姫』

『魚っちおっはー』

『あ、雪白さんだよね? この間から放送部に――』

『どうしたの二人とも? 何だか盛り上がってるわね?』

『そうなんだよー、聞いてよー。昨日水夏っちにCD貸したのにさー、水夏っちったらー」

『……』

 そりゃもう話すことを諦めますよ。喋らぬこと山の如しですわ。放送中も放送中で、まさかの三人してマイク室に篭もるなんて荒業を見せてくれるしね。まぁ確かに事前に調整さえしてれば、マイクのスイッチオンオフも中でできるから大丈夫と言ったら大丈夫だけど、それでも俺だけぽつんと取り残していくのはどうなの? ここまでくると清清しさすら感じる無視っぷりですよ。え、もしかして僕、変なクラスに入っちゃってて知らないうちに『いないもの』として扱われる対象になっちゃってる? 俺と話すと不幸な出来事が起きちゃうとか思われてる? 本気で疑うレベルなんだけど。

「それじゃ、もう行きましょう、二人とも」

 雪白さんの声を聞き、話を切り上げて荷物を持つ青井さんと水上さん。その中に俺が含まれていないのはどうしてなんでしょう。やはり『いないもの』だと思われてる? 義眼は元より青い瞳もしてなければ眼帯すらしてないよ、俺。

「うん、いこいこー」

「忘れ物ない? 大丈夫?」

 最後に確認を取った水上さんが、漸く俺へ目を向けた。あ、忘れ物ですか俺。忘却の彼方にジャイアントスイングかましてましたか。

 と思っていたら、水上さんったら鼻筋をぴくりとさせて汚いものでも見るかのように目を細めてからそっぽを向いた。すごい。ウチの妹の上を行く程の俺への冷遇っぷりだ。

 こんな謂れのない仕打ちを受けるようなことをした記憶が無いのに、何故。

 ……と、そうでもないか。思い当たる節は、あるにはある。きっとあれだ。俺が先ほどここで顔を合わせた時のことだ。改めてそれを思い出す。

「きゃあああああああああ!」

 絹を裂くような悲鳴を上げた彼女は、読み耽っていた漫画本や辺りにあった備品やらを投げつけてきた。

「い、いたい! 痛いから! ただただ単純に痛いから! おうふっ。みぞおちに、マイクが……」

 なすすべも無く地に伏すこととなって、やっと猛撃は止んだ。ぴくぴくと打ち上げられたマグロのように痙攣していると、早い吐息が聞こえてきた。

「だ、誰よ、あんた」

 せめて物を投げる前にそれを問いかけて欲しかった。

 よろよろと立ち上がり、軽く制服に付いた埃を払う。そのついでに、床に落ちていた物も拾った。

「俺は、土田夕日。今度から放送部に入部することになったから、一学期の間は毎日放送部に顔を出してるんだよ……はい、これ」

 すると水上さんは合点がいったように小さく頷いた。

「あぁ……そういうこと。あ、どうも」

 俺が差し出した物を受け取り、そこで固まる。手元に伏せていた目を上げ、俺を見てきた。

「……まさか、これ。見た?」

「ん? ああ、見たな。半裸の男がまぐわってたな」

 俺が手渡したのは先ほど水上さんが読んでいた漫画本だった。多分彼女の私物であろうものを、善意から拾ってあげたわけである。

 だが、なぜか水上さんはわなわなと肩を震わせ始めた。

「み、みみ、見た、ですって……!」

「ああ。見た。半裸の男が――」

 難聴なのだろう。人のそう言ったネガティブな身体的特徴を突っ込む気にはならなかったので、再度同じことを言ってやろうとしたところ。

「あうっ」

 叩かれた。相変わらず上半身裸の太郎と次郎が身を寄せ合い熱っぽい視線を絡ませている表紙の漫画本で頭を叩かれた。

「なんで! どうして! 見たの! よ! 一声! か! け! な! さ! い! よ!!!」

 連打連打、怒涛の連打。都合十一回のコンボだった。とどめは横っ面を思いっきり叩いてきた。途中からこの子、実は俺を日頃の鬱憤を晴らすための捌け口にでもしてるんじゃないかと疑ってしまった程だ。

 もはや満身創痍。へろへろの体だが、四肢を駆使し、地に伏せることだけは防いだ。しかし無様に四つんばいのまま脳が揺れる感覚に翻弄される。そこへ降りかかるのは、変わらず責めるような声。

「あんた、見たって言うなら、約束しなさい」

「やく、そく?」

 散々物を投げつけられ、延々と叩かれ続け、最後に言われた言葉が約束ですか。明らかに拒否権なんて無さそうである。

 俺は今時こんなぎこちない機械人形もいないだろうってぐらいにカクカクっとした動作で立ち上がる。

「そう。これから部員が二人来るけど、彼女たちにこのことは絶対に言わないで。というか他の誰にも」

 ぱんぱんと、右手に持った漫画本の表紙を水上さんは左手で叩いた。その音だけで俺はびくっとしてしまう。もはやトラウマの域である。

「あ、ああ。分かった。分かったから殴らないで……」

「……分かったなら、良いけど」

 そうして間もなく、青井さんが入室してきた。

 その時の水上さんの反応だ。

『分かってるでしょうね』と言外に伝えるような表情。

 その顔は正に、今しがた俺へと向けられた表情とまったく同じだった。

「……」

 回顧終了。

 朝の放送を終え、放送室から四人で出ると、俺以外の三人は仲良く肩を並べながら立ち去っていってしまった。説明する必要もないだろうが、俺に対して別れの挨拶なんてなかった。

 そろそろロンリーウルフなんてカッコいい称号が手に入りそうだ。と他人事のように考えつつ、俺も自らの教室へ向かうのだった。









「皆さん、こんにちは。お昼の放送の時間です。

 今朝の放送ではマリーアントワネットに関する逸話をご紹介しましたね。

『パンが無いなら、お菓子を食べれば良い』

 この台詞に関しては諸説あるので、朝のものはあくまで一説として記憶の片隅に留めて置いて頂ければ幸いです。

 それでは改めてですが、お菓子に関するお話をここで一つご紹介したいと思います。

 サラダ味。皆さんも聞いたことはあるかと思います。特におせんべえ等ではポピュラーな味付けですよね。

 では、一体このサラダ味、何味か皆さんはご存知でしょうか?

 何を言ってるのか分からない方もいらっしゃるでしょう。サラダ味は名称通りサラダ味だろう、と。

 なら、そもそもそのサラダ味というのは野菜を使った料理のサラダ、ということなのでしょうか?

 もしそうであるなら、答えはノーです。皆さんが思い浮かべるであろうサラダは、おせんべえなどの味付けに使われるサラダ味とはほとんど関係がないのです。ドレッシングの味がするわけでもなければ、無論野菜の味がするわけでもありません。

 結論から言ってしまえば、このサラダ味というものは『サラダ油味』のことなのです。

 サラダ油は皆さんもご存知ですよね? サラダ油の登場は、戦前の一九二四年ごろでした。販売当時より高価だったサラダ油は、戦後を迎えても比較的高い値で推移していたようです。

 そうして迎えた一九六〇年代。ハイカラに憧れる人が多かったようで、その波に乗るように一つの製品が発売されます。それは、サラダ油を絡め、塩をふりかけたおせんべいでした。つまり『サラダ味』のおせんべえの誕生ということですね。

 では、なぜハイカラとサラダ味が関係するのか。それは先ほどサラダとサラダ味が『殆ど』関係がないと言った事に帰結します。

 そもそもサラダ油の『サラダ』が何を意味するのか。これは英語の『SALAD』から来ています。意味は皆さんご想像の通り、野菜を使いドレッシングなどで味付けをした料理、サラダのことです。

 しかしながら、その英語の『SALAD』には、また語源があります。それはラテン語の『SAL』。つまりお塩のことです。

 昔、ドレッシングなど存在しなかった頃、野菜に塩をかけて食べることが当たり前だったそうです。そこから生まれたのが、サラダという単語だということですね。

 そして、サラダ油が販売された元々の理由と言うのは、ヨーロッパで生野菜とお塩、それに酢と油を混ぜ合わせて食べることが流行したため、日本の企業が開発したのです。それまでの油では、この用途には適していないとして、サラダ油が開発されたわけですね。

 ハイカラ指向にあった一九六〇年代、サラダ油と塩を使ったおせんべえが販売されるのですが、塩をまぶしているから塩味とするのは有り体だとしてサラダ味という名称が使われることとなります。洋風で高級感溢れる語感に惹かれる人が多いだろうと判断したようです。

 その狙いは見事的中。今日に至るまで『サラダ味』という名称が残るまでに至るのでした。

 以上でお話は終わりですが、元々日本で開発されたサラダ油。これを使用して作られたサラダ味のおせんべえ。そこに日本人が洋風を感じるというのは、少しおかしくも思えますよね。

 元がどうであれ、語感や意味に惹かれ、そこにありがたみを感じる。高度経済成長期にあった当時の日本だったからこそ、受け入れられた考えのように私は思いますね。

 現代を生きる皆さんはどうでしょうか? 刹那的な欲求を満たすだけなら、猿にでもできます。

 願わくば、皆さんがどうか、理性ある人間であるようにと思います」








 ……マジで!?

 サラダ味ってサラダの味しないの!? 俺めっちゃイタリアンドレッシング想像しながら食べてたわ!

 びっくり仰天である。天と地がひっくり返るほど驚いた。……嘘。ちょっと話を盛った。けどこの感情、誰かと共有したい。

「なぁ、知ってたかよ今の話。サラダ味が塩味だって」

「知ってる。結構有名だから。というか、良いの? ここにいて」

「マジで!? え、なに、ここの生徒は皆物知りさんなんですか。歩く豆知識ばっかりなんですか?」

「……豆知識は歩きもしなければ立ち止まってもいないと思う。というか、ここにいて良いのって」

「いやー、こりゃ一本取られた。確かに、豆知識は歩かないよな。披露するだけだよな? 豆は拾うだけじゃなくて撒けるけどな? HAHAHA」

「……もういい」

「HAHAHA、ははは、はは、は……はぁ」

 自分が一番分かってる。なんでここにいるのか。本当なら水上さん達と一緒に放送室にいるんじゃないのかって。

 けど、宿題をやれと母親から言われる子供みたいに、木戸の核心を突く言葉を無視していた。いや、子供だったら『あとでやるよ』とでも返事をするだけマシだ。俺の方がよっぽど性質が悪い。

 ふと上を見上げれば、揺れる木々の葉の向こうでは空が晴れ渡っていた。俺の心中とは正反対だ。

 ……約束したのに。協力するって。どんな面倒でも引き受けるって。放送部が以前みたいに和気藹々としていた頃のように戻すんだって言ってた月島さんと約束したのに。この体たらくである。

 昼休み。校庭のベンチに、昨日一昨日と同じく木戸と並んで腰掛けている。

 俺は右腕をベンチの背もたれに乗せ、木漏れ日を浴びていた。左手に焼きそばパンを持っているが、食欲が沸かず、封すらも開けていなかった。この際、この焼きそばパンを木戸にそのまま渡すこともやぶさかではなかったのだが、木戸は自分の弁当のみに集中し、こちらを一切見てきやしなかった。呆れられたのだろう。

 どうしたものか。

 火ノ元と水上。二人をどのようにして説得すればいいのだろう。両者とも、俺のことを好意的な目で見てるとは到底思えない。話さえ満足にできなさそうな状況だ。

 そして、昨日で火ノ元と会う機会は逸した。何も要件は話せていないのに。それなら水上はどうかと言えば、会う機会だって作ろうと思えば作れるのに、俺はそれを放棄してここで時間を潰している。

 呆れられて当然ですわ。

 ……本当どうすれば良いんだろう。このまま何もせずに立ち止まってばかりもいられない。なら、行動に移すか? 何をする。説得に決まってる。けど説得とは言っても、彼女たちがそう易々と首を縦に振ってくれるとは思えない。彼女たちには彼女たちなりの事情があるのだろうから。

 じゃあ、結局どうするんだ。もう約束の期日は迫ってきている。金曜日にアンケートの投票、開票が行われるのなら、今日を入れてもあと三日しか猶予はない。そんな限られた日数の中で、彼女たちと一から信頼関係を築いて、アンケートではなく話し合いでの決着をするよう促すのは現実離れしているように感じる。あまつさえ、火ノ元はさておき水上からは毛嫌いされているような節すらあるのだ。一言会話を交わすだけでも三日どころか三ヶ月は要しそうだ。

 となると、できることは限られてくる。正攻法が無理ならば、奇策を練るしかない。

 奇策。言うは安し、行うは難し。もっと言えば、思いつくことはもっともっと難し。

 ただ、奇策と言うべきか、あるいは愚策と呼ぶべきか。一つの手段は思いついている。それは、彼女たちを脅すことだ。

 俺は図らずも火ノ元、そして水上のコンプレックス、もしくは隠していたいことを知った。これを利用し、周りにばらされたくなければアンケートを止めろ、とでも言えば今回の件は意とも容易く解決するかもしれない。

 褒められた策ではない。それによって起こる弊害を考えれば、現状よりももっと悲惨な状況になるかもしれない。けど、四の五の言ってる暇はないのだ。選り好みしてる場合じゃない。

 決意し、瞼を一度閉じると深く呼吸をした。そして、パッと目を開けると、上へ向けていた顔を地平へと戻し。

「本当にここにいたんだね」

「月島さん、何で……」

 目の前に、月島さんが立っていた。一人である。いつもなら、彼女は自分のクラスで仲の良さげな友人たちと昼食を摂っているであろうに、今日ばかりは何故かランチボックスを片手にここに来ていた。

 ふと、月島さんが俺の横へと目を配った。

「木戸ちゃん、ありがとうね。教えてくれて」

「ううん。気にしなくていい。私もこんな辛気臭い雰囲気で食事をする気はなかった」

 なるほどね。木戸が月島さんに俺の居場所を伝えたと。どっちから連絡を取ったのか知らないが、何にせよ月島さんは俺に用事でもあってここまで赴いてきたのだろう。

「となり、良いかな?」

 ちょんちょんと木戸の反対側、俺の隣を指差される。

「ああ、良いけど」

 今、あまり会いたくは無かった相手だ。これから強引かつ卑怯な手で彼女の願いを叶えようとしていたところだったから。多分、彼女にその方法を勘付かれたら、何が何でも阻止されることは容易に想像がついた。

 ベンチに腰を下ろすと、月島さんは膝の上にランチボックスを置いてからこちらを見てきた。

「土田君はご飯食べないの?」

「まぁ、食べるけど」

 どうしていきなり月島さんはやって来たのだろう。しかも、俺がここにいることを責めすらしない。何を考えているのだろうか。

 考えれば考えるほど泥沼に嵌りそうだ。包装していた透明なパッケージを開け、焼きそばパンを小さめに口に含む。

「……水上さん、どう?」

「どうって?」

 名前を聞くだけでもげんなりしそうだったが、努めて自然に返事をした。

 月島さんも平生な素振りでランチボックスの蓋を開けてから、割り箸を二つに分けた。視線はこちらには向けられていない。

「彼女、ちょっと特殊な人だから、土田君も何か言われてないかなって」

 言われるどころか無視である。まぁ、そのことは月島さんに明かすつもりもないが。俺は白々しく首を捻る。

「特殊な人? そうなの?」

「うーん、本人のいないところでこういう話をするのも失礼なんだろうけど、水上さんって……」

 月島さんは弁当箱の肉じゃがを一口食べ、咀嚼し終えてから飲み込むと、苦笑交じりにちらりとこちらへ視線を送ってきた。

「男の人、嫌いだから」

 ……あー。そう言えば、そんな噂聞いたことがあったかもしれない。男を目の敵にしてて、彼女へラブレターを送った男子生徒は彼女自身の手により漏れなく晒し挙げられ、体育館裏で告白しようものなら、断られた上でその後立ち直るのも困難になるほど罵られるだのなんだの。

 尾ひれの付いた噂話だと一蹴していたが、今日の俺に対する態度を見てもそうだが、そもそも火のない所に煙は立たない。正直、彼女と俺は今日が初対面ではなく、多分向こうも俺のことを見知ってはいただろうが、面と向かって話し合ったのは初めてだった。彼女のそう言ったパーソナルな部分は知る由も無かったわけで、月島さんの話を聞いてみれば何となく納得してしまう自分がいた。

「何だか、難しい顔してるね? やっぱり、何かあった?」

 心配そうに月島さんが顔を覗き込んできて、鼻先にふんわりと女の子の匂いが漂ってきた。

「え。いや、大丈夫。大丈夫だよ」

 俺は月島さんから視線を背けると、木戸の方へ顔を向けた。

「……もぐもぐ」

 あぁ、癒やされるわ。木戸。確かに可愛らしい見た目はしているが、木戸の場合は女性というより女子って感じで、弁当箱を一心不乱に突っつくその姿はもはや愛玩動物のようである。木戸を見てれば、まかり間違っても劣情なんて催さないぜ。

 と思っていたら、木戸から横目でキッと睨みつけられた。失礼なことを考えていたのが悟られたのかもしれない。愛玩動物が一瞬で獰猛な生物に切り替わった。すかさず前へと向きなおす。

「その」

「ん?」

 月島さんを見ると、箸を弁当箱に置いて気弱そうな瞳をこちらへ向けていた。

「無理しなくて良いからね? あの時言ったことは、私のわがままみたいなものだから、土田くんが気負う必要はない」

 まるで自分に言い聞かせているかのようだ。言い終えると、優れない表情のまま月島さんはスッと目元を伏せた。

 そんな態度を見せられて『はいそうですか』なんて言えるはずもない。俺は意思を固め、彼女を見つめる。

「わがままじゃないよ。俺が叶えたいと思ったんだ、月島さんの願いを。だからこれは俺の意思だ。それに、月島さんとは」

 約束を交わした。協力すると。どんな面倒でも引き受けると。……そう、約束をした。男が女の子と交わした約束を破るのは、絶対にいけないことだ。これは俺の矜持でもある。

 だけれど、俺は彼女たちとも約束をした。火ノ元、そして水上と。どちらにも、他言しないと約束をした。彼女たちが抱える秘密を、誰にも明かさないと言ったのだ。なのに俺は、それをだしにしようとしていた。約束を守るために約束を破るなんて、おかしな話だ。

「……く、ふふ」

「え? どうしたの、土田君?」

「いきなり笑い出した。とうとう狂ったね」

 狂ってたんだよ。それが正常に戻っただけ。

 俺はサッと立ち上がると身を翻し、木戸へ食いかけの焼きそばパンを放った。

「やる。食うより他にやることができたから」

 木戸は箸を咥えたまま片手でパンをキャッチすると、緩やかに微笑んだ。

「らっきー」

 そのまま月島さんを見下ろす。月島さんはびっくりした様子で目をまん丸と見開いていた。

「月島さん」

「は、はい」

「絶対、約束は守るから。以前のように、皆が笑いあえる放送部に戻すから」

 グッと握った拳を見せつけてから、俺は月島さんの返事を待たず駆け出した。

 やることは山積してる。わざわざ困難な道を選んだからだ。けど、心はどこか、今日の空模様と似ていた。

「あ、土田くん!」

 呼び止めないで欲しい。一度進みだした足をもう止めたくなかったから。だが、進み続ける俺の背に、再度月島さんが声をかけてくる。

「おーい、お茶忘れてるよー!」

「あ、はーい」












 目的地へ向かう道中、思案に浸る。

 火ノ元と水上。彼女たちさえどうにかできればアンケートは阻止できる。放送部の顔たる五人のパーソナリティの内、月島さんと金井部長はアンケートに反対しているようだし、木戸はそもそも関心がなさそうだからだ。

 では具体的にどのようにして火ノ元と水上の心を変えさせるかだが、脅迫めいたことはもっての他となった。となると、正攻法しか取れなくなる。無理やり彼女たちの意思を捻じ曲げるような行為ではなく、彼女たち自身が考えを変えるよう促さなくてはならない。

 そんな都合の良い方法があるのかどうか。あったとしても直ぐに実行に移せるのか。

 悩めば切りは無い。だからこそ、手当たり次第、思いついたら早速実行に移さなくてはいけない。時間がないのだから。

 というわけで。

「ちわーっす。雪白さんいますかー?」

 二年四組の教室に赴き、ガラッと扉を開けると同時に室内へ呼びかけた。

 水曜日の昼の放送が終わってから五分ほど。予鈴が鳴る十分前。室内には二十人近い生徒たちが中にいて、誰もが俺を視認すると同時に口を噤み、あからさまに近寄りたくないとでも言いたげに表情を歪めていた。なるほど、俺の悪名は他クラスにまで及んでいるみたいだ。

 と。一人の少女が椅子から立ち上がりこちらへスタスタと歩み寄ってきた。ジッと見る機会は今まで無かったが、こうして見てみれば身長が高い。俺と同じぐらいはあるだろう。

 彼女、雪白水夏さんは、他の生徒とは違い、薄く微笑していた。しかし、心中に何か腹積もりでもあるのか、瞳にはどこか濁った輝きが混じっていて、俺は少しばかり薄ら寒さを覚えた。

「わざわざ私の教室に訪ねてきて、どうかしたの?」

 俺も彼女に負けじと、ふんわり微笑んでやる。

「ああ、ちょっとお話ししたいことがあって。時間、五分ほど大丈夫かな?」

 雪白さんはブラウスの胸ポケットに仕舞っていた携帯電話のディスプレイを確認してから、ゆったりとした動作で頭を振った。

「ええ、良いわ。ただ」

「ただ?」

「その気持ち悪い笑みを止めてくれたらね」

 ちょっぴりショックであった。

 一先ず笑みを止め、ここでは何だからということで二人で人気の少ない場所へと向かった。二年の教室がある校舎二階の中庭。お日柄の関係か、生徒の数は数えられる程度にしか見えなかった。

 中庭にある花壇の前で立ち止まり後ろを振り返ると、雪白さんは無地の白い扇子で自分の顔を扇いでいた。堂に入っていると言って過言のない素振りだ。生まれながらのお嬢様だからこそ身に染みているのかもしれない。月島さんとは違う上品さが滲み出ている。紛い物でしかない火ノ元とは雲泥の差である。

「それで、どういったご用件なの?」

「ちょっと尋ねたいことがあってね」

「それは、水夏のことかしら?」

「ああ、そうだね」

 そこで雪白さんはパタンと扇子を閉じた。

「なら、答えることはないわ。友人を売るような真似はしないから」

「ほう」

 まぁある程度は予想していた。だが、それで引き下がることはできない。

「友人を売るっていうのはどういう意味かな?」

「言葉通りだけれど? 友人が劣勢に立つようなことはしたくないから」

「劣勢? なんのこと?」

「そんなの決まっているでしょう? 今度のアンケートに関してよ」

 アンケートに関して。そして俺が此度彼女に接触して水上さんのことを尋ねるのが劣勢に転がること。それがイコールで結ばれると言うのは、つまり俺がアンケートを阻止しようとしているとバレてはいないって事だ。大方、月島さんの俺への歓迎振りを見て、現放送スタイルを維持しようとしている派閥だと判断されているということ。仮に俺たちの真意を悟られていれば、今回の俺の接触がどう言った事に繋がるのかが想像つかないはず。それに「無闇に身内のことを喋るつもりはない」とか言って、詮索されるのを避ければ良いだけの話だ。

 ま、ここでこちらの手の内を晒すような真似をする必要はない。どれだけ否定しても信じてもらえる保障はないし、何より真相に気づかれたら面倒だ。その辺りははぐらかしておくか。

「じゃあ、話を変えよう。雪白さんは今回のアンケート、どう思う? 誰が勝つって予想してる?」

「水夏。……と言いたいところだけど、微妙なところね。とは言え、今回放送部の指針がかかっているって知っている生徒は少ない。これはある意味で好材料ね。もしアンケートの結果次第でスタイルが変わることを投票者たる生徒たちが認識していれば、結果は現スタイルを推す月島や火ノ元の二人が間違いなく票を集めて、水夏や金井先輩は為すすべも無く負けが決まっていたでしょうから」

「そうだねぇ。結局、放送部が現在のように隆盛を極めているのは、このスタイルが生徒たちから好評だからだ。昔の頃の放送部だったら、そもそもアンケートになんて誰も見向きもしなかっただろうし」

「その通り。生徒達は現在の放送部ないし、パーソナリティの他愛もない話に聞き入っている。以前のような決められた台本を読むだけの放送部は興味すら無かった」

「代わり映えがしないからね。どれだけ可愛い女の子が読んでたとしても、毎回毎回同じことだけを言っているだけならつまらないもんね」

「それはどうかしら。本来、放送部というのはそのスタイルこそが正しいと思うのだけれど。今放送部が一部で『ラジオ部』とされているのは、私からすれば明らかに褒め言葉ではないわ。学校の放送室という場所を借りて、ただ世間話をするのは恥晒しよ。粛々と台本を読んでこそ、放送部。何もラジオを否定するつもりはないけれど、学校で、しかも部屋を借りてまでするようなことじゃないわね」

 ふむん。水曜日担当の全員が全員同じ意見ではないのでは、と僅かながらに期待していたが、甘かったようだ。内部分裂を起こすことは無理そうだ。

「でも、どこもかしこも放送部らしい放送をしているとは限らないじゃない? 例えば、雪白さんの中学校時代の放送部はどうだった?」

「私の中学校? 至って普通の放送部だったと思うわ。記憶には残っていないけれどね」

「あ、ということは雪白さんは中学校時代に放送部に所属していなかったんだ?」

「そうよ。放送部に入部したのは、総目高校に入学してからよ」

「へぇ。どうして放送部に入部しようと思ったの?」

「それは水夏に……誘われたからよ」

 雪白さんは今まで毅然とした応対を繰り返していたが、初めて表情が強張った。

「なるほど。水上さんは中学校時代は放送部に所属していたのかな?」

「……らしいわね」

 水上さんに関する話になると口が重くなるようだ。警戒されているということだろう。

 しかしながら、俺の聞きたいことは大体聞いた。収穫はあったと思う。俺はポケットを探り、携帯電話を取り出すと画面を見つめてから雪白さんへと目線を滑らせた。

「そろそろ、約束の五分だね。戻ろっか?」

 彼女からすれば俺からその提案をするとは思ってなかったのだろう。いぶかしむ様に眉をピクリと下げてから、たどたどしく頷いた。

「え、ええ」

 二人で簡素な挨拶を交わしてから自分たちの教室へと引き上げた。教室の扉を潜った辺りでちょうど予鈴が鳴り響く。

 自席に座り、五時間目の教材を机の上に出しながら頭の中で考えをまとめる。

 どうしたものか。やることが決まると、こうも忙しさが際立つとは。とりあえず、放課後まで休む間は無さそうだ。

「……」

 ただのほほんと時間が過ぎるのを待っていただけの数日前とは違い、慌しく過ぎていく時間。にも関わらず、俺はいつの間にか微笑していた。





 五時間目と六時間目の合間に所用があり、授業が終わると同時に席を立つと足早に教室を出た。

 目的地は、二年五組だ。

 たどり着いてみると、案の定、奇異の視線に晒された。これは願わくばイケメン故の宿命なのだと信じたい。

 目的の人物の名を告げて呼びかける。近くの人を捕まえて呼び出してもらえるよう頼みたかったが、誰も俺の事など構ってくれそうに無かったからだ。

 昼休みに雪白さんの教室に訪れたときのようにとある人物を訪ねてきたのだが、俺の目の前に現れた人物は勿論まったくの別人で、あまつさえ青年だった。

「申し訳ないね、栄一くん」

 片手を縦にして上げて侘びを入れるが、栄一くんは好意的ではなさそうな表情をしていた。願わくば、瓶底メガネの奥では目が笑っていますように。

「やかましいね君は。もう会うことはないと思ってたんだけど」

 残念。招かれざる客だったようだ。

 けれど落胆などおくびにも見せぬようにと気を払い、朗らかに見えるよう笑う。

「そうは言わないでくれよ。これからもお世話になるかもしれないし」

「それはないね。僕は火曜日担当だし、君は――」

 そこで栄一くんは言いよどんだ。ちらりと教室の中へ顔を向けたところを見るに、俺が放送部へ入部したことを周りに聞き耳されぬようとの考えからだろう。別に緘口令など敷かれているわけでもないのに、律儀なものだ。まぁ、以前に栄一くん自身が言っていたが、こんな時期に放送部に入部した奴が出たと知られれば、放送部の入部を志しておきながら叶わなかった人がどう思うか。逆上して俺にやっかみを言ってきても不思議はない。そういうところは、彼も優しさがあるらしい。

 こほんと空々しく咳払いをしてから、栄一くんは再び口を開いた。

「何にせよ、むやみやたらに近づかないでくれるかい。僕は君の事をきら」

「まぁまぁ。おちつこおちつこ。俺もそんなストーカーみたいな事しにきたわけじゃないんだ。目的があってね」

「……手短にしてくれ」

「おけー。じゃあ、ちょっと耳貸して。あんま大っぴらに言えることじゃないから」

 栄一くんは、それはもうこれ以上無いだろうってぐらい嫌そうに顔を歪めてから、ふかーいため息を吐きつつ耳を向けてきた。俺は両手を筒の形にして、それを口元に当てながら彼の耳元へと寄せた。

「実は頼みがあって……」

 目的を伝え終え、俺は両手を離して顔を遠ざける。栄一くんは眉を顰めていた。

「……なんでそんなのを」

「いやー、実は気になる女の子がいてさ。聞いたら栄一くんと一緒だったって噂で。だから、それを見てみたいっていうかなんていうか」

 後頭部に手をやり、たははと笑う。栄一くんはそれでも怪訝そうにしたままだ。

「僕が何で君のためにそんなことをしなきゃいけない。第一」

 俺は彼が言い終えるよりも前に手を出した。

「まぁまぁ。おちつこおちつこ。栄一くんの言い分も最もだ。だから、交換条件を持ってきた」

 人差し指を立てつつ、口の右端を上げてにやりとする。

「交換条件?」

「ああ。ちょいちょい。もっかい耳貸して」

 先ほどと同じように、栄一くんに耳打ちする。と。

「ほ、本当か? 君、嘘はついてないか?」

 さっきとは打って変わって、態度が随分好意的なものに変化した。現金なものである。

「うん。条件としてはイーブンでしょ? 俺も見たいものを見て、栄一くんもあの頃のひの――」

「分かった。明日、昼休みに来てくれ」

 早いなおい。むしろ俺より積極的だ。

「了解。じゃあ、また明日の昼休みね」

「ああ。絶対、持って来いよ」

 絶対の部分にこれでもかってぐらいに力を込められた。

「はは……う、うん。持ってくるよ。栄一くんも忘れずに」

 そうして所用は終了。今日すべきことは後一つだけだ。







「皆さん、こんにちは。七月十一日水曜日。放課後の放送の時間です。お聞きいただいている曲は、シューマン作曲の『トロイメライ』です。

 光陰矢のごとし。年月が過ぎるのは本当に早いものです。私たちはまだ十と数年しか生きていませんが、二十歳まではもう直ぐそこですよね。

 人生というのは平均寿命から言えば七十や八十近くて、長いように感じますが、けれど体感時間としては短いものだと言います。科学的にも歳を取れば取るほどに体感時間は短くなることが証明されていて、その理由は新鮮な体験や情報が歳を取ってからでは知ることが少ないからだとされています。つまり、子供の頃は何もかもが新しく見え、それが次第に減っていくことで比例して体感時間が短くなるということですね。

 そして、その体感時間ですが、ターニングポイントは二十歳だという話があります。二十歳を迎えるまでの体感時間と、死ぬまでの体感時間は等しいということです。

 こう聞くと思いのほか人生は短いのだなと考えさせられます。まだまだ自分が子供だと思っていても、もう既に岐路を間近に迎えているのですから。

 命短し恋せよ乙女――。

 この言葉は皆さんもお聞きになられたことがあるでしょう。これは元々、とある歌の一説だったのです。そして、続きもあります。

 ――紅き唇褪せぬ間に。

 この曲は恋の歌ではありますが、様々なことにも言い換えられると思います。

 命が短いからこそ、何かに熱中をし、やり遂げ、あるいは奮闘し、できることをできる内にする。

 まだ若いから。ではなく、若いからこそすべきことがある。

 言葉遊びのようになってきましたが、私はこの歌をそのように捉えています。

 特に人間という長生きで丈夫な生物に産まれたからこそ、成し遂げられることは多いでしょう。

 他の生物の中ではメンタルの弱い生物もいて、マンボウは皆さんもご存知でしょうが、何かあれば直ぐに息絶えます。先日から、科学の教員である志村先生がよく披露されてる豆知識ですね。付け加えて言うならば、マンボウが通ろうとする水中の先に海の王者たる鮫やシャチがいた際、どうなるかご存知でしょうか? 実は、鮫やシャチが道を譲ると言われています。これはマンボウの中に寄生虫がたくさん住みついているのを知っているからこその行動かも知れませんが、少しばかり神秘的ではありますね。

 と、少しばかり話が脱線してしまいましたので、本題に戻りますが、短いのは人生だけじゃなく、学校も同様です。

 今日で水曜日最後の放送となりました。去年の四月より放送を担当させていただいておりますが、二学期でも変わらず……いえ、より一層皆さんに愛されるような放送をしていきたいと思っています。是非、お楽しみにしていてください。

 それでは、放送はこれにて終了です。担当は水上、雪白、青井でした。皆さん、さようなら」





 ま、ま、ま、マジで!?

 マンボウさん、メンタル弱いだけじゃなく、まさかの鮫シャチに道譲られるほどの神々しい存在だったんですか! やべえ、マンボウ教があったら入信したい。つかここの奴らは何でマンボウ博士ばっかりなんだよ。

 なんて事を考えていたら、相変わらず仲良くマイク室に詰めていた三人の少女が中から出てきた。

「やー、水夏っちさいこーう。今日もパーフェクト。だったねー」

 やけにパーフェクトの発音がネイティブなのは青井さん。

「そうね。淀みなくて、発言も凄く聞き取りやすかったわ」

 俺と話していたときの彼女はどこへやら。嫌味なんてものをどこにも感じさせない口ぶりで褒めそやすのは雪白さん。

「そんなことないわ。二人が一緒にいてくれたから、緊張していなかっただけ。一人になったらどうなることやら」

 そんな二人の賞賛を一身に集めるのは、優美に微笑む水上さん。

 三位一体。機械仕掛けの神様もびっくりなデウスエクスマキナっぷりである。特に俺を無視する息の合いっぷりは最早堂に入ってるぜ。だーれも一瞥すらくれません。

「三人ともお疲れさ――」

「今日はどうするー? どっか遊び行くー?」

「それは良いわね。一学期最終日なんだし、駅前にでも行きましょうか?」

 わーお。知ってたけど労いの言葉も無視ですか。俺と彼女たちの間に防音ガラスでも張られてるのだろうか。

 青井さんと雪白さんがどこへ行くか案を出そうとしたとき。

「あ。今日は、用事があって」

 と、申し訳無さそうに口を開いたのは水上さんだった。

「んー? ん。もしかして、習い事?」

 顎に指を当てながら問いかけた青井さんに、水上さんは一つ頷く。

「そうなんだ。ごめん、この埋め合わせは今度するから」

「いいわよ、気にしないで。そんなことより時間、大丈夫なの?」

 水上さんは「あ」と言って、放送室にある時計を見上げた。

「やっば……ごめん、私急ぐから。本当にごめんね!」

 そう言って、水上さんは鞄を片手に慌しく放送室を飛び出していった。

「ばいばーい」

「怪我しないように気をつけなさいよ」

 手を振って水上さんを送り出す二人。だが、水上さんの背が見えなくなると、手を下ろし、二人同時にこちらを見てきた。ジトッとした瞳だ。

「……魚っちから聞いたけど、土田君、何か嗅ぎまわってるんだってー?」

 初めて青井さんが俺と口をきいてくれたと思う。あんまり穏やかな雰囲気では無さそうだが。

「嗅ぎまわってるだなんて、そんな大げさな。ねえ? 雪白さん」

「嗅ぎまわってたわ。やけに水夏のことを聞き出そうとしていた」

 う。やっぱり味方ではないよね。

 二人はくるっと身を翻し、ジリジリと俺へと近づいてくる。

「何が目的かは知らないけどさーあ?」

「水夏に何か不埒な真似を働こうとしているなら……」

「「容赦しないから」」

 青井さんは小柄で、雪白さんは身長が高くて、まるで正反対の二人だが見た目は上玉で。そんな二人から近寄られるなど、夢のようなシチュエーションだが、それを手放しで喜べる状況では無く。

「は、はい。えーと。失礼しまーす!」

 俺は別れの言葉を告げると二人の合間を抜けて脱兎の如く逃げ出した。

 ただの威嚇だけだったようで、青井さんと雪白さんは追っては来ず、俺は下駄箱までたどり着くと息を整えた。そして、顔を上げる。

「……よし。こっからが本番」

 パンと両手で頬を叩き、発破をかける。

 素早く上履きから靴へと履き替え、再び駆け足で外へと向かう。

 向かう先は、水上さんだ。

 どうやら彼女は放送室を出てからはそこまで急ぎ足ではなかったようで、校門を抜けた辺りで追いついた。

 だが、声はかけない。一定の間隔で距離を置き、コソコソとその背を追う。いわゆる尾行である。

 水上さんは時折携帯電話を取り出しては、ディスプレイを確認していた。時間を気にしているのだろう。

 そうして最後まで水上さんに気づかれぬことはなく、彼女はとある建物の中へ姿を消した。

 彼女がいなくなってから少しして、俺はその門前に立つ。

「やっぱり……」

 そこは、豪奢ではないものの厳かな雰囲気漂う日本屋敷。そう、火ノ元の住むアパートの向かいにあったお屋敷だった。

 昨日火ノ元の家にお邪魔した時に、この門前に掲げられた表札の名――『水上家』を見て思うところがあったのだ。まさか、予想通り水上さんの家だとは……いや、多少は期待してたか。

 早々にこの場を去るため、俺は踵を返す。

 これで大体の情報は出揃った。後は、実行に移すだけ。

 ……だったのだが。

「何を、してるの?」

「え……あ」

 そこで、思いも寄らぬ人物と出くわしてしまった。予定が白紙に戻りかねず、俺は思わず苦笑いを浮かべた。

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