11月のプロミス(6)
懐かしい夢を見た。
おれは高校の二年生で、生徒会の仕事で残っていた。
うちの生徒会は、基本、雑務の押しつけられだ。
そんなものに、進んで参加するやつもいない。
部活動のあるやつは、そっちのほうへと行ってしまう。
いつも決まって、おれと里村が残って仕事をしていた。
とはいえ、おれもそれを楽しんでいたわけではない。
陸上部に所属するさゆりの練習が終わるのを待つ、ついでだった。
交際を始めたのは卒業してからだったが、そのころはいい友人、という感じだった。
おれはホチキスで、なにかの資料をバチンバチンと綴じていた。
部の予算のなんとかだったか、それとも文化祭の出し物についてのなにかだったか。
とにかく、おれは退屈していた。
当たり前だ。全校生徒に配られる資料だ。
本来、学校側でやるべきことだろう。
どんだけバチンバチンさせれば気が済むのだ。
かといって、同年代の女子と気軽にトークできるような性格でもなかった。
このバチンバチンを投げ出せば、さらなる苦痛が待っている。
さゆりの部活が終わるまで、あと一時間ちょっと。
あれは、秋のころだったと思う。
なぜなら、窓一面にオレンジの光が満ちていたから。
「――わたし、つまらない人間かな」
ふいに、そんなことを里村が言った。
バチンバチンする手を、おれは止めた。
見ると、里村もいつの間にか、バチンバチンをやめていた。
というか、もとから彼女の手は動いてはいなかった。
なにか、いつもと様子が違った。
快活な彼女は、アンニュイな感じで窓の外を見つめていた。
「……思春期か?」
「思春期ですけど、なにか?」
「ああ、いや。茶化してるつもりじゃなくて……」
そのころから――いや、むしろ、そのころがそうだからこそ、いまがこうなのだ。
とにかく、おれは口下手だった。
致命的なまでに感情を言葉にするのが下手だった。
よくもまあ、さゆりはこんな男につき合ってくれていたと思う。
それはさておき。
「おまえから、そういう言葉が出るとは思ってなかった」
里村いおり。
さゆりの友だち。
生徒会の仲間。
真面目で、気さくな学生。
成績もよくて、運動神経もよく。
誰にも平等に接して、決して悪口は言わない。
とにかく、模範的な生徒だった。
その程度の認識だったし、実際、それほど会話をしたことがあるわけでもない。
生徒会に入っても、せいぜい仕事のアレコレしか話さない。
それでも、その日の里村がいつもと様子が違うのには気づいた。
それに気づいていたのは、きっとおれだけだった。
さゆりは彼女にとって近すぎた。
教師たちは遠すぎた。
おれは彼女に近い場所で、ずっと客観的に見ていた。
だから彼女がなにかに悩んでいるらしいのはわかった。
しかし、それをどうしたいのかというのはわからなかった。
「わたしにだって、そういうときはある」
「そうか。意外だな。ほら、はやく終わらせないと、帰れないぞ」
すると、彼女はむっとした。
どさあっと、机の上に上半身を突っ伏した。
もちろん資料が、ばらばらと散らばってしまった。
せっかくページごとにまとめていたのが、ぐちゃぐちゃになった。
「おまえ、なにしてるんだ!?」
しかし、彼女は聞く耳持たず。
「疲れた。腕、揉んで」
「はあ? いいから、さっさと……」
「やってくんなきゃ、もうやらない」
いきなりの要求に、おれはたいそう面食らった。
しかし、本気のようだった。
彼女は腕を伸ばしてきて、そのまま「んっ」と言ったきり止まった。
おれは困った。この量を、自分一人でやるのか?
それは、さすがに……。
「……こうか?」
彼女の二の腕に触れた。
ぷにぷにだと思った。
少し、力を入れれば、折れてしまいそうな気がした。
おっかなびっくりと、彼女の腕をほぐそうとした。
ものすごく緊張した。当たり前だ。
あのころはさゆりとだって、手をつないだこともなかった。
なにかものすごくいけないことをしているような気がして、とにかく里村の目を見れなかった。
「……小路くんは、しっかりしてるよね」
ふと、里村が言った。
おれは早熟している、とよく言われていた。
たぶん、姉貴の影響だ。
完全な女帝社会において、おれは早々に身の程を知り、自分の人生を達観していた。
ゆえに、外からはそう見えた。
よく言えば落ち着いていて、悪く言えば枯れている、という感じだ。
そんなおれに、彼女は続けて言った。
「……家に帰りたくないって思ったこと、ある?」
いきなりの質問だった。
おれは少し考えて、正直に答えた。
「すごくある」
「どんなとき?」
「姉貴の機嫌が悪いとき」
「なにそれ?」
そのとき、初めて彼女の笑顔を見たような気がした。
いや、いつも彼女は笑顔だ。
でも、それがどこか仮面じみて見えていたのは確かだった。
その笑顔は、彼女の本心からの笑顔だと思った。
そう思うと、また見てみたい、と思った。
さすが男子高校生、現金なものだ。
彼女を楽しませようと、姉貴の話を持ち出した。
「大学に行った姉貴が、とにかく男にモテる。そのくせ、続かない。いつも違う男を連れて来ては、一週間後にはだいたい携帯で喧嘩している。そのたびに、おれは八つ当たりでプロレス技をかけられるんだ。そういえば、二日前も喧嘩してたな。たぶん、そろそろだ」
「へえ。仲がいいんだね」
「いや、話を聞いていたか? おれは……」
言いかけて、止まった。
彼女の顔は、もう笑っていなかった。
冷たい瞳で、じっと足元を見つめている。
ここまでくれば、さすがに唐変木なおれでも、なにかを感じ取った。
「……なにか、あったのか?」
すると彼女は、ぽつりと答えた。
「お父さんたちと、喧嘩した」
「…………」
「進路相談、あったじゃん。うちの親は教師になれって言うんだ。でも、わたしは、そんなことしたくない。なんでわざわざ、他人のために生きなきゃいけないの?」
「じゃあ、どうしたいんだ?」
「……そうだねえ。海外とか行きたいな。鞄一つで、市場とか歩き回りたい。あと、音楽もしたいな。わたしがギター。小路くん、ドラムとか得意そう」
「おれは楽器はできん」
「そうなんだ。じゃあ、ダイビングとかしたいね。海の中とか、きれいだろうね。アマゾンの中で遭難とかしたら、たぶん楽しいだろうねえ」
「生きて帰れたら、いい思い出だろうな」
彼女は笑わなかった。
「とにかく、ここじゃない、どこかに行きたいよ」
そう言って、目をつむる。
「自分の本当の居場所が欲しい」
おれはため息をついた。
「……やっぱり、思春期だな」
「そうかもねえ」
しばらく、無言だった。
里村は突っ伏したまま、静かに目をつむっていた。
もしかして、寝たのだろうか。
いつまでもバチンバチンが終わらない。
彼女が終わらせる気がないということはわかった。
しかし、さゆりの部活が終わるまで、あと三十分くらいだった。
はやく済ませなければと思っていると、里村がつぶやいた。
「小路くん」
「なんだ?」
「お姉さん、二日前に喧嘩してたんだよね。今日は機嫌、悪い?」
おれは考え、馬鹿正直に答えた。
「今日、彼氏に会うと言ってたな。たぶん、かなり悪い」
「帰りたい?」
「帰りたくない」
「このまま、家出しようよ」
「はあ?」
「どこか、知らないところに行こう」
じっと、おれを見つめる。
その瞳が、夕日の光を浴びてきらきらと輝いていた。
この馬鹿げた誘いが、彼女にとって真剣なのだと悟った。
――彼女の言葉に、おれは。
―*―
「……そういうことも、あったな」
おれは起きると、テーブルの上を見る。
確かクリスマスが用意していた朝飯が……。
『オッサンへ。ゴチーッス』
……まあ、期待したおれが馬鹿だった。
空っぽの皿をシンクに置いて、ふうっと息をついた。
無性にタバコが吸いたくなった。
確か仕事中に吸ってたやつは、使い切ったはずだ。
ずっと前に、この引き出しに入れていたのが、あったあった、……うん? どれくらい前のやつだったか。まあ、いいか。
窓を開けて、タバコに火をつける。
そういえば、この部屋で吸うのは、もう何か月ぶりだろうか。
それを吸おうとして、顔をしかめる。
「……湿気ってるな」
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