メラメラチューズデー

「皆様ごきげんよう。七月十日火曜日。朝の放送の時間ですわ。

 皆様は今朝、どのようなちょ……ブレックファストを召し上がられたかしら? ワタクシの場合は、世界一の朝食を提供するお店の本店で修行を積んだ料理人のエッグベネディグトに舌鼓を打ちましたわ。

 噛むたびにサクサクと軽快な音のするマフィンに、こんがりと焼けた産地直送のベーコン、ふんわりとした鳥骨鶏の卵の目玉焼き。味付けのオランデーズソースはマヨネーズをベースにしながら、酸味を抑えつつまろやかで舌触りの良い仕上がりとなっていて、まぁまぁ私の舌を満足させられるだけの料理でしたわ。

 あ、栄一。水を用意して。

 と、ごめんあそばせ。舌が乾いてしまいましたの。一口頂きますわね。

 んっ。んっ。ごく。

 ぷはぁ、悪く無いお水ですわね。これはどこのアルプスから汲んできた水かしら?」

「格安スーパーで二リットル五十五円で販売されていた天然水です」

「そ、そう? ふぅん、庶民の飲み物も馬鹿にできないものね。

 あぁ、それと栄一。後でお話しがあるから覚えておきなさい」

「ええ? あ、は、はい」

「あら。気づけばもうこんな時間。手短に用件を伝えますわね。

 つい昨日、ワタクシ達放送部部員が皆様の教室に伺ったと思うのですが、お手元にきちんと用紙は届きましたかしら?

 昨日の段階では後日回収するとしか予定が決まってませんでしたけれど、はっきりとした回収日が決定しましたので発表いたしますわ。

 回収日は、今週の金曜日の放課後ですわ。

 昨日と同じく、放課後に放送部部員が皆様の教室に訪れるので、その際に必要事項を記入した用紙を渡してください。

 一番好きな曜日。勿論、皆様は分かってますわよね? 一つしかございませんものねぇ。おーっほっほ。

 っと、今日はこのぐらいで終わりですわね。

 教員からのお知らせは……特に無いですわ。熱射病に気をつけろとの言付けだけ預かってますわ。お気をつけてくださいまし。

 これで、本日の朝の放送は終わりですわ。担当はワタクシ火ノ元灯火と、他二名でお送りしましたわ。

 またお昼ごろにお聞きあそばせ。それでは、ごきげんよう」







 俺の朝食は白米と納豆でした。大変美味しゅうございました。庶民の食べ物との意見は否定しないが、それでも納豆ご飯の美味さは、そこいらの欧米料理の悉くを上回るわけで。いやさ世界中の人々にも是非一度はご賞味いただきたいレベルである。

 何が世界一の朝食だ。アメリカナイズされた食べ物に興味ないんだよ! ……ほ、本当なんだから! 世界一の朝食のメニューをホームページで見て涎垂らしたことなんて無いんだから!

 と、思い出しただけで腹が鳴りそうなので閑話休題。

 職員室前で火ノ元の放送を聞くこと数分。彼女の放送が終わっても、待ち合わせの約束をした相手が姿を現すことはなかった。

 まさか……待ちぼうけ? もしくは、月島さんの身に何かが?

 焦燥感に駆られつつも、当て所なく探し回るわけにもいかず、だからと言って彼女のアドレスや携帯電話の番号を知りえてるはずもなく、ただただ待つことしかできなかったのだが。

「土田君、お待たせしました」

 そう可憐な声で名を呼ばれ、そちらへと目をやると、早歩きで歩み寄ってくる月島さんがいた。

 ホッと胸を撫で下ろしてしまう。

「いや、そんな待ってないから気にしなくていいよ」

 実際、十分ほどしか待っていなかったし。

「それなら、良かったんだけど」

 月島さんはそう言って息を切らしつつ、胸に手を当てる。そこでふと疑問が沸く。

「でも、どこに行ってたの? 朝見たとき、月島さんの机に鞄かけられていたみたいだったけど?」

 そう、彼女は俺よりも早く登校していたようだったのだ。しかしながら彼女の姿は教室にはなくて、いち早く職員室の前にいるのかと思い足早に向かえど、そこに月島さんはいなかった。

「あ。少し用事を済ませていたの。直ぐに分かるわ」

「直ぐに分かる?」

 何のことか。俺に関係のあることなのだろうか。

 すると月島さんは俺の手を取り笑みを投げかけてきた。あまりにも自然な素振りであったがため、なされるがままだった。

「ほら、行こう? 皆待ってるよ」

「行く? 待ってる?」

 意味が分からず鸚鵡返しに問う俺を引き連れ、月島さんは先を進みつつ応える。

「うん。放送室で、皆が待ってる」







 と、いうわけで。放送室にやって来た。

 ……やって来たはいいんだけど。

「……ど、どうも。土田夕日です」

 あはは、と乾いた笑い声を混じらせつつ会釈をする。目の前には十人近い男女が俺を眺めていた。

 その中の一人、昨日俺たちのクラスにもやって来ていたメガネ男子が口を開いた。

「噂には聞いているよ。今回、月島さんたっての希望で、放送部に加入することになったとか」

 いえ、僕はそんな噂知りませんが。とは言えず「そうですそうです」と頷くので精一杯。

 嫌な汗が額を滑る。そりゃそうだ。こんな、唐突過ぎる展開もそうだが、何よりも目の前の放送部部員一同から発せられるプレッシャーに当てられたからだ。

 放送室は職員室と扉一枚挟んだ隣にあり、扉の上部に取り付けられたガラス窓からは職員室の様子を眺めることもできる。多分であるがこのような構造になっているのは、放送で何らかのトラブルがあった際に職員が直ぐに駆けつけられるようにとの考えからだろう。

 そして、放送室の間取りは、大きく分けて二つの部屋に区切られている。一つは機材やモニター、後はカセットテープ等がそこらに配置されている調整室。広さとしては、人二人が並んで歩けないほどのもので、形はちょうど『く』の字だ。放送部における調整室の役割は、音声や音楽を流したり、音量を調節したりなどなど、ボタンや小さめのレバーなどが無数に配された専用のデスクを用いて構内に放送を流すことだ。その専用のデスクの向こうには、防音ガラスが一面に張り巡らされているのだが、そのガラス一枚を隔てて放送用の部屋がある。総目高校では通称、マイク室と呼称されている。

 マイク室は先ほどの調整室の内側に収まるような形状で、広さはおよそ三メートル四方。放送室の入り口から調整室に続く廊下の途中にマイク室へ通じる扉がある。

 内部にはパイプ椅子が二脚。それにスタンドマイクが一つだけと、広さの割には質素な内装である。

 しかしながら、普通の生徒がここを訪れれば感激にむせび泣く者がいるかもしれない。マイク一本手に持っても、これが憧れのあの人がいつも喋りかけているものなのかと鼻息荒く握り締めるのかもしれない。

 だが、俺は違う。いや、そういう変態的発想に至らないのは俺がそれ程放送部の面々に入れ込んでいないのもそうだが、この状況。そんなことに現を抜かせるほど空気が弛緩していなかったのが最たる理由だ。

 まるで俺を取り囲むように立つ放送部の面々。その中には、月島さんや先ほど放送をしていた火ノ元、それに木戸と言った華やかな少女たちがいた。が、他に見たことも無い生徒が何人もおり、その中でも数人の男子生徒たちが俺に明らかな敵意を示していたのだ。その理由は、きっと――。

「俺は認められません。こんな、コネだけで放送部に入部するなんて」

 そう言ったのは、昨日火ノ元に付き歩いていた栄一君とやらだった。瓶底メガネをくいっと上げつつ、口をムッと尖らせている。小柄だからかちょっぴり可愛い。その矛先は、メガネ男子。聞けばどうやら彼は副部長のようだった。

 副部長はスッと目を細め、栄一くんをねめつけるように見つめた。うっと呻き声を上げつつ、栄一くんは後ずさりをした。

「コネ、ね。コネの何がいけないんだい?」

「それは……放送部は元から人数を多くは必要としていないからです。だからこそ、部活動としては異例の、入部審査を設けていますし、それによって入部が叶わなかった生徒はたくさんいます。そんな彼らが、この彼の入部をどう思うか」

 栄一くんも初めこそたじろぎはしたものの、それでも引けない思いがあったようだ。

 副部長は栄一くんの言葉を聞き、感心したように何度も頷いた。

「まぁ、赤木くんの考えも一理あるね。確かに、今放送部は新入部員を必要としていない。これ以上部員が増えても、担当する曜日もないからね」

 あれ? 早くも僕、退部の危機かな?

 それはそれでありなんですが。僕のようなノミの心臓の持ち主にはこの部は耐えられそうにないっす。

 と、ふと視線を感じた。そちらへ目を向けると、火ノ元が俺を見ていた。

 火ノ元は俺と目が合うと慌てたように視線を逸らし、最後には気まずそうに下唇を噛んで面を伏せた。

 ……なんだか誰からも歓迎されていなさそうだ。すっげえ帰りてぇ。

 だが、火ノ元の隣に立つ木戸は受け入れ態勢万全……じゃなかった、木戸はうとうとと船を漕いでるだけだった。その木戸の隣にいる月島さん。彼女だけが無言でガッツポーズを送ってきていた。すっごい温度差なんですが。周りからは冷ややかな視線を感じるのですが。

「じゃあこうしようか」

 漸く、副部長が妙案を思いついたように言葉を発した。そして。

「僕が退部しよう。その代わり、彼が入部する。これでどうだろう?」

「え?」

 その提案に、室内にいる全員が驚きの声を上げた。月島さんも同様である。俺を入部させるなどと言うけったいな発案をしたであろう彼女もまた驚いているとは、どういったことなのか。

「け、けど、それだと色々な仕事に支障が」

「別に僕一人抜けたところで支障なんて来たさないでしょ。部長が辞めるって言ったらその限りじゃないけれど。ちょうど僕が担当している月曜日の放送も昨日で一学期は終わったからね。二学期からは元々進学に向けて顔を出す機会も減る予定だったんだ。彼の入部は渡りに船といって良いぐらいだったね」

 突然の発言に、栄一くんも言葉を失ってしまったらしい。副部長がいなくなることでどういった弊害が起きるのか。その辺りに考えが向いてしまっているのだろう。故に俺が入部するか否かなどという些事はどうでも良くなったみたいだ。こうなることを予想して今回の提案をしたのなら、副部長という人間は少し恐ろしくもある。

 副部長は満足げに微笑みつつ、俺へと顔を向けてきた。

「というわけで、これからは放送部部員として頑張ってくれたまえ。陰ながら応援してるから」

「は、はぁ」

 ぽんぽんと優しく肩を叩いて笑いかけてくれる副部長。俺はそんな彼にどんな顔を向けていいのか分からず、軽く会釈をすることしかできなかった。

 と。そのときである。

 ばーんと放送室の扉が物々しく開く音が聞こえた。そしてその直ぐ後に駆け足と共に、マイク室へ姿を現してきた人物が一人。

「土田くぅーん!」

 正にスローモーション。さらさらとしたロングヘアーを靡かせ、俺へと一心不乱に飛び込んでこようとする女子がいた。瞳はうるうると涙ぐんでいて、物欲しげに薄っすらと開いた口元がどこか艶かしい。美少女の飽和状態である放送部だが、当然のことながら、彼女も美少女。いや、美女と言った方が正しいのだろうか。なぜなら、彼女はもはや体つきだけで見たら少女などとは呼べないスタイルの持ち主だから。いや何がって言われたら困るのだが、けれど単刀直入に申し上げてしまおう。ええ、ええ、誤解を恐れず言いますが、胸! おっぱい! でかいよ、ぼよんぼよんだよ。重力、何それ? ってぐらいに空中でぶるんぶるんしちゃってるよ。

 そしてそんなたわわに実った禁断の果実が俺の眼前に迫る。

「部長!」

 溜まらず俺も彼女のことを呼ぶ。さぁ早く来い、おっぱい。俺に至福の時間をおくれ。

 下心満載で呼びかけたのだが、部長は純粋な心の持ち主なので、それはもう嬉しそうに「うん!」と頭を振ってくれた。

 俺も両手を広げ、そして訪れるその時。

「はーい。部長お待ちしてました」

 ……横からサッと月島さんが出てきて、飛び込んできた部長の体を抱きすくめる。

 いや、それ俺の役目なのでは。

 両手を広げたまま、俺を無視してハグをする二人から視線を滑らせる。たまたま目が合ったのは木戸だった。今しがた目が覚めたのか、ごしごしと瞼を擦っている。俺は体勢を変え、木戸に向け広げた両手をこれでもかと前へ伸ばす。

「ふぁー……」

 欠伸で返された。まだ罵倒してくれた方がマシなのに、最終的には興味無さげに目線を外されてしまった。

 取り残された俺は、ふぅと息を吐きつつ何事もなかったように腕を下ろした。

 部長は自身より僅かに背の高い月島さんに身を任せ、ぐるりと二周宙を回された後、床に足を着地させた。その様はまるでペアスケーティングの着氷のようにどことなく優雅だった。

「それで、どういった結論に至ったの?」

「土田君の入部の方向で話は進んでいます。ただ、代わりに副部長が退部すると……」

 応えつつ、月島さんが副部長を見る。

「どういうこと? 夜凪君?」

「言葉通りです。僕が退部して、土田君に代役を務めてもらおうと思いまして」

「そんなの聞いてないわ。貴方が今退部したらアンケートはどうするの?」

「それに関しては最後まで責任を持って監督します。ただ、放送等に関しては一線を退こうかと。以前より部長には受験のために放送部に割ける時間は少なくなる旨は告げていましたし、ちょうど良い機会かと思いまして」

「それは、そうだけど……」

 部長は返す言葉が無いようで、けれど認めたくはないのだろう。胸元をキュッと握り締め、沈痛な面持ちでいた。

 他の部員も同様で、マイク室に響く声は無かった。その中でも一番思いつめた顔をしていたのは、栄一くん。わざとではないにせよ、副部長を退部させる後押しをしたことで、罪悪感が彼の肩に重く圧し掛かっているのであろう。

 しかし、副部長は栄一くんの様子に気づき、声をかける。

「さっきも言ったけれど、遅かれ早かれ僕は退部する気だったんだ。なにも死ぬわけでもなければ、転校したりするわけでもないし、いつでも会おうと思えば会えるんだ。そんな気落ちする必要は無い。赤木くんの意見で退部を決意したわけでもないしね? だから君が責任を感じるなんていうのはお門違いだ。むしろ、きちんと自分の意見を述べられる部員が放送部にいることを、僕は誇りに思う。胸を張るといいよ」

「……はい」

 諭すように副部長は言うが、そう簡単に割り切れるような内容じゃないだろう。

「それで、具体的にこの……土田君はどのように扱うんですの?」

 場に重い空気が再度立ち込めそうになる中、口を開いたのは意外にも火ノ元だった。それに応えるのは部長だ。艶美にすら俺の目に映る所作で顎に細い手先を添えつつ中空を見つめる。

「そうねぇ。夏休み期間中は放送部の活動もないわけだし、休み明けから精力的に部活動に参加してもらうとして、とりあえず一学期の間は……」

 そこで、キランと部長の目が輝くのを俺は見た。チロリと覗く舌先がまた、悪戯を思いついた少年のようである。嫌な予感がする。案の定、部長は爛々とした瞳で俺を見つめ。

「親睦を深めてもらいましょう!」

 それはもう上品に、胸の前で手を打った。

「親睦、ですの?」

「ええ、親睦。放送部に入部したからには、一日も早く馴染んでもらわなくちゃいけないからね」

「で、ですが部長。俺は別に――」

「いーの。土田くんは口を挟まないで。これは放送部の決定なんだから。私の言うことは絶対なの」

 えええ? いや、俺が関わってる事だからちょっとぐらい口を出させて欲しいんですが。ていうか、放送部の決定じゃなくて部長の独断と偏見じゃないか。……まぁ、誰も口出ししないみたいだから、あながち部長が全権を握っているのは嘘ではないのかもしれないけれど。

 と、部長はキョロキョロと辺りを見渡し始めた。

「あれ? 水上さん、ていうか、水曜日を担当している人が一人もいないわね?」

「あぁ……すみません、部長。あの、水上さん達は、例のアレをこじらせたみたいで」

 月島さんが申し訳なさそうに告げる。部長もそれを聞いて、何か思い当たるものがあったようで、しきりに頷いた。

「そういうこと。……まあいいわ。彼女たちにはぶっつけ本番で、明日土田君とマンツーマンで接してもらうことにしましょう」

 ……え? 明日? マンツーマン?

 もう事態は俺の予想の範疇を大きく逸脱していて、当人であるはずなのに置いてけぼりをくらっていた。

 が、たった一言。部長の次の一言をもって、事態を把握することとなるのだった。

「土田君には、今日から金曜日まで、各曜日のスタッフとして放送に携わってもらいます。皆と仲良く頑張ってね?」

 にっこりと微笑みかけてくる部長が、俺の目には天使のような悪魔として映った。

 ツーッと黒目だけを滑らせ、本日の放送を担当する火ノ元の様子を伺うと、やはりというか、彼女は迎合とは遠くかけ離れた、にわかには受け入れがたいのか驚愕の表情を浮かべていた。

 ……前途多難。そんな言葉が良く似合う。なんて、他人事のように考えなければ、どうも自制することがどうにもできそうになかった。








「皆様、ごきげんよう。七月十日。お昼の放送の時間、ですわ。ほ、本日はお日柄も良く、散歩には打ってつけの日ですわね」

「灯火様、今日は曇りのち雨で、この後雷雨が降るそうです」

「そ、それが何だって言うのかしら。私は晴れの日よりも雨の日の方が散歩に適してると思っているんですわ。文句でもあるっていうの、栄一」

「い、いえ。出すぎた真似をしました。申し訳ありません」

「ふん。まぁ良いですわ。……そ、それで、本日のお昼の放送はどうしましょうかしらね。もう終わりにしましょうかしら」

「え? 流石にそれは早すぎるのでは?」

「シャラップ! 先ほどから貴方に意見は求めていないのです。お黙りなさい」

「は、はい」

「はぁ……(もう、どうしてこんなことに)」

「灯火様、何かおっしゃ――」

「えーい、うるさーーーい!」







 夫婦漫才か何かの類だろうか。目の前で聞くなどおろか、ジッと耳を澄ませて火ノ元の放送に聞き入ったことがない俺としては、これが普段からのものなのかどうなのか判別がつかない。

 だが、俺と一緒に調整室でマイク室の二人を見守る赤井君の様子を見るに、どうやらいつも通りのようだ。

「デュフwww今日も灯火さまお元気そうで何よりwww」

 ちょいちょい盛大な吐息混じりに何らかのアルファベットが俺の脳内で視覚化されるが、これは彼だからこそ成せる技なのだろう。もうかれこれ十分ほど彼と共にいるため、多少は慣れてきた。

 腕組みをしつつ窓辺に立ち、赤井君の様子を斜め後ろから伺う。発言の奇天烈さとは裏腹に、きちんと仕事はしているようで、音楽の差し替えや音量調整など、横に大きな図体からは想像もつかないほどに手際の良さが細部にまで行き届いていて非の打ち所のない仕事ぶりである。……しかしながら。

「灯火さまお惚けていらっしゃるwwwンゴwwwwwンヌッフwwwwwグエホ、ケアッハwwww」

 どうやら笑いながら咽ているようだ。大丈夫だろうか、色んな意味で。

「赤井くん、質問したいんだけど良いかな?」

 声をかけると、笑い声を潜め赤井くんはぶすっとした態度で座っていたパイプ椅子を引き、こちらを振り向いた。

「今は本番中なんだから、手短に頼むよ」

 あ。アルファベット無しでも喋れるんですね。若干肩透かしをくらった気分だったが、面には出さずに質問を告げる。

「各曜日の放送部部員は三人で構成されているけど、内二人、それもパーソナリティー以外の人間もマイク室に入るって言うのはどうしてなの? これは他の曜日でも同様?」

「あぁ、それ? じゃあまずラジオって知ってるか? あれはパーソナリティと放送作家が中に入って放送がされているんだ。殆ど喋らない放送作家が中に入る理由は台本通りに進むようにテコ入れをしたりするためなんだけど、その他に重要なものとして、パーソナリティが気楽に話せるための空気作りとしての部分もある。一人で話すのに慣れている人なんて滅多にいないから。構成作家に話しかけるようなスタイルにして、さも会話をしているように感じてもらってリラックスしてもらおうってわけだ。これは他の曜日でも大体同じだよ。これでいいかい、仕事に戻って」

「ああ、ありがとう」

「デュクシwwww灯火さま強烈www我々の業界ではご褒美ですwwww栄一氏ウラヤマシスwwwwww」

 俺の返事を待たずして、赤井くんはマイク室に目を向けて先ほどのような独り言を再開していた。むしろ君がパーソナリティーになってみればいいと思う。

「……どうしてこんなことに」

 ぼそりと呟くが、熱心に火ノ元の放送に聞き入る赤井君には聞かれなかった。

 ぼんやりと火ノ元の放送に耳を傾けつつ、物思いに耽る。思い出されるのは、今朝の放送室での一件を終え、自分たちの教室へと戻る道すがらに月島さんから説明された内容だった。

『火ノ元さんと水上さん。この二人を説得できれば、道は開ける』

 そう説明を受けた俺は、すかさず思考をシャットダウンした。

「ちょっと待った。意味が分からない。どうしてその二人? そもそも説得って何? ていうかそれ、誰がやるの?」

「昨日言ったと思うけど、放送部は今、大きく分けて二つの派閥に分かれてるの。現在のスタイルを維持しようとする人たちと、昔のような放送に戻そうとする人たち。それぞれの先頭に立っているのが、火ノ元さんと水上さん。今回、アンケートっていう手法で決着をしようと推し進めていたのもこの二人なんだ。だからこそ、彼女たちを説得することで、アンケートによる放送部の指針決定を一先ず取り止めるような形にして欲しいの」

「……その口ぶりだと、最後の質問に対する返答は……?」

 そこで月島さんお得意の、慈母の如き微笑。

「勿論、土田君しかいないわ」

 聞けばどうやら、昨日の放課後、俺と別れてから部長と副部長、それに月島さんで口裏は合わせていたようだった。今朝放送部の部員が軒並み出揃っていたのも、連絡を前もって取っておいていたかららしい。そして、今回俺が放送部に入部をする流れにしたのだと。俺を抜きでそう言った決定をしたのは申し訳なかったけれど、いざとなれば俺が自然な形で放送部を抜けられるような方法は考えてあるからその点は安心してほしいと言われた。

 ……いやそもそもこの状況が安心できないんですが。その点を一番に考慮して欲しかった。せめて誰か一人でも味方がいてくれれば良いのに、完璧なまでのアウェー。というより、むしろ敵地で敵の練習試合でも見てるような気分である。なんで俺ここにいるんだろ、なんて考えてしまう。いや本当にどうしてここにいるんだろ。月島さんが言うには、火ノ元を説得して欲しいってものだったが、彼女はマイク室の中。いきなり入り込んで会話するわけにもいかないし。

 トホホとため息を漏らし、現状でできることをしようと心を決める。

「赤井くん、他にも質問しても良いかな?」

 ……返事が無い。再度。

「赤井くーん」

「なんだよ! うるさいなぁ。もう君と話すことはない」

 やはり、俺のことは嫌っているらしい。もしくは俺なんかに構う暇があれば火ノ元の放送を聞き入りたいとかか。そっちの方が濃厚だな。

 キッと睨みつけられるが、笑みでいなす。

「そうは言うけど、部長も言ってたじゃん? 親睦を深めて欲しいって。その上で俺も各曜日の放送にこうして携わってるんだからさ。ちょっとは質問とかに答えてくれても良いんじゃない? 部長の意思は部の意思。確か、そうだったよね?」

 意地の悪い言い方だとは思ったが、効果覿面だったみたいだ。赤井くんは鼻筋を引きつかせながらも、腕組みをしてパイプ椅子の方向を変えるとこちらへと体を向けてくれた。

「初めに言っておくけど、僕は君と仲良くするつもりは無い。それを承知で放送部に関する質問だけをするなら答える」

「おけー。了解了解」

 サムズアップをしてみるが返してはくれなかった。まぁ知ってたけど。

 さて、質問か。彼から聞き出せそうで、有益な情報、と。とは言え、いきなり懐に飛び込むような真似は避けたいし、差しあたっては無難な質問に留めておこうかな。警戒されても面倒だし。

「あの栄一くんっていうのは、火ノ元の彼氏?」

「はあああ? 喧嘩売ってんのか?」

 なんかいきなりメンチ切られた。口調も荒々しく変化してるし。警戒どころか嫌悪感をこれ以上無いぐらい出されてしまった。

「あー、そうだよね。そんなわけないよね」

「当たり前だ。栄一は灯火さまの……」

「灯火さまの?」

「……ファン?」

「いや首を傾げながら言われても、質問してるのはこっちなんだけど」

「う、うるさいな。栄一のことは俺もよく知らないんだ。ただ、灯火さま親衛隊の旗揚げが栄一だってのは聞いてる」

 親衛隊……昨日の昼休みに校庭のベンチで見かけた集団だろう。

「ふーん。昔から火ノ元にゾッコンだったってわけか。赤井くんは最近なの? 火ノ元に惚れこんだのは」

 何と無しに尋ねたのだが、何故か赤井くんはボンと爆発音でも聞こえそうな勢いで顔を真っ赤にした。

「そ、そそそんなわけないでござる。あ、愛してるなんて、灯火さま相手におお恐れ多い……け、けど、あえて言うなら一年前からかな! 他の親衛隊の中でも古株さ」

 愛してるなんて言って無いんだけど……。しかもあえてとか言いながら、すごい誇らしげに言ってきたけど。

 と、ふと赤井くんが真顔になった。真面目な顔もできるんだねこの人。

「そう言えば、栄一は中学校が灯火さまと一緒だって聞いたことがある。ただ、それについて聞いても、詳しくは教えてくれないんだ」

「へぇ。どうして?」

「さぁ? 大方、自分だけが知ってる灯火さまの情報を誰にも明かしたくないんだろ」

 なるほど。そういうことね。つまり、親衛隊の統率は取れていないと。火ノ元と近い位置にいるはずの赤井くんが、同じ親衛隊である栄一くんに嫉妬しているのがその証拠だ。

 ……あ。そっか。統率か。

「そうそう、もう一つ質問」

 挙手しつつ喋りかけると、赤井くんはさも面倒そうに顔を顰めた。

「端的に纏めてくれ」

「おけー。んじゃあ早速だけど、今回のアンケート、どう思ってる?」

 すると、一重瞼の元から細い目を、更に彼は細めた。

「最初からそれが聞きたかったんだろ?」

「え」

「こんな時期に入部なんておかしいって思ってたんだ。一学期も終わりかけ。なら、二学期から入部すればいいのにさ。しかも折りよくアンケートの日程が重なるなんて変だろう」

 ぎくりとしてしまう。ここで意図がバレれば、信頼関係を構築するのは直ぐには無理だろうし、あまつさえ火ノ元にそのことを告げ口されれば、全てが水泡に帰す。

 赤井くんをただの変人だと侮ってしまっていた。よもやそこまで鋭い慧眼を持ち合わせてるなんて夢にも思っていなかった。

 心のうちを見透かすような眼光に射竦められ、一歩後ろ足を踏んでしまうが、赤井くんはパイプ椅子から立ち上がるとにじり寄ってきた。グッと顔を突き出し俺の目を見つめてくる。背筋にひやりとした何かが伝っていくのを感じながら、俺は苦笑いを浮かべる。万事休す。

 と、眉を寄せていた赤井くんが、急に口元を緩めた。

 何が起こったのか分からず瞼を何度も瞬く俺から距離を置くと、目を瞑りながら赤井くんは親指人差し指中指を立てた左手を額に添えた。

「ふふふ。僕を舐めないで欲しいな。君の目的が……灯火さまをアンケートで一位にすることなのはお見通しなのさ!」

「……は?」

 額に添えていた手先を、ビシッとこちらへ向けられた。晴れ晴れしいほどのドヤ顔付き。

「どうせ自分が放送部に入り暗躍することで灯火さまに有利に運ぶようにしようとしたんだろうが、そんな必要は無い。なぜなら、僕たち灯火さま親衛隊がもう既に手は打ってあるからさ。いやさ分かるんだ。灯火さまは可愛いし、高慢でありながら高貴で、ちょっとお惚けてて、ぐへへ。そりゃあ誰でも惚れるだろう。だが、例え放送部に入部が認められたのだとしても、親衛隊への加入は断じて認めない。あそこは真に灯火さまを尊敬し、崇拝し、敬愛し、なおかつ類稀なる能力を持ち合わせている人材だけが加入できるんだ。最近になって灯火さまを見知ったような、どこぞの馬の骨が加入できる場所じゃないんだよ」

 ……どうしよう。この人を一瞬でも鋭いとか言った自分が恥ずかしい。

 一ミクロンも掠っていない予想を、ペラペラとさも当たっているだろうと言わんばかりに語気を強めて言われ「いや、全然違うんだけど」と明かしたい衝動に駆られたが、ここで正直に話すのは不都合が生じるかもしれない。

「よ、よく分かったね」

 とりあえず肯定しておこう。と、赤井くんはにんまりと笑いながら深く頷いてきた。やべえ、やっぱ明かしたい。

「ま、僕でなければ気づくこともなかったかもしれないけどな。そもそも灯火さま親衛隊っていうのはな――」

「ちょっと待った。後でその話はゆっくり聞くからさ、後二、三質問したいんだけど、いい?」

「……早めにしてくれ」

 あのまま放置すれば昼休みが終わるまで話が続きそうな勢いだった。危ない。

「えーと、そうだなぁ。まず一つ目は、ここの火曜日組のメンバーがいつから放送部に所属してるのか」

「そんなことも知らないのか。僕たち火曜日担当は、半年前から入部してるんだ。最初に灯火さまが入部して、その情報を聞きつけた栄一や僕が入部したってわけ。一応他の曜日を担当している放送部部員の中だと一番後発になるけど、それでも灯火さまの力もあって校内では一、二を争う人気ぶりだ」

 腕組みして胸張って。すごい自慢げですね。

「あ、じゃあ次の質問。火ノ元ってどうして放送部に入部したの?」

「ん? 灯火さまが入部した理由?」

 さっきまでの得意げな顔つきから一転、赤井くんは「はて?」と首を斜めにする。

「あー……いや、いいや。この質問はもう良いよ。んじゃあ、最後に聞きたいんだけど、火ノ元っていつからああなの?」

「ああ、って?」

「ほら、火ノ元って元々あんなんじゃなかったろ? もっとお淑やかっていうか、静かーっていうか。悪く言えば――」

 そこまで口にしてから気づいてしまう。

 ハッと口を噤む俺を見て、赤井くんが責めるような口調で問いかけてきた。

「おいどういうことだよ。まるで昔の灯火さまを知ってるような口ぶりだな。詳しく――」

「あー、ごめん。用事思い出した。ちょっと抜けるわ」

 ボロが出ても面倒なので、足早に放送室を後にしようとする。

「待てよ、お前一体何を」

 赤井くんの制止の声を振り切り外へ出ようとしたが、ふと思い出す。

「あ、そうだ。コンデンサーマイクの不調かミキサーで何かいじくったのか知らないけど、音声がおかしいことになってるよ。初めは何の問題もなかったから、間違ってミキサーでエフェクトを入れたんだと思う。多分肘とかで誤ってスイッチを入れちゃったんだろうね。軽微なものだから生徒に気づかれはしないだろうけど、直しといたほうがいいと思うよ」

「え? あ、おい。親衛隊についての話がまだ」

 今度ばかりは立ち止まらずに、放送室の扉を潜っていった。








 放送室を出てから、購買でパンを買った後、いつもの定位置へと向かった。昨日とは違い、空模様は優れておらず、どんよりと鼠色に濁った雲が遠くから流れてくるのが視認できた。

 まぁそれでも昼休みの間に雨が振りそうにはなく、校庭の隅のベンチへ辿り着くと迷うことなく腰を下ろした。

「……今日は遅かったね」

「お前も知ってるだろ。今日から一週間、放送部に関わることになったからな。木曜日にはお前にも会うことになる」

「ふーん。そう」

 木戸だ。もう既に昼食は終えたみたいで、蓋のされたランチボックスを膝の上に乗せながら、ちうちうと紙パックに入ったオレンジジュースをストローで吸っていた。

「……って、木戸もここが気に入ったみたいだな」

「うん。悪くないね。静かだし風通りも良い。冬以外なら使ってあげても構わない」

 素直じゃない奴。しかし、木戸の口元は嬉しげに曲線を描いていて、それがまた俺にまで伝染する。気に入ってくれたのなら何よりだから。

 と。校舎に備え付けられた時計を見てみれば、もう三時間目までは十分を切っていた。早急に食事を済ませなくては。今しがた買ってきた焼きそばパンの封を開ける。パンをパクつきつつ、横から視線を感じたためそちらへ目を向けた。

「……なに?」

「ううん。なんでもない」

 いや何でもなく無いだろ。ジッと俺の焼きそばパン見つめて。食いづらいことこの上ない。でも本人がなんでもないと言っているのだ。気にしないのが一番だろう。

 再度焼きそばパンに噛り付く。

「……いやなに?」

「ううん。なんでもないよ」

 くっそ。馬鹿にされてるのだろうか。他人の見られながらの食事ほど居心地の悪いものもない。しかも食い入るように見つめられれば殊更だ。

 咀嚼しつつ、横からの視線に耐えつつ、どうしたものかと考えたところで、とある言葉が思い出された。

「……食うか? 焼きそばパン」

 以前、焼きそばパンが美味しそうだったと言う木戸の発言を思い出したのだ。

 焼きそばパンの口をつけていない反対側を一口サイズに千切って木戸へ差し出すと、彼女は分かりやすいくらいに表情を和らげた。

「いいの?」

「ああ。物欲しそうな目をしてる奴に施しを与えないほど心も懐も寒くない」

「えへへ」

 人懐っこく笑いながら、木戸は両手でパンを受け取る。そして、小さく広げられた口で啄ばむようにしてパンを食べ始めた。

「どうだ?」

「うん、美味しい」

 そりゃ何よりで。

 漸く自由に食事ができる。と思ったのも束の間、三度横から円らな瞳を向けられた。

「え。おかわりか?」

「ううん。違うよ。ただ、お礼がしたい」

 お礼って。そんな大げさな。

 しかし、木戸はふんすと鼻を鳴らし「さぁかかってこい」なんて声が聞こえそうなぐらいに気合に満ちた目をしていた。

「あー、そうだなぁ。じゃあ、質問良いか?」

「どんとこい」

 そう言って、木戸ははむっと焼きそばパンを頬張った。

「火ノ元の今に至るまでの経緯を知りたい」

 途端、木戸は顔を苦そうに歪めた。

「どうした?」

「食事中には聞きたくない名前だった」

 よっぽど姦しい存在と思っているらしい。本人がいなくてもうるさいと思うほどに。

 木戸は焼きそばパンを嚥下し、一口だけペットボトルのお茶を呷ってから口を開いた。

「具体的には?」

「木戸が初めて会った時、あるいはあいつの一番古い過去から、今に至るまでで『変化』みたいなのがあれば言って欲しい」

「うーん。変化……私と火ノ元は放送部に入部したのは同じぐらいの時期で、その時からあんなんだった」

 つまり、口喧しいと。

「あ。そう言えば、変化とは違うかもしれないけど、月島がいる時の火ノ元はどこか大人しい。それで、昔は月島と喋るときはいつも様子がおかしくて、この前ここで土田くんと会ったときみたいな感じだったんだけど、最近はマシになってきた」

「あー……なるほど」

「こんなので大丈夫?」

「ああ。参考になった。ありがとう」

「どう致しまして」

 と、木戸の目線が焼きそばパンに注がれる。無言で焼きそばパンを千切って差し出してやると「えへ」と笑いながら木戸は受け取った。まるでイルカやアザラシに鰯を餌付けしてやってる気分だ。

「お。そうだ。取って置きの豆知識を一つ披露してやろう」

「え。うん」

「海の生物でだなぁ、すっげえメンタルが弱いやつがいるんだよ。同じ種類の動物が死んだら、それだけでショック死するやつが。他にもウミガメが近づいてきただけで死んだりするらしいんだけど、その生物の名前は――」

「知ってる。マンボウでしょ。あと、それだけ精神的に弱いと種の保存ができないからか、子供は三億匹産むらしいね」

「ま、じ、で!?」

 なんで俺の知らないネタまで知ってんだよ。俺が驚いちまったじゃん。わざわざ昨日家に帰ってすぐさまネットを開いて調べたってのに。そのおかげで卒業アルバムを見るの忘れちゃったし。つか三億匹ってやべえだろ。マンボウが何かの間違いで人間レベルの知能指数を持って二足歩行とかして人類に牙を剥いたら日本とか一瞬で沈没だろ。いやあり得ないのは分かってるけどさ、中二病心をくすぐられるぜ。

「っと、それより、最後にもう一つ質問して良いか?」

「自分から言っておいてそれよりって……まぁ、いいけど」

 まったくその通りだが、木戸を見てアザラシやらイルカやらを連想してマンボウに行き着いたなんて言えない訳で。

「放送のスケジュールに関して尋ねたいんだけど、あれって各曜日とも集合時間とかは決まってるのか? 今日は昼からだったから良いけど、明日朝から放送室に行くとしたら何時ぐらいに行けばいいのか検討がつかなくて」

「きっちりと集合時間を決めてる曜日は金曜日ぐらいじゃないかな。後は皆自由な時間に来てると思う。一応、八時に放送が始まるから、少なくともその十分前に行けば大丈夫だと思うよ。なんなら、私から水上に聞いておこうか? いつも放送室にいつ頃行ってるのか」

 水上水夏。水曜日担当のパーソナリティだ。彼女との連絡手段を持ちえていない俺からすれば、木戸の提案はありがたいものだった。が。

「え? でも、木戸が水上からそれを聞いたとして、俺にどうやって伝えるんだ?」

 素朴な疑問だったのだが、木戸は存外に簡単そうに応えた。

「携帯で良いでしょ?」

 そう言って、木戸はスカートのポケットから携帯電話を取り出した。

 え、え、えええ? これは世に聞くアドレスゲットチャンスですか? 女子のアドレスなんて今まで一人二人ぐらいしか登録したことなかったのに、こんな簡単に高校でも有数の美少女からアドレスがゲットできて、良いんですか?

「良いんです!」

「……何だか、身の危険を感じる」

「ごめん、忘れて。何でもないから」

 思いっきり眉を顰めて汚物でも見るような眼差しを向けられた。このまま暴走してたら鼻まで摘ままれたままに立ち去られそうだ。

 その後、二人で携帯を出し合って赤外線通信を使用してアドレスを交換……しようと思ったのだが、どうやら今時の携帯は赤外線通信なんて機能が付いていないのが当たり前なのだそう。案の定、木戸の携帯は赤外線通信に対応していない端末だった。

 なぜあれほどに便利な機能を無くしたのか。スマートフォンとは多機能を売りにしていたのではないのか。そんなことをぶつぶつと言いながら手打ちで木戸のアドレスを打ち込んでいたら、木戸に「じじくさい」と言われた。

 土田夕日は『じじくさい』の称号を手に入れた。などと脳内でRPG風BGMに乗せてテロップを流したところで、丁度予鈴が鳴り響き木戸と別れた。

 校舎へと引き上げる最中、ぽつりぽつりと頬を濡らす水滴の存在に気づき、空を仰ぎ見れば既に雨雲が立ち込めていた。そして遠くで雷が落ちる音が聞こえたのだった。











「皆様、ご機嫌よう。下校の時間ですわ。本日は『別れのワルツ』をお送りしていますわ。

 昨日の月島さんの放送をお聞きになられた方はご存知でしょうが、今週で一学期の放送は終わりですわ。なので、火曜日担当の私、火ノ元灯火の声をお聞きになられる機会も暫くはございませんわ。寂しいでしょうけど、この放送でとくと私のお声を満足いくまで傾聴してくだ……? くだ? ……お聞きになられればいいですわ。うん、完璧ですわ。

 とまぁ、昨日は月島さんが思い出話をしたとのことなので、私も思い出話をしましょう。

 あれは小学生の頃だったかしら。いや中学生だったかしら。まぁそのどちらでも構わないですが、お父さ……まの別荘へと遊びに行く機会がございましたの。

 別荘は、都内の一等地に大体東京ドーム三個ほどの面積を有している敷地内にあって、目の前にはプライベートビーチがございますのよ。

 そこで私は自由に、華麗に、優雅にスイミングをしてましたの。

 そうして休憩を挟もうと浅瀬へと引き上げたところで、なんと二人組の男性に話しかけられましたの。

 歳は私よりも四、五程上で、二十歳前後と見受けられましたわ。格好は海パンで、私と同じく遊泳目的……かと思いきや、いわゆるナンパ? と言いますの? それだったのですわ。

 馴れ馴れしく「どこ住み?」「いくついくつ?」などと話しかけてきて、あまつさえ私の白い肌に触れてこようとしてきましたの。

 そこで私、ぴしゃりと言ってやりましたわ。「あなた方のような下賎な人たちにホイホイ付いて行く様なペーパーガールではございませんわ」と。その時の男性の顔と言ったら、もう、えーと、なんていったかしら、この気持ちのこと、り、りゅう……あ! 流星が流れるですわ! ふふん、私ったら博識。

 それで、逆上してきた二人組の男性が私に暴行を働こうとしましたの。けど、そこは私。返り討ちにしてやりましたわ。一本背負いからのー、んー……海老固め? そのまま、じゃ、ジャイアントコーン?

 砂浜でバタンキューと倒れる彼らの前でパッパと手を払いながら、そこでまた言ってやりましたわ。「公共の場でナンパなんて、不潔ですわ」ってね。……じゃない、ってですわ。

 そこで周りからは歓声が上がって、正に、えーと、正に……そう! 満員御礼! もう拍手喝采で満員御礼でしたわっ!

 その後もホテルに戻ってからクロークに――」







「……」

「……いいの? あれ。もう色々とツッコミどころありすぎる感じだけど」

「君がとやかく言うことじゃないだろう」

 まぁ、そうなんですけどね。俺はあくまで親睦を深めるためだけに各曜日に派遣されてるのだから。しかし、相手が親睦を一切深めようとしないのはどうなのか。無意味じゃなかろうか。

 俺の目の前のパイプ椅子に腰掛け、マイク室でご満悦な様子の火ノ元を一心に見つめるのは栄一くんだ。昼間には火ノ元と共にマイク室に詰めていた彼だが、今だけは調整室で昼間に赤井くんがやっていた仕事をしている。

 では赤井くんはどこにいるのかとなるのだが、彼はどうやら早退したらしい。栄一くんと火ノ元の会話を盗み聞きしたが、早退理由は胃の調子がおかしいからだったそうだ。……いや盗み聞きだよ? 本当だよ? いないものとして扱われたわけじゃないよ?

 それにしても、火ノ元を一人にさせておくと、こうもボロが出てしまうものなのか。なるほど。だから栄一くんが直ぐそばでいつも控えているのか。

「……気色が悪いから見つめないでくれるかな」

「あー、ごめんごめん」

 瓶底メガネだから栄一くんがどこを見てるのか分からなかった。なかなか便利なメガネである。

 結局、言葉を交わす相手もいなくて、パイプ椅子に座る火ノ元の様子を防音ガラス越しに眺めながら、彼女の声、そして流れる曲に耳を傾ける。

 別れのワルツ。名前だけを聞いても、どんな曲だか分かる人はあまりいないだろうが、殆どの日本人なら聞いたことがあるだろう。

 スコットランド民謡の『オールド・ラング・サイン』。これに日本語の歌詞をつけたのが『蛍の光』。そして、別れのワルツは『オールド・ラング・サイン』を日本人が編曲したもの。一般的に店舗や施設が閉店ないし閉園する際に流れる曲で、蛍の光のメロディに歌詞がついていないものは、その殆どが別れのワルツなのである。この三曲で一番日本人が聞き馴染みあるのは別れのワルツだろう。

 厳かでありながら優しいメロディはどこかノスタルジーな思いに浸れ、俺の目には火ノ元という美少女が映る。眉目秀麗、艶々としたツインテールはまるで生き物のように彼女の動きに追従して跳ねる。様になる、と一言で言ってしまえば簡単だが、彼女を見て思うことは多分にあるのだ。

 ……とは言え。

「――この美貌に目が眩み、不埒な行いを働こうする輩が多くて困りものですわ。ええ、確かに自分でも罪作りなのは承知しています。でも、生まれながらの賜物を、今更悔やむわけにもいかず、日々この美貌を更に磨き上げるよう――」

 声質的には悪くないのに、内容があまりにも不遜だ。勿体無いとは正にこのこと。黙ってれば、あるいは楚々としてれば良い女になるのに、何が彼女をこう勘違いさせてしまったのか。

 しかし、俺の価値観からしてみれば小うるさく感じる少女だが、中には彼女のそんな態度もまた惚れ直す要因となる人物もいるわけだ。

「栄一くんは、中学の頃から火ノ元と一緒にいるらしいね」

 話しかけると、栄一くんは押し黙ったまま俺を一瞥してきた。

「中学当時の火ノ元ってどんなんだったの?」

「……僕に聞くことじゃないよね」

 しつこく話しかけられるのが面倒と思ったのか、栄一くんは一言だけ返事をくれた。

 俺は右腕を腹部に沿う形で水平に上げ手のひらを左腕の肘置きにすると、左手の腹を頬に押し当てた。

「じゃあ質問を変えるよ。いつから栄一くんは火ノ元の側近みたいになってるの?」

「さぁ? 君が初めて因数分解を習った時期ぐらいじゃない? それと、栄一って呼ばないでくれるかい。僕は赤木だ」

「あ。そう。ということは、栄一くんは中学三年生から側近なんだ。それも六月だ」

 すると栄一くんは盛大にため息を漏らしてこちらに顔を向けてきた。

「馬鹿にしてるのかい?」

「そっちが言ったことに対して真面目に反応してるだけだけど」

 俺が肩を上げてそう言うと、栄一くんは呆れたような顔をしてまた前へと向き直った。

「……僕が灯火さまと知り合ったのは中学二年生だ。もうこれで勘弁してくれ」

「了解」

 中学二年生、か。

 色々と思い巡らせている間、栄一くんと交わす言葉は無かった。火ノ元の話、別れのワルツ、そして放送室の窓ガラスを濡らす雨の音を聞いているうちに、放送は終わった。

 そうして、火ノ元が調整室へとやってきたのだが。

「わ、私、ちょっと所用がこのあとございますの。ごめんあそばせ。栄一、後片付けは頼みましたわよ」

「はい、分かりました」

 俺の目を一度も見ることなく、火ノ元は放送室を足早に出て行った。

 俺は頬をポリポリと掻く。あからさまである。

 栄一くんは手馴れたもので、機材の後片付けや手入れなどをテキパキと行っている。

 手持ち無沙汰故に「手伝おうか?」と聞こうか迷ったが、彼のことだ。百パーセント断ってくると考えてただ見守っていた。

 後片付けは二分ほどで終わり、栄一くんは放送室の鍵と学生鞄を持ちながら、ぼーっと立ち尽くしていた俺を見つめてきた。

「もう出るよ」

「あー、うん」

 有無を言わせぬ物言いである。

 共に放送室を出て、栄一くんは鍵を閉めると「僕は職員室にこれを届けないといけないから。それじゃ」と言って返事も待たずに職員室へと消えていった。

 ……やべえ。やべえよ。今まで感じたことないほどの疎外感だよ。

 まぁ、何となく理由は悟ってるんだけどね。

 ここでこのまま立っていても時間の無駄なので、一路鞄を置きっぱなしにしている教室へと引き返した。

 その道中。

「あ」

 火ノ元と教室の近くでばったりと出くわした。あからさまなまでに驚いた様子の彼女に、手を軽く上げて目礼する。

「ご、ごめんあそばせえええ!」

 が、脱兎の如く逃げられた。まるで性犯罪者に迫られた女子みたいだ。

 教室に戻り鞄を取ると、さっさと昇降口へと向かった。

 途中、ふと踊り場から外を見ると、栄一くんが一人で傘を差しながら帰路に着いているのが見えた。流石慣れたものである。早い。

 昇降口に着いて、下駄箱で靴を履き替えつつ、鞄の中に入れておいていた折り畳み傘を取り出す。

 もう辺りに人気は減っていて、疎らに生徒たちが行き交うだけだった。その中で、校舎の入り口に立ち尽くす人物が一人いた。空を見上げ、憂鬱そうな表情を浮かべている。

 ジッと見ていたのを気づかれたのだろう。その人物は俺へと目線を寄越してきた。

「あ。……土田、くん」

「傘ないのか?」

 火ノ元だ。逡巡した後に、恐る恐る頷いた。

「そうなのよ。天気予報、見ていなくて」

 普段の彼女より塩らしく見えるのは、多分相手が俺だからだろう。

「そっか。傘、貸してやろうか?」

 持っていた折り畳み傘を差し出す。と、火ノ元は両手と首をぶんぶんと横へ振った。

「そ、そんなの申し訳ないわ」

「でも、用事があるんだろ、この後。間に合わなくなるかもしれないぞ」

「あぁ……その、それなんだけど、嘘だったのよ」

 まぁ薄々勘付いてましたけど。俺と離れるための詭弁だったのだろう。けど、彼女をそれで責めるつもりは特に無かった。

「何にせよ、ここでずっと雨宿りしてても無駄だと思うぞ。予報だと雨は今日の深夜まで降るらしいし。それに――」

 この後は豪雨になって雷まで落ちてくる。そう続けようとしたところで、タイミングよく雷が空を割いて落ちてきた。けたたましい音と眩い閃光が辺りに広がる。それと同時に、火ノ元がびくりと身を震わせ。

「ひぃっ」

 か細い悲鳴と共に持っていた鞄を放って俺に縋り付いてきた。

 ふんわりと、フレグランスの香りがした。花の匂いだ。

 身を縮こまらせ、ぷるぷると震える火ノ元は俺の胸元に顔を埋めていたが、ハッと気づいたように体を離した。

「ごめんなさい……」

 自分の体を抱きながら、俯き加減に目を向けられた。気弱そうに下げられた眉尻が、どこが儚い印象すら受ける。嗜虐心の強い人間が見ればこの上なくそそられるだろう。

 だが、俺は紳士だ。クスリと笑い、安心させるように暖かい声色で話しかける。

「だ、だいぞぶだよ。きにじなっで」

 やれやれ、噛んでしまったようだ。しかも声が震えてるぜ。……うああ、死にてぇぇぇ。

 つか昨日今日と嬉し恥ずかしハプニング多すぎだろ。俺の心臓持たないぞ。彼女たちみたいな美少女相手じゃなくても、普通の女子とすら話す機会も少なくて、むしろ毛嫌いされてて、と言うか無視されてて、影ではきっと気持ち悪いだの死ねだとか罵倒されてて、いやいやそもそも存在すら認識されてないだろうに……うああ、死にてぇぇぇ。無性に死にたくなった。

 この世の終わりみたいな顔をしているからだろうか、火ノ元は心配そうに顔を覗いてきた。

「本当にごめんなさい、気分を悪くさせてしまったかしら」

「いや、本当に大丈夫。自分の身の上を考えて欝になってただけだから」

「そう?」

「それより、傘。貸すよ?」

 ここでカンタならサツキに「んん」と喉だけを鳴らして押し付けるように傘を渡すのだろうが、僕みたいな度胸無しにそんなことはできないのです。

「でもそれは――」

「男なら塗れても良いでしょ。女の子より体は丈夫なわけだし、世間的に見ても男が雨の中傘を差してないことぐらいそう珍しいことじゃないし。むしろここで傘を受け取ってもらえないと、男が廃る」

 そこまで言えば、火ノ元も断りようがないと判断してくれたみたいで、張り詰めていた糸を切ったように、フッと息を吐きながら頷いた。

「分かった。一先ず、お借りしますわ」

 先払いの報酬とでも言おうか。火ノ元の微笑みは、息を呑むぐらいに可愛く見えた。むしろ俺には勿体のない報酬である。

「おう。んじゃ、俺は行くわ」

 学生鞄で頭を隠し、そこで思い出す。そう言えば今日木戸とアドレスを交換した携帯電話がズボンのポケットに入ったままだと。折角美少女とアドレス交換したのだ。雨に塗れて故障しアドレスが無くなった日には死んでも死に切れない。帰りに交通事故に遭ったら木戸に取り付くレベルである。

 ポケットの携帯電話を手に持つと、それを学生鞄の中の教科書などで下敷きにしてしまおうとして。

「あ、あの」

「ん?」

 そこで声をかけられた。

 火ノ元を見ると、彼女は頬を染め胸に手を当てながら熱っぽい瞳をしていた。

「……一緒に、入らない?」

「え。傘、に?」

「ええ。嫌なら、無理にとは言わないけれど」

 折りたたみ傘は男一人入るだけでも、雨粒が衣服に付着するほど小さなものだ。それを二人で共有だなんて……。

「ちょっと難しいんじゃ」

 考えあぐねた末に、断ろうと判断した。折角塗れないようにと傘を貸したのに、二人して塗れたら本末転倒だから。しかし。

「う」

 捨て去られた子犬のような目。うるうると気弱く揺れる瞳で見られてしまえば、俺も良心の呵責を感じてしまう。

「わ、分かった。入ろう」

「ええ」

 口どけ甘いふんわりシフォンケーキな微笑。

 火ノ元は傘の止め具を外し、それを広げる。

「……」

 そこで停止。

「どうした?」

 声をかけると火ノ元は動揺したように目が俺と傘に行ったり来たりする。

「え、あ。傘、小さい」

 そりゃ折りたたみ傘なんだから小さいだろ。

 しかし火ノ元はそれを予想していなかったのだろう。ここに来て漸く状況が理解できたらしい。

「無理なら無理って」

「大丈夫! 大丈夫だから。ええ、大丈夫」

 まるで自分に言い聞かせているようだ。そして俺の顔を見ずに一人で頷くと、小刻みに揺れる手で傘の手元を掴み胸の高さまで上げると、俺の頭を生地で覆い隠した。

「それでは、行きましょう」

 硬い口調に、強張った表情。あからさまに緊張している。無理しないよう言い聞かせたいのは山々だが、堂々巡りだろう。

「うん、そうだね。ただ、一つだけ条件を出してもいいかな?」

「え?」

 条件だなんて上から目線でものを言うのもおかしな話だが、どうしても譲れないものがあった。








 雨でけぶる町並み。地面を跳ね返る雨粒が容赦なく足元を濡らし、体温を奪い去っていく。一寸先は闇、とまではいかなくとも、十メートル先の景色すら不明瞭で、気づけば何度も水溜りを踏みしめてしまっていた。ザーザーとアナログテレビの砂嵐のような、耳障りな音だけが辺りに響いている。人の気配は無く、まるで世界に俺と火ノ元だけを取り残し他の人間が全員すっかりいなくなってしまったような錯覚にさえ陥りそうになる。空はどんよりと曇り、遠くの果てまで雨雲が続いている。気分さえ滅入ってしまいそうになるが、せめてもの救いは場の空気の明るさ。

「……」

「……」

 無言ですけどね! 全力で沈黙してますけどね!

 無理はさせまいと歩幅を火ノ元に合わせて帰路に着いているのだが、その気遣いが彼女の心を痛めさせてしまったようで、しきりに『ごめんなさい、ごめんなさい』と繰り返され、段々と声は小さくなり、最後には雨音にかき消された。

 ちらりと横目を向ければ、すっかり意気消沈した様子でとぼとぼと歩いている。それでも背筋がぴんと伸びているのは、日頃から姿勢良く行動しているからであろう。正にお嬢様然としている。

「あの……」

「うん?」

 ぽつりと、久しぶりに口を開いたのは火ノ元だった。

「もうこの辺りで大丈夫よ」

「大丈夫って、こんな雨の中で傘も差さずにいたら数秒で全身ずぶぬれになるよ。それとも、この傘火ノ元に預けようか?」

 先ほど火ノ元に提示した条件は「俺が傘を持つ」ということだった。色々と理由はあるが、最たる理由は彼女の体を濡らさないため。変に気を使われ、俺にばかり傘の庇護を受けさせられかねないと考え、この提案をしたのだった。最初こそ火ノ元は何の疑いも無く「構いませんけど」と言っていたが、いざ歩き出し校門を抜けた辺りから俺の右肩を気にしだしていた。傘の骨を伝い落ちる雨粒が、右肩へと滴っていたのだ。そのことを彼女が指摘しようと口を開いたことが数度あったが、その都度俺は彼女の声を掻き消すように話しかけ、あるいは独り言を述べていた。

 いやぁ、性格が悪いこと悪いこと。そんな態度でいられれば、火ノ元も口を噤むしかなかったみたいだ。

 そうしてフラストレーションを溜めてしまった結果がこれなのだろうか。あるいは、俺と相合傘など真っ平ごめんだったとか。

「けど、これ以上は……」

 自らの両肘に両手を当て、寒そうに僅かに身を捩る火ノ元。これ以上はって、まさか本当に。

「そうだよな。俺みたいな気持ち悪い男子と相合傘なんて嫌だよな……」

 ふぅ。もっと早く気づくべきだったかなぁ。火ノ元は傘を貸してくれたから嫌々で、本当に仕方なく俺と一緒の傘に入ってただけなのだ。それに心底耐えかねたから、ここを一刻も早く抜け出したく思ってるのだ。あぁ、この頬を伝う雫は雨? それとも涙? いや、どちらでもない。心の汗だよね。

「ええ? 違うわよ、その、色々事情があって」

 出ました女の子の常套句。明確にはその事情を明かさず、やんわりと現在もしくは未来における状況や予定を、自分の良い様に運ぶんです。デートの誘いとかもこんなんで断るよね。『その日は駄目になったから、とりあえず予定が未定だからきちんと分かったら連絡する』みたいなね。あーあ。中学校の時の美里ちゃん元気かなぁ。同じ台詞で俺との遊びを断ってから二週間後ぐらいに彼氏作ってたなぁ。しかも噂だと俺と約束してた日が記念日なんだってさ。悲しいよね。辛いよね。死にてぇぇぇ。

「はぁぁぁぁ」

 魂を息に混ぜて吐き出さん勢いで嘆息する。今ならエクトプラズム状の何かを出せそう。挑戦してみようかな。

「わ、分かったわ。分かったからそんな顔しないでよ。家まで行きましょう?」

「いや良いんだよ。正直に言ってくれてさ。気持ち悪いからでしょ?」

 我ながらその発言自体が気持ち悪かったのだが、ひょいと火ノ元の横顔を伺うと、彼女は真摯な顔つきのまま横へ緩慢に首を振った。

「いいえ……そうじゃなくて、土田君なら、分かると思うんだけど私のお家あれだから、恥ずかしくて」

 あれ? あれって言うと。

「あぁ、なるほど」

 思い当たる節は確かにあった。伝聞だから自分の目で確かめたわけではないのだが、それが正しいのなら火ノ元が俺を家まで一緒に同行したくない理由にはなりえる。

「俺は気にしないぞ。そんなんで見る目を変えたりもしないし」

「そう……」

 気休め程度の言葉にもならなかったようだ。火ノ元はそわそわとしながら、より一層重い足取りとなった。

 果たしてその後も交わす言葉は無く、辿り着いたのは広大な土地を持つ豪邸の門前だった。日本屋敷と言うのだろう。土地を囲むように建てられた塀の奥に、杉の木や古めかしくも厳かな瓦屋根が見えた。

「ここ、なんだけど」

 二人してそこで立ち止まる。いやはや、噂に違わぬ住居である。

「いや、別に良いじゃん。恥に思う必要もないだろ」

「だって、こんな――」

 片側一車線の通りの左側に先ほどの豪邸。しかし、反対側には剥がれかけの塗装の目立つアパートが一棟建っていて、火ノ元はちらりとそちらを見ながら恥ずかしそうに続けた。

「こんな、オンボロアパートに住んでるなんて、誰にも言えないわ」

 オンボロ。錆付いた螺旋階段に、ところどころ亀裂の入った佇まいは、確かにオンボロと称するのに相応しいのかもしれない。特に、彼女の場合は嘘を吐いているのだ。学校ではまるでお嬢様のような振る舞いをして、けれどもこのようなアパートに住んでいる。彼女のプライドが、ここに住んでいることをひた隠しにさせてしまっているということが、つまりは彼女がこのアパートに住んでいることをコンプレックスに感じているということ。

 人間、誰しもが二面性を抱えてるものだ。表面上の顔とは裏腹に、一物を抱える人間ばかり。そういったことを鑑みれば、彼女の嘘は可愛いものだと思う。個々の価値観で相違はあるだろうが、気持ちに嘘を吐くより、経歴や素性を嘯くほうがマシだということ。

 しかし、軽々にそれを告げる気にはなれない。だからこそ無関心のままでいる。

「安心していいよ。俺はこのことを誰かに漏らしたりはしないから」

 不安にさせぬよう、しっかりと彼女の目を見て話す。

 火ノ元は言葉に迷ったようで、最後には項垂れてしまった。が、ふと視線を俺の右肩へと注ぐ。

「とりあえず、家の中に入ってくれるかしら? タオルを貸すわ」

「そうか? それじゃ、少しだけお邪魔させてもらおうかな」

 火ノ元の住む部屋は一階の左端だった。木製の扉は下部の表面が剥がれている。それに、台所付近の窓だろうか。蜘蛛の巣が張られている上、明かりも室内からは漏れておらず、ちょっと不気味な様子だ。

 彼女がコンプレックスに感じている以上、じろじろと見るのも不躾だと思い、二階の廊下から滝のように流れてくる雨の向こう、反対側の屋敷へと顔を向ける。……本当、凄い豪邸だ。敷地内に建物が三つは見受けられる。そのどれもが荘厳。素人目で見ても、億は下らないのだろうなと予想が立つ。

「はい。どうぞ」

 声をかけられ視線を戻す。もう既に火ノ元は室内に入っていて、俺が中に招き入れるように扉を押さえていた。

「ありがと。お邪魔します」

 扉を押さえるのを引き継ぎ、玄関口へと入る。

「一旦、ここで待っていてもらえるかしら? タオルを持ってくるから」

「ああ、分かった」

 くるりと軽やかに身を翻し、火ノ元は奥へと入っていった。

 他所の家に上がりこんでおいて失礼なのは重々承知していたが、それでも、嫌が応にも目に付いてしまう室内の状況。玄関の右側は壁で、左側にはキッチンが広がっていた。外に面する形で水場があり、およそ三畳ほどのキッチンの中央には腰程の高さの円形をしたテーブルが置かれており、対面する形で椅子が二脚置かれていた。そして、台所の奥には腰の高さほどの部分に窓があり、窓辺には置物がいくつかあった。その中には、いくつか写真立てが並んでいて、その内の一枚の写真に目が止まる。二人の人物が、カメラのレンズに向け笑顔を振りまいているものだった。……それを見て、ある憶測を立てたところで自戒する。それについては深くは考えず、視線を滑らせる。水場の反対側には木で縁取られたガラス戸があり、奥の部屋へと続いていた。火ノ元が消えたのはその奥だ。締め切られていないガラス戸の隙間からはやはり光源はなさそうだった。そこで気づくのは、玄関先の靴の数。火ノ元が今しがた脱いだパンプスの他に靴は無かった。

「ごめんなさい。お待たせ」

「ん。ああ、ありがとう」

 下げていた顔を上げ、水色のタオルを持ってきてくれた火ノ元に礼を言う。

 火ノ元も俺がタオルを受け取ると、ピンクのタオルで髪の毛を拭いていた。特にツインテールの左側が濡れているようだった。

「……家の人は、留守なのか?」

「え? ええ、そうよ」

 何を聞いても薮蛇になりそうだ。自粛しよう。気持ちを入れ替えて塗れた髪をわしゃわしゃと豪快に拭いてから顔を上げると、火ノ元が警戒した様子で身構えていた。

「あん?」

「まさか。体目的?」

「何故そうなった」

「だ、だって、留守かどうか聞いてきたし」

 火ノ元は胸の前で腕を絡めたまま、片手を口元に当てて俯き加減に俺を見上げてきた。ほんのり色づいた頬としっとりと水を含んだ髪も合わせてエロく見える。

 だが、最近のハプニング尽くし。そして元来俺は朴念仁と称されるぐらいにクールな人間なのだ。朴念仁がそもそもクールと同義なのかはさておき、つまりこんな桃色な展開にも俺は反応しないのである。こう言うとまるで前振りのように聞こえるかもしれないが本当なのだ。期待を裏切って申し訳ない。

 故に、ニヒルな笑みを浮かべ、薄く唇を開く。

「そ、そそそ、そんなわけないだろろ」

 期待通りだよねえ! 自分でキャラ作って返答したらどもらないだろうって思ってたけど、そんなわけないよね! 知ってました。

「……」

 案の定、火ノ元は俺から二歩距離を置いた。表情も引きつってる。すかさず手を突き出し距離を詰める。

「ちょ、ちょっと待った。本当に変な気を起こしてもないし、起こす予定もない」

 女相手に言うことではないが、身の潔白を証明するために止むを得ない。

 一歩間違えれば「私に魅力がないって言いたいのかしら?」などと詰問されてもおかしくないのだが、けれど火ノ元はクスッと笑った。

「へ?」

 ぽかんとする俺を見て、火ノ元は口元を隠しながら首を振る。

「ごめんなさい。冗談よ。分かってるわ。土田くんがそういう人じゃないって」

「え。あー、まぁ、それならいいけど……」

 調子が狂う。勝手に火ノ元に気さくなイメージを無くしていたから、こう親近感の沸く発言をされても、どこまで歩み寄っていいのか分からなくなる。……あ。単純に女の子と話す機会が少なかったら戸惑ってるだけですかね。そうですよね。

「とりあえず、今日はこれぐらいで帰るよ。タオルありがとうな」

 髪を拭ったタオルを火ノ元に手渡す。と、彼女は表情を硬くして、どことなく悲しそうに目を細め俯いていた。

「どうした?」

「……やっぱり、おかしいかしら。同年代の子にこんな冗談を言うのは久しぶりだったの。こうなってからは本音も出してなかったから、その……本当の自分がどこにあるのか、最近分からなくなってて」

 俺はあまり他人の深層心理や、ひた隠しにしている事柄、それに家庭の事情などのプライベートに関して、探りを入れるのを好まない。けれど、こうして悩んでいる相手から真剣な顔をして告げられて、何も言わないなんて男らしくない行動は取れないわけで。

「本当の自分っていうけどさ」

「……」

 火ノ元は顔を上げ、濁りのない瞳を俺に向けてきた。

「そんなの、誰も持ってないんじゃない? 女性に対する対応と男性に対する対応が違うように、年齢、立場、話す場所、どれだけ親しいのか、例だけでも枚挙に暇がないけど、そのどれもで他人との接し方は変わるし、そのどれもが本当の自分だよ。少なくとも俺はそう思ってるし、そうでなかったら俺だって本当の自分なんて持ち合わせていない」

 悩みってのは、自分の中である程度の方向性を見定めている場合に出てくることが多い。特にそれを他人に意見を聞くときにはその傾向が強い。つまり彼女自身、俺の反応がどうであれ、自分が冗談を言うことをおかしいと自覚していたのだ。その上で自覚的にであれ無自覚であれ、俺に的確なアドバイスなどを求めたかったのかもしれないが、生憎と俺は冗談やユーモアのセンスは人並みだ。大見得を切って彼女に教示するほどに精通している分野ではない。だから、最後に、俺の個人的な意見だけを告げようと思った。

 俺の言葉を吟味でもしているのか目線を下げる火ノ元へ、俺は玄関の戸を押しながら告げる。

「でもさ」

 ぴくんと顔を上げる火ノ元と目が合う。ちょっと呆けた様子の顔がおかしく見えて、俺は笑みを浮かべつつ続ける。

「俺は、学校で見る火ノ元より、今の火ノ元の方が近寄りやすくて好きかな。冗談が慣れないなら、俺が練習台にでもなるから、いつでも冗談言ってくれ。じゃあな」

 片手を上げ、呆気に取られる火ノ元を残して外へと出て行った。

 ……そのまま家路に着いたのだが、その道中、ずっと悔やんでいた。

「……あれってだいぶ恥ずかしい台詞だよな」

 気づけば体がぷるぷると痙攣を起こしていた。









 我が家における女尊男卑はもはや日本国の縮図のようである。

 それもこれも、上に立つ人間がいけないのだ。母親の横暴を、父親が諌めもせずに何でも引き受けあるいは許し。そんな両親に育てられた子供は二人。一人は俺、そしてもう一人が俺の妹だ。

 仲睦まじく、互いに手を取り合い、健やかに成長を遂げ……はせず、両親の関係の捻じ曲がったヴァージョンが俺たちである。さっきもそうだ。豪雨の中、ズボンの裾から水を垂らし帰宅してきた俺は、偶然にも玄関で妹と鉢合わせたのだ。妹はキャミソールにホットパンツ姿で片手に持ったアイスをペロペロと舐めながら自室のある二階へ向かう最中だったようだ。

 俺は確かに「ただいま」と言った。絶対言った。にも関わらずあのやろう、足を止めず、路傍の石でも見るかのように一瞥だけして無表情のまま立ち去っていった。無言ですよ。一言声をかけてくれてもいいと思うんですよね、僕は。「兄さん、タオル持ってくるから待っててね」とか。そうでなくても「お兄ちゃん、風邪引かないようにね」とかさ。いや、そもそもあいつが俺を何て呼んでるのかすら覚えてないんだけどな。それでもさ、人間がコミュニケーションを取るためには口を開かなきゃだと思うんだ。お口。お口ですよ。何のために口はあると思う? 喋るためだからだよ。どうせ妹に言ったら「物を食べるため」とか屁理屈を言うんだろうけど、そういうことが言いたいんじゃないんだよ。人間ってのは文化や文明が進化していく過程で色々な身体的な機能を退化させ、もしくは消失させて、その一連の中でコミュニケーションを取るための――。

 ――なんて風に、延々と説教めいた事をのたまうからいつの間にか妹から嫌われたのだと結論付けたのは、二階の自室に入って五分ほど経過したときだった。ちなみに隣は妹の部屋である。

 まぁ悪い癖だ。典型的な内弁慶である。家で、あるいは年下相手にしか自説を喋れない。そりゃウザがられますわ。俺だってそんな奴嫌いだし。……あぁ、他人どころか自分にすら愛されない俺って。

 何故か最終的に全身の空気を吐き出さん勢いでため息を吐いていた。きっとこの呼気が視覚化できたら、紫色したヘドロ状の物体だろう。

 と、床に放っていた鞄の方から音が聞こえた。

 ここでまさかの心霊現象!?

 と思ったのも束の間。鞄に携帯電話を入れていたことを思い出す。

 鞄を開け、携帯電話を探しながら、ふと思い浮かんだのは一つの可能性。

『さっきはごめんね、面と向かって言うのは恥ずかしかったんだ。だから、メールで言うね。お帰り、お兄ちゃん!』

 やべえ、想像上の文面だけで涙が。長きに渡る宿怨に終止符が打たれるんですね。分かります。

 鼻をすんすん啜りながらチカチカと光る携帯電話を手に取り、妹からの愛情に満ちたメールを見たいその一心で、ディスプレイを眺める。

『メール着信 木戸透子』

 ……え、なにこれ。オチがつかないぞ。ここはせめてお袋から『買出し。めんつゆ。牛乳。トイレットペーパー』みたいな文面の方がしっくりきたんですが。

 何はともあれ、木戸からのメールだ。相手は紛うこと無き美少女ですよ。正直妹のことなどどうでもよくなった。うん、妹とか誰だよそれ。名を名乗れよ。

 鼻歌交じりに携帯を操作しつつ、木戸から届いたメールに思いを馳せる。木戸の性格上端的な内容だろう。でもそこが良いよね。愛らしいよね。メール慣れしてないって言うの? そこがまたポイント高し。

 メール画面を開き、木戸からのメールをディスプレイに映す。

『今日すごい雨(雨マーク)だったねー(しょんぼり顔マーク)(下向き矢印×2)

でも明日は晴れ(太陽マーク)らしいよ(にっこにこ)

洗濯物(服の絵文字)干すなら明日だね(太陽マーク)(にっこにこ)』

 やっば! 何この子! メールマスターじゃん! デコデコのキラキラで元気ハツラツ過ぎるんですけど。普段の木戸要素が一欠けらも残っちゃいない。でも……それも、いい!

 ほんわかしてしまう。ぐふふと青い猫型ロボットみたいな笑い声を上げてしまう。と。

「きっも」

 聞こえてるからな妹! お前が思ってる以上に、ここの壁薄いんだからな! いや、多分予想通りの薄さなんだろうけどね。俺に聞かせる気満々で呟いたんだろうね。

 ふん、妹に嫌われても構わないし。最近は美少女に囲まれてるから、あんな子いなくてもいいんだから。つ、強がりなんかじゃないんだからねっ。

「あ」

 一人ツンデレを脳内で繰り広げたところで、とあることを思い出す。

 卒業アルバム。そう言えば、月島さんが見てとか言っていたな。昨日は思いっきり忘れてたし、今日こそ見なくては。

 自室の奥、窓際に置かれた本棚の一番上、中学校のものと横並びになっていた小学校の卒業アルバムを抜き出すと、机に備え付けられた椅子に腰掛けページを捲った。

 捲る手が止まったのは小学校六年生当時同じ組に在籍していた生徒一覧の顔写真が並んだページを開いたときだった。中でも華やかで、目を引く人物は、やはり月島さん。今と変わらぬ髪形に、あどけない笑顔。産まれながらに備わった天性の魅力を持っている。

 そして、名前の都合上、月島さんの右隣に写真が載せられたのは俺。この頃にはまだ世の穢れをそうは知らなかったのであろう。爛漫に微笑んでいる。いつから俺はこんなんになっちゃったんだろうね。

 他の旧友達にも目を通していくが、その殆どがもう違う学校に通ってしまった人物たちばかりで、思い出の中の住人となっていた。

 だが、一人。月島さんを除くもう一人の少女だけ、同じ高校、総目高校に通っていた。

 小学校のアルバムの中では、栄一くんのしていたような瓶底メガネを着用し、メガネのレンズの半分を覆い隠してしまうほどに前髪が伸びている。髪はセミロングで、おかっぱ頭。緊張でもしているのか、ぎこちのない笑みを浮かべている。

 ……女の子相手に考えるだけでも失礼なのだろうが、地味だ。子供ってのはそう言ったところは残酷で、確か渾名は地味元なんて付けられていたと思う。俺は渾名で他人を呼ぶのが好まないため、彼女の名を普通に呼んでいた。その名は――火ノ元。

 そう、俺と月島さん、そして火ノ元は、同じ小学校に通っていたのだ。とは言え、俺は彼女たちと然程接点を持ってはいなかったが。

 その彼女たちと同じ高校、しかも同じ部活動に所属することになった。懐かしさに身を置く機会は無かったが、こうしてアルバムを見てみれば、時の流れが否応無く感じさせられる。

 月島さんがアルバムを開いて欲しいと言ったのは、これが理由だったのだろうか。つまり、懐古してほしかった、と。その上で何らかの感情を抱いて欲しかった、と。

 適当に当たりを付けつつ、アルバムを捲る。すると、文集のページに行き着いた。たまたま開いたページは月島さんのものだった。お世辞にも綺麗とは言えない文字だ。けれど、読む分には差し支えはない。

 内容は至極単純。将来の夢はお嫁さんになることで、そのために鍛錬を重ねていく。みたいなものだった。こういう卒業アルバムってのは往々にして将来の夢を語るものだ。十年後、あるいは二十年後の自分がどうありたいか。それを書き連ねる。

 将来の夢、か。俺は一体、何を夢に持っていたんだっけ。

 ふとそれが気になり、月島さんのページからもう一枚捲ろうとした。が、そこではたと思い出す。

 木戸のメールに返信をしていなかったな。一応、お礼だけでも述べておかないと。わざわざ水上と連絡を取って集合時間とかを聞いてくれたのだし。

 あまりメールに慣れていなかった俺は、木戸と同程度の文章量を打ち込むのに十分ほどを要し、それを送信した。最後に不備が無いのか少しだけ自分の文面を見直し、一つ頷きながら再度アルバムに手をかけたのだった。

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