12月のクリスマス、続。(2)


 マリコは近くの喫茶店に入った。

 少し前に、深夜の喫茶店で同じように座ったのを思い出した。


「学校は?」

「あれ? オッサン、もしかして学校はちゃんと行けっていうタイプ?」

「さぼるなら、人通りの多いところ来るなよ」

「アハハ。やっぱオッサンだわー」


 けらけら笑っている。

 相変わらずのようで安心した。

 もちろん皮肉だ。


「あの写真、まだ消してなかったのか」

「え? あー、うん。よく撮れてるっしょ?」


 なんで自慢げなんだよ。

 ため息をついていると、マリコが不思議そうに言った。


「つーかさ、オッサン。もしかして風邪?」

「はあ?」


 なに言ってんだ?


「どこからどう見ても健康体だろ」

「えー。でも、元気なさそうじゃね?」

「だから、なんで?」

「いつもなら『んなもんさっさと消せや小娘が!!』くらい言いそうだなーってさ」


 そんなこと言うわけが……、ああ、いや、確かにな。


「ちょっと、仕事で疲れててな」

「へー。なんかあった?」

「なんもねえよ。12月だぞ」


 師も走るのだから、おれだって忙しいのは当然だ。


 と、そこで一瞬、会話が途切れた。

 いま天使が通ったねー、なんて時代遅れの冗談を言うような仲でもないし、こいつに気を遣う必要もない。


 ……触れないのも、意識しているようで格好が悪いか。

 しかし、どう切り出したものか。


「あー、えっと……」

「栗栖?」


 見ると、にまにまとした顔を向けてくる。

 オッサンなんて手のひらの上だよー、と言わんばかりだ。


 まあ、最初からこいつに勝てる気はしていなかった。


「……あいつはどうしてる?」

「なになに。自分から捨てたくせに、昔の女が気になる感じ?」

「女じゃねえよ! あと顔が近い!」

「学校はちゃんと来てるみたいだけどねー」

「みたいってなんだよ」

「あたしが真面目に学校行ってるように見える?」

「……まあ、そうだな」


 一応、安心した。

 その気が緩んだ一瞬に、言葉のナイフをずぶりと刺してきた。


「あー、でも、ちょっと夜遊び多くなったかなー」


 不穏な言葉に、つい眉を寄せる。


「どういうことだ?」

「最近、ずっと家に帰ってないみたいなんだよねえ」

「どこに行ってるんだ?」

「それ、オッサンが一番わかってるはずだけど」


 ……そりゃそうだな。

 一年前、あいつがなんと言ってアパートに来たのか忘れたわけじゃない。


「栗栖、すっごい眠そうだって」

「眠そう?」

「ずーっと、授業中、寝てるらしい」

「なんで?」

「そりゃあれよ。男が寝かしてくれないってやつ」

「…………」

「あ、オッサン。その顔、いいねえ」


 やかましい。


 マリコはストローを噛んだまま、それを宙で回して遊んでいる。

 非常に行儀が悪いが、いちいち注意することもない。


「わたしもさー、ちょっとやばいかなーって思ってるんだよねえ。栗栖って真面目じゃん? 変な男に引っかかって、あとで痛い目みるんじゃないかなーって」

「家にいたくねえなら、ホテルでもなんでも泊まるとこあんだろ」

「だって、金はオッサンにあげたじゃん」

「……あっ」


 すっかり忘れていた。

 例の500万は、おれの口座の中だ。


「お、おまえから返してくれるか?」

「いやいやいやいや。ちょっと、それはないでしょ」

「……そうだよな」


 金額が大きすぎるし、そうでなくとも金のやり取りを仲介するのは不義理だ。


「ていうか、その金はオッサンのものじゃん?」

「なんでそうなる?」

「栗栖が宿代として渡したんでしょ」

「子どもが考えるほど、金のやり取りってのは簡単じゃないんだよ」


 マリコは嘲るように笑った。


「簡単だよ。奉仕に対価を払うだけ。オッサンは一年間、栗栖の面倒を見た。だから報酬をもらう権利を持っている。大丈夫だよ。栗栖はチクるようなやつじゃないからさ」

「そういう問題じゃない」

「どういう問題?」

「おれは別に、金のためにあいつを泊まらせてたわけじゃない」

「じゃあ、なんのため?」

「それはどうでもいいだろ」

「よくない、よくない。栗栖に金を返すなら、そこをはっきりさせないとね」

「なんでだよ?」


 彼女の目が、ひどく冷たいように思えた。


「だってさ、わたしら別に乞食じゃないんだよ? もの買うときは金を払うし、金をもらうときは仕事する。子どもだからって、一方的に恵んでもらうのはフェアじゃないっしょ?」

「…………」

「この前は、オッサンにおごってもらった代わりに、オッサンが知りたがってた栗栖のことを教えてあげた。足りないっていうなら、別に払ってやってもいいけど?」

「そういうことを軽々しく口にするな」

「じゃあさ、オッサンはどうなの?」

「どういう意味だ?」

「自分の勝手で泊まれって言ったり、出て行けって言ったり、それこそ軽々しいよね」

「お、おれは、あいつのためを思って……」


 可笑しそうに喉を鳴らした。


「やったあとに説教するおっさんみたーい」

「……っ!?」


 つい、その襟をつかんでいた。

 テーブルが倒れて、グラスの割れる音が店内に響く。


 しかし、マリコは涼しい顔で言った。


「あのさ、わたしらは子どもだけど、あんたら大人の玩具じゃないんだ。飽きたから捨てて、それが別のやつのものになるのは許せないっての? それ、馬鹿にしすぎでしょ」

「…………」

「未来に責任が持てない? もう遅いんだよ。栗栖を受け入れた時点で、オッサンには責任があったし、それを一方的に清算したのはオッサンだよ。それでも栗栖は、それまでの宿泊費を置いていったし、それが妥当だと思っている。取引が終わったあとにごたごた言うのは、少なくともフェアじゃないよね?」


 手の力が緩むと、ひょいっと鞄を肩にかけた。

 息を飲む客たちに向かって、パンッと手を合わせる。


「ちょっと別れ話ー。ごめんなさーい」


 わざとらしい笑みを浮かべながら、こっちに手を振る。


「ばいばーい。またお茶しよーね」


 そう言って、平然と出て行ってしまった。


 まあ、とにかく、それからの処理は大変だった。

 会社に戻る気にもなれず、直帰の連絡を入れてアパートに戻る。


「ただいまー」


 いつから、この言葉が習慣になったのか。

 それは思い出せないが、くせになったことをやめることも難しそうだった。


「結局、なんの話をしてたんだったか……」


 頭の中がぐちゃぐちゃだった。

 とりあえずシャワーを浴びようとしたとき、携帯に着信があるのに気づいた。


「またか……」


 知らない番号だった。

 市外局番から都内だと思うのだが、見当はつかない。


 ……まあ、無視だ。

 クリスマスなら、こんな番号じゃないからな。


 いや、あいつだったら出るとか、そういう意味じゃなくてだな。


「……ああ、くそ。面倒くせえ」


 ……いつからか。

 自分の手に余る感情を、見ないふりでやり過ごすようになったのは。


 大人としてうまくやろうとするたびに、いろんな不条理を飲み込んでいくことになる。

 飲み込んだものはやがて消化され、思い出すこともなくなるのだろう。



『――そんなこと、するわけないだろ』



 かつて里村の本気の言葉を、おれはそうやって拒否した。


 本当は、もっと別の言葉をあげたかった。

 それでもうまい言葉が見つからずに、ただ後悔したのを覚えている。


 ただの思春期と言ってしまえばそれまでだが、彼女の言葉は確かにおれの言葉でもあった。

 漠然とした将来の不安、窮屈な日常、そんなものから逃げたい、でも一人では嫌だ。


 だから彼女は、おれを選んだ。

 おそらくは、誰にも告げたことのない本心を打ち明ける相手として。

 

 翌日から、いつものように笑顔で過ごす里村を見ていた。

 気さくで誰にでも優しいその顔が、作り物のように見えてしょうがなかった。


 いっしょに逃げれなくとも――大切な友人にはなれたかもしれないのに。


 でも、おれは里村との大事な思い出を忘れていた。


 クリスマスのことも、同じように忘れていくのだろう。


 それが大人になるということなら、どうしておれは大人になりたかったのか。

 なんか、そんなJ-POPの曲があったような気がするが、まったく思い出せなかった。

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