エンカウント

第3話 タイガーハウス

「レキさーん! レキさーん! うっちゃはうっちゃはお腹がとっても空いたですよん!」


 と、先ほどからぼくの目の前で黒髪セミロング、前髪ぱっつんのイアが狭い室内を走り回っている。


 イアを(未然に)やつらから守った次の日、朝か昼か――時計というものがない以上、正確には分からないが――夜と呼べる時間は少なくとも終わっていた。


 そんな時である。


「……動くな。動けば無駄にエネルギーを消費するぞ」


 確か、そんなことを――あ、そういえば……忘れてたな。ともかく、イアが動きを止めた。そして、何気に気にしてなかったけど、


「それに、レキさんって何だ。ぼくに名前は無いって言ったろう」


 まあ、予想はある程度つくけど……面倒なことになりそうだな。


「レキはあんちゃの名前ですん! うっちゃが考えたですよん! ガレキの中に座っていらっしゃったので、ガレキから文字ったですよん!」


 思考回路が単純過ぎて、逆に感動するよ。うん。直列回路ではなかろうか。だから体力の消費が激しくて腹が減るんだな。なんて燃費が悪い少女だ。


「ねーねー、あんちゃ! どうですかん? イア、あんちゃに名前が無いと不便かなーっと思ったですけどん」


「……いや、何の不自由もないけど」


 事実、この七年間で名前を聞かれたことは山ほどあるが、それで困ったことは今まで一度もなかった。


 名前があっても、飯は食えない。正直、名前があると違和感があるというか――別にいらないんだけど……と考えていたんだけれど。


「……うぐう」


 イアが泣きだしそうだからなんとかしないと。


「わ、分かった。レキでいい。とてもいい名前だと思うよ。ありがたく使わせてもらうよ。ありがとう、イア」


「本当……ですかん?」


「ぼくが嘘をつくとでも?」


「……んちゃ!」


 イアに笑顔が戻った。たかが名前ごときにどうしてこんなに苦しめられなきゃならないんだろうか。


 とまあ、成り行きとはいえ、ぼくはレキという名前を得たのだけど……どうせイアはぼくのことを『あんちゃ』と呼ぶだろうから、この名前に果たして意味はあるのだろうかと考えてしまう。


 まあ、不便なら使わなければいいだけか。


「……まさかとは思うけど、名字は『岸田』とか考えてないだろうな?」


「んちゃ。それも考えましたけれど、やめましたん」


 おお、イアにしてはまともなことを言ったな。まあ、いくら甘やかされて育ったとはいえ、六歳ともなればある程度の常識というか、教養は身についているのか。


「だって、あんちゃと名字が同じだと、あんちゃと結婚できないじゃないですかん」


「……」


 名字が同じでも結婚できるとか、結婚という概念がもはやないこととか、近親結婚が珍しくないこととか、そんなことは置いといてどうしてそんな話になるのだろうか。


「イア、あのな……ぼくにその気はないし、そういう事は」


「でも、あんちゃが『自分が決めた人だけ』って言ったじゃないですかん。だから、うっちゃはそれを守っているのですよん?」


「まあ、そうなんだけど……」


 雛が最初に見た物を親と勘違いするアレかな……。これは放っておくよりもかなり面倒だぞ。


「大丈夫ですよん! うっちゃはあんちゃが振り向いてくれるまで待っていますからん!」


「……」


 なんか、ぼくのほうが子どもみたいじゃないか。それに、まだ六歳の小娘が恋愛を語るな。


「……勝手にしろ。で、腹が減ったとか言ったか」


「はい、そうですよん! うっちゃ、気付いたんですが、この二日間何も食べてないのですよん。お父さんとお母さんが亡くなって、住んでた所から可能な限りの食べ物は持ち出したのですけど……うっちゃ、何も考えずに一日で食べちゃたのですよん」


「そうか、我慢しろ」


「うわーい! いっただっきまーすん! って、何でですかんっ!」


 イアは思いもよらない回答に驚いたのか、ノリツッコミをしてきた。まあ、当然の反応といえば当然か。


「何で、って――食べ物がないからだけど」


「ちゃ……」


 イアが絶句した。この小娘はしゃべるか黙るかしか出来ないのか。


「この世界で手に入れにくいもの、絶対的一位が食べ物」


「ちゃ……」


 だから、昨日のあいつらだって簡単に帰っていったっていうのに。


「あんちゃは、大丈夫なのですかん?」


 イアは鳩が豆ぶちあてられたような顔をしている。何がそんなに驚くことなのか。


「ぼくはやろうと思えば一週間くらい飲まず食わずで生きていけるんだ。今日が……五日目だったかな」


 まあ、確かに。そろそろ何か口にしないとまずいか。それに、最後に会ってからもう少しで一ヶ月――連絡入れなきゃならないかな。


 それに、今回はイアのこともある。


 うん、まあ。進んで会いたくはないが、仕方ないか。


「イア」


「は、はい」


「飯が食えるぞ」


「ちゃ?」


 イアはぼくの言葉が理解できないのか、小首をかしげてきょとんとしている。


「だから、食糧」


 ぼくは物をかじるそぶりをしてイアに示唆した。すると、イアは眉をひそめ、尋ねてきた。


「え、でも、あんちゃは今、食糧がないと……」


「ああ、ここにはな。でも、あてならある」


「ほ、本当ですかん!」


 イアは目を輝かせて飛び上がった。そして、詰め寄るようにぼくの眼前に来た。


「……一応、ぼくは三歳からサバイバルやってるんだ。あての一つや二つくらいある」


 まあ、あいつがあてと言えるかどうか、微妙な間柄だけど。


「今から行く。ローブを深くかぶれ」


「わ、分かりましたん!」


 ぼくはベッド代わりのでこぼこソファーから立ち上がると、立っていたイアに先導し、部屋を後にした。


 部屋を出た直後、背後から「ま、待ってくださいん!」という声が聞こえ、一度立ち止まったが、距離が詰まったのを確認し、また足を動かした。


◇ ◇ ◇


「イア、ぼくから絶対に離れるなよ。周りに聞こえない程度ならしゃべってもいい。むしろ、わからないことがあればすぐにぼくに質問しろ」


 荒廃した車道の端を、足音が極力響かないように慎重に進みながら、斜め後ろで静かについてくるイアに言う。さっきまではバカみたいにはしゃぐ可能性があったから、しゃべらせるわけにはいかなかったが、今は大丈夫だろうという判断だ。


「は、はい」


 イアは今のぼくの言葉に逆に畏怖を感じたのか、怯えるように応えた。まあ、ここに来たのは初めてだろうし、最初はこういう反応が普通だろう。


 《虎の道》――それがこの通りの通称だ。誰が言い始めたのかは分からない。ただ言えることは、この通りがその名に違わぬ《虎の道》であるということだ。


 この通りには年長者――つまり、十六歳から上の世代はほとんどいない。だから、見た目では特に危険がないように思われる。


 しかし、それは初めて来た者、何も知らない者にとって、死に直結する。その理由は実に簡単だ。


「お、久しぶりじゃねえか」


「……ん?」


 突然ぼくに話し掛けてきた少年は車道に林立する、もはやその意義をなくし、ただ立っているだけの電柱に寄り掛かっていた。


 埃を当たり前のように頭からかぶり、着ているTシャツとチェックの上着は穴だらけで傷だらけ、目の下辺りには一線の白い傷跡がある。色黒の肌は焦げたパンのようにも見えるが、明らかに不潔だ。


「ああ、お前か」


「その反応、変わらねえな。一ヶ月ぶり……くらいか。全然来ないから、死んじまったかと思ってたぜ」


「誰が。ぼくはあいつがあんまり好きじゃないからね。極力会いたくないんだよ」


「別に頭に会わなくたっていいだろ? オレは結構、ヒマしてるからな」


 この少年にも――名前がない。あえて呼称するならば、肌の色から『クロ』と分別している。


 当然、こうして会話している以上、旧知ではあるが、ぼくはこの『クロ』のことを全く知らない。ときたま協力したり、過ごしたりしているうちに顔を覚えた――くらいの認識だ。


 何より、どうにもこいつらの親玉とは馬が合わない。


「そうだ。今、あいつはどこにいる?」


「頭? いつものとこにいるぜ」


 クロはぼくらが元々向かっていた方向を指した。その先には十数人の人影が見える。まあ、この時期はそうか。


「そうか。悪いが今は先を急ぐ。また今度、相手をしてやる」


「応。……ところで」


「うん?」


「お前が大事にしていたそのローブを着たガキは――誰だ?」


 クロは半身をずらし、縮こまって震えているイアをジロッと睨んだ。イアはそのいかつい言葉を聞いてか、一層身を震わせ、ぼくの右腕に抱きついてきた。


「お前の弟……じゃねえよな。確か一人っ子とか言ってたしよ」


「……」


 今、ここでイアのことを明かすのは得策じゃない、か。いくらぼくと(向こうからの一方的)友好関係にあるとはいえ、イアを見逃す保証はない。


 あいつの――こいつらの親玉の一言がなければ。


 ぼくはふう、と息を吐いてスッとクロを見据えた。


「ちょっとな……。ぼく一人じゃ面倒見切れないから、あいつに伺いをたてようと思ってね」


「ふうん……にしてはやたらと小柄だな。ローブの裾が地面に摺れてるぜ。女みてえだな」


 ばれたか、と一瞬、身が凍るように硬直したが、視線だけは逸らさず、動揺することだけは避けた。動揺は、最もしてはいけない行動の一つだ。絶対に、イアのことを悟られるわけにはいかない。


「仮にそうだとして――」


 ぼくは虚栄を張る。


「――ぼくが営利目的で利用しないわけがないだろ?」


「……まあ、それもそうだな」


 クロはしばらく熟考した後に納得した。まあ、普段のぼくの行いからするとそう判断するだろう。


「というわけだ。悪いが先を急ぐぞ」


 ぼくはクロを最後に一瞥すると、目的地に足を向けた。ぼくが動くとイアも同様に動き、クロからある程度距離が出来るまでぼくのそばから離れなかった。


 正しい判断だ。本能的に身体が動いたのだろうか。


「あんちゃ」


「? なんだ?」


「あのいかつい方――クロさんでしたっけ? は、あんちゃのお知り合いなのですかん?」


「まあ、そうだ」


 知り合いではある。だが――


「絶対に近づくなよ。というか、ぼく以外にぼくみたいな接し方をするな。ああいう輩の対応はぼくがするから、イアは黙っているんだ。それはたとえ同年代の女の子であってもだ。分かったか?」


「は、はい……」


 イアは、またぼくの言っていることが理解できないのか、曖昧な返答をした。まあ、今はそれでもいい。何がダメなのか、何をしてはいけないのか、それが分かっているだけでも見える世界は変わる。完全に理解するなんて事は、七年間一人で生きてきたぼくにだって分からないんだから。


 まだ親元を離れてから数日のイアが分かるはずがない。そもそも、時間が限られている今のぼくたちに、分かる道理なんて――


 クロと同じ、あいつの部下たちがたむろする《虎の道》を進んでいくと、巨大な空間が姿を現した。正確には、近づくにつれてどんどん大きくなっていったわけだが。


 そこにはポツンとトタンやレンガが組み合わさって出来た家のような、小屋のようなものが建っていて、その周りを何人かの男たちが囲っていた。ぼくと、クロと同年代くらいの男の子が。


 ぼくとローブで姿を隠したイアがその建物目指して直進すると、その中でも一際身体の大きい男の子がぼくたちと建物の間に割って入ってきた。大きいといっても、ぼくと十センチも変わらないが。


「誰だ? ここがどこか分かっているのか?」


 そいつはそう言ってきた。こいつはぼくのことを知らないのだろうか。あいつの部下の間では結構顔が利くと思っていたんだけれど。もしかして新入りか?


「ああ、もちろん知っている。ぼくはあいつに用があって来たんだ」


「あいつ? 誰のことだ」


「お前たちの頭だよ」


「ッ!! 貴様ッ! 頭を『あいつ』などと……侮辱するか!」


 男の子は――というか、汚らしい黒のTシャツを来た長身の男は激昂し、手に持っていた鉄パイプをぼくの喉元に突きつけた。


 あいつめ……。こんな短気なやつを外交の窓口に置くなよな……。


 別にこいつらを片付けてやってもいいが……イアがぼくに対して変な恐怖心を持ってしまったら面倒だ。出来るだけ話し合いで解決したい。背中でイアが怯えていることだし。


「……お前、新入りか?」


「黙れ! 跪け! 頭を侮辱したことをここで詫びろ!」


 聞く耳持たず、か。こいつも偏った教育を受けやがったな……まったく。


 仕方ない。――るか。


 ぼくは瞬時に両手で喉元の鉄パイプを掴むと、時計回りに回し、片足を強制的に浮かして男の体勢を崩すと、すかさず残った片足の足首に回し蹴りを放った。


 男は「どわっ!」という声を発し、重力に従って側面から地面に叩きつけられた。


 ぼくはその衝撃でゆるくなった男の手から鉄パイプを奪い取ると、ヒュンヒュンと回転させながら持ち替えて、起き上がろうとする男の喉元に突きつける。


「うっ!」


 男はその威圧感に圧されたのか起き上がることが出来ず、ぼくのことを驚きと怒りの目で見て唸ることしか出来ない。


「な、なんだ!?」


 今の音を聞きつけたのか、たまたま目撃していたのか、他の数人がぼくの元に集まってきた。全員、似たような体格に似たような服を着ているため、区別しづらい。


 まあ、エモノを持っている時点でぼくがこいつらに負けることはないから心配はしていないんだけど。


「き、貴様……何をッ――」


 集まってきた内の一人、黒髪を女のように伸ばし、後頭部で一つに縛った髪型――ポニーテールの男の子には見覚えがあった。こいつも名前はなかったはずだ。


 向こうもぼくのことを(まあ、あれだけのことがあれば当然か)覚えていたらしく、ぼくの取っている行動から状況を察したようだ。


「ももも申し訳ございません! すぐに虎様に連絡して参ります!」


 血相を変え、早口でそう言った男の子――たしか、ケイと呼んでいたかな――はその場に鉄パイプを落とし、一目散に建物の中に入っていった。


 ぼくはそれに満足し、ふう、と一息ついたが、長身の男――ノッポとでも呼ぶか――にまたがったまま鉄パイプを突きつけていた。


 念のため、だ。


「……あ」


 集まった数人の内の一人が何か思い出したかのようにぼくの顔を見て反応した。どこか顔が青ざめているようにも見える。


「もしかして……龍殿でいらっしゃいますか?」


 ……あまり好かない呼び名だが、ようやく気づいたか。


「ああ、そうだ」


 瞬間、その場にいたイアとぼく以外の全員が戦慄し驚きの目でぼくを見た。地面に倒れている長身のノッポでさえ、目を見開き、幽霊でも見たような表情をしている。


「し、失礼致しました! その者はまだ日が浅いもので」


「……いや、前もって来ることを伝えていなかったぼくにも非はある。お互い様だ」


 ぼくはノッポの喉元に突き付けていた鉄パイプを手元に引き、跨っていたノッポから離れた。ノッポはゆっくり立ち上がると恐る恐るぼくの顔を見た。


「ほら、返すぞ」


 ぼくは鉄パイプをノッポ目がけてそっと投げた。ノッポは慌てながらもそれを掴み、警戒したままぼくから目を離さない。龍の名を聞いてまだ敵対心があるということは、入ってからほんの二、三日しか経ってないくらいか。そんなやつを警備に使うなよ……。


「おい、何をしている! 早く武器を降ろせ!」


 ぼくの正体(別に隠していたわけではないが)に気付いた男の子が長身の男に怒鳴る。そういう上下関係か。


「し、しかし……」


 ノッポは鉄パイプを降ろそうとはしない。まあ、その忠誠心だけは評価してやろう。頭は空っぽのようだけど。


「いや、構わないさ。それと、あんまりぼくのことをそういう風に扱うのはやめてくれ。何だかんだと助かることはあるけど、基本的にはただの十歳の子どもなんだ」


「しかし、虎様が……」


 先ほど長身の男を叱ったやつが申し訳なさそうにぼくの目を見る。


 またあいつか……。後で言っておくか。


「りゅ、龍殿!」


 直後、ケイが建物から声を張り上げて走ってきた。龍殿って、そんなに大声で叫ぶのやめてほしいな。恥ずかしいし、こんな小柄な男が巷で噂の龍だとばれたら舐められかねない。


「龍殿! 虎様が――」


「ああ、来いって言ってんだろ? 勝手に行くから見張り頼む」


「は、はい!」


 ケイはそう応えると他の連中に指示を出し、四方に散っていった。もちろん、ノッポも。


 さて、ぼくたちも――


 その時、ぼくの服が引っ張られた。


「……イア」


 さっきのぼくの行動が怖かったのだろうか、イアはクロの時以上に怯えていた。


「心配するな。ぼくのことは後でちゃんと説明するから、な?」


 しかし、頑としてイアは動こうとしない。明るい素振りをしてはいるが、六歳の少女であることに変わりはない。


「イア、ぼくはな……」


「ち、違うのですよん、あんちゃ……」


 違う?


「あんちゃが三歳の時から独りで生きてきたという話から、これくらいのことは予想してたのです……。でも、あんちゃが何か遠いものになった気がして――心細かったのですよん……」


「……」


 ぼくも、そうだったっけか。あの人がいなくなった時、絶望したように哀しみを抑えきれなかったっけ。


「……大丈夫だ、イア。ぼくはどこにも行かないよ。お前の面倒を見るって決めたからな」


 イアは、幼すぎる。もっと他人を疑って、自分から裏切れるようにならなきゃ、一人で生きていけない。


「だから、安心しろ。あの力はイアを守る時だけに使うからさ」


「……ちゃ」


 イアは涙を浮かべながらも笑顔を向けた。


「ほら、行くぞ」


「はい!」


◇ ◇ ◇


 虎、という言葉はこの辺一帯において絶対的な力を持つ。他にも、龍・雀が通った名だ。


 まあ、それは単に名前がないのが主流な今、何か呼称がなければ不便ということで勝手に根付いたものなのだけれど、何かと便利なのでぼくは重宝している。


 というのも、龍――正式には青龍というのだけど――はぼくのことだからだ。ぼく自身、単に生きるために必死だっただけなのだけれども、いつの間にかこんなことになっていた。


 だから、まあ――あることないこと、ぼくに関する噂が飛び交っていたりするのだけど、その正体がこんな小さなガキだと知っているやつはほとんどいない。別にバレたところで困ることはないのだけど。


 まあ、そんな龍でも虎には知名度において及ばない。もしかすると、旧日本領と呼ばれていた全域に名を轟かせている可能性だってある。



「おおっ! 来たか青龍よ!」


 そう、コイツが虎だ。


 この時世ではあり得ない新品同然の服と汚れを知らない肌、どうやって染めたのかわからない金髪の、ぼくよりも幼い少年が。


「……久しぶりだな」


「本当に久方ぶりだ! 青龍よ、一ヶ月と三日、それと二時間と三十四分もオレ様を待たせるとは何事だ!」


 傍若無人、唯我独尊。自分より偉い奴などいないと本気で思っている。


 それが虎――虎継とらつぐだ。


 コイツには、イア同様名前がある。コイツの両親がつけた名前だ。正確には、コイツの父親が。


「ぼくはあんまりお前が好きじゃない、って何回言えば分かるんだよ」


「ひっでー! オレ様拗ねちまうぞ!」


「勝手に拗ねとけ。それとそろそろ鬱陶しいぞ。そこまで親しい間柄でもないだろ」


「なんだよ、もう少しくらいいいだろ! 一ヶ月だぜ? 一ヶ月! オレ様、その間に何人犬にしたか!」


「……まだやってたのか。前に増えすぎて養えないとか言ってなかったか?」


「ああ、西の方の連中を従えたんでな。領土を『返して』もらったんだ。利子として、そこの連中をいただいたんだよ」


 まるでおもちゃをもてあそぶかのように虎継は笑う。内容はとても笑えた話ではないのだけど。


 そうか、それでか。


「お前の侍女が増えてたのはそれでか……」


「おお、これでもかなり選別したがな!」


 ぼくは虎継が深く腰掛ける両隣――というか、部屋全体にいる十から十五歳ほどの女の子を見渡した。


「……ったく、十歳にもならないお前が女の子をはべらかすなよな……」


「ん? なんだ、青龍。お主、まだ一人でいるのか? 女はいいぞ、あれほど気持ちがいいものはない。なんならこの中から一人――って、誰だ、そやつは」


 と、ようやく虎継はイアの存在に気が付いた。コイツのことだから、ぼくとの再会を喜ぶあまり、イアなんて眼中になかったのだろう。


「そのローブ……父上がお主に与えたものではないか。お主がたいそう大事にしておったから憶えておるぞ」


「……ああ。その前に、報告だ。ぼくはただ遊びに来たわけじゃないんだ」


「……んー」


 虎継は腕を組んで眉間にしわを寄せた。が、すぐになおり、ニヤリと頬をゆるませた。


「いいだろう。報告とやらを先に聞こうか」


 眼光鋭く、独特の威圧感を感じる。


 ……これだからコイツは数千の部下を従えられるのか。ぼくには真似できないな。


「龍として報告する。東の年長者どもが最近怪しい動きを見せている。今まで手を出さなかった十歳以下の子どもにも容赦ない。さらに、遠方から来た連中が合流して勢力を拡大させたらしい」


「……その話か。雀も先日被害について話をしていったが、まさか外の連中が来るとはな」


「この時期は致し方ないと思っていたけど、このままだと、いつココを攻めてくるか分からない。何か対策を立てるべきだろう」


「ふむ。あと数年の命だと思って放っていたが、そうとなれば話は別だな。東は不毛の土地だが、食糧不足は変わらん。いっそあそこも制圧するか」


 虎継は何か考えるそぶりをすると、隣にいた侍女に耳打ちした。侍女は「かしこまりました」と小さく返すと、ぼくらの隣を通り、建物の入り口に向かっていった。


「前準備だ。あとはオレ様の部下がなんとかしてくれる。青龍よ、報告は以上か?」


「……主なものは、これだけだ」


 雀が来たということは、年長者どもの勢力くらい聞いているだろう。今更ぼくが言うべきことでもない。


 そもそも、クロたちが動くとなれば勢力なぞ関係ない、か。


「そうか。では、そやつについて聞こうか。お主がそのローブを貸すほどのことだ、何かわけがあるのだろう?」


 洞察力は相変わらずだな。


「イア、ローブを脱げ」


 虎継に聞こえないようにイアの耳元で囁く。


「え、でも――」


「大丈夫だ。ぼくが守ると言ったろう?」


 外では脱ぐな、と教えたことを守ろうとしているのか、イアはローブをぎゅっと握り、身体を強ばらせている。


「大丈夫だ」


「……んちゃ」


 ぼくが元の体勢に戻ると、イアはローブの裾に手を伸ばし、ゆっくりと脱いだ。


「……おお!」


 虎継が驚きと歓喜の声を上げる。と、同時にイアに接近してきた。


「ちゃぁぁぁ!!」


 イアの悲鳴を聞き、ぼくは半身を乗り出し、虎継との間に無理矢理割り込む。すると、虎継はぼくの身体に当たる直前で身体を反転させ、バランスを取るために後方に下がった。


「どけ、青龍! 手は出さん!」


「嘘つけ。今の反応を見て信じられるか」


 この女好きが……。どんな反応の仕方だ。


「チッ! 仕方ないな……」


 虎継は悪態をつきながらさっきまで座っていたイスに戻って腰を落とした。


「――で、誰だ、その可愛らしい女子おなごは」


「昨日、保護した。四日前に親が死んだらしい」


「ほう……。で?」


「ぼくが面倒を見る」


「……は?」


 虎継は呆気にとられたように目を丸くし、口を半開きにした。部屋の中の侍女たちも驚いたのか、先程までの無表情を崩している。


「め――」


 静寂を虎継が破る。


「面倒を見るだと? カカカカカッ! 何の冗談だ? 今まで誰とも共存せず仲間など作ったことのないお主が、面倒を見る? こりゃ傑作だのぉ! 鬼神と畏れられる青龍が女子を育てると?」


 虎継は腹を抱えて笑いだした。まあ、予想はしていたけれど。


「カッカッカ! まあ、いいだろう。よいぞ、好きにせい! おい、持ってこい!」


 虎継が隣にいたもう一人の侍女にそう言うと、彼女はガサゴソとカーテンの奥を探り、大きな袋をぼくらの前に差し出した。


「当面の食糧だ。二人分に少し色をつけておいた」


「どうも」


 ぼくはそれを受け取ると、一度結び目を解き、背にくくりつけた。


「おお、そうだ。服をやろう。青龍、お主ではないぞ。そこの可愛らしい女子にだ。女子がそんなみすぼらしい服を着ているのはオレ様の性に合わん」


 虎継がまたしても侍女の一人に目をやると、彼女は木箱の中からイアの身体の大きさに合う、キレイな服をいくつか取り出した。


「あ、ありがとうございますん!」


 イアは目の前に来た衣服に困惑しつつ、細い腕で受け取った。


「カカッ、礼には及ばぬ。そうだ、女子。お主の名は何という?」


「な、名前ですかん?」


 名前を訊かれたイアが戸惑いながらぼくの顔色を窺ってきた。


「……構わないぞ」


「は、はい」


 イアは再び虎継の方を見るとはきはきとした声で応えた。


「イア、岸田イアですん!」


「イアか……いい名だ。……お前ら、イアに服を着せてやれ。青龍、話がある。こっちに来い」


 虎継の言葉を聞き、侍女のうちの何人かがイアを別室に連れていこうとした。心配するイアにぼくは「行ってこい」と告げた後、虎継の元に足を向けた。


 何だろうか?


 とぼとぼと歩いていくと、虎継はぼくの背中を抱え込むようにして小声で囁いてきた。


「……あの女子――イアのことだが、何者だ? 名字があるだけでも珍しい上、オレ様の知る限り“岸田”などという名字は寡聞にして聞いたことがない」


「聞いたことがない、だと? 虎ともあろうお前がか?」


 虎継が知らないということは、この国で他に知る者がいないということだ。虎の名は、『この世の全ての理』が由来――コイツが『知らない』などということは『あり得ない』はずだ。


 つまり、それは――


「お主の思っている通り、イアが騙している可能性が高い」


「……」


 イアが、ぼくを騙す? 何のために?


「いや、待て。イアはまだ六歳だぞ? それに、イアはこの世界のことを何も知らなかった。ぼくが教えるまで、食糧が簡単に手に入ると思ってた子どもだぞ?」


「……お主のことを考えればあり得なくはなかろう」


「……」


 確かに、そうだけど――


「ぼくには師匠がいた。三歳のころから英才教育を受けた例外だ。そんなことは――」


「信じたくないのも無理はない。オレ様もあんな無垢な女子がそのようなことをするとは思えぬ。だが、警戒はしておけ。この世界の鉄則において」


「『油断すれば殺られる』か」


「ふっ、イアほどの女子ならオレ様の正妻に迎えてもいいくらいなのだがな、さすがに六歳の女子と行為に及ぼうとは思わんよ」


「……それを言わなきゃ、お前はカッコいいのにな」


「これを言わんとオレ様ではない」


 何故か得意げに虎継は鼻を鳴らした。


「まあ、何にせよ用心しろよ青龍。お主は女・子どもに弱いからな」


「……」


「可能な限りの援助はしてやろう。ただし、オレ様の部下が優先だがな」


「ああ、よろしく頼む」


 虎継はぼくから離れ、イスに座った。脚を組み、頬杖をしている。


 と、しばらくして侍女の一人が別室から出てきた。


「虎様、龍殿。不作法ですが、完了しました」


「そうか。ご苦労。連れて参れ」


 すると、侍女は大きく頭を下げ、別室に入っていった。直後、彼女の後ろから付いてきたのは――


「……」


「ふふん、オレ様の目に間違いはなかったのぅ」


 見違えるほどに可愛らしく、美しくなったイアだった。薄水色のワンピースを着たイアの身体中の埃と汚れはキレイに落とされ、雪のように白い肌が服の隙間から見える。黒真珠のような輝きを放つ双眸が先ほどまでよりも美しいのは、眉を切りそろえたからだろうか。通った鼻筋の下に申し訳なさそうある小さな唇はほんのりと赤みがさしている。


「あ、あんちゃ……ど、どうですかん?」


 もじもじと頬を赤らめてイアがチラチラとぼくを見る。


「……可愛いよ、イア。とても――」


 ぼくは、何かを思い出した気がして――でも、何も思い出せなかった。初めて見る本来のイアの美しさに頭が侵されたのだろうか。


「カカカッ、なおのこと嫁にしたいのぅ! どうだ、オレ様の嫁に来ないか?」


「……よ?」


 嫁の意味が分からないのか、イアは首をかしげて目を点にしている。……というか――


「お前、六歳にはしないんじゃなかったのか?」


「カカカッ。三年待てばよいのだ。それに、口や手なら問題なかろう。三年かけてみっちりとオレ様好みに育ててやる」


 コイツは……考えることが何かおかしい。


 と、裾が引っ張られた。イアらしい。


「どうした、イア?」


「あんちゃ、よめって何ですかん?」


 予想通りである。


「オレ様の妻となる、ということだのぅ」


 何故か代わりに虎継が答えた。


「妻って、結婚ということですかん?」


「む、古い言い方をするのだな。もはや結婚なぞ、肉体的な関係としか思われんよ」


 変なことを教えるな。事実でももう少し婉曲な言い方があるだろう。そして、イアがぼくの顔を見てくる。


「……イアがそうしたいなら、ぼくは止めないよ。虎継といれば安全は保証されるし、食糧不足なんてこともない。イアの人生だ、イアが――」


「? 無理ですよん」


「え……」


「む?」


 イアは純真無垢な表情で不思議そうにぼくらを眺めた。ぼくと虎継は驚きを隠せない。虎継の妻になるということは、生涯を約束されたようなものだ。絶大な権力が手に入る上、食糧に悩まされることはなくなり、性交渉を受けるとはいえ身の安全が確保される。


 女の子にとって、これ以上の待遇はない。


 が、イアはとんでもないことを口にする。


「だって、うっちゃはあんちゃと結婚したいんですからん。うっちゃが好きなのはあんちゃだけですよん」


 イアの言葉に、その場の全員が固まった。イアは絶対的存在である虎継より、目の前でぼくを選んだのだ。


「ッ――」


 背後から――殺気……ッ。


 ぼくはイアの身体を抱えると、背後に迫っていた敵の手首に回し蹴りを当て、武器を弾いた。


 敵は手首を痛そうに抱え、その場に崩れた。


 敵――侍女の一人である彼女は、しかし、もう一方の腕で弾かれた金属の突起物をつかもうとしていた。


「やめいッ!」


 虎継の怒号が部屋に響き、侍女は身体を硬直させた。


 否――恐怖で身体を震わせている。


「オレ様はイアを無理矢理嫁にしようとは思わん! オレ様がいつお前らに何かを強制させた? オレ様の部下は何かしらの意志をもってオレ様に仕えておるはずだ! イアは青龍を選んだのだ! だから、オレ様は強制させるつもりは毛頭ない! オレ様に恥をかかせるつもりか!」


 ビリッと空間が裂けるような声に、イアは怯え、ぼくの背中に力強く抱きついてきた。


「……よい、だが、今は下がれ」


 虎継がそう言うと、侍女は一目散に別室に消えていった。虎継は落ちていた金属の突起物を取ってこさせると、上に軽く投げたりして手遊びを始めた。


「許せ、青龍。女子とは嫉妬深い生き物なのだ」


 視線を落とした虎は珍しくぼくに謝罪した。


「いや……こうなることは予想していたさ」


 イアがそう言うことくらいは――簡単に予想していた。


「……部下にはお主らに手を出さぬよう、警告しておく。が、当然警護などはせん。イアのことはお主が守るのだな」


「ああ、覚悟はしている」


 イアは、ぼくが守る。決めたんだ。今まで『決める』ことなんてしなかったけれど、別に信念だったわけじゃない。


 単に、必要がなかったから。


 でも、今はその必要がある。だからこそ、だ。


「ふん……覚悟、か。お主の口からそのような戯言を聞けるとはな」


「……戯言かどうかはぼくが決めるさ」


 ジッと視線を交わす。目を見るだけで十分だ。


「行くがよい。また会おう、青龍!」


「ぼくはあんまり会いたくないな、虎継……」


 互いに別れの挨拶を交わす。もしかすると、これが今生の別れかもしれない。


「帰ろう、イア」


「は、はい。あ、あのう……」


 と、イアが虎継に深くおじぎした。


「虎継さん、いろいろとありがとうございますん! これからよろしくなのですよん!」


「「……」」


 イアの発言にぼくも虎継も固まった。よもや六歳の女の子がそんな礼儀をわきまえているとは思わなかった。


 沈黙を破ったのは虎継だった。


「カカカカッ! 礼には及ばぬと言ったろう! ますます気に入った! 青龍がくたばったらいつでもオレ様のところに来るとよい!」


 虎継、ここ最近で一番のご機嫌である。


「……行くぞ」


「あ、待ってくださいよ、あんちゃ!」


 すでに建物の出入口に足を向けていたぼくの背後で脱いだローブを拾ったのか、イアは布ずれの音を鳴らしながらトコトコついてくる。


 イアの安全が確保されたからもう不要だけど、ローブ自体を気に入ってるみたいだし、好きにさせるか……。


「おお、大事なことを忘れておった」


「は?」


 もう部屋から出ようというところで虎継が声を張り上げる。せっかくソレっぽい別れ方したのに、ぶち壊しじゃないか。


「雀だけは気を付けることだのぅ。あやつだけはオレ様の警告が無意味な上、オレ様と違って無理矢理にでもイアを我が物にしようとするかもしれぬ」


「……そうか」


 雀、か。あいつの情報収集サーチ能力はぼくをはるかに越えている。イアのこともすぐに露見するだろう。


 確かに、今はあいつが一番の問題か――


◇ ◇ ◇


 ぼくがあの人に会ったのはいつだったか。


 ぼくが何も知らないまま父親が死に……そして、母親も追うように死んだ。ぼくは二人が死んだとき、ただ疲れて寝ているんだと思っていた。それが当たり前だろう。実際、母親が死んだとき、ぼくは母親が出稼ぎか何かするためにぼくを置き去りにしただけだろうと思っていた。


 でも、一日、二日、三日――一週間、一ヶ月経っても母親が帰ってくる気配はなかった。ぼくは住んでいたところに蓄えられていたものを食いつなぎ、なんとか二週間は一人で生きていた。


 残りの二週間少しは? と聞かれたら、『何も食べていない』と答える。ぼくはひび割れたアスファルトの上で、死んだ蝉のように横たわっていたのだ。このまま干からびて息絶えるか、誰かの襲撃を受けて殺されるか、二つに一つだった。


 もしくは、ぼくはその時既に死んでいたのかもしれない。何もかもが身体から抜けていき、残った器は――空っぽ。


 思えば、あの人はそんなぼくだったから手を差し伸べたのかもしれない。まあ、ただの憶測でしかないのだけれど。


 ぼくは、出会った。


 成人という制限時間リミットを抱えていた、あの人と――



◇ ◇ ◇



 《永田商会》と呼ばれていた組織が使用していたであろう部屋に帰ってきたぼくたちは、ひとまず荷物を整理し、でこぼこソファで疲れをとっていた。


 あれほど空腹を訴えていたイアも、初めて会ったであろう人種との対話に疲れたのか、食糧に手を付けるよりも先に横になり、スヤスヤと眠りに就いた。


 そういえば、イアの寝顔――というか、他人の寝顔を見るのはこれが初めてだ。


 あの人とはここまで親密ではなかったし、過去に存在したと聞く“学校”に近い形だったから寝顔を見る機会などあるはずがない。


 うん……イアは寝ていても起きていても大差ないな。


 ぼくはイアの黒髪にそっと触れ、額を撫でる。くすぐったいのか、イアはわずかに可愛らしい声をあげた。


 柔らかいな……。柔らかくて――脆そうだ。


 他人にこんな無防備な姿を晒すなど、ぼくには考えられない。たとえ、それがイアであろうとしてもだ。


 ここでぼくが首を締めるだとか、両目を刳り貫くだとか、手足の骨を折るだとか――致命傷を与えることは簡単にできる。


 イアは、さっき見た新しい世界で何を思ったのだろうか。ぼくには分からない。けど、イアのぼくに対する信頼は――恐ろしい。


 たった一度、彼女の命を救っただけで……ここまで他人を信頼し、信用するのは狂気の沙汰としか思えない。あの人にこの世界について教わった時でも、ぼくはいつあの人が裏切ってぼくを殺しに来ても良いように隙を作らなかった。


 それが、『当たり前』なんだ。


 たとえ、相手が聖人君主たる人物であっても――そういう態度を取ることが相手に対する礼儀である。完全に信頼されるなんて、気持ちが悪い。


「……なんだろうな、お前は」


 ……。


 ……。


 ……。


 ぼくも――“仮眠”くらいとるか……?


 いや、まだ昼過ぎ――普段なら情報収集か何かしらの活動をしている時間だ。眠くなるはずがない。


 というよりも、睡眠を必要としていない。


 ……仕方ない。食糧の配分と片付けから済ませるか。


 ぼくはイアから離れ、大量の食糧が詰まったそれの結び目を解いた。


「……まあ、二週間ってところか」


 食糧を並べ、何日分あるか計算したところ、毎日食べ続けても二週間は持つ量だった。まあ、この計算は普段のぼくの一食分から算出したものだから、虎継にとっては本当に“当面”なんだろうけど。もしかすると、育ち盛りのイアに合わせたのかもしれない。


 というか、この量……仮に全部がぼくのものだとしたら一年は余裕で生きていける。そもそも五日に二度程度しか食糧を口にしていなかった今までからすれば、毎日三食、同量を食べるなんてもったいなくて食糧が喉を通らない。


 ……イアに多めに配分するか。最悪、ぼくにはもう一つツテがある。半年前の冬に、死にかけていた頃に一度だけ頼ったが……一度経験した今、余程のことがない限り使いたくないツテだ。


「とりあえず……ぼくが一、イアが九くらいに分けておくか。足りなかったら、もう少しイアに配分するとしよう」


 ぼくは広げた食糧を再び直し、取り出しておいた手の平サイズの『大きな』芋を『八分の一』に割り、それを口に入れた。


 生ゆえに固く、土臭さが残るものの、でんぷん独特の粘りと甘さが口腔に広がり、芳しさが鼻腔に停滞する。


 四日ぶりの固形物を泥状になるまで舌の上で転がすと、最後に渇いた喉へ押し込んだ。


「……ふう」


 これで、二日は大丈夫かな。イアにぼくの食べた量を見せるとややこしくなるから、見てないうちに節約しないとな。


 ……子どもを育てるのって、大変なんだな。肉体的にはいくらでも耐性があるけれど、こう精神的に来るのはあまり慣れてない。


 まあ、いずれ慣れるだろうけど。


「……」


 偽名、か。いや、もしかすると何か理由があってイアの両親が本名を隠し、『岸田』を名乗っていた可能性だってある。


 イアに嘘をつくスキルがあるとは思えない。


 第一、嘘つき特有の仕草やクセがない。それを六歳で消せるわけがない。


 だが虎は絶対だ。あいつが知らない以上、『岸田』という名は存在しない。だとすれば、ぼくに何ができる?


「ん……ぁう……」


 イアが寝返りをうつ。目を覚ましたわけではないらしい。


 ……。


 そうだ、何を選択するというんだ。今までだって、ぼくは選択しなかったではないか。選択すること自体、なかったではないか。


 あの人の時も、虎継の時も、雀の時も、クロの時も――両親の時も。


 成り行きにまかせて何もしなかったではないか。流れる風に飛ばされる木の葉のように、ただ時の流れに身を任せて――ぼくは生きてきた。


 ただ、それに小さな虫がくっついただけの話。流されるなら、流されよう。


「今はただ――」


 この幼き少女のために。


 ぼくは外れかかっていたローブをイアの身体に掛け直すと、まぶたを閉じ、身体を休ませた。


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リトル・ワールド・レクイエム 精華忍 @oshino_shinobu

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