11月のプロミス(完)


「おーい。帰るぞー」


 先輩が肩を叩いてきた。

 時計を見ると、すでに午後七時を回っている。


 周りを見ると、すでに同僚たちは一人も残っていなかった。


「……すみません。もしかして、待たせましたか?」

「タバコ吸ってきただけだ」

「すぐ片づけます」


 慌てて書類を整理して、鞄に詰めた。


「……最近、仕事を持ち帰るよな」

「え? ああ、暇なので」


 なぜか神妙な顔で、じろじろ見てくる。

 なにか変なことでもしているのだろうか。

 それとも知らない間に、仕事を持ち帰ってはいけない清廉潔白な会社を目指す方針にでもなかったのか。


「飲み行くか」

「あ、はい」


 おれたちは、前はよく使っていた駅前の居酒屋に入った。

 けっこう混んでいて、狭い店内を通される。

 奥のテーブル席に着くと、さっそくビールを注文した。


 明日には12月だ。

 さすがに外は寒いが、おれたちの一杯めはビールと決まっていた。


 暖房というものは偉大だ。

 どんなときにも快適な気温を保てるというのは、精神の安定に直結すると思う。


「なに食う?」

「適当な魚を、なにか」

「おれは飯も食ってくけど」

「あ、じゃあ、おれもがっつりめで」


 乾杯をして、ぐっとジョッキを傾けた。


「で、例の女子高生となんかあったな?」

「…………」


 噴き出しそうになるのをこらえる。

 あくまで平静を装いながら――いや、おれは平静そのものだが。


「いえ。なにも」

「うそ下手なあ」


 ため息が出た。


 そうなのだ。

 そもそも、このひとに、おれの薄っぺらい虚勢などが通じるわけもない。


「……あいつが家を出ました」


 よほど意外だったのか、煙草を落とした。


「喧嘩でもしたのか?」

「そんなわけじゃないです。あいつが世話になってる家がわかったので、そっちに戻っただけです」


 学校にバレたことは伏せておいた。

 そんなことを知られたら、余計な心配をかけることになるだろう。


「ふうん。そりゃ、残念だったねえ」

「は?」

「いや、おまえ、好きだったんだろ」


 今度こそ噴き出した。


「な、なに言ってるんですか!?」

「なんだ、違うのか?」

「当たり前です。相手は子どもですよ!」


 彼は大笑いした。


「おまえらしいなあ」

「な、なにがですか?」

「他人の価値観を、自分の意思だと勘違いしているところだよ」

「はあ?」

「どうして相手が高校生だと、大切に思ったらいけないんだ?」

「いや、それは常識として……」

「常識は常識だろ。それはおまえの意思じゃない」


 頭が痛くなってきた。

 まるで禅問答のようだった。


「……先輩。去年、わきまえろって言いましたよね」

「言ったぞ」

「じゃあ、どうしてそういうことを?」

「はあ?」


 彼は心底、わけがわからんという顔をした。


「おまえはわきまえてるだろ」

「いまの会話の流れで、それはおかしいでしょう」

「おかしくないさ。相手が誰であれ、気持ちは自由だ。おまえは、その上で自制できるやつだろ?」

「いや、そりゃ、まあ……」


 なにか言い返そうと思った。

 それでも思い浮かばずに、結局、沈黙する。


「……入社して初めて、あなたを嫌いだと思いました」

「ハハ。それは光栄だ。でもまあ、おれはおまえのこと、いつも嫌いだと思ってたけどな」

「マジですか」

「ああ。ひとの言うことは聞かないし、変なところ頑固だし、ほんと扱いづらいやつだよ」


 別にひとに好かれたいという願望が強いわけじゃない。

 ただ、ちょっとショックだった。


「それを差し引いても、おまえはいいやつだと思うよ。だから去年も相談されたとき、見守ることにしたんだ」

「…………」

「でもまあ、もう家に帰ったというなら、それもいいんじゃないか? やっぱり危ない状況には変わりないし、向こうの家に知られたなら、それこそ警察沙汰もあり得るだろ」


 そう言って、彼は二杯めを注文した。

 いっしょに来たホッケの開きを突きながら、おれはぼんやりとしていた。


 それからの会話は、よく覚えていない。

 気がつけば会計が済んでいたし、おれたちは駅前にいた。


 すっかり少なくなった喫煙所で煙草を吸う。

 駅の照明を見ていると、さっきの会話を思い出した。


「……さっき、おれのこと嫌いだって言ってましたよね」

「え?」


 先輩は苦笑した。


「なんだ。けっこう気にしいだな」

「いや、まあ、もし改善できるなら、したほうがいいでしょう」

「改善ねえ。まったく、おまえは本当に変わったよ」

「そうでしょうか」

「昔はそんなこと言っても、なんかむかつく顔をして『あ、そうですか』って澄ました顔してたのにな」

「…………」


 そう言われれば、そうかもしれない。

 少なくとも、文句を言われて自分のほうを変えるという発想はなかったように思う。


「思ってた、と言ったろ。いまは、そう思うこともないな」

「……そうですか」


 アパートに戻っても、やはり灯りは消えていた。


 当たり前だ。

 追い出したのはおれだし、これが正しいという気持ちは変わらない。


 ただ、結局、持ち帰った仕事には手をつけられなかった。

 だらだらとテレビを見ながら、ぼんやりと時間を持て余すだけ。


 ……冗談だったのにな。

 あいつがいない時間を、どう過ごしていたのか忘れてしまっていた。

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